あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

六本木さくら坂の桜を観る

2014-04-10 09:34:36 | 東京散策
六本木ヒルズの毛利庭園と、高級賃貸マンションの六本木ヒルズレジデンスの裏側にあるさくら坂の桜並木は高層ビル群が建ち並ぶ都会の花見スポットとなっている。
六本木さくら坂
坂の桜並木で、およそ400mの閑静な散策路に約75本の桜が植えられている。
ゆるやかな坂道に沿って続く桜並木の風景は、六本木にいることを忘れるほどの静かさもあるが、道路沿いのさくら坂公園は子供たちの歓声が聞こえる。
夜にはライトアップされ、昼間と違った都会の幻想的な空間になるようだ。











毛利庭園
毛利庭園には、開発前から根をおろす8本の老木ソメイヨシノは、毛利庭園のシンボル的存在となっている。






お江戸深川さくらまつり

2014-04-09 14:09:33 | 東京散策
和船の花見周遊船は清澄通りの黒船橋の脇から黒船橋、石島橋を潜りその先の巴橋との中間あたりでターンする所要20分ほどのコースである。
         
和船は乗客5~10名の7艘で、船体は網船、荷足船(にたりぶね)、伝馬船、猪牙舟(ちょきぶね)の4種である。
聞きなれない猪牙舟は、深川資料館の江戸時代の町並み再現で展示されていて、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟である。江戸市中の河川で使われたが、浅草山谷にあった吉原遊郭に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。



         

大横川には様々な船が入ってくる 右画は東京海洋大学(旧商船大学)の船 夜には屋形船も入ってくるという


この動力船は日本橋からここまでの往復運航















大横川の桜並木は600本のソメイヨシノが植わっている。
さくらまつりは新内流しの船も出たようだが、時間帯が合わず観ることが出来なかった。

花まつり降誕会 建長寺2014

2014-04-08 22:51:56 | 鎌倉巡り
降誕会       花まつり


待てば甘露の日和あり
意味は「待っていれば、甘露が降ってくるような日和もある。あせらずにじっくりと待っていれば、やがてよい機会がめぐってくる。」
これは釈迦が、降誕され天から甘露の降雨がふりそそぎ祝福したということから来た言葉である。変形したのが『待てば海路の日和あり』である。
         

         

降誕会大法要
降誕会(ごうたんえ)とは、4月8日の釈迦の誕生を祝う法会で、花祭りとか、灌仏会(かんぶつえ)ともいわれている。法堂に釈迦の誕生仏が安置された花御堂を置き、一山の僧侶50名ほどが会して法会が行われた。
         
               中央の花で飾られた花御堂には見えにくいが、誕生仏が安置されている

         

         

         

降誕会を調べていて、失敗して物をダメにする事を「おしゃかになる」と表現するが、一説によるとこの言葉は、降誕会(灌仏会)に因んだことだと書かれていたので、余談であるが紹介する。
この言葉は、江戸の鍛冶(かじ)職人の隠語として、あぶり過ぎて鈍ってダメにしてしまった金物に対して、江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」→「四月八日だ」→釈迦の誕生日、とそれぞれ変化して成立して「おしゃかになる」が生まれたとされる。

花まつり
午後は、三門前で、鎌倉仏教会が主催する法会が催された。
             

         

         
読経の最中、僧侶が散華(縦8.5cm、横5cmほど)を撒かれた。

         

         

                 

花供養
引き続き、「花供養」碑の前で、建長寺館長を交えて行われた。
会場は参拝客の献花で飾られているが、祭壇前は昨年よりも簡素であった。
         

              

         

         

         

         

         

大花展
6日の日曜日から、生け花で境内を飾る大花展(だいかてん)が今日の花まつりに合わせて開かれている。
昨日に新聞によると、展示の作品は小笠流をはじめとする各流派や個人など、公募で集まった23作品で、大使館夫人の作品も出品されている。
「お釈迦様の誕生を祝うとともに、様々な花を楽しんでもらい、平和な生活が続くよう祈る一日になってもらえば」と建長寺関係者が話されている。
         

         

          

         

         

