Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス・キリストがこの地上に来られたのは、私たちのためです。イエズス・キリストがご聖体に現存しておられ、聖体拝領で御自分をお与えになるのは、私たちのためです。

2021年12月30日 | お説教・霊的講話

クリスマスとご聖体についての説教

ドモルネ神父 2021年12月25日

はじめに

今日、私たちはクリスマスをお祝いしています。今日、私はまた、幾人かの子どもたちに初聖体を授ける喜びを味います。この説教では、ご聖体が、いかにして、クリスマスの継続であるかについて、少し説明したいと思います。

1.天主は私たちと共におられる

クリスマスの日には、私たちの主イエズス・キリストがベトレヘムで誕生されたことをお祝いします。天主の御子であるイエズス・キリストは、人となられたのです。これが、ご托身の神秘です。父なる天主と、聖霊なる天主にまったく等しく、永遠、全能、全知、普遍の存在であり、天地の創造主であり、このお方なくしては何も存在しない、まことの天主である、子なる天主が、みずから、幼子となられたのです。聖ヨハネは、こう言っています。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。イエズス・キリストの別の名は、「エンマヌエル」で、これは「天主は私たちと共におられる」という意味です。

このエンマヌエルは、ベトレヘムでお生まれになりました。「ベトレヘム」という名は、「パンの家」という意味です。イエズス・キリストは、ベトレヘムでお生まれになることで、天主であるご自身が、ご聖体のパンにおいて、世の終わりまで私たちと共におられることを示されたのです。イエズスは、こう言われました。「私は、天から下った生きるパンである」(ヨハネ6章51節)。ご聖体は、パンとぶどう酒という外観の下に、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、真に現存されるイエズス・キリストです。ご聖体、それは、人々の間に住み続けられる、イエズス・キリストです。またそれは、ご自分を増やし、全世界に、すべての国に、ご自身を現存させられる、イエズス・キリストです。ベトレヘムの飼い葉桶の中におられる幼子イエズスを前にすることも、ご聖体におけるイエズスを前にすることも、本質的には同じことです。

2.私たちを救うために

「イエズス」の御名は、「救い主」を意味します。子なる天主は、天主についての真理と私たちの存在の理由を、私たちに教えるために、この地上に来られました。主は、十字架上の御苦しみと死によって、私たちの罪を贖うために、来られました。主は、私たちを地獄から救い、私たちを天主の子とするために、来られました。聖ヨハネは、こう言っています。「その御名を受け入れた人々には、みな、天主の子となる力を授けた」(ヨハネ1章12節)。イエズスは、私たちに永遠の命を与えるために、来られました。

しかし、イエズスが私たち一人一人にこの永遠の命を与えてくださるのは、ご聖体と聖体拝領を通してなのです。「このパンを食べる者は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章52節)。イエズスは、私たちを救うために、私たちの中に来てくださいます。イエズスは、私たちが天主をよりよく知ることができるように、私たちの知性を照らしてくださいます。イエズスは、私たちが自分の罪を心から痛悔して、償いをするように、助けてくださいます。イエズスは、私たちが何よりも天主を愛し、隣人を自分のように愛することができるように、助けてくださいます。

3.主が私たちを愛しておられるから

子なる天主は、ご自分を、ベトレヘムの飼い葉桶の中の幼子とされました。全能者であるお方が、みずから、謙遜で、弱きものとなり、すべての幼子と同じように、完全に他の人々に依存する者となられたのです。イエズスは、ご自分の食べ物、衣服、必要な世話のすべてを、御母である童貞聖マリアに依存することを、望まれたのです。何という、へりくだりでしょうか。

ご聖体において、子なる天主は、パンとぶどう酒という非常に謙遜な外見の下に、御自分を隠しておられます。主は、御自分を、単なる物のように、完全に司祭の手にお委ねになるのです。何という、さらなるへりくだりでしょうか。

イエズスが、これほどまでにご自分を低くなさったのは、私たちへの愛のためです。ですから、私たちは、あたかも自分が特別な存在であるかのように、自分自身を高く評価しないように、心がけましょう。天主は私たちを必要とされず、私たちがいなくても、完全に幸せでいらっしゃるのです。天主は私たちを無償で愛し、私たちに無償で善を施し、私たちに無償で永遠の幸せを分け与えてくださるのです。

