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イエズス様の御変容「これは私の愛する子である。彼の言う事を聞け」四旬節の四季の斎日 土曜日のミサ

2020年03月21日 | お説教・霊的講話
2020年3月7日(初土)四旬節の四季の斎日 土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年3月7日、四季の土曜日のミサを捧げています。

このミサの直後には、今日は初土でもありますので、初土の信心として、御聖体降福式と、そして聖母の汚れなき御心に日本を奉献する祈りの更新と、15分の黙想をしたいと思います。

特にミサの時も、特別の祈願文を、「疫病から守られますように」と祈願文を付けましたが、初土の信心でも、特に諸聖人の連祷を付け加えて、疫病、特にコロナウイルス、世界中でそれが収束しますように、私たちが日本でミサを続けてする事ができますように、また一刻も早く、ミサが奪われている中国や韓国の方々にもミサが与えられますように、お祈りしたいと思っています。

カトリックの伝統によると、疫病などが流行った時には、皆が行列をして、毎日のように行列をして、諸聖人の連祷で、「疫病が早く終息しますように」「終わりますように」「終結しますように」と祈っていた伝統があります。

ですから私たちもそれに倣って、特に御聖体の前でこれをしたいと思っています。同じく東京でもする予定です。

また明日は、東京で一人の赤ちゃんが洗礼を受ける事になっております。男の子ですけれども、どうぞこの子の為にたくさんお祈り下さい。

明日ではなくその来週の主日、3月15日の夕方にもミサがあります。いらして下さい。

“Ipsum audite.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は福音の中で、イエズス様の御変容の史実が読まれました。聖ペトロは特にこの事を非常に印象深く覚えていて、自分の書簡の中にこの事を繰り返し書いています、「自分は、主の輝く姿を見た。天から御父の声も聞いた。これこそが、本当の救い主だ」と。

そこで今日、
⑴この四旬節になぜ、このイエズス様の御変容の話をもう一度確認するか?という事を黙想して、

⑵そして次に、私たちはそこから一体今日何を黙想したら良いのか?

⑶そして、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

⑴第1のポイントは、イエズス様の御変容についてです。

イエズス様の御顔は、タボル山で御変容の山で、太陽のように輝き、燦然と輝き、服は雪のように輝きました。3人の選ばれた弟子、ペトロ、ヤコボ、そしてヨハネはそれを見ます。

するとイエズス様の両脇に、モーゼとエリアも出て、聖ルカの記述によると、「その三人は、モーゼとエリアとイエズス様は、来たるべき御受難について話をしていた」とあります。

ペトロはそれを、その素晴らしいうっとりとする光景を見て、「もう、このままずっとここにいたい」と思いました。地上のものを遙かに超える、えも言われない美しいその姿。さすがのペトロも、「主よ、私はここに三つの幕屋を作ります。ここにいるのは本当に素晴らしい事です。あなたの為に一つ、モーゼの為に一つ、エリアの為に一つ。そしてどうぞ、このままずっと居続けて下さい。」

すると突然、天から声が聞こえて、聖父が、「これは私の愛する子である。彼の言う事を聞け」と。

そしてその光景が終わり、この3人は、その声のあまりにも威厳のある力強い断言に恐れをなして、死んだようになるのですけれども、気絶したかのようになるのですけれども、イエズス様が彼らを戻して、「恐れるな、立ち上がれ」と言うと、彼らはイエズス様だけを、イエズス様をしか見る事がなかった、とあります。

イエズス様がこの「御変容された」という、この変容の輝きは、聖トマス・アクィナスによると、「イエズス様の栄光の、天国での栄光と同じ、本質的には同じものだ」と言います。「ただその在り方が少し違う。天の栄光は常駐するものだけれども、この御変容の時には、一時的なものとして留まった」と。

「なぜかと言うと、これは天で、イエズス様が復活されて栄光の体を持った時には、もはやその霊魂のその栄光の満ち溢れが体を出て、そして輝き、それから繊細さ、そして俊敏さ、そして苦しみを受ける事はできない不可苦難性を持つけれども、まだ復活していない前のイエズス様の霊魂は、確かに天主性、天主のその本性と、イエズス様の霊魂の美しさはあったけれども、苦しみを受ける事ができるように、そしてその栄光はまだ、復活の栄光はまだ受けていなかったので、常駐するものではなかった」と。

でもなぜ一体イエズス様は、この弟子たちにこの御自分の来たるべき栄光を御見せになったのでしょうか?