         
                    生け花の出品者と僧侶の記念撮影

平家物語版画展(方丈)
         

         

この日は、鎌倉の他の寺院の花まつりも回った。

                    関連 : 建長寺花まつり・花供養2013
                    前回の鎌倉巡り : 鎌倉へ初詣2014     

皇居・乾門通りの桜を愛でる

2014-04-07 15:54:30 | 東京散策
         
                           皇居前広場の桜

 
             二重橋前                                    巽櫓

天皇陛下の傘寿を記念して最初で最後の乾通りの桜開花時の通り抜けは、初日は54千人、私が参った2日目は90千人余りと、ものすごい人数であった。
先頭から25分たって私の周辺が動き始めた。そして持ち物検査、身体検査を終えて坂下門に入ったのは、それから25分たった後であった。
 
          開門前に6千人の来場者とういことで開門を30分繰り上げた  左画の左前方に先頭が小さく見える

 
          前方にやっと坂下門が                                宮内庁

坂下門から乾門間に桜の樹が76本、その内ソメイヨシノが52本あるそうだ。

宮内庁横の桜


トイレの建物を通り抜けると蓮池濠が見える。濠の向い側は皇居東御苑の「松の廊下跡」あたりになる












皇居の水なので「もしかして」・・・とういことで長蛇の列

 
松もみごと 67本が植わっている



        

わずか20分で乾門をくぐって皇居の外に出た。
秋の紅葉時にも同じような一般公開の計画があるようだ。秋も楽しみ。


                                   関連 : 皇居参観
                                         江戸城内濠の御門
                                         江戸城二の丸庭園




後記:参観のこの日に陛下が早朝、乾通りと東御苑をおしのびで回られ、桜の咲き具合を確認されたという。
この日、入門を待つ時間に隣のカップルが、『陛下が桜を観にきてありがとうって突然出てきたらすごいなんだけれど』と話していたが、そこまではいかなくても、咲き具合を心配されるなんて、現場を確認するなんて、陛下のお人柄が現われている。



東京桜めぐり

2014-04-06 15:28:50 | 東京散策
皇居中心部を南北に走る乾(いぬい)通りが一般公開されたとの報道を聞いて、これは行かなくてはと思い立ち、ついでに他も巡ろうと東京の桜名所7か所を歩いた。
深川の大横川では、念願の船で、しかも和舟で桜見物を楽しむことが出来た。


皇居・乾門通り
坂下門から入るのに、二重橋までぐるっと回って、入門の列が出来た。9時20分頃に到着。
どのくらいの数で区切っているのか、私は3組目で、皇居側にはもうひと組、4組目のスペースが開いている。
前日54千人の人出で3時の締め切りを1時間半早めた経験からか、並んだ列は30分早い9時半に動き出した。上空には報道陣か、ヘリが上空でホバリングしている。
         




北の丸公園&千鳥ヶ淵
皇居を乾門で出て、北の丸公園から千鳥ヶ淵を通ってイギリス大使館を過ぎて横道に入る。
         




隅田公園
地下鉄半蔵門線一本で、押上まで行った。当初は乗り換えて浅草に降り、隅田川を渡って公園に入る予定であった。
スカイツリーを真下で見る。
                  
墨田区隅田公園
隅田公園は墨田区と台東区にあって桜見物は、墨田区にすべしという案内もあったので足を伸ばした。
         
台東区隅田公園
隅田川を吾妻橋で渡って、水上バスの船着き場の脇にある隅田公園に入る。ここの地名は「花川戸」って、粋な名前のようだ。
         




深川・大横川
浅草から日本橋経由で門前仲町に向かう。深川には、2月、3月に来て、またまた4月にまで来るとは思ってもみなかった。
そんな分けで、和舟で優雅に見物した大横川が桜の名所なんて知らなかった。
知る人は知るで、観光バスが次から次に、路駐していた。
         
        

