Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

お祈りのお願い

2011年09月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の10月27日は、アシジの諸宗教の祈祷集会があります。そのようなことが起こらないようにお祈りをお願いいたします。また10月27日には祈りと断食と償いの1日を過ごして下さるようにお願いいたします。


 また、私事ですが、ブラザーたちと今週の水曜日21日からイロイロで黙想会に入ります。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。マニラには30日に戻ります。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

胡美玉さんの《樂在苦中》 第13章 尋問

2011年09月18日 | カトリックとは
第13章 尋問

 私はあらゆる苦しみを経験してきましたが、最も息苦しく耐え難いと感じたのは尋問の苦しみでした。共産党は人々に弁護士を持つこと禁じただけでなく、尋問をも邪悪なトリックや囚人への心理的な拷問へと変えたのでした。

 共産主義は無神論者です。彼らはあらゆる機会や出来事において、道徳の原則に縛られてはいませんでした。彼らは制限を受けず、しかも自分たちの目標を達成するためにあらゆる手段を用いていました。囚人の書面または口頭による自白を得るために、ある囚人は頭のめまいと目がかすむような強いライトの下で検査され、またある囚人は長くて退屈な説教をされました。取調べ人は当番や交代がありましたが、その間囚人は手錠をかけられつつ真っ直ぐ座ることを要求されました。囚人が少しでも抵抗を示した場合、直ぐに後ろの手錠で罰を受ける可能性がありました。

 私の場合、投獄された8ヶ月の間、120回尋問され、それは全カトリック教徒の囚人の中で最多でした。尋問は時には午前中であり、時には真夜中にも行われました。刑務所の守衛が私の囚人番号を書いた銅のプレートを地面に置いて、「1138、出てこい」というのを聞いた時、私はすぐに前に出て尋問室に行かなければなりませんでした。それはまるで逆らう事の出来ない軍の命令のようでした。後に、私は自分の試練には2つの理由があることに気が付きました。

 私と一緒に投獄された何人かの教区の信者と修道女は、私を気の毒に思っていました。彼らは言いました。「なぜ彼らは彼女に非常に多くの尋問をするのだろう?いったい彼らは何を恐れて学生である彼女を拷問するのだろうか?」 公安機関が何故私に非常に興味を持っていたのかが、私には解りませんでした。どうして彼らは単に私に刑罰を与えるのではなく、日夜の拷問で苦しめたのでしょう?

 先ず、共産主義者の目には、私は堕落していた人々に属していました。ところが、私はカトリック教徒となって僅か6年間だけであったので、彼らは私を共産党の仲間になるように強要することが出来ると信じていました。その上、、私は大学生で私の家族は皆異教徒でした。彼らの言葉によれば、私が「改心」する理由は多かったのです。率直に言いいますと、共産主義者は私を逮捕することを望んではおらず、また、刑罰を与えることすら望んでいませんでした。彼らは単に私を彼らの卑屈なおべっか使いか追従者にしたかったのです。この目的のために、彼らはあらゆる種類の方法を思い付き、何度も私を屈服させるためにあらゆる物を試しました。

 次に、私と一緒にいた若い大学生のほとんどはすでに降参していました。罰を軽くするためと自分自身が信用を得るために、彼らは情報を提供する必要がありました。私は大きな獲物であり、彼らは自分たちの功績のために私を利用することが出来たのです。取調べ人は、常にそういう人々から私についての情報をたくさん得ることが出来ました。彼ら共産主義者によれば、この情報は私と一緒に照合しなければなりませんでした。それは、私に対して成された全ての告発を認めざるを得ないことを意味しました。

 これらの尋問中、私はいつも自分の口をぎゅっと閉じて、黙ったままでした。また、私はどんな表情をも見せませんでした。私は自分のことを報告したカトリック教徒を気の毒に思いました。彼らのある者は事実を誇張し、全ての容疑から身の潔白を証明するために、私にその責任を押し付けました。彼らは自分たちのカトリック信仰を放棄しないだろうと言っていましたが、彼らはいわゆる「自由」と引き換えに私の不幸を利用したのです。もし、天主様の御恵みがなければ、私はおそらく共産主義者の絶え間ない尋問に発狂してしまったことでしょう。

