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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世の祝日、おめでとうございます

2011年09月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ピオ十世の祝日のお慶びを申し上げます。

 本当はブログに書きたいことは沢山ありますが、時間が許してくれません。

 最近、藻谷浩介著「デフレの正体」を読んでいます。とても面白い作品です。

 日本は国際競争には勝っているけれど、それとは全く無関係に「病気」が進んでいる、内需の縮小である、自動車の国内の新車販売台数も、小売り販売額も、国内輸送量も、一人当り水道水使用量も、国内の書籍・雑誌の合計売り上げも、国内の酒類販売量も、地方格差ではなく日本中が内需不振なのです。何故なら、生産年齢人口がものすごいペースで減少しているからです。総人口の減少よりも、生産年齢人口の減少の方がよほど急だからです。

昨年の11月20日号のエコノミスト誌の日本特集にあった、日本全体の「夕張化」です。

日本の本当の問題は、電気不足というよりは、生まれて来る赤ちゃんの不足なのです。

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第5章 我が家のサウロはパウロとなった

2011年09月03日 | カトリックとは
第5章 我が家のサウロはパウロとなった

 私たちの教会で最初の殉教者である聖ステファノが石打ちの刑にされたとき、サウロは彼を迫害した主要な人物でした。しかし、聖ステファノの死後長く経たないうちに、ダマスコに向かう途中で彼は神の特別な恩寵によって改心させられました。彼は殺戮のナイフを捨て、よく知られている使徒で偉大な聖人である聖パウロとなりました。

 1951年10月8日、中国共産党は公式にレジオ・マリエが反動組織であると宣言しました。全ての会員は登録するよう命じられました。私たちは国家や人々に対して何もしていなかったことを明確に知っていました。登録に行くことは、私たちの良心と信仰に対する共産主義者のいわれなき批判を認めることになります。しかし、共産主義者は非常に狡猾でした。彼らは公共の場で私たちを攻撃するだけでなく、しばしば私たちの最愛の人をも利用したのです。

 私はレジオ・マリエのために迫害されたとき。警察は私の両親を脅すために私たちの家にやって来ました。警察は彼らを日夜泣き明かすようにしました。このような状況の下で、私の両親と兄弟、特に4番目の兄は、私たちに多くの緊張をもたらしました。彼はいつも私たちに対して非常に冷酷でした。食事の度に、彼は私達が登録するよう強制し続けました。私は、なぜ兄がそうしたのか分かりました。

 まず、彼は自分が何をしていたか知りませんでした。単に、彼は非常に深く父を愛していたのであり、彼は父が私たちのためにとても苦しむのを見るのに忍びなかったのです。次に、彼は私たちを心配していました。もし、いつの日か私たちが逮捕された場合、私たちの家族に何が起こるでしょうか?

 日曜日に父は私たちが教会に行くことを禁じ、兄に私たちを見張るように言いました。そのことは私たちを非常に動揺させたので、私は心の底から彼を嫌いました。私は彼を非難し、彼と何度も口論をしました。私は、中国共産党の走狗だと彼を罵倒すらしました。彼は政府のために、ボランティアとして悪を行っていたのです。この政府は、カトリックの信者に対して、厳重な包囲網を敷いていました。その時、私の兄のような多くの無実の人々がいました。彼らは盲目と無意識の内に、私たちのカトリック教会を激しく迫害しました。彼らは実に、私たちの主が「彼らは何をしているかわからない」と仰せになられた通りでした。