六本木さくら坂
大江戸線で門前仲町から六本木に行く。
テレ朝前の毛利庭園を巡って、その後南側の六本木桜坂に向かった。
         




目黒川
最後の目黒川には、青山一丁目経由池尻大橋へ回った。
目黒川を下流へ歩いた。
東横線・中目黒駅から電車に乗ったが、駅は夜桜見物の客でごった返していた。
         





花見隅田の渡し
江戸時代、庶民の春の娯楽は「花見」であった。
徳川八代将軍吉宗が隅田川の堤防(墨提)や王子の飛鳥山に桜を植えさせた。花見は、飲食や歌舞音曲などが許可され、江戸ッ子は、満開の桜の下で春を盛大に楽しんでいたようだ。
一説には、堤防を固くするために人集めで、桜を植えたと聞く。当時見物していた桜は、ヤマザクラのようで、現代のようなソメイヨシノを花見とするのは明治時代になってからだ。

名所といわれる、桜はやはり素晴らしい。この季節、日本人に生まれてよかったと、全ての日本人が思ったことだろう。

海に時代がデザインした「築地」を歩く

2014-04-02 16:51:25 | 東京散策
「築地」はもともと埋立地という意味で、東京築地は1658(万治元)年、木挽町(こびきちょう)の海側を埋め立てて土地を築いたことに由来する。この埋め立ては1657(明暦3)年の明暦の大火で焼失した浅草の江戸浅草御坊(現在の築地本願寺)の移転のために、佃島の住人によって造成された。
まだ機械のない時代の埋め立て作業は難しく、波も荒くなかなか堤防を築くことができなかった。そんな時、海から稲荷大神の御神体が流れてきてこれを祀ったところ、波は静まり、作業は順調に進んだという。御神体を祀った神社は「波除(なみよけ)稲荷神社」で、現在も築地市場の脇で静かに土地を守っている。
その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになった。ほかの地域は土佐藩山内家、松井松平家、白河藩松平家などの武家屋敷が立ち並んだ。
江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。
明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。過去に築地にあった帝国海軍関係施設は海軍本省、海軍兵学校、海軍軍医学校、海軍経理学校などがある。
1923年に発生した関東大震災では、築地一帯は焼け野原となった。帝都復興計画に基づいて晴海通りや新大橋通りなどの大規模な道路の建設と区画整理が行われ、それに伴い多くの寺院が移転していった。復興が一段落した1935(昭和10)年には、日本橋の魚河岸が築地の海軍用地に移転され、場外にも市場が形成された。

外国人居留地があった隣町、明石町から続けて築地を歩く。

シーボルト胸像(あかつき公園)  住所:築地7-19-1
フィリップ・F・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダの商館医として1823(文政6)年、長崎に到着、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍。1826(文政9)年、商館長と共に江戸へ向かい、日本橋の長崎屋に止宿し、出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、1828(文政11)年シーボルト事件が発生し、追放された。後に1859(安政6)年幕府顧問として再来日したが、2年後帰国しミュンヘンで没した。
 

                    
                   北斎が描いた「長崎屋」甘酒横町界隈を歩いた際に写す

濱野家住宅  住所:築地7-10-8
海産物を扱う商家として、1930(昭和5)年現在地に建てられた。
入口には、人見梁(はり)という背の高い梁がかけられ、軒は出桁造 という形式になっている。また、以前は、家に入ってすぐの場所が広い土間になっていて、鰹節 を入れた樽が山のように積まれていたという。

     中央区の文化財に指定されているの売り物件になっている。家を間違えたかと確認したが、間違えなかった

海運所跡東京税関発祥の地  住所:明石町14-19
江戸築地鉄砲洲(現明石町周辺)一帯の外国人居留地に税関業務を行う運上所を設置した。
         
                        碑は洒落た店の前にあった 
          
月島の渡し跡  所在地 中央区築地7-18 
「月島の渡し」は、1892(明治25)年、南飯田町(現在の築地7-18)から月島(現、月島3-24)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まる。その後、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、汽船曳舟2隻で交互運転を開始し、 渡賃も無料となった。
月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にあったが、東京市に移管された以降は、明石町(現在の明石町14)に渡船場を移設し、1940(昭和15)年に勝鬨橋が架橋されるまで、住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍した。
         

