Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

洗者聖ヨハネの謙遜:聖ヨハネにとって最も大切なことは、人々が、自分ではなく、イエズス・キリストのもとに行くことだった。

2021年12月29日 | お説教・霊的講話

洗者聖ヨハネの謙遜についての説教

ドモルネ神父

はじめに

待降節の典礼で、教会は、特に洗者聖ヨハネを取り上げます。聖ヨハネは、救い主の先駆者でした。聖ヨハネは、その説教と模範によって、救い主の到来を準備しました。今日の福音で、聖ヨハネは、私たちに謙遜の模範を示しています。童貞聖マリアは、マグニフィカトのなかで、「天主はおごる人々を散らされる」と言われました。ですから、救い主の到来のお祝いを実りあるものとし、クリスマスのすべての恩寵を受けたいのであれば、私たちは高慢と戦い、謙遜の徳を実践しなければなりません。

1.高慢の誘惑一般

高慢とは、自分の優越性を過度に望むことであり、自分を、本当の自分よりも、より偉く見せたいという望みです。高慢はルチフェルの罪です。高慢は、人間、特に聖性を追求する人間に対する、ルチフェルのお気に入りの武器です。ルチフェルは、この武器をアダムに対して使って、成功しました。またルチフェルは砂漠で、私たちの主イエズスに対して、この武器を使いましたが、失敗しました。ルチフェルは、ユダヤの宗教指導者たちが洗者聖ヨハネに使者を送ったときにも、聖ヨハネに対して、この武器を使ったのです。

2.高慢の第一の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第一の誘惑は、自分にはない尊厳を、聖ヨハネに受け入れさせようとするものでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたは誰ですか?」。この質問は、暗黙の答えをもとめており、実際には、「あなたはメシアですか?」という意味でした。ユダヤ人たちは、洗者聖ヨハネの尊厳に、感銘を受けていました。その尊厳とは、高貴な生まれ、質素な暮らし、この世のものの軽蔑、砂漠での生活、人々の間での人気でした。そのため、ユダヤ人たちは、聖ヨハネを待望のメシアとして認めよう、と申し出たのです。

洗者聖ヨハネは、この質問の意味と、その中に含まれている誘惑を、よく理解していました。そこで聖ヨハネは、すぐにその誘惑を拒絶しました。「ヨハネは次のように証明した。彼は否定することなく、『私はキリストではない』と宣言した」(ヨハネ1章20節)。聖ヨハネ・クリゾストモは、これについて、こう言っています。「忠実なしもべの義務は、自分の主人から栄光を奪わないことだけでなく、自分自身に差し出されたものを拒むことでもある」。

3.高慢の第二の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第二の誘惑は、曖昧な称号で、彼をおだてることでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたはエリアですか?」。私たちの主イエズスは、洗者ヨハネがエリアの精神と力を持っていたため、彼はエリアである、と言われました(ルカ1章17節)。しかし、ユダヤ人たちが話していたのは、本物の預言者エリアが地上に戻ってくることについてだったのです。

次の質問にも、同じ誘惑があります。「あなたはあの預言者ですか?」(ヨハネ1章21節)。洗者聖ヨハネは、預言者であり、預言者よりも優れた人でした(マテオ11章9節)。しかし、ユダヤ人たちが話していたのは、モーゼが死ぬ前に告知した預言者、つまり、メシアのことだったのです。

そのため、この誘惑は、「エリア」という名前と、「預言者」という称号の曖昧さを利用して、洗者聖ヨハネに、人々の間で、自分自身を、より高貴な者だと思わせよう、とさせるものでした。聖ヨハネは、その罠を理解していました。聖ヨハネは、謙遜と、明確で単純な真理への愛のゆえに、これらの曖昧さを利用して自分をおだてようとする人々に、素っ気なく、「いいえ」と 答えたのです。

4.高慢の第三の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第三の誘惑は、彼を、自己満足に浸らせることでした。この誘惑は、ユダヤ人たちの次の質問にありました。「あなたはだれですか?私たちを遣いによこした人々に何か返事をもっていかしてください。あなたは自分を何者だと言われるのですか?」(ヨハネ1章22節)。

