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外国人居留地・明石町を歩く

2014-04-01 14:35:32 | 東京散策
1858(安政5)年に江戸幕府は、欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を決した。江戸の開市は明治政府になってからで、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。
築地居留地は商館の多い横浜や神戸と異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行ったため、日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成した。
また、1872(明治5)年、新橋(汐留)―横浜間(桜木町)に鉄道が開通したが、それは築地の居留地と横浜の居留地を結ぶものでもあった。
その築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている。
  
東京築地鉄砲洲景(歌川国輝画・1869(明治2)年) 築地居留地一帯の様子を描写した6枚続の錦絵。居留地内のホテルを始め、税関にあたる事務所や住宅、外国人目当ての日本人商店、さらには遊廓が描かれている。 絵は築地居留地跡の碑に嵌め込まれている。

そんな居留地跡の明石町一帯を佃島を巡る時に降りた新富町駅からスタートした。
駅の西側階段を上がると土佐藩築地邸跡の中央区役所が建っている。
土佐藩築地邸跡  住所:築地1-1~6、同2-1-6~2-9
この辺りは、江戸時代前期に海を埋め立て武家地や町人地になった。
1826(文政9)年、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領した。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にあった。
幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主である。土佐藩は初代山内一豊から十六代豊範まで続いている。
         
この屋敷には、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬がここの土佐藩築地邸に寄宿していた。それは1856(安政3)年から1858年ころのことで、剣術修行のため、桶町(現八重洲2丁目・京橋2丁目の一部)にあったとされる周作の弟・千葉定吉(さだきち)道場に通っていた。
定吉の二女・佐奈(佐那)は才色兼備で「千葉の鬼小町」と呼ばれ、竜馬と相思相愛の仲になったが、竜馬の国事奔走で結ばれず、生涯独身であった。山梨県の墓には坂本竜馬室と刻まれている。

雙葉学園発祥の地  住所:明石町1-7(佃大橋西交差点付近 UR都市機構ラ・ヴェール明石町前歩道沿い)
佃大橋から「佃大橋西」交差点を南に曲がるとすぐ、 ハート形の断面をした双葉の石柱が歩道にたっている。「雙葉学園発祥の地」碑である。
雙葉学園の「雙葉」は,“ふたば葵”という植物の名から採ったということで,この記念碑は“ふたば葵”の葉をかたどったデザインのようである。
1872(明治5)年 サンモール修道会(”幼きイエス会”の前身)の宣教師がフランスより来日し, 横浜で布教と教育慈善活動を開始。 1875(明治8)年 東京築地のこの地に「築地語学校」を開校した。
1909(明治42)年 初代校長の メール・セント・テレーズが 私財にて四谷駅前にフランス風の優雅な木造2階建ての校舎を建造。「雙葉高等女学校」を創立。
1947(昭和23)年 学制改革により「雙葉高等学校」となる。
なお、この場所は元中央区立第二中学校があった場所で、現在はリハポート明石というビルが建っている。
 

関東学院発祥の地  住所:明石町1-5
中央区立明石小学校の北西角近くの歩道上に 1.2mほどの高さの茶色の石碑が建っている。
「東京中学院」は アメリカ北部バプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)が設立した男子校で、後の「関東学院」の源流のひとつとなった学校。1895(明治28)年 ここ築地居留地に開校した。
 

 
ビルの空間スペースに植わるゲンペイモモ 紅白に咲いて美しい

築地居留地跡  住所:明石町1-15 明石小学校
この碑は、明石小学校の角地にたっている。
         

ガス街灯柱  住所: 明石町1-15 明石小学校 
柱頭型の街灯柱で高さ3.4m。明治元年開設の築地居留地内にあったものが、関東大震災後、現在の明石小学校に移された。東京の都市ガス事業は1874(明治7)年に始まり、当時の外人居留地の風物を代表していた。
         

         
          明石小学校:綺麗なグランドである。 手前のレンガはイギリス積み工法の居留地時代の塀         

暁星学園  住所:明石町1-5
明石小学校の向い側にカトリック築地教会があり、その前の歩道上に 白く太い角柱型の石碑がたっている。碑の上部には 本が開かれた形のモニュメントが載っている。本には『あなたがたは 地の塩 世の光
 である』と記されている。
暁星学園は,幼稚園から小・中・高校までを擁するカトリック系の学校で、幼稚園を除き男子校。創立は1888(明治21)年。1890(明治23)年、麹町区飯田町(千代田区富士見)に移転、現在に至る。
 

明治学院発祥の地  住所:明石町7-14
江戸末期の 1863年、横浜居留地に 私塾・ヘボン塾が開設された。このヘボン塾は 1880(明治13)年に 築地に移転し, これが母体となって、 明治学院は1877(明治10)年、ここ旧築地17番地に解説された東京一致神学校を基とする。
 