 1951年の終わりに、父は4番目の兄に私達の寝室で本を調べるように命じました。父は、「この二人の娘は非常に頑固だ。遅かれ早かれ、警察は逮捕するだろう。共産主義に反対する本があるかどうか寝室に行って、本を調べなさい。もしあれば、それを取り上げるようにしなさい。さもなければ、より多くの罰を受けることになるだろう」と言いました。兄は父が彼に言ったことをやりました。彼は本を一冊ずつ読んで行きました。最後に、彼はマタイ陳神父様によって書かれた「マルクス主義と宗教」というタイトルの本を見つけました。彼はそれを読む間、詳細にメモを取りました。私は、彼がその本に対して何かあら捜しをしているのではないかと恐れていました。同じ日の夜、彼は非常に良い雰囲気で、私に話かけてきました。彼は、「陳神父様が書いた本は、僕にとって非常に有益だ。僕は司祭に話をしたいと思う。質問したいことがあるんだ」。私は答えました。「あなたが天主様を受け入れのならば、非常に歓迎すべきことです。もし、話をした後も受け入れることを望まないとしても、それは問題ではありません。でも、警察に全てを報告しないで。私はあなたが率直で誠実な人であることを願っています」この時、兄は誠実に私に説明し、「レジオ・マリエのことでおまえに反対していたのは、自分が異教徒だからで、僕はカトリック教会について何も知らない。僕はおまえを守るために、世俗的な位置に立っているだけだ。おまえの兄として、何の悪い意図も持っていない。もし、僕がおまえの気持ちを傷つけたのなら、許してくれ」。

 翌朝、私は自分の小教区の教会である「君主堂」に行きました。主任司祭であるザビエル朱樹徳神父様に会い、兄について何らかの話をしました。朱神父様は言いました。「天主様は、それぞれの霊魂を異なった方法でお導きになられます。あなたの兄は、私と一緒に話をしても構わないと思っているのですから、私はいつでも歓迎します。私は、過去の信仰に対する彼の態度がどうであったかは気にしません。あなたも知っての通り、サウロはパウロになりました」。それ以来、兄は一週間に二度朱神父様を訪問しました。彼は、聞きたい質問が沢山ありましたが、天主様の驚くべき恩寵が、彼の霊魂の上に注がれたのでした。

 1952年3月、彼は洗礼を受ける決心をしました。朱神父様は興奮のあまり、龔品梅司教様にそれを報告しました。司教様は非常に心を動かされたので、聖土曜日に私の小教区である君主堂において、荘厳な儀式で兄に洗礼を施すことに決めました。

 私は、ずっとその特別な夜の光景を覚えていることでしょう。そのことを考える度に、あらゆるものの詳細が、私の目前ではっきりと浮び上がります。午後4時頃、妹と私の2人は教会のロビーで待っていました。突然、一人の司祭がやって来ました。歩くのが余りにも早く、彼のカソックの2本のベルトがあたかも蝶のつがいのように風に漂っていたので、明らかに気分が高揚していると分かりました。彼はまた、「胡美珍は誰で、胡美玉は誰?」と非常に早口で聞きました。私は躊躇することなく立ち上り、妹を引き寄せて「私たちです」と言いました。この司祭は、暖かく私たちの手を取り、「おめでとう!あなたがたは最初の戦いに勝ちました。あなたがたの苦しみや涙は、私たちの教会を守ってきました。天主様は非常にあなたがたを祝福しています。あなた方の父と兄の洗礼は、天主様の真の贈り物です」。私はとても奇妙なことだと思いました。私たちは、彼の名前すら知らないのに、どうして彼は、私たちにこうも親しく出来るのでしょう。私たちは、目にいっぱい涙を浮かべ、何と言っていいか分かりませんでした。確かに、私たちは数ヶ月もの間、悩まされてきました。私たちは数え切れないほどの眠れぬ夜を過ごし、聖母の像の前で、何百回も私たちの仲介者となって下さる様にと跪きました。私たちが恐れていた最悪な事態は、裁判で聖母を裏切ることでした。

