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信州・真田氏ゆかりの地を訪ねる  その1

2012-06-17 11:07:17 | 信州路&甲斐路
真田氏ゆかりの地を訪ねる

真田氏といえば、真田幸村(信繁)、大助(幸正)親子の名が浮かぶ。
私の子供時代は、真田十勇士も登場するマンガや映画が数多くあって、それを観ては楽しんだ。
入梅前の2日間信州を旅し、真田氏ゆかりの地を訪れ、戦国時代から幕末までの信州における真田氏一族の歴史の一片にふれてみた。

           
 
          
真田氏本城跡  上田市真田町長十林寺
真田氏本城は、長野県小県郡(ちいさがたぐん)真田町にあった山城であり、戦国期に活躍する真田一族発祥の地である真田の郷にあった。別名「松尾城」という。
築城は天文年間(1532-55)に真田幸隆の手によると伝えられるが、発掘調査によると真田氏以前にもこの地には、山城が存在していたと考えられている。
1551(天文20)年に、武田信玄の命を受けて小県の所領を回復した後、幸隆・信綱・昌幸の三代にわたって真田本城およびその支城群が整備され、上田城に移るまでの真田氏本城であったと考えられている。
当時の真田氏本城については資料が残されておらず、不明な点が多いという。
      



           
                    本城跡から真田郷をのぞむ


真田氏館跡  上田市真田町本原
真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、地元では現在でも、「御屋敷」と呼んで親しまれている。
築造は永禄年間(1558~70)の頃と推定され、幸隆、信綱、昌幸の三代にわたっての居館であったが、1583(天正11)年、昌幸の上田築城によって当主の居館としての使命は終わっっている。
この地は、北東に真田氏本城、東に天白城、北に神川を隔てて横尾城と尾曲城、西に戸石城と矢沢城と近い距離に真田氏の城群を望むことのできる真田郷の要衝の地である。
また、中世豪族の居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の貴重な遺跡として1967(昭和42)年に長野県史跡の指定を受ける。
現在は「御屋敷公園」として整備され、真田氏歴史館も隣接して建っている。 
本城跡には、真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太(こうたい)神社が今も祀られている。

                       館跡の地図と真田氏歴史館


                             皇太神社


上田城  上田市二の丸
上田城は真田昌幸が、1583(天正11)年、千曲川沿いに築いた。
昌幸は旧主である武田信玄にならって領民に善政を敷き、上田はこの地域における中核的な城下町として成長していった。
幸村(信繁)の父・昌幸は、武田氏家臣に始まり、織田・北条・徳川氏や上杉氏など主家を転々と変え、最終的に豊臣秀吉の家臣となる。
1585(天正12)年と1600(慶長5)年の二度にわたる徳川軍との「上田合戦」では、昌幸が勝利している。
第二次上田合戦では、西軍(関ヶ原の戦)に加わり、徳川二代将軍・秀忠率いる3万8千人を3千5百人の兵力で撃退した。
しかし、西軍が敗れたため、昌幸・幸村父子は紀州九度山に幽閉され、上田城は破壊される。
代わって東軍に与した長男の真田信之が父の領地を継承、信之は1616(元和2)年上田に移り、徳川体制下における真田氏の上田藩9万5千石が成立した。1622(元和8)年、幕命によって信濃松代藩へ移封される。
真田氏移封後の上田城は、仙石氏が入城し、破却された上田城を再建した。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園になって市営球場、市民会館、市立博物館などが置かれている。本丸跡には、明治時代に歴代城主を祀った松平神社が建立され、現在では真田神社と呼ばれている。
境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。

上田城三櫓

         南櫓                  北櫓                  西櫓

           
                           東虎口櫓門

           
            松代への移封の際昌之が父の形見として持って行こうとした「真田石」

           
               城外への抜け穴と思われる井戸 奥は真田神社の神殿


松代城  長野市松代町松代
1622(元和8)年、真田信之が上田藩より移封されて以降、明治の廃城まで約250年間、譜代待遇の外様大名松代藩真田家十代10万石の居城となった。
譜代待遇とは、八代幸貫(ゆきつら)が、徳川八代将軍吉宗の孫である松平定信の子にあたるためである。
幕末では、比較的早くから討幕で藩内が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参戦している。
松代城は、武田信玄が、越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、山本勘助に命じて武田方の前進基地として築かれた海津城が始まりといわれる。当時この城は、北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていた。
          

          


真田邸(御殿跡)  長野市松代町松代
真田邸は、1864(元治元)年、九代藩主幸教(ゆきのり)によって建てられた。当初は義母・貞松院(ていしょういん)の住居として建てられたが、僅か100日間使われただけで、その後は幸教の隠居所となった。明治以降は真田家の別邸として使用されていた。
邸内には、小堀遠州作の流れをくむという心字池を中心とした庭がある。




       

           




真田山長谷寺  上田市真田町長
長谷寺(ちょうこくじ)は、真田氏の祖となった幸隆が妻の菩提のために、1547(天文15)年に開いた寺院である。その後三男・昌幸によって真田家の菩提寺となった。1622(元和8)年、真田家は松代に移封となったため、菩提寺は信之によって松代の長国寺になり、長谷寺はその末寺となっている。境内には、幸隆夫妻と昌幸の墓がある。
真田家は家系図によると幸隆から先の先祖が示されているが、家系図は大名となった江戸時代に示されたもので信憑性には疑問があるといわれる。はっきりしていることは、戦国時代の初めのころ、信州小県の山間にある真田郷に真田幸隆と名乗る小豪族がいたということだけのようだ。
寺院の参道には、六文銭が陽刻されたアーチ型石門がある。これは、創建当時のものといわれる。

                  長谷寺参道 中央に六文銭が刻まれた石門

           
                            長谷寺本堂



               
                         真田幸隆夫妻と昌幸の墓所

文武学校  長野市松代町松代
松代藩・八代藩主幸貫(ゆきつら)は、文武の奨励を目的として、1851(嘉永4)年に水戸の弘道館に習った文武学校(藩校)の建設準備をし、九代藩主・幸教が幸貫の遺志をついで建設に着手した。
建物は1853(嘉永6)年に完成したが、藩主の居宅の火災などで開校は1855(安政2)年まで遅れた。
本校の特徴は他藩と違い儒教の教えを排除した点にある。
学校の授業は、文学(漢学)・躾方・医学・軍学のほか、西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸と文武両道を目指すものであった。
明治に入って兵制士官学校を併設し1871(明治4)年の廃藩による閉鎖まで多くの人材を輩出し、近代日本の発展に大きく寄与した。
建物は、現在も開校当時の姿を留めている。
          

          





六文銭
六連銭或いは六文連銭というようで、信濃国・小県の氏族・滋野氏が使用していた紋でその流れをくむ諸族が使用していたという。真田氏も滋野氏族の流れなので使用してはいたが、戦時の旗に入れる旗紋など定紋の替りの替紋として用いられていたようだ。
真田氏が六連銭を用いたのは真田氏の祖ともいうべき幸隆が武田氏に臣従した際だとの逸話が残されている。
だが、我々にとっての六文銭は真田幸村であろう。
           

真田氏の歴史にふれてみたとかっこ良く始めたが、「信州・真田氏ゆかりの地」を辿るのはまだ序の口に過ぎないことを行き先々で感じた。
そこで、今回は「その1」ということにして、再度「信州の真田氏ゆかりの地」を旅してみたい。



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