「これは、弟子たちに、将来受けるべき喜びと栄光はどのようなものかを、あらかじめ見せる為だ」と、聖トマス・アクィナスは説明しています。
「もしも私たちが歩むべき道のりが遠ければ遠いほど、道が険しければ険しいほど、その目的地がとても良い所である、という事を見せる必要があったから」と言います。

それは非常に人間の心理をよく掴んだものであって、誰かが綺麗な金メダルを見ると、あるいは誰かが美しい宝石をこう見ると、「あぁ、私もこういうものが欲しいな。」「私もこういう金メダルをもらいたい」等と思って、どんなに辛い訓練でも、特訓でも、トレーニングでも、あるいはちょっとぐらいお金を貯めても、その何か「これを買いたい」と思うのではないでしょうか。

それと同じように、私たちにそのイエズス様の美しい栄光を、将来来たるべき喜びを見せる為に、そして私たちにそれを欲しいと思わせる為に、これを御見せになりました。ただしこれは、天主を受ける為、天主を得る為の望みをますます高める為であって、「喜び」というのは、「イエズス様を天主を所有する時の、その結果」に過ぎません。

ところで、なぜ3人の弟子たちと、そして二人のモーゼとエリアが、そのイエズス様の御変容を見たのでしょうか?

これも聖トマスが教父を引用しているその孫引きですけれども、「旧約と新約の両者が、イエズス様の本当の得るべき栄光の証人とならなければならなかった。それはちょうど、枝の主日の時に、『ダビドの子にホザンナ!』と言っている人たちが、イエズス様の前にも後にも居た、というところからも同じだ。」

エリアは火の馬車に乗って、天に昇られて、「死んだ」とは聖書に書かかれていないので、まだ生きていると考えられています。世の終わりにまた戻って来ると考えられています。そのエリアが天からイエズス様の所にやって来た。

そしてモーゼは亡くなって埋葬されましたけれども、その死んだモーゼも地から、イエズス様のその証人となる為にやって来ます。

もちろんモーゼは律法の代表者です。なぜかというと、モーゼを通して私たちに十戒が与えられたからです。エリアは預言者の代表者です。40日間の断食を通して、ホレブの山まで砂漠を通って行きました。

また、「この特に、モーゼとエリアが二人が出て来たというのは、別の意味も理由もある」と言います。

なぜかというと、イエズス様がその当時弟子たちに、自分の事を「誰だと思うのか?」と言った時に、人々の噂話を言います、「ある人は『エリアだ』と言っています。ある人は『エレミアだ』と言っています。あるいは『預言者の一人だ』と言っています。」ところで、「御変容の時に、エリアが出て来る事によって、そしてイエズス様はエリアよりもはるかに上位の方である、という事を示す為だった。」

また当時、第2の理由として、ユダヤ人たちが、「イエズス様が安息日を破っている。」あるいは「自分が『天主の御子である』などと言って冒涜している」などと讒言をする人々がいましたが、「私たちに律法を与えたモーゼ御自身が、『イエズス様をこそ救い主だ』と指し示す事によって、イエズス様は律法を犯していないのみならず、律法を完成させる者である、という事を示す為であった。」

また「イエズス様は、生ける者と死せる者を裁く為にやって来る方として、生けるエリアとモーゼ、そして地上にいる弟子たちの前に、この自分の姿を現さなければ、栄光を、来たるべき栄光を表さなければならなかった。」

またもう一つの理由は、「モーゼも、エジプトのファラオによって迫害を受けて苦しんだ。またエリアも、アカブ王によって苦しんだと同じように、イエズス様も苦しまなければならない。御受難を受けて、死を受けなければならない、という事を示す為だった。」

しかしその全ては、イエズス様の受けるべき栄光を、私たちに示す為でした。私たちが勇気を持つように、イエズス様の後に従いたい、とますます強い願いを持つ為でした。

すると、御父の声が聞こえて、その為にはどうすれば良いか、という事を教えてくれます、「これは、私の愛する子。彼の言う事を聞け。彼に従え」と。

⑵第2のポイントは、では私たちは四旬節において、どのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?

