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将軍様のお鷹場だった浜離宮

2014-03-30 10:40:22 | 東京散策
菜の花は、畑の道に咲く花で、ローカル的なイメージなのだが、都会の公園に30万本の菜の花が植えられていることは不思議な感じがする。
だが、一面に広がる菜の花畑を観ると、壮観であって、今や春の代表的な風物詩となっているようだ。
         

         
林立するビルが借景になっている。

現在の浜離宮恩賜公園は、1654(承応3)年に甲府藩主の徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てた。その後は甲府藩の下屋敷として使用され、甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるようになった。
それは佃島の漁民が海を埋め立て築地を造った、明暦年間(1655~1658年)よりやや早い時であった。
綱重の子である家宣(いえのぶ)が徳川六代将軍になると、将軍家の別邸なり、浜御殿と改称して大幅な改修が行われた。
幕末には、幕府が海軍教育にために設けた機関・海軍伝習屯所が置かれている。

将軍お上がり場
1868(慶應4)年、鳥羽伏見の戦争で敗れた徳川慶喜は、松平容保、定敬兄弟を連れて軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰り、このお上がり場から上陸して江戸城に帰還した。
         

鴨場
徳川十一代将軍・家斉(いえなり)と十二代将軍・家慶(いえよし)の頃は、将軍の鷹狩の場であった。家斉は248 回、家慶は99 回鷹狩りを行った。
         
庚申堂鴨場
庚申堂鴨場は1778(安永7)年に造られた鴨の遊猟施設。
鴨場が使われた時代は園内に鷹部屋や鷹師宿舎、鷹匠小屋、調理所などがあった。鴨場が利用されたのは冬鳥が飛来する晩秋から翌年の春先である。
鴨猟は、元溜(水鳥のいる池)に放した囮のアヒルを呼び込むための幅の狭い「鴨引き堀」が設けられている。「覗き小屋」からエサを撒き、壁に掛けてある板木を叩いてアヒルの呼び込む。囮のアヒルは訓練されていて、撒いた餌を食べに引堀へ入ってくる。
アヒルの後には鴨もついて行く。狩猟者は、引堀の土手の陰に隠れていて、引堀に鴨が入ったところで、鷹匠が合図で拳にのせた鷹を一斉に放つ。飛び立った鷹は空中で鴨を捕獲する。
鴨猟は明治以降には叉手網(さであみ)で猟をし、捕獲しそこなった鴨を鷹匠が鷹を使い捕まえる方法になる。
鴨猟は、将軍家から皇室へ、その伝統行事は今も伝承されている。
 
 
          
新銭座鴨場
1791(寛政3)年に築造され、その後は幾度かの改修を経て現在の形になった。鴨場の西南側に新銭座町があることでこの名称となった。庭園の端の方にあり、庚申堂鴨場に比べるとこじんまりしている。
          

 
鷹狩は戦国武将の間で広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近としてついていた。
徳川三代将軍・家光も好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことでも知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子を伺うことができる。
五代将軍・綱吉の時代に「生類憐れみの令」によって動物愛護で鷹狩を段階的に廃止した。それを八代将軍・吉宗の時代に復活した。

横堀水門・潮入の池
浜離宮庭園の中心である「潮入の池」は、御茶屋のある中島や小の字島などのある「大泉水」と海岸に近くに横たわる「横堀」のふたつから成っている。それぞれの池の周囲には散策路があり、「お伝い橋」などの橋を渡りながら庭園の様々な景観を楽しみながら散策する。
「お伝い橋」は、1707(宝永4)年、松平綱重の長男・後の徳川六代将軍家斉が、園内大改修を行った時にこの橋を架けた。橋の長さは117.8mで総檜造り。現在の「お伝い橋」は1997(平成9)年に再築された。
 

         

         

松の御茶屋
十一代将軍・家斉の時代に建てられた茶屋のひとつ。「中島の御茶屋」と対を成す端正な外観の御茶屋。「潮入の池」の目の前に建っており、池への眺望が大変良い御茶屋である。2010(平成22)年復元。
                  

中島の御茶屋
1707(宝永4)年以来、将軍をはじめ御台、公家達がここで庭園の眺望を堪能した休憩所。現在の建物は1983年(昭和58)年に復元された。
         

海手茶屋(汐見の茶屋)跡
1707(宝永4)年、のちの六代将軍・家宣が舟遊びや漁夫達の様子を眺めるために建てた休憩所。また、公家や大奥の女中たちが、浜辺で遊ぶ時の基点となったと思われる。最も海の眺望に恵まれた場所に建てられたので、この名がついた。関東大震災で焼失した。
         

燕の茶屋跡
十一代将軍・家斉が在職中の1787(天明7)年から1837(天明8年)の間に建てられた。数寄屋風で、眺望にも
優れているため茶座敷として使われたようだ。
名前は、室内の釘隠しの金具の形が燕の姿であったという説と燕子花(かきつばた)の形でその一字「燕」を取ったという説もある。
1944(昭和19)年第二次大戦の空襲により焼失したが、今年度中再建される予定のようだ。
         

鷹の茶屋(藁葺の茶屋)跡
十一代将軍・家斉が、1795(寛政7)年、この庭園の鴨場で鷹狩りを行う時の休憩所として建てた。名前は、鷹狩りの休憩茶屋ということからついている。この茶屋の特徴は、鷹狩りの装束のまま休息するために、土間を広くとり、用材も松、杉を用いて農家の雰囲気を出すようしていた。土間の中央には囲炉裏があり、自在かぎには茶釜がかけてあった。「藁葺の茶屋」という別名は、そうした田舎屋の風情からである。
1944(昭和19)年第二次大戦の空襲により焼失した。
         

茶屋は過去に、この5つあった。

旧稲生神社
「旧・稲生(いなぶ)神社」創建時期は明らかではないが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に稲荷神社が描かれている。天明年間(1781~89)創建という説もある。
その後、明治時代に庭園内の現在の場所に移転したが、1894(明治27)年に東京湾を震源とする地震で倒壊した。翌年、同規模・同型式で再建された。
関東大震災で本殿は破損し、1931(昭和6年に大修理が行われた。そして、2005(平成17)年には文化財としての大掛かりな修理を行い、ここに明治時代の創建当時の姿を伝えている。
現在は”ご神体”が安置されていないという説もあるが、庭園側の案内にはその点は書かれていない。
 

灯台跡
かつては東京湾を照らしていた灯台があったが、どんなものかは全く分らない。
         

浜離宮には桜の樹が約百本あるが、ソメイヨシノは、その内、10本ほどしかない。
 

         
訪れた日はHPによると三分咲きとのことだ。

高層ビルと菜の花のコラボを観たいと思っていた庭園である。
秋は、コスモスが咲くお花畑になる。それもいいかな。
帰りは汐留の工事中の道路を通って新橋駅に向かった。
あとでその工事中の道路が、マッカーサー道路・環状2号線だということを知った。


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