江戸城内濠には、現在は公園となっている北の丸地区を除くと9つの御門がある。皇居一周のマラソンコースにもなっている内濠の御門を巡ってみた。
先ずは江戸城の正門である大手門からぐるっとひと回り。
大手門
旧江戸城の正門で、1607(慶長12)年に完成。その後、1620(元和6)年の江戸城修復で、伊達政宗等によって現在のような桝形(ますがた)様式の城門になったと謂われている。枡形様式とは2つの門からなり、第一の門(高麗門)を通ると枡形の空地がある。右折すると第二の門(渡櫓門)となる城郭門である。
明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失して1967(昭和42)に復元された。
鉄砲30、弓10などの武具により譜代10万石以上の大名が大手門の警備を勤めたと云う。
大手門渡櫓門
この門から三百諸侯が威儀を正して登城して、大手下乗門(大手三の門)、大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至った。
渡櫓門の外壁が剥がれている、東日本大震災の影響がここまで及んでいた。改めて地震の凄さを知る。
大手門高麗門
平川門
江戸城の裏門、大奥に最も近いことで、大奥女中達の出入りする通用門でもあり、別名御局門とも呼ばれたようだ。
また、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようである。
太田道灌(1432~1486)のころからここに門が作られていて、当時は門の前が上平川村や下平川村があったことから、平川門と名付けられた。
平川門渡櫓門(左)と高麗門
平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(=帯曲輪)を持つのが特徴。
城内の糞尿、死体、それに罪人を城外に出す門を不浄門と呼ぶが、江戸城の不浄門を平川門そのものと云う説や平川門から竹橋門に通じた通路を指す説、平川門の脇にある帯曲輪門(おびくるわもん)が不浄門とする説などがあるが、赤穂藩藩主浅野内匠頭(1667~1701)は、何処を通ったのだろうか。
帯曲輪門
江戸時代の擬宝珠(ぎぼし)付きの欄干のある木造の平川橋
北桔橋門
天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてあった。
また、橋ははね上がる仕掛けにして、通常は上げられ有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていた。
近くの乾濠と蓮池の間に架かる西桔橋もはね上がる構造の西桔橋門がかつてあった。
乾門
明治になってから建てられた京風の門。現在は主に皇族方の通用門である。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、この名がついたと云う。
現在は東日本大震災の影響なのか工事用シートで前面覆われている(左)。
半蔵門
明治になってから建てられた京風の門。現在は主に皇族方の通用門である。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、この名がついたと云う。
桜田門
元々この門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていたが、1636(寛永13)年に、それまでの門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになる。古くこの辺りを桜田郷と呼んだことに由来する。
桜田門は江戸見附様式で枡形形式の城郭門であり、江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在し、桔梗門の内桜田門に対し、この桜田門は外桜田門と呼ばれる。
この桜田門の桝形は、西の丸防備のため、現存している城郭門の中では最も広い規模である。1961(昭和36)年、国の重要文化財に指定された。
1860(安政7)年、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼(いいなおすけ)が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件があった。【桜田門外の変】
桜田門渡櫓門
桔梗門高麗門と地震発生時の注意書
坂下門
西の丸大手門と桔梗門(内桜田門)との間にあり、宮内庁への出入り口となっている。
西の丸の造営後に新たに造られたと伝えられている。
坂下門も元々は枡形城郭門の様式で、門前には橋があったが、明治になり、橋や高麗門は撤去され、奥にあった渡櫓門の向きも変えて、現在の場所に移築されている。
公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、1862(文久2)年、水戸浪士を中心とする
尊王攘夷派の志士に坂下門外で襲われた事件があったところ。【坂下門外の変】
桔梗門
桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれているが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋(桔梗)がついていたことから桔梗門と 呼ばれるようになったとも伝えられている。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれている。
桔梗門高麗門(左)と渡櫓門
渡櫓門の石垣に丸に十字が刻まれている この辺りを薩摩藩が普請した
桔梗濠
現在、濠の石垣を大がかりに補修している。
外した石垣は現状回復できるようひとつ一つ整理、富士見櫓下に保管されている。
皇居正門と二重橋
皇居正門の元の名称は西の丸大手門だった。元々はこの門の前に第一の門、高麗門があって枡形の空き地があり、空き地を曲がると第二の門(高麗門)のある枡形城郭門の様式であったが、1888(明治21)年の 明治宮殿造営のときに高麗門を撤去し、名称も皇居正門と改めた。 建造は3代将軍徳川家光公の時代(1623~1651年)と推定される。
天皇誕生日と新年2日の皇居一般参賀にはこの正門から入場する。
皇居正門
本来なら近くまで行けるのだが危険と云うことでロープが張られていた。警備の警察官に尋ねると、陛下のお気持ちは被災地の復興を先にとおっしゃっているのではないだろうかとのことで、近くまで行けるのは当分先ではなかろうかと話していた。桜田門も最近まで通行止めだったとのこと。