女子聖学院発祥の地碑  住所:明石町6-24
この地は女子聖学院発祥の地、もと築地居留地14番であった。  そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ先生の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチ(ティサイプルス・オブ・クライスト)の宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校式は教師3人に生徒10人であった、という。今日では幼稚園から大学院までを擁する総合学園になっている。
 

青山学院記念の地碑  住所:明石町6先
米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としている。 「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流のひとつ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となった。
 

ヘンリフォールズ住居跡  住所:明石町8先(聖路加ガーデン付近交差点)
指紋研究発祥の地。築地居留地に住んでいた英国人医師ヘンリー・フォールズが、日本の拇印の習慣から「指紋は個人認識に利用できる」ことを発見し、1880(明治13)年に、この家で「ネイチャー」誌向けの論文を執筆した。
         

アメリカ公使館跡  住所:明石町8(新阪急ホテルの下。信号のすぐ横)
アメリカ公使館は1859(安政6)年初代アメリカ行使ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、1875(明治8)年築地居留地内のこの地に新築された。のち1890(明治23)年赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。
 
                     右のモニュメントは200m西に離れた聖路加国際病院のトイスラー記念館の脇にあった

聖路加国際病院トライスラー記念館  住所:明石町10
聖路加病院の初代院長・トイスラーの名がつけられたこの記念館は、1933(昭和8)年、隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設された。
建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造り一部木造の2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物であった。清水組(現在の清水建設株式会社)が施工した。
平成年度に解体し、現在地に移築復元した。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財である。
 

 
立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑  住所:明石町10
1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。
1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。
 

        
女子学院発祥の地  住所:明石町10(聖路加看護大学構内)
1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882(明治15)年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設した。1923(大正12)年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続する。
 

立教学院発祥の地  住所:明石町10(聖路加看護大学構内トライスラー記念館入口)
ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老会に所属した。
 

芥川龍之介生誕の地  住所:明石町10 聖路加国際病院前遊歩道の出口の右側。
1883(明治16)年ごろ、この付近(当時の京橋区入船町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場があった。芥川龍之介(1892~1927)は、1892(明治25)年3月1日、その経営者新原敬三の長男としてここに出生。誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られ、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子に。
         

浅野内匠頭邸跡   住所: 明石町12先
常陸笠間藩主浅野長直(1610~1672)は、1645(正保2)年、播磨赤穂に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称した。子の長友の代に分与して5万石となる。  ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していた。  浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、1701(元禄14)年、勅使の接待役に推されたが、3月14日その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日切腹を命ぜられた。この江戸屋敷や領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶した。
これが「忠臣蔵」の発端である。その時の将軍は「犬公方」と呼ばれた徳川五代将軍・綱吉である。綱吉は「生類憐みの令」を発布しているが、これは儒教の教えから来ている。その中に『親に孝』があって、綱吉は実に親思いであった。そのため母親・桂昌院に女性最高位の従一位を賜った。
江戸に下向した直視から伝えられたのが刃傷事件が発生する2日前のことだった。饗応役が浅野内匠頭。めでたい直視を迎えての前代未聞の不祥事に綱吉が激怒したのはいかばかりか。一切の取り調べは行われずに即刻切腹の沙汰となった。綱吉が母親に高位の官位を望まなければこの事件は無かったのではと最近読んだ本に書かれていた。
 
ここは、赤穂浪士の関係場所を回った際に訪れている。
          赤穂浪士関連 : 時は元禄15年 赤穂浪士、吉良邸に討ち入る
                      赤穂浪士討ち入りの日に因み、ふるさと平間周辺散歩

慶応義塾発祥の地  住所:明石町11先(聖路加看護大学付交差点)  
慶応義塾の起源は1858(安政4)年、福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
         
             「慶応義塾発祥の地」(左)と「蘭学事始めの地」(右奥)の碑は一緒にたっている。

蘭学事始めの地  住所:明石町11先(聖路加看護大学付近交差点)
豊前中津藩奥平家の下屋敷があった所。藩医の前野良沢らがオランダの解剖書の翻訳に取り組み、「解体新書」を完成。蘭学ゆかりの地である。当時の苦心の様子は、杉田玄白の「蘭学事始」に詳しく書かれている。
ここで、深川を巡った際に登場したエレキテルの平賀源内がここにも登場する。源内と玄白は親友で、「解体新書」の人体を描いた小野田直武を紹介している。小野田直武は源内の西洋画の弟子である。西洋画の立体を表現する技法が必要であったからだ。
         

タイムドーム明石 明石町12-1
2005(平成17)年創立の区立文化施設。地域の歴史・民俗資料を収集・保存し展示する。江戸時代以来、商業の中心地として栄えてきた日本橋・京橋地域の商家と職人に関連する品々などが展示されている。
         

外国人居留地があった場所は、聖路加病院関連と高層マンションや小学校が建ち並んでいた。
その明石町から次は、海に時代がデザインした「築地」の街へと移る。


                       関連 : 海に時代がデザインした「築地」を歩


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