 これらの試練の間、私は死んでいたかのように見えましたが、心の中は怒りの思いに満ちていました。私は魔法瓶のようでした。外側は冷たく感じましたが、内側は熱く沸騰していました。あのような非人道的かつ屈辱的な方法で扱われたら、どうして人は冷静なままでいられるでしょう?しかし、もし私が主張した議論したりしていたならば、眠くなって自身の判断する能力を失い、おそらく口にすべきでないことを言うことになり、その結果として他人を巻き込んでしまったかもしれません。何が起きようとも、私は自分が刑務所に入れられた後、自分の口を閉ざし続けることを考えていました。たた、私の天主様が自分の十字架がどんなに重いかをご存じでした。尋問から自分の牢獄に戻る度に、私は汗でびっしょりでした。心体の両方に対する拷問で私の心は破れ、その苦しみは筆舌に尽くしがたい物でした。

 試練に次ぐ試練で、彼らは私がソフトなアプローチに屈服するだろうと考えたので、私がすべての若者の中で最も有能で賢い女の子だと称賛し、また私が甘い花のようだと誇張し始めました。彼らの行動は不愉快で、それらのお世辞の言葉は全く恥知らずでした。前はゴミよりも悪いと非難され、こき下ろされましたが、今度はこのようなお世辞で賞賛されたのです。それは明らかに単なる劇の筋書きに過ぎませんでした。私は彼らのどんな言葉も、あまり気にしないようにしました。

 数日後、私の古い友人の何人かが私を訪れました。共産主義者に直面したとき、彼らは全員降伏してしまいました。彼らが私に言ったことから、非常によくその企みを知りました。彼らはそれぞれ共産主義者の理論をおうむ返しに言いました「私たちは皆、はっきりと自分たちの罪を認識し、それに説明を与えている。私たちはそうしても、全く自分たちの信仰と矛盾しなかった。今、私たちの心がどんなに平安か見ればいい。多くの司教も同じことをしたし、彼らに出来るのならば、なぜ私たちには出来ないというのだろう?あなた母はとあなたと姉の2人のために沢山苦しみ、泣き明かして目はほとんど盲目だ。神は私たちの両親を愛することを望んでいる。なぜあなたはこの命令に従わないのか?優れた人はその時間の波に乗り、流れに従う方法を知っている」私はこれ以上彼らに耳を傾けることを望まなかったので、こう答えました。「私はすべての物よりも天主様を愛し、そしてすべてを天主様において愛します。もし、誰もが時間の波に応じて浮草のように流れに従うならばどうなるでしょう。そして、どうしてあれほど非常に多くの殉教者がローマの300年間の迫害にいたのでしょうか?残念ですが、私たちは同じ道を進んではいませんし、一緒になることも出来ません。あなたたちは広い道を歩きますが、私は代わりに一本の丸木橋を歩くことを選びます」

 交通大学の俞玉成氏は、容赦なく私を訓戒し続けました。「君はあまりにもに単純だ、美玉。今は非常にしっかりと耐えることが出来ると思っているが、これは1日や1年間の問題じゃない。もし、刑罰を下されて労改農場に送られれば、君はあらゆる種類の虐待を受けるかもしれない。君は家族に甘やかされた娘だ。そんな虐待に耐えられるかい?その時になったら、そこから抜け出す方法を見つけるのは難しいだろう。自分が全生涯苦しむことに耐えられる人はほんのわずかだ。君は新米のカトリックに過ぎない。君は自分が最後まで信仰を保つのに十分な強さを持っていると思うかい?僕の考えでは、もし君が変わろうとするのならば早い方がいい。そうすれば、君は政府から友好的な配慮を得ることが出来るだけでなく、あらゆる種類の有利な扱いを受けるろう」