皇居正門石橋(手前)と皇居正門鉄橋 現在はこの二つを称して二重橋
先ずは江戸城の正門である大手門からぐるっとひと回り。
大手門
旧江戸城の正門で、1607(慶長12)年に完成。その後、1620(元和6)年の江戸城修復で、伊達政宗等によって現在のような桝形(ますがた)様式の城門になったと謂われている。枡形様式とは2つの門からなり、第一の門(高麗門)を通ると枡形の空地がある。右折すると第二の門(渡櫓門)となる城郭門である。
明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失して1967(昭和42)に復元された。
鉄砲30、弓10などの武具により譜代10万石以上の大名が大手門の警備を勤めたと云う。
大手門渡櫓門
この門から三百諸侯が威儀を正して登城して、大手下乗門(大手三の門)、大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至った。
渡櫓門の外壁が剥がれている、東日本大震災の影響がここまで及んでいた。改めて地震の凄さを知る。
大手門高麗門
平川門
江戸城の裏門、大奥に最も近いことで、大奥女中達の出入りする通用門でもあり、別名御局門とも呼ばれたようだ。
また、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようである。
太田道灌(1432~1486)のころからここに門が作られていて、当時は門の前が上平川村や下平川村があったことから、平川門と名付けられた。
平川門渡櫓門(左)と高麗門
平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(=帯曲輪)を持つのが特徴。
城内の糞尿、死体、それに罪人を城外に出す門を不浄門と呼ぶが、江戸城の不浄門を平川門そのものと云う説や平川門から竹橋門に通じた通路を指す説、平川門の脇にある帯曲輪門(おびくるわもん)が不浄門とする説などがあるが、赤穂藩藩主浅野内匠頭(1667~1701)は、何処を通ったのだろうか。
帯曲輪門
江戸時代の擬宝珠(ぎぼし)付きの欄干のある木造の平川橋
北桔橋門
天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてあった。
また、橋ははね上がる仕掛けにして、通常は上げられ有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていた。
近くの乾濠と蓮池の間に架かる西桔橋もはね上がる構造の西桔橋門がかつてあった。
乾門
明治になってから建てられた京風の門。現在は主に皇族方の通用門である。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、この名がついたと云う。
現在は東日本大震災の影響なのか工事用シートで前面覆われている(左)。
半蔵門
明治になってから建てられた京風の門。現在は主に皇族方の通用門である。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、この名がついたと云う。
桜田門
元々この門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていたが、1636(寛永13)年に、それまでの門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになる。古くこの辺りを桜田郷と呼んだことに由来する。
桜田門は江戸見附様式で枡形形式の城郭門であり、江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在し、桔梗門の内桜田門に対し、この桜田門は外桜田門と呼ばれる。
この桜田門の桝形は、西の丸防備のため、現存している城郭門の中では最も広い規模である。1961(昭和36)年、国の重要文化財に指定された。
1860(安政7)年、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼(いいなおすけ)が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件があった。【桜田門外の変】
桜田門渡櫓門
桔梗門高麗門と地震発生時の注意書
坂下門
西の丸大手門と桔梗門(内桜田門)との間にあり、宮内庁への出入り口となっている。
西の丸の造営後に新たに造られたと伝えられている。
坂下門も元々は枡形城郭門の様式で、門前には橋があったが、明治になり、橋や高麗門は撤去され、奥にあった渡櫓門の向きも変えて、現在の場所に移築されている。
公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、1862(文久2)年、水戸浪士を中心とする
尊王攘夷派の志士に坂下門外で襲われた事件があったところ。【坂下門外の変】
桔梗門
桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれているが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋(桔梗)がついていたことから桔梗門と 呼ばれるようになったとも伝えられている。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれている。
桔梗門高麗門(左)と渡櫓門
渡櫓門の石垣に丸に十字が刻まれている この辺りを薩摩藩が普請した
桔梗濠
現在、濠の石垣を大がかりに補修している。
外した石垣は現状回復できるようひとつ一つ整理、富士見櫓下に保管されている。
皇居正門と二重橋
皇居正門の元の名称は西の丸大手門だった。元々はこの門の前に第一の門、高麗門があって枡形の空き地があり、空き地を曲がると第二の門(高麗門)のある枡形城郭門の様式であったが、1888(明治21)年の 明治宮殿造営のときに高麗門を撤去し、名称も皇居正門と改めた。 建造は3代将軍徳川家光公の時代(1623~1651年)と推定される。
天皇誕生日と新年2日の皇居一般参賀にはこの正門から入場する。
皇居正門
本来なら近くまで行けるのだが危険と云うことでロープが張られていた。警備の警察官に尋ねると、陛下のお気持ちは被災地の復興を先にとおっしゃっているのではないだろうかとのことで、近くまで行けるのは当分先ではなかろうかと話していた。桜田門も最近まで通行止めだったとのこと。
皇居正門石橋(手前)と皇居正門鉄橋 現在はこの二つを称して二重橋