洗者聖ヨハネは、この罠を理解し、真摯で深い謙遜によって、その罠を見事にくじきました。「預言者イザヤの言っている『主の道を正しくせよと荒野に叫ぶ者の声』とは私のことである」(ヨハネ1章23節)。洗者聖ヨハネは、真理を、否定はしませんでした。聖ヨハネは、自分の卓越した使命と、その結果としての、卓越した尊厳を認めました。しかし、それと同時に、自分自身は何者でもないことを宣言しました。聖ヨハネは、自分のことを、「声」と呼びました。声は、それだけでは存在せず、それだけでは意味がありません。ですから、洗者聖ヨハネは、自分を「声」と呼ぶことによって、自分が私たちの主イエズス・キリストに完全に依存していることを断言したのです。

5.高慢の第四の誘惑

洗者聖ヨハネに対する高慢の第四の誘惑は、洗礼を授けるという彼のわざの価値を貶めることによって、聖ヨハネが自分を正当化し、誇示するように、聖ヨハネを挑発することでした。ユダヤ人たちは、聖ヨハネに、「あなたがキリストでもなく、エリアでもなく、あの預言者でもないとしたら、なぜ洗礼を授けるのですか?」と言いました。これは、ねたみ深く、人を傷つける言葉であり、自己愛の反応を引き起こすためのものでした。

しかし、洗者聖ヨハネは、その罠に嵌まりませんでした。聖ヨハネは、少しも自分を正当化しようとは、しませんでした。聖ヨハネは、自分への侮辱を受け入れ、そしてすぐに、すべての焦点を、私たちの主イエズス・キリストに向けたのです。「私は水によって洗礼を授けているが、あなたたちの中に、見知らぬ人が一人立っている」(ヨハネ1章26節)。聖ヨハネにとって最も大切なことは、人々が、自分ではなく、イエズス・キリストのもとに行くことでした。

結論

洗者聖ヨハネは、鳥が猟師の網から逃れるように、高慢のすべての誘惑から逃れました。謙遜は、私たちを自由にします。この世の栄光を求めることからも、他人からの評価を求めることからも、自己中心的な考えや自己憐憫からも、思い上がりや絶望からも、私たちを自由にします。謙遜は、私たちから自己愛を取り去り、それによって、私たちは、心を込めて、私たちの主イエズスを愛することができるようになるのです。


無原罪の御やどり:悪魔とその手先たちは、マリアに対しては何もすることができませんし、マリアの御保護の下に身を置く者たちに対しても、何もすることができません。

2021年12月29日 | お説教・霊的講話

無原罪の御孕りの教義についての説教

ドモルネ神父

はじめに

12月8日、私たちは、童貞聖マリアの無原罪の御孕りをお祝いします。今日は、この教義の意味についてお話しします。

1.教義の宣言

 1854年12月8日、教皇ピオ九世は、無原罪の御孕りの教義を宣言しました。教皇の言葉は次の通りです。「余は、以下のように宣言し、公表し、定義する。すなわち、至聖なる童貞マリアが、その御孕りの最初の瞬間において、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を考慮して、全能の天主が授けた特別な恩寵と特権によって、原罪のすべての汚れから保護されていたとする教義は、天主によって啓示された教義であり、したがって、すべての信者はこれを固く、かつ絶えず信じなければならない」(大勅書「イネファビリス・デウス」〈Ineffabilis Deus〉)。
この宣言の構成要素について、少し説明することにしましょう。

2.マリアは原罪から保護されていた

アダムは最初の人間であり、すべての人間の父でした。全人類はアダムの中にありました。ですから、アダムが罪を犯したとき、全人類が罪を犯したことになったのです。この理由から、すべての人間は、罪の状態で生まれてくる、という一般法則があります。童貞聖マリアはアダムの子孫ですから、他の人間と同じように、当然、罪の法則の支配下にありました。しかし天主は、この法則が聖母に適用されることを、妨げられたのです。

3.マリアの御孕りの最初の瞬間において

子どもの受胎においては、両親が子どもの体を形作ります。子どもの体が形作られると同時に、天主は霊魂を創造され、その体に結び付けられます。霊魂と体が結びつくと同時に、その子どもは、人間となります。聖母の両親、すなわち聖ヨアキムと聖アンナは、人間本性の法則に従って、マリアの体を用意しました。天主は、マリアの霊魂を創造され、それをマリアの体に結び付けられました。その瞬間、罪の法則が、マリアに適用されるはずでした。しかし、その同じ瞬間、天主は、マリアに成聖の恩寵をお与えになることによって、罪の法則がマリアに適用されるのを防がれたのです。マリアが原罪によって汚れを受けられた最初の瞬間と、マリアがその汚れから清められた第二の瞬間があったのではありません。マリアは、原罪から完全に保護されていたのです。マリアは、無原罪で御孕りになったのです。

