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義経腰越状の満福寺

2014-04-23 16:40:55 | 鎌倉巡り
1185(元暦(げんりゃく)2)年、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経主従は、平宗盛親子を捕虜として鎌倉に凱旋しようとしたが、腰越の満福寺で止められた。
(1185年は平家方の元号としては寿永4年でもあり、資料によっては元暦と寿永が使われている。)
義経は、頼朝の側近で幕府創設に貢献した公文所別当・大江広元に書状を送り義兄・頼朝に許しを得ようとした。この書状が、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」、「平家物語」や「義経記」にも記載されている、義経の「腰越状」である。
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。・・・」ではじまる和様漢文体の長文で、当時の切々たる義経の心情をよく表したものと言われる。
義経主従は満福寺に5月15日から6月9日まで滞在した。しかし思いは届かず京に戻った。
それから4年後、義経は逃亡の果てに奥州藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ自刃した(1189(文治5)年4月30日享年31)。
その後、腰越の海岸で首実験が行われ、死んでも義経は鎌倉に入ることが出来なかった。
首実験のあと義経の首は腰越の海岸に晒され、海に打ち捨てられた。ところが、義経の首は潮に乗って境川を遡り白旗神社近くまで辿り着いた。その首を里人がすくい上げ、井戸の水で首を清め、近くに塚を設け葬った。
義経は死して伝説を残し、頼朝は死して歴史を遺したとどなたかが言ったとか。その井戸は「義経首洗井戸」と呼ばれている。
その後、鎌倉御所は義経の怨霊に悩まされ、頼朝の命により現在の小田急・藤沢本町駅付近にある、白旗神社に義経は祀らる。一緒に戻った弁慶の首は、白幡神社近くの八王子社に祀られたと、神社の伝承にある。
          関連の義経首洗井戸・八王子社・白旗神社旧東海道「藤沢宿」を歩く 2(クリック)に掲載

         
腰越状の寺・満福寺は、744(天平16)年、行基が開山した京都大覚寺派真言宗の寺院である。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ・668~749)は、朝廷が仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池、溝と堀、架橋や困窮者のための布施屋(ふせや=旅行者の一時救護・宿泊 施設)の設立など数々の社会事業を各地で行った。しかし、朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、聖武天皇により奈良の東大寺大仏造立のため勧進活動を行い、日本で最初の大僧正に任じられ、また、東大寺の「四聖」のひとりに数えられている。 



行基加持瑠璃光水



義経・弁慶に因む数々

日本最大級の「寿老人」・「腰越状の下書き」をベースにしてに作った版木(1820(文政3)年)から刷ったもの


「腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだ硯の池


義経の手洗い井戸


義経供養碑(左)と弁慶手玉石


弁慶腰掛石


義経公屋島大合戦勝軍御帰陣之図(歌川芳藤)


京五条橋の牛若丸 右に弁慶もいるが人形の影になっている


義経 静御前 吉野の別れ


義経 弁慶


静御前は義経と別れた後捕らわれ鎌倉に送られる 静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられる
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


腰越は、中世の鎌倉―京間を結ぶ街道の宿駅で、鎌倉からの西の門戸(もんこ=出入口)であった。
腰越という地名の由来は、「天女と五頭龍」伝説がある。それは、
昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていた。津村の港に来ては子どもを食べてしまうため、人々は泣く泣くこの地を離れたことから この辺りを「子死越」「子死恋」と云うようになったと。
また、その五頭竜の難を逃れるために人々が腰まで水に浸りながら避難したことによるという説などもあるようだ。
このはなし、2月に江ノ島を周った際に、恋人の丘「龍恋の鐘」の案内板に書かれていた。『かまくら子ども風土記』にも載っているようだ。
このはなしの続きは、子死越前方の海上に密雲が何日もわたってたてこめたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島ができていた。これが現在の江の島とか。
この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天と云われ、五頭龍は腰越の瀧口明神社に祀られている。





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