勝鬨の渡し碑  住所:築地6-20(勝鬨橋橋畔)
1892(明治25)年、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展に伴い、両地の交通はこれのみではさばけない状態であった。
1905(明治38)年、日露戦争の旅順要塞(中国北東部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付け渡船場を設置し、東京市に寄付した。当地にある石碑は、この時にたてられた。
         

勝鬨橋とかちどき橋資料館 住所:築地6-19~勝どき1-13 、築地6-20
全長246m、中央部80mが上方へ70度はねあがる可動橋。当初は1日5回20分間づつ開いていたが、橋上の交通の激化と、東京港の整備により大型船の通過もなくなったため、1970(昭和45)年点検開橋以来、開閉は行っていない。
   
資料館は、橋を開くために使用していた変電所を改修し、この勝鬨橋をはじめ隅田川の橋についての資料や関連情報等を展示・公開している。
また、橋脚内見学ツアーを毎週木曜日に行っており、予約によって橋を開くための装置を見学できる。
   

海軍経理学校跡  住所: 築地6-20
1874(明治7)年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のちに幾変遷を経て1907(明治40)年ここが海軍経理学校となった。
その間1888(明治21)年校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡地であたった。その付近は、明治時代は海軍の施設が多く、その一帯が海軍発祥の地とも称されている。戦後の海軍解体に伴い1945(昭和20)年9月におよそ70年の歴史を閉じた。
         

 
本願寺の路地裏
築地6~7丁目は昭和期の面影ある建物が存在する。
 

軍艦操練所跡  住所:築地6-20(築地市場駐車場)
現在、中央卸市場となっている一帯は、かつて江戸幕府の軍艦操練所があった。1857(安政4)年頭取(向井将監・勝海舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命。1864(元和元)年に焼失して、南隣りの松平安芸守の屋敷に仮移転し、1866(慶応2)年、海軍所と改めた。同年再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建った。
         

築地ホテル館  住所:築地6-20(築地市場駐車場)
軍艦操練所跡に日本初のホテルが建設されたのは1868(明治元)年のことである。築地鉄砲洲に外国人居留地があったためである。
しかしながら、築地居留地はあまり発展しなかったため、次第にホテル館の経営も厳しくなり、1872(明治5)年、ホテル館は海軍の手に渡った。それから間もない1872(明治5)年に発生した銀座大火で類焼し、焼失した。わずか4年足らずの寿命だった。
設計者は横浜~新橋の停車場を設計した米国人ブリジェンヌ。施工には現清水建設の祖、二代目清水喜助氏があたった。外国人からは「江戸ホテル」と呼ばれた。
建物は、木造2階建て、かわら屋根になまこ壁、ベランダのある接客室には鎧戸(よろいど)付きの窓を設け、海に面した中庭には日本庭園を築く和洋折衷様式であった。この姿は錦絵に残っている。
         

波除稲荷  住所:築地6-20-37
このブログの冒頭にも書いたように、海中に漂う稲荷神の像をみつけ、祀ったという。 
起立は万治年間(1658~61)といわれている。「波除」の尊称もこの伝説に由来。
         

 
獅子殿に厄除天井大獅子が、反対側にはお羽黒獅子が祀られている

魚河岸水神社遥拝堂  住所:築地5-2-1
1590(天正18)年徳川家康の江戸入城とともに、移住した日本橋魚河岸市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国佃村、大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全を祈願して「弥都波能売命(みずはのめのみこと)」を祀った「大市場交易神」がそのはじまりという。1901(明治34)年には神田明神の境内に「水神社」が建立され、日本橋市場は関東大震災以後築地に移転、現在地に遥拝堂が建立。以来築地市場の守護神として守られている。本殿は神田明神境内に祀られている。
 
                  魚河岸水神社関連 : 江戸総鎮守 神田明神
      

海軍発祥の地  住所:築地5-2-1
魚河岸水神社遥拝堂の境内に、向かって左手前に「旗山」と刻まれた自然石の石碑が建っている。1872(明治5)年、ここに海軍省が置かれ, 浴恩園内の築山に海軍卿の旗が掲揚されたため旗山と呼ばれた。ここが、日本海軍発祥の地である。
旗山の碑は、1933(昭和8)年に築地市場が移転してきた時、元の位置から少し動かして現在の場所に移ったといわれる。
                  

