Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

Letter from the Superior General to the Faithful in this time of epidemic

2020年03月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

Letter from the Superior General to the Faithful in this time of epidemic

March 18, 2020  Source: FSSPX.NEWS

Letter from Fr. Davide Pagliarani, Superior General of the Priestly Society of Saint Pius X, addressed to all the faithful confined to their homes and who no longer have access to the Holy Eucharist, due to the coronavirus epidemic.

Dear faithful,

In this moment of trial, which is certainly difficult for all of you, I would like to take this opportunity to send you a few reflections.

We do not know how long the current situation will last, nor, mostly importantly, how things will develop over the coming weeks. Faced with this uncertainty, the most natural temptation is to desperately search for guarantees and explanations in the discourse and hypotheses of the most learned "experts." Often, however, these hypotheses—which abound on all sides—contradict each other and increase confusion instead of bringing people relief. Without a doubt, uncertainty is an integral part of this struggle. It is up to us to know how to take advantage of it.

If Providence permits a calamity or an evil to happen, it always achieves its goal of bringing about a greater good which, directly or indirectly, always concerns our souls. Without this essential premise, we risk despair, because an epidemic, another calamity, or any other struggle will always find us insufficiently prepared.

At this stage, what does God want us to understand? What does He expect from us during this very unique Lent, where it seems like He has already decided which sacrifices we must make?

A simple microbe is capable of bringing humanity to its knees. In the era of great technological and scientific advancements, it is above all human pride that is brought to its knees. Modern man, so proud of his achievements, who installs fiber-optic cables at the bottom of the ocean, builds aircraft carriers, nuclear power plants, skyscrapers, and computers, and who, after setting foot on the moon continues his conquest to Mars, this man is powerless before an invisible microbe. The uproar of the media these past days and our own fear should not cause us to miss this deep and easy-to-understand lesson. It is a lesson for pure and simple hearts who are able to confront the present times with faith. Providence still teaches us through events even in our days. Humanity—and each one of us—has this historic occasion to return to reality, to what is real and not to a virtual reality made up of dreams, myths, and illusions.

Translated into biblical terms, this message corresponds to the words of Jesus who asks us to remain united as closely as possible to Him, because without Him, we can do nothing nor solve any problem (cf. Jn. 15: 5). In these uncertain times, the expectation of a solution and the feeling of our helplessness and our fragility must encourage us to seek Our Lord, to implore Him, to ask His forgiveness, to pray to Him with more fervor, and, above all, to abandon ourselves to His Providence.

To this is added the difficulty or even the impossibility of freely assisting at Holy Mass, which augments the harshness of this ordeal. But there remains in our hands a privileged means and a weapon more powerful than the anxiety, uncertainty, or the panic that the coronavirus crisis can cause: we are speaking of the Holy Rosary, which links us to the Most Holy Virgin and to Heaven.

The moment has come to pray the rosary in our homes more systematically and with more fervor than usual. Let us not waste our time in front of screens and do not let ourselves be won over by media hype. If we must be quarantined, let us take advantage of this to transform our "house arrest" into a kind of joyful family retreat, during which prayer regains the place, the time, and the importance it deserves. Let us read the entire gospel, meditate upon it calmly, listen to it in peace: the words of the Master are the most effective, because they easily reach the intelligence and the heart.

Now is not the time to let the world come into our home, now that the circumstances and measures of the authorities separate us from the world! Let us take advantage of this situation. Let us give priority to spiritual goods that no microbe can attack: let us accumulate heavenly treasures, where neither the worm nor rust destroy. Because there where our treasure is, there too will be our heart (cf. Mt. 6:20-21).