 私は自分の牢屋に戻ってから、彼の本当の「実用的な哲学」について考え、そして彼は天主様の力について一言も言及しなかったことがわかりました。私の未来は天主様の掌中にありました。私がどのくらい生きられるかは知りませんでしたが、私がこの将来が天主様の手に握られていると主張出来なかったら、今は躓いていたでしょう。彼らは私に望んだことは、この人生の見通しを追求し、それを諦めることでした。私はすでにこの刑務所に来ているのだから、前進し続けて後退は決してしないと決心しました。

 二日後、私がよく知らない陳天宝という名前の広東人の司祭がやって来ました。私は人から彼は過激派で修道女と結婚していたと知らされました。どうしてこのような司祭を信頼出来るでしょう?彼は私を見ると勿体ぶった態度で言いました。「私は神父です。あなたがしなければならないことは、恐れることなく自白を書き、そして私に神の御座の前に責任を負わせるようにすることです。龔品梅(上海の司教)は若者たちに明確な説明を行っていないから非難されているのです。実のところ、レジオ・マリエとして登録することと、龔品梅が反革命分子であると認めることは全く信仰とは矛盾しません」

 私はこの人が友人として来ていないことが分かりました。ですから、私は簡単かつ率直に彼に答えました。「龔司教様は私達と逮捕されました。そして、これは彼が自分の言ったことを実行したことを示しています。いわゆる司祭であるあなたに関して言えば、路上で偽物を売るユダヤ人と同様に虚勢を張ったり、空威張りをするだけです。私はあなたと一緒に行くことはありません。あなたが私のために責任を負うと言った時、私は誰があなたの行動に対して責任を負うのかと思いました。天主様の玉座の前に立つ時は、もう後悔するには遅すぎるでしょう」彼は繰り返し答えていいました。「胡美玉、あなたは非常に悪辣だ。あまりにも悪辣でつける薬はありません」

 共産主義者の最後の切り札は、その時60歳を超えていた私の年老いた母でした。私が逮捕されて以来、母は食べ物や水をあまり取ろうともせず、毎日私に面会するために刑務所に来ました。最初、警察は陰険で、娘は自分の犯罪で刑罰を受けるのに相応しいのだから、何もないところから災いを引き起こすことはないと彼女に警告しました。しかし、母は刑務所に来続けて何時間もそこに座り、「娘と一緒に刑務所に入れて」と彼らに懇願しました。おそらく彼らは母がまだカトリック教徒ではないことを知っていたので、彼らは数日後にこう言いました。「今日、あなたの娘に面会することに同意し、何か食べさせるものを持ってくることが出来るが、彼女が罪を認めるように促さなければならない」母は大喜びしましたがまた単純でもありました。母は一緒に来ていたばあやに、バターマロンケーキと何個かの豚まんを買うように頼みました。

 その日、看守は再び扉の前で「1138、出ろ」と呼び出しました。私は取調室までついていき、母とばあやの2人が手に2つの箱を持っているのを見ました。私が最後に華東大学で母を見た9月3日から何ヶ月も経っていました。この小さな別れは永遠のように感じました。今、私たちが再会したことで、複雑な感情が私たちの心に生じました。それは、イエズス様とマリア様の2人の御心が、大声で泣き叫ぶことなく言語に絶する苦痛を受けた十字架の道行の第四留と全く同じようでした。涙は時にはこの世で最も強い悲しみを表現することは出来ないのです。

 私のママはひどくやつれたように見え、目は真っ赤でした。彼女は衰弱しており、しっかりと立つことが出来ませんでした。刑務所では、私はひどく悩まされました。私の高度の近視の眼鏡は取り上げられ、全身は腫れて顔は青白く見えたので、私の外見は大きく変わっていました。彼女は私を見たとき、私のママは声を出して叫びました。 「なぜ私のかわいい娘がこんな風になったの?」 そこで、ばあやは言いました。「ここにあなたの好きな豚まんがありますよ」ママは続けました。「彼らは今日私たちに特別な好意を寄せてくれました。私たちがあなたのためにいくつかの物を買うために許可したから、バターマロンケーキも持ってきたのよ」

