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世界遺産・富岡製糸場

2014-06-21 17:26:00 | 養蚕・シルク
明治維新直後、日本の近代国家へのいしずえとして、緑茶、生糸が日本の外貨獲得のための最大の商品であって、重要な産業であった。
それまでの日本の製糸業は、伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸であったため、良質な生糸を大量生産できずに、粗悪品やにせものまでも輸出し、不当な利益を得ようとする商人たちが増えて問題となっていた。
          
さらに外国資本導入の動きもあった。
そこで、日本政府資本による器械製糸場の設立計画が打ち出され、尾高惇忠(あつただ)を創立責任者として、フランス人技師ポール・ブリュ―ナを迎え、上州(今の群馬県)富岡の地に、富岡製糸場の建築計画が始まり、1872(明治5)年、現在の金額で600億かけ工場が完成、操業を開始した。
          
しかし、開業当初は西洋人に近寄ると生き血を吸われると、工女が集まらず順調な出だしとは云えなかった。ワインの色が血だと思われたようだ。このことは「明治政府告論書」にも記されている。
尾高は知人を頼りに工女を探したが、集まらず、娘・勇(ゆう・14歳)が率先して工女1号になり、ようやく188人でスタートする。
          
開業の翌年には、「富岡日記」という工女生活を著わした横田英(えい)が信州からやって来る。
彼女は入所して8ヶ月で1級工女となる努力家で、1年4ヵ月の富岡生活を終えた後は、郷里に新設された民営の製糸場で指導工女を務めるなど地域産業にも貢献する。    
       
                尾高勇                              横田英
                    関連 : 横田家住居
                             (信濃国・真田家松代藩武家屋敷を訪ねる)  

労働時間は朝7時から夕方4時半で、休憩が3回あり、実働7時間45分であった。また休日は、週一で、夏休み・冬休みがそれぞれ10日間あり、富岡製糸場の官営時代は女工哀史とは一線を画す恵まれた労働条件であった。
女工は4ランクに分けられ見習いの等外から、糸取りが3、2、1等に分けられ、1日4束取れると1等工女となり赤いタスキと高草履が支給される。給料も等外9円に比べ1等工女は25円と高く、町中でもあこがれの的となり、錦絵にも登場している。但しその1級工女は全体の3%にすぎなかった。それも当然で、糸つぎの技術が難しく高度の技術を必要とした。これこそが、日本の品質の良い物づくりの原点である。
               

          

          

世界遺産の対象となったのは1872(明治5)年から75(明治8)年にかけて建てられた以下の施設である。
繰糸所
繰糸(そうし)工場とも呼ばれ、富岡製糸場の中心的な建物である。
敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140m、梁間12m余である。小屋組は木造のキングポストトラスである。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって電気のない時代の採光になっている。この作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。
操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された。なお、操業当初の器械を含む過去の器械類については、岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈されている。
          

          

          
          
          

          

          

東置繭所・西置繭所
東繭(まゆ)倉庫と西繭倉庫とも呼ばれる。
繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。
桁行104m余、梁間12m余、木骨レンガ造2階建てで、風通しなどへの配慮から2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設けてある。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていた。
          

          

          

          

首長館(しゅちょうかん。1873(明治6)年竣工)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)
繰糸所の東南に位置する、木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺きの建物である。平面はL字形を呈し、東西33m、南北32m余である。内部は後の用途変更のため改変されている。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。最も、この建物は面積916m2余と広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、フランス人教婦たちも女工館ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎としても使われた。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある。
          

女工館(じょこうかん)あるいは2号館
首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20m、南北17m余である。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、来日した4人の教婦は病気などで、4年の任期を全うできずに早期に帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった(前述のように、そもそも短期間さえフランス人が暮らしていなかった可能性もある)。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された。
          

検査人館(けんさにんかん)あるいは3号館
1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西11m、南北19mである。元々はブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、男性技術指導者は早期に解雇され、その後外国人医師の宿舎になっていたようである。正門近くにあり、現在は事務所になっている。首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の洋風住宅と規定されている。なお、1881(明治14)年の記録には第4号官舎、第5号官舎もあったようだが、現在は失われている。
          

蒸気釜所(じょうきかましょ)
繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が、後者は汽罐室の一部が残ったものである。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した単気筒式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は博物館明治村(愛知県犬山市)で展示されている。
蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており、蒸気釜所の「附(つけたり)」として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒(えんとう)基部 1基」)。
当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36mを備えていたが、1884(明治17)年に暴風で倒れてしまったため、現存しない。なお、現在の37.5 m高さの煙突はコンクリート製で、1939(昭和14)年に建造されたもの。
          

          

          
鉄水溜(てっすいりゅう)
鉄水槽とも呼ばれ、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15m、深さ2.4mであり、石積の基礎を有する。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる。
          

下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう)あるいは煉瓦積排水溝
いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠(あんきょ)である。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物に並行して東西に通じ、延長は186 m。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135 m。排水は鏑川に注がれた。
          


候門所(こうもんじょ)
正門脇で出入りする人々をチェックしていた建物で、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附(つけたり)」として指定されている。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した。のちに社宅に転用された。
                              

製糸場を入ってすぐ右手に記念碑が建てられている。そこには代々、工女たちに歌われた歌が碑に刻まれている。
『いと車 とくもめぐりて 大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ』
これは、明治天皇の皇后・昭憲皇太后が富岡製糸場に訪れた際に詠まれて歌である。
                  
皇室と養蚕は「日本書紀」にも記載があるほどで古くからの関係がある。、皇室が本格的に養蚕取り組んだのは昭憲皇太后からといわれ、養蚕を国家的事業にという力の入れようがわかる。
皇太后の行啓は1873(明治6)年6月19日に赤坂仮皇居を立たれ、4日間かけて富岡に到着した。丁度梅雨時のことであったが、今年の天候と同様豪雨に見舞われ、途中の2河川の橋が流されるほどのもので、一行100余人は大変困難を極めたという。
皇太后は富岡でもう1首読まれている。
『とる糸のけふのさかえをはじめにてひきいたすらし国の富岡』と、糸によって近代化を図る原動力が富岡にあるときっぱりいいきっている。
また、世間では、こんな歌が当時流行っていた。
『(前略) 音に聞こえし 富岡よ 糸とり車は 金車 17、8なる 女郎衆が 髪ははやりの 束髪よ 縮緬たすきを あやにとり もみじのように 手をだして 糸とる姿の 美しや (後略)』
伊勢音頭風の「富岡製糸場」という歌であるが、工女を美化している。
のちの時代には、信州諏訪地方の工女で流行り全国に広がっていった「糸ひき唄(工女節)」の中に、
男軍人女は工女 糸をひくのも国のため』『主は軍人わたしゃ工女 共にお国のためにする』 
単調な作業の中で歌われた糸ひき唄には、明治政府の政策「富国強兵」をずばり物語っている歌詞がはいっている歌もある。
明暗様々な歴史のある製糸業を代表する、富岡製糸場が世界遺産に選ばれた価値は十分あると感じ、喜ばしいことである。


                                         資料:富岡製糸場
                                             NHK-TV「ヒストリア」
                                             朝日新聞社「あゝ野麦峠」


 
わが家の蚕さま


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