4.人々の歓迎

親愛なる信者の皆さん、天主の御子がベトレヘムでお生まれになったとき、ほとんどの人は、この人類史上最大の出来事に無関心のままでした。イエルザレムの住民たちは、そのことを知らされていたにもかかわらず、動こうともしませんでした。同じように、今日、大多数の人々は、イエズスがご聖体に本当に現存しておられるという事実を、全く気にかけていません。異教徒だけでなく、多くの悪いキリスト教徒もそうです。イエズスは、このことをすべて、あらかじめ知っておられました。しかし、そのような無関心にもかかわらず、イエズスは、ベトレヘムでお生まれになることを決心され、ご聖体に本当に現存することを決心されたのです。それは、何のためでしょうか?

イエズスがベトレヘムでお生まれになったとき、ヘロデ王と少数の悪人たちは、あらゆる手段で、イエズスを殺そうと試みました。同じように、現代では、サタンの手先となって、悪魔的な怒りをもって、ご聖体のイエズスを攻撃する人々がいます。彼らはご聖体に対して、冒涜を行い、説教で述べることもできないような忌まわしい行為をします。イエズスは、これらのことをすべて、あらかじめ知っておられました。しかし、これらの犯罪にもかかわらず、イエズスは、ベトレヘムでお生まれになることを決心され、ご聖体に本当に現存することを決心されたのです。それは、何のためでしょうか?

最後に、イエズスがベトレヘムでお生まれになったとき、イエズスを自分たちの天主、自分たちの王、自分たちの救い主として、愛をもってお迎えした、謙遜で信仰深い、数少ない人々がいました。すなわち、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、羊飼いたち、そして三人の博士たちです。同じように、今日、ご聖体のイエズスに信仰と愛をもって祈り、イエズスを自分たちの天主、自分たちの王、自分たちの救い主として礼拝し、聖体拝領において、イエズスを受ける人たちがいます。

イエズスが、多くの無関心と多くの凌辱を受けることを受け入れられたのは、この人たちのためです。イエズスがベトレヘムでお生まれになったのは、この人たちのためです。イエズスが、ご聖体において御自分をお与えになるのは、この人たちのためです。

結論1

親愛なる信者の皆さん、私たちは、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、羊飼いたち、そして三人の博士たちのグループの一員となりましょう。このクリスマスの日、信仰と信頼と感謝と愛をもって、イエズスのもとへ行きましょう。イエズス・キリストがこの地上に来られたのは、私たちのためです。イエズス・キリストがご聖体に現存しておられるのは、私たちのためです。イエズス・キリストが聖体拝領で御自分をお与えになるのは、私たちのためです。

結論2

初聖体をうける子どもの皆さん、皆さんは、このあと、初めて、ホスチアのなかのイエズスさまを、受けることになります。イエズスさまは、天主です。イエズスさまは、皆さんをつくってくれたお方です。イエズスさまがいなかったら、皆さんは、ここにいません。イエズスさまは、皆さんを地獄から助け出してくれるお方です。イエズスさまがいなかったら、皆さんは地獄に行ってしまいます。イエズスさまが、皆さんの中に来てくれるのは、イエズスさまが、皆さんを愛しているからです。イエズスさまが来てくれるのは、皆さんが悪魔にまけないように、皆さんを強くするため、皆さんが天主さまの掟を守るのを助けてくれるため、皆さんが何よりも天主さまを愛すのを助けてくれるため、それから、皆さんを、命と終わりのない幸せに連れて行ってくれるためです。ですから、このミサの間、皆さんがカテキズムのクラスで勉強したように、イエズスさまを、一番素晴らしくお迎えすることができるように、よく準備してください。


聖母は、イエズスをご胎内にお迎えになり、イエズスのご意志に同意され、そして、童貞の栄光をいささかも失うことなく、天主の御母となられた

2021年12月30日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズス・キリストの処女降誕についての説教