私たちはともすると、聖ペトロのように、そのイエズス様が私たちに下さる慰めに、あるいはイエズス様が特別に下さる喜びに、あるいはキャンディーに目を囚われてしまって、それが一番大切であるかのように錯覚してしまいがちです。何を言いたいかというと、時々、私たちは弱いので、私たちがくじけないように、十字架の道を、あるいはイエズス様の後を慕う事ができるように、時々イエズス様は、御摂理によって、甘いケーキをくれたり、あるいは甘いお菓子をくれて、私たちを励ましたりします。

時々、もしかしたら皆さんの中には、脱魂状態になって、イエズス様の栄光の優しい御声を聴く方もいらっしゃるかもしれません。あるいはもしかしたら、イエズス様の特別な御恵みによって、皆さんの中にはお祈りをするのがとても簡単で、何の雑念も無く、スルスルとお祈りができるし、黙想をするのが楽しいし、霊的読書もスルスルと分かって、非常に嬉しい、何でもうまくいく、という方もいらっしゃるかもしれません。

あるいは皆さんの中には、皆さんのするお祈りが何でも叶って、そしてイエズス様から特別に愛されている事を実感する方がいらっしゃるかもしれません。

すると私たちは、そのような慰めを、霊的な慰めを下さる「天主」というよりは、その天主の下さる「慰め」の方に愛着をしてしまって、「あぁ、」そのそっちの方が大事であるかのように思ってしまうかもしれません。

ペトロも同じでした。イエズス様の美しい姿を見て、御変容を見て、それにずっと留まっていたいと思いました。

しかし天主御父の御旨はそうではありませんでした。それをかき消すかのように、力強い声が聞こえて、「これは私の愛する子だ。彼の言う事を聞け。」

イエズス様は何と言うかというと、「もしも、私に従いたいならば、私の弟子になりたいならば、日々自分の十字架を担って、私に従え。」

「天国のその栄光を受けるには、どうしても十字架を取らなければならない。そして弟子がそうだったように、イエズス様しか見ないように、イエズス様だけに従うように」その事です。

すると私たちはともすると、「あぁ、」うまく何でも成功して、何でも思い通りにやりたい事ができて、そして自分の願いが全て叶って、皆から愛されて人気があって、それからお金もどんどん入って、そして全て思い通りで、もう幸せだ、という事が一番大切であるかのように錯覚してしまって、それがイエズス様からの御恵みであるかのように、一番大切な御恵みであるかのように錯覚しています。

実は本当はそういうものはちょっとしたキャンディであって、本当に大切なのは、「イエズス様の言う事を聞いて、イエズス様に従って、イエズス様をお愛しする。そしてその愛を、私たちの拙い犠牲と努力で、それをできるだけ証明する」という事にある、という事を忘れがちです。

ですから、時々私たちは、お友達がいないとか、馬鹿にされたとか、あるいは辛い事があった、あるいは病気になった、あるいはいじめられた、あるいは貧乏だ、あるいは失敗した、あるいは…等、その他色々うまく面白くない事があると、「あぁ、もうだめだ」等と、ガッカリしてしまうかもしれません。

しかし、そうではありません。まさにイエズス様はそのような時にこそ、私たちを支えて下さって、そして私たちに、「さぁ、私の後に従え」と見せて下さいます。

なぜかというと、イエズス様こそ、全ての人から捨てられて、あたかも聖父からも捨てられたかのようになり、全く持ち物を失ってしまい、弟子たちも失ってしまい、そして不正に断罪されて、裁かれて、死刑を受け、鞭打たれ、苦しみを受け、ボロボロになって、そしてそうする事によって、私たちを救おうとされました。

そして、「そこにこそ、復活への栄光の道がある。それを通してのみ、復活に至る事ができるのだ」という事を、私たちに教えて下さったからです。

⑶ですから今日は、そのイエズス様の栄光の姿をよくご覧になって、これに至る為にはどうしても、イエズス様だけに従わなければならない、という事を、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

そしてそれをする事ができる為にも、イエズス様を決して離れる事がなかったマリア様に、お祈り致しましょう。

マリア様、ぜひ御助けによって、マリア様の御取次ぎによって、私が、どのような事があっても、イエズス様のその栄光に至るまで、イエズス様を離れる事がないように、十字架の下に立ち留まる事ができるように、力を下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。







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