4.保護によって

マリアの無原罪の御孕りは、唯一無二の特権です。原罪から保護された人は、他にはだれもいません。すべての人間は、まず罪の汚れを受け、その後、洗礼によって清められます。私たちの主イエズスが原罪の影響をお受けにならなかった、というのは、その通りです。しかし、私たちの主イエズスは、原罪から保護されたわけでも、清められたわけでもありません。主は、その神性のゆえに、単に、罪の法則の支配下にはおられなかっただけなのです。では、なぜ天主は、聖母に無原罪の御孕りという特権をお与えになったのでしょうか? それは、イエズスの御母、また、天主の御母という聖母の使命のためです。イエズスの無限の尊厳のゆえに、イエズスの御母が、まさに最初の瞬間から、完全に罪を免れている、ということが、必要だったのです。

5.イエズス・キリストの功徳を考慮して

聖パウロは、ローマ人にこう言いました。「一人の人、アダムの不従順によって多くの人が罪人とせられたように、イエズス・キリスト一人の従順によって、多くが義とされる」(ローマ5章19節)。イエズスは、普遍的な救い主でいらっしゃいます。イエズスを通さなければ、誰も、恩寵を受けて、天国に行くことはできません。このことは、童貞聖マリアにも当てはまります。聖母は、原罪から保護され、イエズス・キリストの功徳のゆえに、恩寵の充満を受けられました。マリアは、私たち全員と同じように、私たちの主イエズスによって贖われたのです。

6.原罪のすべての汚れから保護されていた

最後に述べておきたいことがあります。原罪は、苦しみ、病気、死、死後ちりに還ること、無知、悪意、弱さ、情欲といった結果をもたらしました。教皇ピオ九世は、童貞聖マリアが「原罪のすべての汚れ」から保護されていた、と述べました。これは、聖母が、ご自分の中での恩寵の進展を妨げるような、原罪のすべての結果から保護されていた、ということを意味しています。ですから、マリアは、苦しみや死からは、保護されておられませんでした。苦しみや死は、霊魂における恩寵の進展を妨げるものではないからです。しかし、マリアは、病気、死後ちりに還ること、無知、悪意、弱さ、情欲からは保護されておられました。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖母の連祷で、私たちは童貞聖マリアを「象牙の塔」と呼びます。象牙は、貴重で美しく、腐敗しにくい素材です。私たちが聖母を「象牙の塔」と呼ぶとき、それは、恩寵の充満である聖母の美しさと、聖母の非腐敗性、すなわち聖母の無原罪の御孕りを意味します。聖母の恩寵の充満と無原罪の御孕りは、聖母を、堅固な塔のように力強いものにします。悪魔とその手先たちは、マリアに対しては何もすることができませんし、マリアの御保護の下に身を置く者たちに対しても、何もすることができません。ですから、悪魔に抵抗したければ、マリアを拠り所としましょう。無原罪の御孕りのメダイである、不思議のメダイを身につけましょう。この祈りを頻繁に唱えましょう。「原罪なくして孕り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え」。アーメン。


ヴィガノ大司教とのインタビュー「解決は、カトリック教会がキリストの声を響かせて、人類の目を開かせ、人間が天主のもとに立ち帰ることだと人類に理解させるときです。」

2021年12月29日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教とのインタビュー

「解決は、カトリック教会がキリストの声を響かせて、人類の目を開かせ、人間が天主のもとに立ち帰ることだと人類に理解させるときです。」

「もし私たちが罪を犯し続けるなら、陰謀家や裏切り者の共犯となり、天主の御あわれみ受ける資格はなく、この地上の地獄から抜け出す資格もないでしょう。これが最後のチャンスかもしれません。」