築地魚市場  住所:築地5-2-1
もともとこの地は、江戸時代中期の陸奥白川藩主松平定信は、老中の職にあって寛政の改革(1787~93)で幕政の建て直しを行ったが、老後に将軍からこの土地を拝領した。
当時この地は東京湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み、「浴恩園」と名付けて定信は、好んだという。
         
                  松平定信関連 : 松平定信の墓所 霊願寺
また、この地は、築地本願寺を中心に58ヶ寺もが並ぶ寺町でもあった。
関東大震災で焼失してからは、寺の維持も困難になり、大半が郊外へ移転。
さらに、日本橋の魚河岸が海軍用地だったところに移転して築地市場ができると、それに付随して商店が続々と入り込んで、現在の場外市場ができた。
         

築地川南支川 門跡橋  住所:築地3(晴海通り善林寺山門付近)
江戸時代、この界隈の土地が造成され、海から陸になった際に埋め残された部分が築地川となったと考えられる。
銀座から隅田川にいたる一帯には、かつて水路(運河)が縦横に走っていた。築地市場周囲にも築地川東支川と築地川南支川などが流れていたが、この2つの水路は1960(昭和35)年から徐々に埋め立てられ、1995(平成7)年までに完全に姿を消し、その一部は築地川公園となっている。
当時の遺構のひとつ「門跡橋」の橋柱。門跡とは本願寺に因んだ名前と思われる。ほかにも「小田原橋」などの橋柱が残っている。
 
               門跡橋                                 備前橋

 
                             築地川公園
築地本願寺  住所: 築地3-15-1
京都の浄土真宗西本願寺の東京別院。 1617(元和3)年に第十二世准如上人が横山町に創建したが、明暦の大火で焼失、現在地に移った。
境内には、森孫右衛門供養塔が本堂に向かって左手の道路沿いにある。
この供養塔は1861(文久元)年森孫右衛門の二百年忌に建てられており、供養塔の右側面には、佃島の漁師と徳川家との係わりが、また左側面には、1644(正保元)年に築かれた佃島の成り立ちなどが刻まれている。
森孫右衛門は摂津国西成郡佃村(現大阪市西淀川区佃)から江戸に下り、徳川家の食膳に供する白魚御用を務めたといわれている。
また、江戸時代以来、佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも、伝えられている。 
そのほか、九条武子歌碑、赤穂義士間新六供養塔、画僧酒井抱一の墓、芭蕉句碑などがある。
その日は丁度、講堂でパイプオルガンによるコンサートが行われていて、参拝客で一杯であった。結婚式も行われるという。
建物は、関東大震災後、1934(昭和9)年古代インド様式となった。
 
                                       森孫右衛門(左)と間新六の供養塔

築地小劇場跡  築地2-11(築地NTTビル)
1924(大正13)年、歌舞伎の伝統から離れた写実的演劇を目指す小山内薫、土方与志らにより建てられた近代演劇史上記念すべき劇場あった。
劇場の面積は100坪弱、平屋建てで、客席は400~500席。電気を用いた世界初の照明室を備えていた。天井が高く、可動舞台を備えていた。
高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たした。
  

桂川甫周屋敷跡  住所: 築地1-10-5
桂川家は代々、幕府の奥医師としてこの地に住んだ。四代目甫周(ほしゅう)は杉田玄白らと「解体新書」の翻訳に参加。後に外科術を学んで幕府医官となった。また、外国事情にも精通し、「魯志亜志」などの著者もある。
          

活字発祥の地  住所:築地1-12
1873(明治6)年平野富二(1846年~92)がこの地に長崎新塾出張活版製作所(後の東京築地活版製造所)を興し、活字だけでなく活版印刷機械やその付属器具をも制作販売した。
         