Let us profit from this occasion to change our lives, knowing we must abandon ourselves to divine Providence. And let us not forget to pray for those who are suffering at this time. We must include in our intentions to Our Lord all those for whom the day of judgment approaches, and ask Him to have mercy on so many of our contemporaries who remain incapable of drawing profitable lessons for their souls from the current events. Pray that, once the ordeal has been overcome, they will not resume their lives as before, without changing anything. Epidemics have always served to bring lukewarm to religious practice, to the thought of God, to the hatred of sin. We have the duty to ask for this grace for each of our fellow citizens, without exception, including—and above all—for pastors who lack a spirit of faith and can no longer discern the will of God.

Let us not be discouraged: God will never abandon us. Let us meditate full of confidence on the words that our Holy Mother the Church puts on the lips of the priest during the time of an epidemic: "O God who does not want death but the conversion of sinners, turn with benevolence to Thy people who come back to Thee and, since they are devoted to Thee, deliver them with mercy from the scourges of Thine anger.”

I pray for all of you at the altar and place you under the paternal protection of St. Joseph. God bless you!

Fr. Davide Pagliarani +

(Source : MG - FSSPX.Actualités - 17/03/2020)

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この感染症の時における総長から信者の皆様への手紙

2020年03月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

この感染症の時における総長から信者の皆様への手紙

2020年3月18日 FSSPX.NEWSサイト

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父から、コロナウイルス感染症のために、家に閉じこめられ、もはやご聖体に近づくことのできないすべての信者の皆様に宛てた手紙。

愛する信者の皆様、

皆様全員にとって間違いなく困難であるこの試練のとき、私はこの機会をとらえて、皆様に内省のポイントをいくつかお送りしたいと思います。

現在の状況がいつまで続くのか、また最も重要なのは、今後数週間にわたって事態がどのように進展していくのか、私たちには分かりません。この不確実な状況に直面すると、最も自然な誘惑は、最も学識のあるとされる「専門家」の言説や仮説の内に、保証や説明を必死に探し求めることです。しかし、多くの場合、これらの仮説は——そこには様々な意見のものがあふれていますが——、互いに矛盾し、人々に安心をもたらす代わりに混乱を増大させるものです。間違いなく、この闘いにおいては不確実性は避けられない部分です。そしてそれをどのように利用するかは、私たちにかかっています。

御摂理が何らかの災難や悪が生じるのを許されるときはいつも、それは直接的または間接的に私たちの霊魂に関わる、より大きな善をもたらすという目的を達成するためなのです。この本質的な前提を理解しないならば、感染症や他の災い、あるいは他の困難が私たちを襲うとき、私たちはいつも不十分な準備しかできていないため、絶望してしまう恐れがあります。

今の段階で、天主は私たちに何を理解するように望んでおられるのでしょうか? 私たちがどんな犠牲を払わなければならないかを天主がすでに決めておられるような、この本当に特別な四旬節の間、天主は私たちに何を期待しておられるのでしょうか?

あるちっぽけな微生物が、人類を屈服させることができるのです。偉大な技術的、科学的進歩の時代に、この微生物に屈服させられているのは、何よりも人間のプライドです。海の底に光ファイバーケーブルを敷設し、空母や原子力発電所、超高層ビル、コンピューターをつくり出し、月に足を踏み入れた後、火星への征服を続けるという成果を最も誇りに思っている現代人、この人類が目に見えない微生物の前には無力なのです。ここしばらくのメディアの大騒ぎと私たち自身の恐怖のために、私たちはこの深く、かつ理解しやすい教訓を見逃してはなりません。これは、信仰をもって現代に立ち向かうことのできる、純粋で素朴な心を持つ人々のための教訓です。御摂理は今でも、私たちの時代においてさえも、出来事を通して私たちに教えてくださいます。人類、そして私たち一人一人は、夢や神話、幻想で構成されたバーチャルなリアリティではなく、本当のもの、現実というものに立ち戻る歴史的な機会に遭遇しているのです。