ドモルネ神父 2021年12月26日

はじめに

クリスマスの前の先週の主日には、イエズスが、童貞聖マリアのご胎内に、処女懐胎されたことについてお話ししました。今まさに、私たちはクリスマスをお祝いしていますから、今日はイエズスの処女降誕についてお話ししたいと思います。

1.処女降誕

イエズスの処女降誕とは、イエズスが、童貞聖マリアのご胎内から、童貞の封印を破ることなく、出て来られたことを意味します。マリアは、完全に童貞のままで、イエズスをお生みになったのです。教会の教父たちは、私たちがこの現実を理解するのをたすけるために、いくつかのたとえを用います。イエズスは、ご復活の時、石を取り除くことなく、墓から出て来られたように、あるいはまた、戸がすべて閉ざされていた高間に入られたように、マリアの封印されたご胎内から出て来られたのです。イエズスは、水晶を壊すことなく通り抜ける一筋の太陽光のように、マリアのご胎内から出て来られたのです。教会の教父たちは、次のたとえも用いました。「子なる天主は、聖母のご胎内に入られ、その後、鏡を壊すことなく、それに当たって反射する一筋の光のように、聖母のご胎内から出て来られたのである」と。

2.生みの苦しみではなく、崇高な喜びがあった

処女降誕の結果として、マリアに、生みの苦しみはありませんでした。聖トマス・アクィナスは、次のように言っています。「生みの苦しみは、子どもが胎内から出てくるときに通る身体器官が歪むことによって、引き起こされる。しかし、幼子イエズスは、マリアの封印されたご胎内から出て来られたのである。マリアの身体器官には、何の害も加えられていない。そのため、この出産には苦しみはなく、肉体的な傷もなかったのである」(神学大全第3部a第35質問a第6項)。その反対に、聖母は、人となられた天主がこの世にお生まれになるがゆえに、崇高な喜びに満たされていたのです。

3.この啓示の源泉

処女降誕は、自然には、あり得ません。自然の法則に従って胎内から出てくる子どもは、童貞の封印を必ず破ることになります。ですから、このご降誕は、奇跡だったのです。私たちは、どうして、そのことを知っているのでしょうか? それは、この奇跡を起こされた天主が、それを、私たちに啓示されたからです。では、その啓示は、どこにあるのでしょうか? それは、いつものように、聖書と聖伝にあります。聖書の中で、預言者イザヤは、こう言っています。「処女(おとめ)が身ごもり、一人の男の子を生む」(イザヤ7章14節)。これは明らかに、ある童貞の女性が、童貞のまま男の子を生むことを意味しています。そうでなければ、このような預言は無意味です。聖マテオと聖ルカは、各々の福音において、このイザヤの預言を、マリアとイエズスに、はっきりとあてはめています。さらに、聖ルカによれば、童貞聖マリアは、自ら、「初子(ういご)を生んだので、布に包んで、まぐさ桶に子を横たえた」(ルカ2章7節)のです。これは、イエズスのご誕生の際に産婆がいなかったこと、また、マリアが生みの苦しみに悩まされなかったことを示しています。

イエズスの処女降誕の啓示は、また、聖伝、すなわち、イエズスが使徒たちに教えられ、それが、教皇たちや司教たちによって、歴史を通じて忠実に伝えられてきた教えにも、見いだすことができます。たとえば、すでに390年に、教皇シリキウスは、童貞聖マリアについて、こう書いています。「この方は、ご自分のご胎内に子を宿した童貞であり、また、童貞として子を生んだお方である」。教会の歴史を通して、教皇たちや諸公会議は、常に同じことを教えてきました。

4.妥当性

私たちは、啓示によって、イエズスの処女降誕のことを知っています。しかし、それをよく考えてみると、イエズスが、このような形でお生まれになったことが、いかに適切であったかが分かります。それは、聖三位一体において、イエズスがどのようなお方であるかに、合致するのです。イエズスは、天主のみ言葉でいらっしゃいます。イエズスは、父なる天主に、何の変化もお与えになることなく、父なる天主からお生まれになりました。それは、ある考えが、頭自体を変化させることなく、その頭から出てくるのに、少し似ています。ですから、童貞に何の変化もお与えになることなく、童貞からこの世にお生まれになることが、適切だったのです。