Interview With Archbishop Carlo Maria Viganò

クリスティアーナ・ボッブ
2021年12月20日 月曜日

最近、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教と連絡を取る機会に恵まれました。大司教は、道徳に悩む世界の中で、誰よりも光輝く道しるべのような存在です。その謙虚さや、真理と正義への情熱は、世界中で嘘の声の中で真実の声を探している人々が多くなればなるほど、大司教を最前線へと駆り立てているのです。ヴィガノ大司教は、教会に、核となる信条を思い出させ、信者を支えて真に重要な目標に向けさせるために発言しているのです。赤ん坊を殺すことは自由なのでしょうか? それとも、繁栄と、人類としての夢と運命を実現できることが自由なのでしょうか? それらは相容れないものです。私たちが道徳のない生活を送りながら、同時に私たちの天主がお与えになった運命を成就させることができるかのようなふりをするのは、統合失調症のようなものです。私たちは地球規模の決断に直面している世代です。私たちはどのような世代になるのでしょうか。歴史上ほとんどないような、全世界が意識の危機、決断のときに直面しているのです。悪は実在し、悪が私たちを再定義しようとしています。私たちは、それを許すのでしょうか。悪は、私たちが自分自身のために道徳を定義できると信じさせようとしていますが、そんなことをすれば究極的には堕落へと至ります。それとも、私たちは、自分たちが何者であるかを知っていると、永遠に向かって宣言するのでしょうか。私たちは、自分が天主の似姿に創造されたのであり、善であることを知っています。カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、私たちがずっと前から知っていたことを明らかにするために、真実にまっすぐに切り込みます。今日の危機は、天主と天主がこの世代のために設計なさったことに委託する心によって、克服することができるのです。以下、私の質問に対する大司教の全回答を、お読みください。

1.多くの人が、世界が乗っ取られてしまう危険性に気づき始めていますが、宗教的背景は異なります。異なる信仰を持つ人々が、たとえ違っても、共に自由を支えるにはどうすればよいでしょうか?

【ヴィガノ大司教】これは複雑な問題であり、近代主義者の司教なら、おそらく次のように答えるでしょう。「どこに問題があるでしょうか? 私たちは皆、天主の子です。それぞれの信者が天主をどのように呼ぶかは関係ありません」。しかし、これはカトリックの答えではありませんし、ましてや司教、つまり使徒の後継者が言うべき答えでもありません。

カトリック信者は、聖書と聖伝から、天主の側とサタンの側という二つの側のある、歴史的な戦いが進行中であることを知っています。また、勝利は天主と、無原罪の聖母、つまり、いにしえの蛇の頭を踏み砕く、黙示録の星の冠をかぶった婦人のものであることも知っています。悪魔に従順なエリートが自らのアジェンダ(行動計画)を押し付けている、本当の世界規模のクーデターに直面して、すべてのカトリック信者は、パンデミックの緊急事態を口実に起こることの地獄のマトリックスを認識する方法を知っています。それは、死の思想、生命への憎悪、神聖なものへの嫌悪、混乱と暴力への自己満足を認識することです。

カトリック信者でない人々、あるいは、パンデミックとワクチンの物語(ナラティブ)に適応している高位聖職者たちやベルゴリオ自身に従っている人々は、確かにこれらの出来事の意味を理解するのがより困難で、人間がどうして仲間の死を望むのか、どうして世俗、そして宗教の権威が腐敗し、人々を裏切ることによって買収されているのかが理解できないでいます。医師が患者を治療することなく、あるいは不適切な治療を施すことによって、あるいは通常の条件下では決して承認されることのない実験的な血清について助言することによって、患者に死を与えることができるのでしょうか。基本的権利を最も不当に侵害する独裁が至るところで確立されているのに、どうして裁判官がそれを阻止するために介入しないのでしょうか。

スイスの市民へのメッセージ[1]で述べたように、今日、私たちが求めなければならないのは自由ではありません。もっとよく言えば、私たちが主張しなければならない自由は、放埓【勝手気まま】でも、自分の好き勝手なことを何であれするという意志でもなく、――回勅「リベルタス・プレスタンティッシムム」(Libertas Præstantissimum)でのレオ十三世の定義に従って――善の境界の内側で行う自由です。しかし今日それは阻まれています。

母親の胎内にいる子どもを殺すのは自由でしょうか? 悪と罪に権利を認め、聖徳と善行をあざけり、非難するのは自由でしょうか? 天主だけがお持ちである、いつ生き、いつ死ぬかを決める力を主張するのは自由でしょうか? あえて同性間の結婚をしようとし、養子を迎え、「代理出産」で(繁殖用の)雌馬として支払いを受けた母親から子を買うのは自由でしょうか? 貧困を引き起こし、低開発国の資源を搾取しているのは、まさに背教的で反キリスト教的な西洋なのに、西洋の社会構造を破壊するために、あるいは労働コストを下げるために、世界の貧しい人々や相続権を失った人々を利用するのは自由でしょうか?