聖書の言葉に当てはめてみるならば、このメッセージはイエズスの次のみ言葉に対応します。イエズスは、私たちが可能な限りイエズスのお側に一致したまま留まるようにお求めになります。なぜなら、イエズスがおられなければ、私たちは何もできず、何の問題も解決することができないからです(ヨハネ15章5節参照)。この不確実な時代においては、解決への期待、私たちの無力感、私たちの脆弱感があるからこそ、私たちはますます主を求め、主に嘆願し、主の御赦しを求め、もっと熱心に主に祈り、そして何よりも主の御摂理に私たち自身をおまかせしなくてはなりません。

これに加えて、聖なるミサに自由に参列することが困難に、さらには不可能にさえなっています。このことが、この試練をさらに過酷なものとしています。しかし、私たちは、このコロナウイルスの危機が引き起こすことのできる不安、不確実性、あるいはパニックよりも、もっと強力な武器、特別な手段を手にしています。それは、私たちをいとも聖なる童貞と天国に結びつける聖なるロザリオのことです。

私たちが家庭で、いつもよりもっと組織的に、もっと熱心にロザリオを祈るときがやって来ました。私たちの時間をテレビやパソコン、スマートフォンの画面の前で無駄にせず、メディアの騒ぎに踊らされないようにしましょう。もし私たちに隔離の必要があるなら、これを利用して「自宅軟禁」を喜びに満ちたいわば家族の黙想の家に変え、その間、祈りが、それにふさわしい場所、時間、そして重要性を取り戻すようにしましょう。福音書全体を読み、福音について静かに黙想し、安らかに福音を聞きましょう。主のみ言葉は、知性と心に簡単に届きますから、最も効果的なものです。

今の情勢や行政当局の措置が私たちをこの世から切り離したからには、今はこの世を私たちの家に入れる時ではありません! この状況を利用しましょう。どんな微生物も攻撃できない霊的な善を優先させましょう。虫もしみもつかない天の宝を積みましょう。私たちの宝のあるところには、私たちの心もあるからです(マテオ6章20-21節参照)。

私たちは、天主の御摂理に自分自身をおまかせしなければならないことを知り、この機会を利用して、私たちの生き方を変えましょう。そして、今苦しんでいる人々のために祈ることを忘れないようにしましょう。裁きの日が近づいているすべての人々を、私たちの主に対する祈りの意向に含めなければなりません。また、現在の出来事から自分の霊魂のための有益な教訓を引き出すことができない非常に多くの私たちの同時代人たちをあわれんでくださるよう、主に願わなければなりません。この試練が克服されたとき、彼らが何も変えることなく以前と同じ生き方をすることのないよう、祈ってください。感染症はいつも、ぬるま湯に浸かった人たちを、宗教を守り、天主のことを思い、罪を憎むよう導いてきました。私たちには、同胞である全ての市民に、例外なく、とりわけ、信仰の精神に欠け、もはや天主のご意志を汲み取ることのできない司牧者たちにも、この恩寵を主に願う義務があります。

落胆しないようにしましょう。天主は決して私たちをお見捨てにはなりません。私たちの聖なる母である教会が、感染症の時、司祭に唱えさせる言葉を、全面的な信頼をもって黙想しましょう。「罪びとの死を望み給わず、罪びとの回心を望み給う天主よ、御身に立ち返る御民に御あわれみをもって御顔を向け給え。彼らが御身に奉献されているがゆえに、御あわれみをもって御怒りの鞭より彼らを救い給え」。

私は、祭壇で皆様すべてのために祈り、皆様すべてを聖ヨゼフの父なるご保護のもとに置きます。皆様に天主の祝福がありますように!