また、処女降誕によって、イエズスは、両親を敬うことの良い模範を、私たちに示してくださいました。実際、処女降誕によって、イエズスは、ご自分の御母に、童貞の栄光と母の尊厳を、同時に持つことを、お許しになったのです。

結論

イエズスの処女降誕についてのこれらの考察から、どのような結論を導き出すことができるでしょうか? 三つの結論を、導き出しましょう。

第一の結論は、私たちが、私たちの主イエズス・キリストを自分の霊魂の中にお迎えし、主に身を任せることによって、何も失うものはない、ということです。それどころか、私たちの聖性と栄光が増すのです。聖母は、イエズスをご胎内にお迎えになり、イエズスのご意志に同意され、そして、童貞の栄光をいささかも失うことなく、天主の御母となられたのです。

第二の結論は、私たちは、両親を敬い、愛さなければならないということです。イエズスは、そのことを言葉で教えてくださっただけでなく、ご自分の御母を非常に思いやる行動でも、それを教えてくださったのです。

第三の結論は、私たちは、童貞聖マリアを特別に敬い、愛さなければならないということです。天主の御子であるイエズス・キリストが、処女降誕という特権をお与えになることによって、マリアを特別に敬われたのですから、イエズスは当然、私たちが、特別な信心をもって御母を敬うことを、期待しておられるのです。


天主の御子イエズス・キリストは、童貞に御托身された。その御母の童貞性を保つために唯一無二の奇跡を行われた。天主は童貞性を喜ばれる。

2021年12月30日 | お説教・霊的講話

私たちの主イエズスの処女懐胎についての説教

ドモルネ神父 2021年12月19日

はじめに

今日は、待降節の最後の主日です。あと6日で、クリスマス、つまりキリストのご降誕をお祝いすることになります。私たちの主イエズス・キリストが、童貞聖マリアに処女懐胎されたことについて考えてみましょう。

1.カトリックの教義

イエズスの処女懐胎とは、童貞聖マリアが、男の種を介さず、かつ自らの童貞性を失うことなく、そのご胎内に、イエズス・キリストをやどされたことを意味します。これは明らかに奇跡、つまり自然法則の外で、天主の御力によって実現したみわざです。天主は、その創造の御力によって、通常は男の種が子を受胎させるところ、男の種の助けなしに、しかも童貞性の封印を解くことなく、童貞マリアのご胎内で、それを実現されたのです。童貞マリアの側では、自然の秩序は、完全に尊重されました。ですから、マリアは、完全に童貞のままで、まことにイエズス・キリストの御母となられたのです。

2.教義の源泉

私たちは、どのようにして、この奇跡のことを知っているのでしょうか? それは、天主が啓示されたからです。この啓示は、聖書と聖伝にあります。聖書では、預言者イザヤが、次のような言葉で、イエズスの処女懐胎を告知しました。「見よ、処女(おとめ)が身ごもり、一人の子を生み、それをエンマヌエルと呼ぶだろう」(イザヤ7章14節)。私たちは、この奇跡を、イエズス・キリストが使徒たちに教えられ、それが今日に至るまで、教皇たちや司教たちによって継承されてきた、聖伝からも、知っています。例えば、649年のラテラノ公会議は、イエズスの処女懐胎を宣言し、これに反することを言う者を断罪しました。

3.この教義の理性的妥当性[神学大全第3部a第28問題a第1項参照]

イエズスの処女懐胎は、天主によって決定され、実現されたものです。これについて考えてみると、この決定には、天主の知恵が垣間見られます。第一に、イエズスの処女懐胎によって、父なる天主だけが、イエズス・キリストの御父という称号と尊厳を、保持することがおできになります。もしイエズスに人間の父親がいたとすれば、イエズス・キリストについての父性の共有のようなものが、存在することになったでしょう。それは、不適切です。イエズス・キリストは、御子なる天主です。イエズス・キリストは、唯一の父を持っておられ、それは父なる天主です。

