先日の記事
「縁切り寺から明月院、そして高徳寺」(http://pub.ne.jp/tetujin/?daily_id=20091205)にて
明月院の円窓を
「1600年代に建造された桂離宮の月波楼が手本となっているのかもしれない」
と書いたのだが、それ以前に建てられたの円窓がある建物が見つかった。
長崎県長崎市にある黄檗宗崇福寺(おうばくしゅうそうふくじ)。黄檗宗では日本で最古の寺だ。
氷裂式組子の円窓が特徴のこの寺は、「長崎三福寺」(興福寺、福済寺、崇福寺)のひとつで、元和6年(1620)中国人がキリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る寺として創建されたものだ。本堂は中国工匠による黄檗様建築物と呼ばれる純粋な中国建築で、円窓は「日」と「月」を表象したものと言われる。
一方、円窓の通称である「吉野窓」の由来の二代目吉野太夫(慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日))。 彼女は京都の六条三筋町(後に嶋原に移転)「七人衆」の筆頭の太夫だ。また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓と言われる。つまり、安土桃山の世、京の都にその名をはせた遊女。黄檗宗崇福寺の建築年代とぴたりと合致する。
彼女は幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)と言った。14歳で太夫になるのだが、和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めた才色兼備の美少女だった。遊里という華やかな環境にありながら、彼女は万事に控えめで、化粧もわずかに唇に紅をひくのみ、それでも際立つ美貌だったと伝わる。
当時きっての文化人、本阿弥光悦や灰屋紹益などとも交流があり、『東に林羅山、西に吉野』とまで賞された。たしか、吉川英治の「宮本武蔵」にも彼女は登場する。。
彼女は女性としてのやさしさにもあふれている。七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が吉野を見染め、せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身にほどを嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそかに呼び入れて思いをとげさせてやったらしい。
寛永8年(1631年)、26歳で都の豪商、灰屋紹益と結婚退廓。寛永20年に死去。享年38歳。
日本一の幸せ者の紹益は、吉野の遺灰を飲み干してしまうほど嘆き悲しんだ。
「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」
という歌を、紹益は残している。
吉野太夫。今で言えば・・・。いや、やめておこう。芸能人をぼくは知らなすぎる
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