 私は空腹でしたので食べるのを待つことが出来ず、すぐに熱くてジューシーな豚まんを手にしました。ああ、とてもいい匂い!牢獄の中では長い間十分な食べ物を食べたことが無く、いったん自分の好物を手にすると、すぐに口に入れたいと思いました。しかし、最初の一口を食べようとした時、それを食べないようにと自分に言い聞かせました。私は悪魔に欺かれてはなりません。ちょうど、私たちの主イエズス様が砂漠で40日間断食し、悪魔に誘惑されたことを考えました。イエズス様は厳しく言われました。「人はパンのみで生きるには非ず 」他の囚人の身内の者が出来なかったのに、なぜ共産主義者は母が私のために食べ物を買うことを許可したのでしょう?それは、彼らが不純な動機を持っていたためでした。もし、今日この豚まんを食べたら、明日はチャーシューまんを食べ、しばらくしたら私は長い間続くるかもしれない苦難の試練に耐えることが出来ないでしょう。それから、私は自分の信仰を進んで棄てるでしょう。ですから、私はこの豚まんやマロンケーキを食べることが出来ませんでした。たとえ私の口が食べ物のことで涎でいっぱいになったとしても、そして飢えなければならなかったとしても、私は人間の本性のこの側面を制御する必要があります。

 この誘惑に抵抗する御恵みを下さった天主様に感謝。しかし、母が私に持って来た食べ物を食べないために母の心を痛めてしまったので、私は母に言いました。「今私はすでに刑務所にいるのだから、あなたが私に食べ物を持って来ることを期待してはいけません。私は独り立ちして単独でこの刑務所内であらゆるものに直面しなければなりません。そうでなければ、私に食べ物を持って来るのを毎日待つことになるでしょう。そしてその結果、彼らは私を脅すためにこの弱点を利用するかもしれません。だから、私が降参するまでは再び私に食べ物を持って来るのは止めて。 お母さん、ダムにはどんな穴もあってはいけないはずです。どんな小さな穴でもダムの決壊を引き起こすのだから」母はあまり私の言葉を理解していなかったにもかかわらず、共産主義者が何をするにもその目的を持っていたことを知っていました。もし、人が罠にかからなったら、彼らは何も出来ませんでした。逆に、もし人が罠にかかったとしたら、彼らはそう簡単にはその人を離そうとはしません。

 母は泣き叫びながら刑務所の外に出て行きました。彼女が立ち去る時の弱々しい背中と白髪を見つめることしか私には出来ませんでした。母は何度も何度も私を振り返って立ち止まり、涙にむせびながら言いました。「美玉、お母さんはあなたを心配せずにはいられないし、あなたを手放すことは出来ません!」私が痛みを伴う瞑想に沈んでいたちょうどその時、看守は怒鳴りました。「美玉、刑務所に戻れ!おまえは精神に異常がある、刑務所で生活するために良い生活を諦め、しかも米のお粥を食べて豚まんを拒否した。おまえは本当に深刻な精神障害を持っている」

 私が独房に戻った時、私は静かに考え始めました。私は自分自身を引き渡すべきでしょうか?そうすることは、実際に降伏と裏切りを意味しました。私は看守から紙とペンを求め、そしてその問題に議論を限定しようというつもりでした。それにもかかわらずどういううわけか、ペンを上げるたびに私の心は数千匹の昆虫にかまれていたように感じました。たとえ私が真実をほんの少し明らかにした場合でも、共産主義者は確実に全てを検証しようとしたでしょう。それは「単にレジオ・マリエのメンバーが反逆者であることを認めればそれでいい」と彼らが求めるようなものではなかったのです。

「誰も2人の主人に兼ね仕えることはできない」この世のすべての物の考えは真実に反します。私はイエズス様に従う必要があり、私が平和に良心を保てる唯一の方法は、カルワリオの丘までの自分の道を歩いていくことでした。もし私がそうしなかったら、刑務所から解放された後、私はおそらく本当に精神的に病気になっていたでしょう。結局、人は互いに相異なる物の両方を保ち続けることは出来ないのです。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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