ダヴィデ・パリャラーニ神父+

(Source : MG - FSSPX.Actualités - 17/03/2020)

 

 

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聖伝のミサに与るときのお願い:新型コロナウイルス対策:会場内で信者同士の立ち話を避けてください

2020年03月20日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでしょうか。昨今の新型コロナウイルスが一刻も早く終息しますように、引き続き憐れみ深き全能の天主に祈りましょう。

カトリックの教えによると、私たちには祈りとともに賢明さも必要です。さもなければ天主を試みることになってしまうからです。そこで、私たちのできる限り賢くコロナウイルス対策もしていかなければなりません。

さて、新型コロナウイルスの対策について話し合う政府の専門家会議が3月19日、新たな提言を取りまとめました。その提言に従って、私たちも、これまで行っているコロナウイルス対策(高齢者や持病のある方はミサへの参列を遠慮して頂く、会場の換気を行う、連絡先を確保する、等)に加えて、更なる対策をとるのが適当であると思います。

そこでこれまでの通り、次を引き続きお願いいたします。

- 高齢者や持病のある方は、ミサに参加せずにご自宅でロザリオを唱えるなどして、主日を聖化してくださるようにお願いいたします。
- 高齢者や持病のある方に接する機会のある職業や家庭の方も、同様にミサに参加せずにご自宅でロザリオを唱えるなどして、主日を聖化してくださるようにお願いいたします。
- 高齢者ではなくとも、お体の具合の悪い方は、ミサには参加せずにご自宅でロザリオなどのお祈りをお願いいたします。
- 過去2週間以内に発熱やかぜ症状のあった方も、同様にお願いいたします。

さて、専門家によれば、「3つの条件が同時に重なる場所や場面」を避けることが重要です。
3つの条件とは、
(1)換気が悪い密閉空間、
(2)人が密集している、
(3)近距離での会話や発声
以上の3点です。

 昨日の専門家の提言によると、「イベントそのものがリスクの低い場で行われたとしても、イベントの前後で人々が交流する機会を制限できない場合には、急速な感染拡大のリスクを高めます」とのことです。

今週末からはさらに、ミサ会場におけるクラスター感染発生リスクの高い状況の回避のため、以下の新しい3つの対策をとりたいと思います。

1. ミサの始まる前後(特にミサの終わった後)、会場内で信者同士が立ち話をしないようにする【(3)近距離での会話や発声を避けるため】

ミサの準備や後片付けに必要な会話を除いて、ミサの前後の立ち話については、その形態からみれば専門家会議が集団感染のリスクが高いと指摘する懇親会や立食式パーティーに類似したものになってしまいますので、是非とも避けるようにしなくてはなりません。

そのため、ミサの始まる前や終わった後に、会場内で信者同士の立ち話をしないよう、お願いいたします。

2. 歌ミサによる感染のリスクを低減するための対策

集団感染の発生リスクについては、換気についてもあたかも野外ミサであるかのように換気を行い、最大限の努力をつづけます。

それでも残るかもしれないリスク、つまり「近距離での会話や発声」という第3の要素を低減することが重要であると思います。この第3の要素をできるだけ低減する方策として、従来の歌ミサに一定の制限をかけることを考えています。

(1) ロザリオ、「ミサの後の祈り」、Angelusについては、先唱者のみが大きな声で唱え、他の信者は小声で、もしくは心の中で唱えるものとする。

(2) 聖歌や「Amen」、「Et cum spiritu tuo」、「sed libera nos a malo」、「Domine non sum dignus」等の応答などについて、聖歌隊のみが行い、信者は声を出して歌わない。

(3) ミサ中、信者はその他の場面でも声を出さないように務める。

(4) 聖歌隊は、信者との間に必要な距離をとった場所で歌うこととする(聖歌隊の前のすぐ近くに信者が座らないようにする)。

3. 会場に入る際の手洗いの実施

石けんでの手洗いは、ウイルスの殺菌に高い効果があるとされています。ミサの会場に到着されましたら、移動の途中で拾ってくるかもしれないウイルスをまず手洗いで洗い落とすということをお願いいたします。専門家も「せきエチケットや手洗いなど基本的な感染症対策の徹底」を勧めており、私たちもそれの実践をお願いしたいと思います。