采女ヶ原(万年橋西交差点の北西一角 国立ガンセンターの北)
采女橋のあたりに采女ヶ原馬場があった。
ここは、1724(享保9)年までは伊予今治藩主松平采女正定基(うねめのしょうさだもと)の屋敷があったところで、焼失し、のち火除地も兼ねて馬場となり、明治まで残っていた。
幕府の軍役規定では、200石以上の旗本などは、太平の世になっても、馬術の訓練が義務づけられていた。しかしながら生活にも困窮し、馬など飼うことができぬ貧困武士に馬をレンタルする馬場が采女ヶ原にあったと最近読んだ本に書かれていた。馬場周辺には茶屋や見世物小屋まで出来て賑やかだったという。そんな情景は鬼平犯科帳にも登場しているようだ。
 

采女橋  住所:築地4/銀座5・銀座6(みゆき通り)
江戸時代にこの辺りに屋敷を構えていた、紀伊徳川家筋の旗本 松平采女正 に由来するという。
なお、「釆女橋」は別名「二之橋」とか「矢の橋」とも呼ばれていた。
現在の采女橋は、銀座五丁目と六丁目の境を走るみゆき通りが、築地四丁目との間で首都高速道路を渡る橋である。
 

新橋演舞場  住所:銀座6-18(釆女橋公園となり) 
1925(大正14)年に新橋芸者衆のための演舞場として開場したもので、その年の4月に京都祇園の「都おどり」に対抗して演じられた「東おどり」が、その柿落し(こけらおとし・初舞台)であったという。
現在は「歌舞伎」や「松竹新喜劇」なども興行されている。
その以前は、松井松平家上屋敷(三河松井家)があった。
         

海軍兵学寮跡  住所:築地5-1-1
海軍士官の養成校だった海軍兵学寮は、1872(明治2)年築地の藩邸跡に海軍操練所として誕生した。翌年海軍兵学寮と改め1879(明治9)年海軍兵学校と改称し、明治21年広島県江田島に移転。1934(昭和9)年旧地を記念するためこの碑を建立。
         
海軍軍医学校は、1873(明治6)年海軍病院付属学舎として創立。1880(明治13)年に廃校となるが、1882(明治15)年に海軍医務局学舎として芝に再興され、1889(明治22年)に海軍軍医学校と改称された。さらに1908(明治41)年に築地に移転され、1929(昭和4)年に築地五丁目に新築移転され、現在敷地は国立がん研究センター中央病院となっている。
この碑は、がん研究センターの首都高側の敷地に置かれている。
その他ここは、「運動会発祥の地」や「サッカー発祥の地」でもある。

何もない海から、寺町、海軍関係施設地へ、そして築地市場へと様々な顔に、「築地」は変化して行った。そして現在の築地市場も豊洲への平成27年度移転計画があって、またまた新しい顔に変化して行くようだ。どんな顔になるのだろう。これからも時代がデザインしていく。

まだまだ散策は続き、次は浜離宮恩賜公園に向かう。


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                             将軍様のお鷹場だった浜離宮                       


外国人居留地・明石町を歩く

2014-04-01 14:35:32 | 東京散策
1858(安政5)年に江戸幕府は、欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を決した。江戸の開市は明治政府になってからで、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。
築地居留地は商館の多い横浜や神戸と異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行ったため、日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成した。
また、1872(明治5)年、新橋(汐留)―横浜間(桜木町)に鉄道が開通したが、それは築地の居留地と横浜の居留地を結ぶものでもあった。
その築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている。
  
東京築地鉄砲洲景(歌川国輝画・1869(明治2)年) 築地居留地一帯の様子を描写した6枚続の錦絵。居留地内のホテルを始め、税関にあたる事務所や住宅、外国人目当ての日本人商店、さらには遊廓が描かれている。 絵は築地居留地跡の碑に嵌め込まれている。

そんな居留地跡の明石町一帯を佃島を巡る時に降りた新富町駅からスタートした。
駅の西側階段を上がると土佐藩築地邸跡の中央区役所が建っている。
土佐藩築地邸跡  住所:築地1-1~6、同2-1-6~2-9
この辺りは、江戸時代前期に海を埋め立て武家地や町人地になった。
1826(文政9)年、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領した。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にあった。
幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主である。土佐藩は初代山内一豊から十六代豊範まで続いている。
         