第二に、イエズスの処女懐胎によって、イエズスが、原罪とのいかなる接触をも避けられることが、可能になりました。実際、原罪は、アダムからそのすべての子孫に、自然の出産によって、継承されてゆくものです。イエズス・キリストは、男の種の助けなしに処女懐胎されたことにより、原罪の継承の法則を免れられたのです。

第三に、天主の御力によるイエズスの処女懐胎は、私たちに、御托身の目的を思い起こさせます。イエズスは、私たちを、天主の子としてもう一度生まれさせるために、この地上に来られました。しかし、私たちは、「血統(ちすじ)ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって」(ヨハネ1章13節)、つまり、天主の御力によって、もう一度生まれるのです。マリアにおけるキリストの処女懐胎は、教会における私たちの霊的な新生のモデルなのです。

4.童貞性(処女性)

天主の御子イエズス・キリストは、童貞に、御托身されました。そして、その御母の童貞性を保つために、本当に唯一無二の奇跡を行われました。このことは、天主がいかに童貞性を喜ばれるかを示しています。奉献された童貞性とは、本質的に、肉の快楽を、たとえそれが婚姻内では合法的であるとしても、天主に、生涯にわたって、犠牲として捧げることを意味します。それは、何のためでしょうか? より完全に、天主のものとなるためです。実際、聖パウロはこう言っています。「独身の人はどうして主を喜ばせようかと、主のことを気づかい、結婚した人は、どうして妻を喜ばせようかと、世のことを気づかい、心が二つに分かれる。結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために、主のことを気づかい、結婚している者は、どうして夫を喜ばせようかと、世のことを気づかう」(コリント前書7章32-34節)。

すべての人が、奉献された童貞性に召されるわけではありませんが、すべての人は、童貞性を尊敬しなければなりません。イエズス・キリストは一生童貞で、聖母は一生童貞で、聖ヨゼフは一生童貞で、洗者聖ヨハネは一生童貞で、愛された使徒ヨハネも一生童貞でした。童貞たちは、いわば、私たちの主イエズスのボディガードとなっているのです。黙示録では、童貞たちは、「小羊の行くところにどこにでもついて行く」(黙示録14章4節)と言われています。

すべての人が、奉献された童貞性に召されるわけではありませんが、すべての人は、もし天主がお召しになるなら、子どもたちがそのような完徳に達するのを助けるべきです。悪魔やこの世のキリストの敵は、奉献された童貞性の特別な価値を、よく知っています。ですから、彼らは、それを破壊するため、またその進展を妨げるために、あらゆることをします。彼らは、写真、映画、雑誌、マンガ、アニメ、悪い手本や、学校での倒錯した教育を通して、幼い子どもたちにたいして、肉の情欲を呼び覚まそうとするのです。彼らは、童貞である人々を嘲笑します。彼らは、肉の快楽を経験することが、成熟のしるしであるかのように見せかけます。実際は、その逆なのです。自分の情欲を抑え、天主への愛のために、自分自身を犠牲にする人は、自分の情欲に支配される人よりも、ずっと強く、ずっと成熟した人なのです。

結論

子どもたちの両親や、子どもたちに責任を持つ皆さんには、このような倒錯から、子どもたちを守る義務があります。では、どのようにすればよいでしょうか? 貞潔の徳を損なうものをすべて、家庭から追放することによってです。家でも外でも、子どもたちの服装の慎み深さに目を配ることによってです。皆さんの子どもたちが、悪い友達と一緒に出かけないようにすることによってです。子どもたちに、真実のもの、美しいもの、善いものを選び、偽りのもの、醜いもの、悪いものを拒絶するように、教えることによってです。最後に、これも重要なことですが、犠牲の精神を、子どもたちに教えることによってです。奉献された童貞性は、自分自身と、家族を持つという自然な欲求を犠牲にすることであり、また肉の情欲との全面的な戦いでもあるのです。もし子どもが、日常生活のささいなことで自分を犠牲にすることを最初に学ばなければ、このような栄光ある自己犠牲と、天主への愛のための戦いを実践することができないことは、明らかです。

童貞にして母なる聖母が、その童貞のマントで皆さんの家族を覆い、あらゆる不純さから、皆さんを守ってくださいますように。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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