また四旬節ですから暴飲暴食を避けることはもちろん、賢明に「バランスのとれた食事、適度な運動、休養・睡眠などで抵抗力を高めていくことも心がけて」くださるようにお願いいたします。

もしも私たちができるだけのことをする限り、憐れみ深い天主は私たちを守ってくださると信じております。

聖母よ、我らのために祈り給え!
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父

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聖ピオ十世会総長の友人と恩人へ皆様への手紙第89号

2020年03月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖ピオ十世会総長の友人と恩人へ皆様への手紙第89号





聖ピオ十世会総長の友人と恩人へ皆様への手紙第89号
2020年2月29日

愛する信者、友人、恩人の皆様、

長い間、私は皆様にどれほどこの言葉をお送りしたかったことでしょうか。私たちは現在、二つの非常に重要な記念日の間におります。一つは、五十年前、新ミサが公布され、それとともに、キリスト教生活についての新しい考え方、いわゆる現代の挑戦に適用した考え方が、信者に押し付けられた記念日です。もう一つは、今年、私たちが聖ピオ十世司祭会の創立五十周年を祝っている記念日です。言うまでもなく、この二つの記念日は非常に密接な関係を持っています。なぜなら、一つ目の出来事に対して、それに釣り合う対応が必要となったからです。

私が皆様に申し上げたいのはこの点についてです。それは、今日の私たちにとって価値ある結論をいくつか引き出すためです。

しかし、まず第一に、私は時をもっとさかのぼりたいと思います。なぜなら、五十年前に公に明らかになったこの対立は、実際には、私たちの主イエズス・キリストの公生活のときに始まっていたからです。

実際、私たちの主が、ご受難の一年前、カファルナウムで主のみ言葉を聞いていた使徒たちと群衆に、ミサおよびご聖体という偉大なる賜物のことを最初に告知なさったとき、主から離れていった人々がいる一方で、その他の人々はさらに激しく主に愛着を見せるようになりました。これは確かに矛盾していますが、最初の「離教」を引き起こし、同時に使徒たちが私たちの主イエズス・キリストというお方に決定的に従属するのに拍車をかけたのは、ご聖体という考えそのものだったのです。

聖ヨハネは、次のように私たちの主のみ言葉とそれを聞いた人々の反応を報告しています。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から下ったパンである。先祖はマンナを食べても死んだが、このパンを食べる者は永遠に生きる。イエズスがこう教えられたのは、カファルナウムの会堂でのことだった。そのとき、弟子たちのほとんどがそれを聞いていて、『むずかしい話だ、そんな話に耳が貸せようか』と言った。・・・そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった」(ヨハネ6章57-61、67節)。

続けて登場する三つの疑問に、一つずつ答えてみましょう。(1)なぜユダヤ人たちはつまずいたのでしょうか、また彼らはそれ以降、何を拒否したのでしょうか?(2)次に、現代のキリスト教徒は何を拒否しているのでしょうか?(3)私たちも、この同じ長年にわたる誤謬に陥らないためには、何をしなければならないでしょうか?