カトリック信者、とりわけ平信徒には、真の信仰という恩寵とキリストの教会との完全な交わりを持っていない人々に、今起こっているすべてのことが―まさにその明らかに反キリスト教的な性質のために―聖書が語る「最後のこと」―τα ἔσχατα(タ・エスカタ)―闇の子に対する光の子の戦いの一部であることを理解してもらう機会があります。そしてその時、正直な者、善良で善を求める者、福音が「善意の人」と呼ぶ者たちは、エリートたちが敵とみなす宗教はただ一つ、ローマ・カトリック・使徒継承の宗教であることを理解し、もはや中立でいることも、自分のつくべき側を選択せずにやっていけると信じることも不可能であることを理解するのです。天主の恩寵が彼らの心に触れ、霊魂の目で、自分が属することができるのはただ一つの側であり、共通の敵と戦うことができるのはただキリストの十字架だけであることを理解するようになるでしょう。そして、その選択は、天主によって祝福され、報われるのです。

2. 宗教は、(1)クーデター、(2)解決策、(3)その両方、において、どのような役割を担っているのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】これも非常に複雑な問題です。まず第一に、一般的な意味での「宗教」と、「カトリック教」として理解される「宗教」を区別する必要があります。

確かに、新型コロナウイルス感染症は国民の合意を得るために、宗教的な意味合いを持ってきました。そして、パンデミックの大司祭たち、ワクチンの伝道師、不信心者の改宗、新たな異端者の破門、ワクチン未接種者の社会的な火あぶり、遺伝子血清の接種による救い、といった具合にです。しかし、私たちはサタンが天主の猿まねをする者であることをよく知っており、新型コロナウイルス感染症でさえも、いつもの役割を演じていることを明白に示しているのです。

第二に、私たちがカトリック教会について語るならば、私たちは、60年間、位階階級が一種の双極性障害を生きてきたことを忘れてはなりません。一方で、教理、道徳、典礼、規律など、二千年もの間、教会をカトリックたらしめてきたものがあります。他方では、別の教理や道徳を説き、別の典礼を行い、信仰を守り、主の群れを守るためではなく、誤謬や異端、離教の種をまくために自らの権威を行使するベルゴリオと近代主義者の司教たちがいます。信徒たちもこの分裂を認識しています。

信徒たちは、教会が最初に一種のプロテスタントのセクトになり、次に慈善団体のNGOに、あるいは、さらに悪いことには新世界秩序のしもべになる、などということを望んでおらず、これまでも決して望まなかったのです。天主の恩寵によって、カトリック信者であり続け、私たちの主が私たちに教えてくださったことを全面的に信じ、聖伝のミサを捧げる多くの司祭と一部の司教が今でもいます。そして彼らは、偶然の一致ですが、健康独裁、グレート・リセット計画、新世界秩序のプロジェクトにも気づいているのです。

また、国家にディープ・ステート【影の国家】があるように、教会にもディープ・チャーチ【影の教会】があります。ディープ・チャーチは、おそらくフリーメーソンが設立を望んでいる「人類教」(Religion of Humanity)の一部になれるという希望を持って、グローバリストのイデオロギーを自分たちのものとしました。偶像と悪魔は認めるものの、真の天主であり唯一の救い主である私たちの主イエズス・キリストはそこから追放される人間の宗教、まさに悪魔の宗教です。こういう訳で、ベルゴリオの教会は、エキュメニカルで、包括的で、弾力的で、環境保護的です。これが、ワクチンを推進し、パンデミックについてのパニックの種をまく理由です。このため、ベルゴリオの教会は、人権侵害、教会の冒涜、国家の世俗化、社会からのカトリックのアイデンティティーやキリスト教の聖伝の抹殺に直面しても沈黙しているのです。ディープ・ステートは、国家主権、経済、ビジネス、司法、教育、健康、そして社会構造全体を破壊しようとします。これによって、支配者は国民を裏切り、独裁体制を確立することで権力を維持するのです。同じように、ディープ・チャーチは、キリストの教会を破壊し、教会に人道的な装いを残しながら、霊魂、つまり、その主であり天主であるキリストを教会から奪おうとしているのです。どちらの場合も、悪魔のわざと認めることができます。悪魔は、この世のすべての完全なものの創造主であり、同時に十字架上の天主なる御子の犠牲を通して人類の贖い主であり救い主であるお方を憎んでいますから。

ですから、ご質問にお答えすると、こうなります。ベルゴリオの教会はこのクーデターを計画するのに決定的な役割を果たしたのです。それは、サイコ・パンデミック、ネオ・マルサス的環境保護主義、グレート・リセット、アジェンダ2030が、ジェンダー論、LGBT運動やいわゆる同性愛者の「結婚」の承認に沿って増殖する上での土台として、神学と哲学の誤謬を故意に承認し教えたことによってです。第二バチカン公会議から今日まで、このディープ・チャーチは、信徒に新しい宗教をのみ込ませることと同時に、自分たちはまだカトリック信者であると信じ込ませることを何とかしてやり遂げたのです。