この屋敷には、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬がここの土佐藩築地邸に寄宿していた。それは1856(安政3)年から1858年ころのことで、剣術修行のため、桶町(現八重洲2丁目・京橋2丁目の一部)にあったとされる周作の弟・千葉定吉(さだきち)道場に通っていた。
定吉の二女・佐奈(佐那)は才色兼備で「千葉の鬼小町」と呼ばれ、竜馬と相思相愛の仲になったが、竜馬の国事奔走で結ばれず、生涯独身であった。山梨県の墓には坂本竜馬室と刻まれている。

雙葉学園発祥の地  住所:明石町1-7(佃大橋西交差点付近 UR都市機構ラ・ヴェール明石町前歩道沿い)
佃大橋から「佃大橋西」交差点を南に曲がるとすぐ、 ハート形の断面をした双葉の石柱が歩道にたっている。「雙葉学園発祥の地」碑である。
雙葉学園の「雙葉」は,“ふたば葵”という植物の名から採ったということで,この記念碑は“ふたば葵”の葉をかたどったデザインのようである。
1872(明治5)年 サンモール修道会(”幼きイエス会”の前身)の宣教師がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始。 1875(明治8)年 東京築地のこの地に「築地語学校」を開校した。
1909(明治42)年 初代校長の メール・セント・テレーズが 私財にて四谷駅前にフランス風の優雅な木造2階建ての校舎を建造。「雙葉高等女学校」を創立。
1947(昭和23)年 学制改革により「雙葉高等学校」となる。
なお、この場所は元中央区立第二中学校があった場所で、現在はリハポート明石というビルが建っている。
 

関東学院発祥の地  住所:明石町1-5
中央区立明石小学校の北西角近くの歩道上に 1.2mほどの高さの茶色の石碑が建っている。
「東京中学院」は アメリカ北部バプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)が設立した男子校で、後の「関東学院」の源流のひとつとなった学校。1895(明治28)年 ここ築地居留地に開校した。
 

 
ビルの空間スペースに植わるゲンペイモモ 紅白に咲いて美しい

築地居留地跡  住所:明石町1-15 明石小学校
この碑は、明石小学校の角地にたっている。
         

ガス街灯柱  住所: 明石町1-15 明石小学校 
柱頭型の街灯柱で高さ3.4m。明治元年開設の築地居留地内にあったものが、関東大震災後、現在の明石小学校に移された。東京の都市ガス事業は1874(明治7)年に始まり、当時の外人居留地の風物を代表していた。
         

         
          明石小学校:綺麗なグランドである。 手前のレンガはイギリス積み工法の居留地時代の塀         

暁星学園  住所:明石町1-5
明石小学校の向い側にカトリック築地教会があり、その前の歩道上に 白く太い角柱型の石碑がたっている。碑の上部には 本が開かれた形のモニュメントが載っている。本には『あなたがたは 地の塩 世の光
 である』と記されている。
暁星学園は,幼稚園から小・中・高校までを擁するカトリック系の学校で、幼稚園を除き男子校。創立は1888(明治21)年。1890(明治23)年、麹町区飯田町(千代田区富士見)に移転、現在に至る。
 

明治学院発祥の地  住所:明石町7-14
江戸末期の 1863年、横浜居留地に 私塾・ヘボン塾が開設された。このヘボン塾は 1880(明治13)年に 築地に移転し, これが母体となって、 明治学院は1877(明治10)年、ここ旧築地17番地に解説された東京一致神学校を基とする。
 

女子聖学院発祥の地碑  住所:明石町6-24
この地は女子聖学院発祥の地、もと築地居留地14番であった。  そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ先生の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチ(ティサイプルス・オブ・クライスト)の宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園になっている。
 

青山学院記念の地碑  住所:明石町6先
米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としている。 「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流のひとつ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となった。
 

ヘンリフォールズ住居跡  住所:明石町8先(聖路加ガーデン付近交差点)
指紋研究発祥の地。築地居留地に住んでいた英国人医師ヘンリー・フォールズが、日本の拇印の習慣から「指紋は個人認識に利用できる」ことを発見し、1880(明治13)年に、この家で「ネイチャー」誌向けの論文を執筆した。
         