* * *

福音が私たちに教えているのは、ユダヤ人たちは、どのようにして私たちの主がご自分の肉を食べさせるためにそれを彼らにお与えになることができるのかが理解できなかったためにつまずいた、ということです。主はこの困難に直面して、彼らに理性的にもっと分かりやすい説明をなさるのではなく、さらに強い調子で、数回にわたって、永遠のいのちを得るためには、ご自分の肉を食べ、ご自分の血を飲む必要があると再確認なさいました。実際、ユダヤ人たちが目撃したばかりの奇蹟(ヨハネ6章5-14節参照)があったにもかかわらず、彼らにかけていたものは、私たちの主によって指導を受けるのを許すための準備と確信でした。一言で言えば、天の御父が、霊魂を救いの神秘にお導きになるための信仰が彼らには欠けていたのです。「私を遣わし給うた父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠のいのちを受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである」(ヨハネ6章40節)。そうすることによって、ユダヤ人たちは、一年後に決定的に拒絶することになるものをすでに拒絶していたのです。ユダヤ人たちは十字架のいけにえを拒絶することになるのですが、聖なるミサはこのいけにえの継続でありご聖体はその実なのです。前もって、ユダヤ人たちは、信仰の目がなければ理解できなくなる十字架の経綸を拒絶しました。ちょうどご聖体を告知した私たちの主のみ言葉が彼らをつまずかせたように、彼らにとって、十字架がつまずきとなることになるのです。ここで私たちには、同じ「つまずき」が二つ起こったことが分かります。実際、十字架を愛さないならば、ご聖体を愛することはできませんし、ご聖体を愛さないならば、十字架を愛することはできません。

* * *

次に、現代のキリスト教徒は何を拒否しているのしょうか? 彼もまた、自分のための十字架の経綸を受け入れることを拒否しています。彼は、祭壇上で更新される私たちの主イエズス・キリストのいけにえと一体になる【訳者:自分の苦しみを逃げずに、キリストの十字架と合わせて受け入れて捧げること】ことも拒否しています。そうすることを見通すだけで、現代、再び彼をつまずかせています。彼は、天主が一体どうして、彼にそのようなことをお求めになりうるかを理解しません。なぜなら、父なる天主がどのようにして私たちの主に十字架上で死ぬことをお求めになることができたのかが、彼にはもはや理解することができないからです。

このようにして、キリスト教生活についての彼の考えは、回復できないほど変わっているのです。彼はもはや、キリストの苦しみの欠けたところ(コロサイ1章24節参照)を、自分の苦しみで満たすという考え方を受け入れることはできません。ですから、徐々に、十字架の精神はこの世の精神によって置き換えられているのです。

十字架の凱旋を見たいという深淵な望みは、もっと良いこの世を見たい、生態系を尊重し人間性をもっと尊重したもっと住みよい地球を見たいというあいまいな望みへと道を譲っています。しかしどのような目的に向かうのか、どのような手段によるのかを本当に知らないまま、です。ですから現代のキリスト者の特徴的なこの新しい見解には意味がなく、彼らを無関心へと導くとき、全教会、つまり位階階級と平信徒から成る全教会は、その存在理由を失ってしまい、深い危機へと入り込み、その時、この世における新たな使命を自らに与えようと必死に探し求めるのです。

なぜなら、十字架を通して十字架の凱旋だけを求めるという自分の使命を捨ててしまったからです。このキリスト教徒の生き方についての新しい概念および教会についての新しい考えにおいては、十字架自体がもはや居場所を持っていないがゆえに、ミサの聖なるいけにえも、もはやその居場所を持たなくなるのは避けられません。従って、永遠のいのちを得るために人間が食し飲まねばならないとされているイエズス・キリストの御体と御血は、新しい意味を持ちはじめてしまいます。

新ミサとは、新しい典礼様式だけのことではなく、十字架に対して不忠実であることの最後の表現です。私たちの主御自らがユダヤ人に説教なさったままの十字架、また使徒たちが初代教会に説教したままの十字架、この十字架に対する不忠実です。ここに、最近五十年の教会の歴史を解釈するのに鍵となるもの、二千年間にわたって教会を脅かしてきた大多数の誤謬の鍵となるものがあります。

* * *

ですから、十字架の精神とご聖体に対する無条件の愛を維持するために、2020年に、私たちは何を行わなければならないでしょうか? 遅かれ早かれ、ユダヤ人をして私たちの主から離れさせたのと同じ試みが、何らかの形で私たちのところにやって来るでしょう。そのとき私たちの主は、主が使徒たちになさったのと同じ次の質問を私たちにお尋ねになるでしょう。「あなたたちも去っていきたいか?」(ヨハネ6章68節)。それゆえに、私たちは、聖ペトロとともに「主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉を有しておられます。また私たちはあなたがキリスト、天主の御子であると信じていますし、知っています」(ヨハネ6章69-70節)と常にお答えする準備をいかにしてすることができるでしょうか?