ディープ・チャーチもまた、世界的なクーデターを実行する上で役割を担っています。なぜなら、教会はパンデミックのシナリオを受け入れ、承認し、何カ月も教会を閉鎖して礼拝を禁止し、教会がワクチンを承認していると解釈されることを知りながら、「新型コロナウイルス感染症用ワクチンを使うことの道徳性に関するノート」を公布したのです。ベルゴリオは、遺伝子血清は道徳的義務であり、実際に愛徳の行為であるとまで言い、バチカンの全職員にワクチンを義務づけました。

しかし、ディープ・チャーチは、解決策の一部にはならず、問題の一部になるでしょう。解決策になるのは、善き牧者たち、体制に売り渡されていない稀な高位聖職者たち、日々現実に接し、市民の完全支配と市民の一部の絶滅を目的としたこの犯罪的陰謀によって引き起こされる身体的、心理的、道徳的、精神的損害を目にする司祭たちや修道者たちでしょう。解決を与えるのは、カトリック教会となるでしょう。つまり、教会がキリストの声を大きく響かせて、人類の目を開かせ、"この地獄の輪から抜け出す唯一の方法は、人間が天主のもとに立ち帰り、天主の聖なる法を尊重し、聖徳を実践し、罪を放棄することだ"と人類に理解させるときです。私たちが皆、天主の御前にひざまずいて、私たち罪人を憐れんでくださるように願うとき、初めて天主が介入され、敵を打ち破られるのです。その敵の中には、今日、グローバリストのアジェンダと完全に足並みをそろえている人々も含まれることでしょう。

3.(1)人々が自由を求めて押し返して戦う場合、あるいは、(2)人々が自由を求めて押し返さず戦わない場合、次の12カ月はどのようなものになると思われますか?

【ヴィガノ大司教】私は当然ながら予言はできませんが、かつてないほど速い出来事の進展と、進行中のクーデターの証拠により、新世界秩序の確立に勇気と決意をもって反対することが全員の義務であるということが明らかになるよう望んでいます。しかし、繰り返しますが、この問題が自由のための闘争に限定されると錯覚してはなりません。私たちが戦うならば、私たちの戦いは、天主の法に従い、王たるキリストと元后たるマリアの帰還を求めるものでなければなりません。私たちはすでに自由をあまりにも乱用してきており、最悪の異常行為を正当化する盲目的崇拝物にしてしまいました。今こそ、私たちの主の「もはやしもべではなく、友」【ヨハネ15章】であるか、サタンの奴隷であるかを選ぶ時なのです。

健康独裁あるいは環境保護独裁に服従することを望まない人々を合同させて行動プログラムを提供する、「反グローバリズム同盟」という考えは、良き機会を提示することができます。この同盟は、すべての地域の現実に有効な一般原則を示すことができ、各運動はその原則を共有して、具体的な状況に適応させることができるはずです。私は、政治指導者、知識人、機関の代表者、司法、軍、医師、ジャーナリスト、教師、そして私の訴え[2]を取り上げ、それを推進しようとする一般の人々がいることを望んでいます。また、すでに述べたように、攻撃が世界規模のものである以上、反対運動もまた世界規模でなければならないからです。

しかし、もし私たちがなすがままにさせておくならば、もし私たち全員に降りかかっている脅威を見ないふりをして自分たちの小さな現実の中に閉じこもるならば、もし私たちが罪を犯して主を怒らせ続けるならば、私たちは陰謀家や裏切り者の共犯者となり、天主の御あわれみ受ける資格はなく、この地上の地獄から抜け出す資格もないのは確かでしょう。このことについて考えてみてください。これが最後のチャンスかもしれません。

[1] https://www.thegatewaypundit.com/2021/11/exclusive-archbishop-vigano-shares-letter-tgp-directed-towards-tomorrows-protesters-health-tyranny-switzerland

https://www.remnantnewspaper.com/web/index.php/headline-news-around-the-world/item/5692-robert-kennedy-jr-requests-message-from-archbishop-vigano-at-major-demonstration-in-switzerland

[2] https://www.thegatewaypundit.com/2021/11/huge-exclusive-archbishop-carlo-maria-vigano-calls-people-faith-unite-worldwide-anti-globalist-alliance-free-humanity-totalitarian-regime-video

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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