アメリカ公使館跡  住所:明石町8(新阪急ホテルの下。信号のすぐ横)
アメリカ公使館は1859(安政6)年初代アメリカ行使ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、1875(明治8)年築地居留地内のこの地に新築された。のち1890(明治23)年赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。
 
                     右のモニュメントは200m西に離れた聖路加国際病院のトイスラー記念館の脇にあった

聖路加国際病院トライスラー記念館  住所:明石町10
聖路加病院の初代院長・トイスラーの名がつけられたこの記念館は、1933(昭和8)年、隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設された。
建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造り一部木造の2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物であった。清水組(現在の清水建設株式会社)が施工した。
平成年度に解体し、現在地に移築復元した。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財である。
 

 
立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑  住所:明石町10
1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。
1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。
 

        
女子学院発祥の地  住所:明石町10(聖路加看護大学構内)
1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882(明治15)年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設した。1923(大正12)年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続する。
 

立教学院発祥の地  住所:明石町10(聖路加看護大学構内トライスラー記念館入口)
ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老会に所属した。
 

芥川龍之介生誕の地  住所:明石町10 聖路加国際病院前遊歩道の出口の右側。
1883(明治16)年ごろ、この付近(当時の京橋区入船町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場があった。芥川龍之介(1892~1927)は、1892(明治25)年3月1日、その経営者新原敬三の長男としてここに出生。誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られ、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子に。
         

浅野内匠頭邸跡   住所: 明石町12先
常陸笠間藩主浅野長直(1610~1672)は、1645(正保2)年、播磨赤穂に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称した。子の長友の代に分与して5万石となる。  ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していた。  浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、1701(元禄14)年、勅使の接待役に推されたが、3月14日その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日切腹を命ぜられた。この江戸屋敷や領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶した。
これが「忠臣蔵」の発端である。その時の将軍は「犬公方」と呼ばれた徳川五代将軍・綱吉である。綱吉は「生類憐みの令」を発布しているが、これは儒教の教えから来ている。その中に『親に孝』があって、綱吉は実に親思いであった。そのため母親・桂昌院に女性最高位の従一位を賜った。
江戸に下向した直視から伝えられたのが刃傷事件が発生する2日前のことだった。饗応役が浅野内匠頭。めでたい直視を迎えての前代未聞の不祥事に綱吉が激怒したのはいかばかりか。一切の取り調べは行われずに即刻切腹の沙汰となった。綱吉が母親に高位の官位を望まなければこの事件は無かったのではと最近読んだ本に書かれていた。
 
ここは、赤穂浪士の関係場所を回った際に訪れている。
          赤穂浪士関連 : 時は元禄15年 赤穂浪士、吉良邸に討ち入る
                      赤穂浪士討ち入りの日に因み、ふるさと平間周辺散歩

慶応義塾発祥の地  住所:明石町11先(聖路加看護大学付交差点)  
慶応義塾の起源は1858(安政4)年、福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
         
             「慶応義塾発祥の地」(左)と「蘭学事始めの地」(右奥)の碑は一緒にたっている。

蘭学事始めの地  住所:明石町11先(聖路加看護大学付近交差点)
豊前中津藩奥平家の下屋敷があった所。藩医の前野良沢らがオランダの解剖書の翻訳に取り組み、「解体新書」を完成。蘭学ゆかりの地である。当時の苦心の様子は、杉田玄白の「蘭学事始」に詳しく書かれている。
ここで、深川を巡った際に登場したエレキテルの平賀源内がここにも登場する。源内と玄白は親友で、「解体新書」の人体を描いた小野田直武を紹介している。小野田直武は源内の西洋画の弟子である。西洋画の立体を表現する技法が必要であったからだ。
         

タイムドーム明石 明石町12-1
2005(平成17)年創立の区立文化施設。地域の歴史・民俗資料を収集・保存し展示する。江戸時代以来、商業の中心地として栄えてきた日本橋・京橋地域の商家と職人に関連する品々などが展示されている。
         

外国人居留地があった場所は、聖路加病院関連と高層マンションや小学校が建ち並んでいた。
その明石町から次は、海に時代がデザインした「築地」の街へと移る。


                       関連 : 海に時代がデザインした「築地」を歩