この根本的な問いに対する答えは、ミサの聖なるいけにえにまことに参与することにあり、またご聖体を中心とする生活様式にあります。聖なるミサは、私たちが十字架の神秘に入り込むほどに、私たちの霊魂に新しいいのちをもたらし、いけにえに対する私たちの信仰を表現する典礼に参列することによってだけでなく、いけにえの中に私たち自身を入らせることによっても、その新しいいのちを私たちのものにしてくれます。それは、このいけにえが完全に私たちの主のいけにえにとどまりながらも、完全に私たちのいけにえとなるという方法によってです。

これを成し遂げるために、私たち自身を私たちの主にお捧げするために、何よりもまず、十字架の意味する結論すべてを含めて真剣に十字架を受け入れることが必要です。それは、すべてのものから自分自身を離脱させるか否かということです。この離脱は、私たちの主イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストを通じて、まことにすべてをお捧げすることができるようにするためです。お捧げするものとは、私たちの自我、私たちの意志、私たちの心、私たちの願い、私たちの大望、私たちの愛情・・・一言で言えば、私たちが在る全てそのまま、私たちの持てる全てそのまま、私たちの失意さえもです。

こういった心構えが前もってあれば、御子がご自身を御父にお捧げになるとき、私たちもまた御子のうちにいるのです。なぜなら、十字架は私たちをして御子に一致させ、私たちの意志を御子のご意志と一つにさせるからです。このようにして、御子と共に、私たちは御父に対していつでも捧げられる準備が整っていることになるのです。もし私たちが主と一つになるように一致していないならば、私たちは本当に自分自身を御父にお捧げすることはできません。

私たち自身をお捧げすることが大いなる価値を得るのは、天主のいけにえとのこの一致を通してのみなのです。また、ミサの聖なるいけにえの間にのみ、そしてミサの聖なるいけにえを通してのみ、これは実現されうるのです。

私たち自身を捧げつくして初めて、この捧げが一つ一つのミサにおいて更新されて初めて、交換として、全てを受ける、つまり聖なるいけにえの実りであるご聖体を受けることができるのです。御聖体において御子はご自分をお捧げになり、また、私たちは御子とともに自分自身をお捧げするのです。ご聖体は私たちを清め、私たちにこの世への嫌悪を増大させ、私たちを聖化します。これは、この変容のための前提条件である徹底的な自己放棄に対して、私たちが抵抗しないならば、の話です。

これがミサの聖なるいけにえが何かであり、こういう訳で私たちはその価値を毎日再発見しなければならないのです。五十年後、私たちは、全時代の聖なるミサを通じて受けた、そして受け続けている恩寵のすばらしさをもっともっと再発見しなければなりません。

このことは矛盾しているように思えます。一方で、ミサの聖なるいけにえは、私たちにとって、私たちが努力を惜しみ制限してはならない戦いの対象として常にあり続けています。他方では、ミサの聖なるいけにえが私たちの霊魂の中にもたらしている大きな変化が、私たちの主だけがつくることのできる言い表せない平和を生み出しています。

事実、私たちの主を受け、主を通して生きる人は、他のすべての欲望を徐々に失っていきます。結局、その人は、自分自身のいのちを含めて、何かを失うことをもはや恐れないのです。その結果、その人の霊魂には、天主の聖なるご意志に一致しないものは残らないのです。

こうして、「古い人」と「新しい人」の間の戦いからやって来る平素の不安は、もはや聖なるミサとご聖体によって変えられた霊魂に触れることはありません。この霊魂は平和のうちに生きており、聖体拝領によって平和を与えられているのです。「私はあなたたちに平和を残し、私の平和を与える。私はこの世が与えるようにしてそれを与えるのではない」(ヨハネ14章27節)。