 私たちは、天の御母の手に私たちの弱さを委ねました。いつの日か逮捕されることは、恐ろしくはありませんでした。父がちょうど「レジオ・マリエ」のために死んだという事実は、真に天主様の恩寵でした。私たちは、聖母マリアに私たちが自分の信仰を無くさない様にと祈ったのを除けば、私たちに何が起ろうとも怖くはありませんでした。「最愛の御母よ、もし次の瞬間に第二のユダになるのでしたら、今天主様に私たちをお呼びになるようお頼み下さい」。

 張神父様は私たちの頬の涙を見て、私たちの肩をたたき、「私はマタイ張希斌神父。あなた方に会えてとてもうれしい。司教様は、式典後に個人的に話しかけるでしょう」と言いました。兄が洗礼を受けるために準備していたとき、彼はカトリック教会に対して行っていたことのために、とても申し訳なく思っていました。彼は聖アウグスティヌスを模倣したかったので、アウグスティヌスを自分の洗礼名にしました。式の間、兄は司教様自身が彼に洗礼を施すために来たことで、とても興奮していました。彼は非常に熱烈に、自分の手を携えたままでした。「私はサタンと彼の全ての働きを退けます。私はカトリックの信仰を受け入れます」という彼の言葉を聞き、私は泣き出しました。これ以上他に何が感動することがあるでしょうか!ほんの数ヶ月前、彼は私たちの教会に反対し、日夜盲目的に私達を攻撃しました。今、私たちは同じ群れにいるのです!なんと慈悲深い天主様でしょう!

 式典の後に龔品梅司教様は私たちと短い会話をし、私たちにいくつかのロザリオと御絵を与えて下さいました。最後に、司教様は私たちに、「あなた方は、天主様に感謝しなさい。多くの試練があなた方を待ち受けています。一歩一歩着実に歩まなければなりません。聖母マリア様に寄りすがりなさい。霊的な丘を登り続けるように」と仰いました。

 彼の洗礼の後、兄は毎日ミサに与り、聖体拝領をしました。彼は苦行を行い、過去の罪を痛悔してしばしば絶食しました。ザビエル朱神父様は、彼の霊的指導者を務めていました。彼は多くの教区の信者の前でアウグスティヌスを賞賛し続けました。 「アウグスティヌスは洗礼を受けたばかりですが、天主様の恩寵が彼にどのように働きかけるかを見て下さい。彼はこれほどまでに天主様を愛しています。"

 20世紀には、共産主義運動は延々と続きました。中国の状況はますます緊張していきました。父は香港に会社を持っていたので、私たちは出来るだけ早く香港に行くようにアウグスティヌスに促しましたが、彼は拒否しました。彼は私たちと一緒に暮らすと主張し、「自分はむしろ、海外に行くよりも一緒にここにいる」と言いました。私たちは彼に説明し、「私たちは国外に出る術はありませんが、あなたにはあります。あなたがそこに着いた後、父の会社で働くことができます。私たちが逮捕された場合、私たちを支援することができます。 なぜ私たち皆が、1本の樹にぶら下がろうとするのでしょうか?そうであれば、希望はありません」。最後に、朱神父様は、「アウグスティヌス、私たちの教会のため、そしてあなたの家族のためとあなた自身のために、行かなければなりません」と言いました。これを聞き、兄は躊躇することなく「私はあなたの言うことを行います」と言いながら、跪いて神父様に祝福を求めました。

 彼は香港にいた時、高い給料を貰っていませんでしたし、しかもほんの少しの金額しか自分一人の為に使いませんでした。彼は多くの食糧と医薬品を困っている人、特に神学生へと郵送しました。その時、蔡石方神父様(徐傢匯の教区司祭)は、兄の援助が無ければ、何人かの神学生は叙階されていなかったと語りました。1955年に私が刑務所に着くと、天主様の摂理により、私は兄から多くの食糧の小包を得ました。天主様に感謝!最愛の兄に感謝!

 彼は1965年に日本の大阪で心臓発作により、亡くなりました。香港と日本の多くのカトリック教徒は、彼は自分たちの中で傑出していたと褒め称えました。デオ・グラチアス!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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