聖体拝領もまた私たちを変え、特に聖体拝領が私たちの主とともにつくり出すきずなによって、私たちを変えるのです。実際、すべての聖性と霊的ないのちは、主とのこの親密な一致に要約されます。この一致を目的としないものは全て、くだらない空しいおしゃべり以外の何物でもありません。

究極的には、これだけが主にとって重要なものであり、これこそ主がご自分の教会を創立なさった理由です。主は唯一のことを期待なさっています。それは、この一致が、永遠において完全にかつ不滅であることです。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私とともにいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。

ご聖体を通して、主はすでにこのきずなを開始しておられ、主は私たちに永遠のための準備をさせておられるのです。ご聖体は、永遠のいのちの保障であり、永遠のいのちがすでにここ地上で始まる手段です。必要な心構えをもってご聖体を受ける人は誰であれ、永遠のいのちの種が聖体拝領に隠されているということがよく分かるでしょう。私たちのうちに希望の徳を成長させるのは、聖体拝領なのです。一回一回の聖体拝領は、私たちのうちに永遠のいのちへの望みを増大させ、毎回少しずつ私たちを天国につなぎ止めてくれます。永遠とは、事実、決して終わることのない私たちの主との一致です。なぜなら、主は、最終的に永遠に至るまで、全面的かつ完全に私たちの霊魂を満たしてくださるからです。永遠とは、長くて終わりのない復活祭であり、そのとき主は、主が御復活の日になさったように、もう一度主の栄光を公に見せてくださるでしょう。そして、私たちを仲間として主の喜びと栄光を共にさせてくださるのです。それにもかかわらず、この私たちを仲間として主の喜びと栄光を共にさせてくださることは、今は隠されていても、私たちがご聖体に隠れておられるイエズス・キリストと一致することを通して始まるのです。

私たちは、このすべてによって生きなければなりません。私たちは、聖なるミサおよびご聖体へのこの愛を自分にしみ込ませなければなりません。私たちは、それを他人に、特に若者たちに伝えなければなりません。なぜなら、若者たちはしばしば、自分が私たちの主とこの世との間で恐るべき選択を迫られているのに気付いていますから。若者たちが年長者たちの中にご聖体への無条件の愛を見ることができるのならば、若者たちは私たちの主を選ぶように準備されるでしょう。ご聖体への愛は、神学の授業や教義を通してでは伝えることができません。そうではなく、そのような理想に全く夢中になった、まことのキリスト教生活によってのみ伝えられるのです。

ミサの聖なるいけにえは、多くの不信仰の人々が私たちを非難するような単なる典礼様式、私たちが愛着を持っている典礼様式をはるかに超えたものです。聖なるミサは私たちのいのちです。なぜなら、イエズスが私たちのいのちであるからです! 私たちは、すべてを求めて主を頼りにするのであって、主以外のものを頼りにすることは決してありません。ですから、私たちが主から期待するすべてのもの、それを、私たちはご聖体のうちに毎日確実に見いだしているのです。「いのちのパンとは私のことだ。私に来る者はもう飢えることがなく、私を信じる者はいつまでも渇きを知らぬだろう」(ヨハネ6章35節)

このようにして、私たちは、十字架の精神を維持するために、常に霊魂を若返らせなければなりません。十字架の精神は、同時に、償いと喜びの精神であり、苦業といのちの精神であり、この世を軽んじつつご聖体を愛する精神です。このようにして、私たちは復活祭の準備をしなければなりません。この復活祭を私たちは何週間後かにお祝いしますが、さらにまた何にもまして、私たちは永遠において復活祭をお祝いすることでしょう。

皆様に天主様の祝福がありますように!
2020年3月1日、四旬節第一主日にメンツィンゲンにて
聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父

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