あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鎌倉へ初詣2014

2014-01-09 11:27:46 | 鎌倉巡り
2014年の松の内に鎌倉の好きになった寺院3社を中心に初詣へ出掛ける。

先ずは、杉本寺。

時間を短縮するために、駅をおりると、乗客が込みあったバスが停車していたので、それに乗った。
松の内とはいえ官庁・企業は仕事が始まった平日なのにバスは、渋滞にはまった。壇葛(だんかずら)を歩いて八幡宮に詣でる参拝者がバスを次々に追い抜いてゆく。
バスに乗ったのは失敗だったのかと思ったが八幡宮を過ぎるとスムーズに進んだ。逆に八幡宮に向かう対向車線の車の列が何処までもつながっている。渋滞の元は、八幡宮の交差点のようだ。
杉本観音で降りたが、渋滞の列はまだまだ、はるか彼方まで続いている。鎌倉渋滞は、話には聞いているが、こんなにすごいのだとは驚きである。平日だが、まだ松の内だからなのか。
 
杉本寺の参道を上がってゆく。
拝観料を払って、参道を上がって行くと茅葺屋根の仁王門の金剛力士像が迎えてくれる。運慶作と伝えられる。
さらに本堂までの細い参道を上がってゆくと、ところどころでスイセンが咲きはじめている。
           
本堂は、秋から始まった、屋根の茅葺き替え工事のためパイプで覆われたり、苔むす石段には工事用機材が乗っているのは残念だ。
本堂に上がると、お勤め中で、ひとりの僧侶が般若心経を読んでいた。それが太鼓を叩きながらの読経である。すぐ後ろに正座して拝聴した。太鼓での般若心経も感動的だ。
昨年花まつりの建長寺での2~30人ほどの僧侶による般若心経も良かったが、この読経は、太鼓というイッパクトがあって、胸を突いた。
本堂内の仏像が、間近で拝めることもうれしい。
開山の行基作や頼朝が寄進した等の十一面観音像5体があることも素晴らしい。その中でも、本堂中央奥の薄明かりの中に安置された3体の十一面観音像を、他の参拝者を気にせず拝観できることがうれしい。
また、右手の毘沙門天像や不動明王像も素晴らしい。
杉本寺は、八幡宮の雑踏とは裏腹に、数人の参拝者が訪れているにすぎなかった。
 

次は、長谷観音参道を1本北に入る光則寺である。
鎌倉駅までもバスの予定だったが、この渋滞では時間が読めないので、歩くことにした。
途中、1180年に鎌倉幕府が開かれた時代が修正された、大蔵幕府跡や法華堂跡(頼朝の墓)も立ち寄り、八幡宮をかすめた。
 
大蔵幕府跡がある小学校前と源氏の家紋「ささりんどう」(右)

 
白幡神社(左)と頼朝法華堂跡への参道
 

その先、下馬の交差点から長谷へ道のりも遠い。江ノ電に乗っても3駅目だ。
だが、道筋には、六地蔵や庚申塔群、それに古い建物があって変化がある。
 

 
寸松堂(すんしょうどう):鎌倉彫の店舗併用の住宅、寺院建築と城閣建築が合体した外観、1936年建造。

きんつばの店「鎌倉いとこ」の右手を入る。左手は参拝客が多い長谷寺への参道だ。
人がまるっきりいない広めの路地を進むと光則寺参道へと続く。。
拝観料を賽銭入れのような箱に入れ山門を入る。四季を通して花が楽しめる案内のマップが置かれているが、この時期は侘助をはじめとする椿がちらほら咲くばかりであった。
日蓮の弟子で、この寺を開山した日朗が捕らわれていたと云う土牢へ、久々に向かう。途中で20人ほどの団体と行き交う。年齢構成からして墓参に来た方々のようだ。鎮まった寺院も、その時だけ賑わった。
土牢前から墓地が見渡せ、傾斜地にはスイセンの群生が眺められた。
境内には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の横長の碑がある。ある本によると賢治は、中学時代より法華経の信仰を深め、この詩は、法華経の真心を説いたものとされる。
 

 
光則寺を後にする。参道には蝋梅の花がわずかばかり咲いている。
再び下馬の交差点まで戻り、その先は八雲神社に向かった。
八雲神社は、初神楽が奉納される。
                    関連 : 鎌倉八雲神社・初神楽

八雲神社から好きになった寺院の最後にあたる、妙本寺に向かう。
道筋のぼたもち寺・常栄寺も正月飾りが山門に供えられていた。
               

そこからすぐに妙本寺の三門に行きつく。
               
三門横に関東のわらべ歌が貼られてあった。

      お正月さまござった
      どこからござった
      山からござった
      ゆらゆらと
      ゆずり葉にのって
      山からござった
         (ゆずり葉:春に古葉と新葉が一斉に入れ替わるので譲葉「ゆずりは」の名があり、
                                 正月の飾りや神事に用いられる。交譲木(こうじょうぼく)と書いて「ゆずりは」とも)


これは、「お正月さまござった」というわらべ歌で、江戸では『お正月さまござった どこまでござった 神田までござった』と歌ったようだ。
ここに出てくる「お正月さま」とは、歳神様のことで、年のはじめに家に訪れ、家族に幸福を授けて下さる神である。
歳神さまは稲の魂であると共に祖先の御霊(みたま)とも一体であるという信仰から来ていて、正月にはご先祖様が、私たちに幸せを授けに来て下さるという意味を持っているそうだ。
「お正月さまござった」を調べるとこんなことが出ていた。そういえば、子供のころは、正月になると、ラジオをはじめとして、こんな話をどこかで聞いたような気がする。今は忘れられていたことを思い出させてくれた。

                     

三門から左手の方丈門を潜って本堂を進み、その先の二天門に向かう。
 
午後4時を少し回った時間だが、参拝客は目に着かぬ。
途中に鐘楼があるが、春はシャガが一面に咲いていて美しかったことを覚えている。
二天門とは、帝釈天に仕える四天王の内、持国天と多聞天を安置してある門を指す。秋の二天門前は、紅葉で美しいと寺の解説に載っている。
二天門前には手をつないだカップルがひと組いたが、ガランとした祖師堂前の境内を見渡して帰って行った。
人がいなくなった二天門の写真を撮る。持国天と多聞天がライトアップされ、2像が昼間より引き立ち良いアングルとなっていた。


ここから本覚寺を通って駅に戻った。
本覚寺の「本えびす」は、1月10日のこと。点灯した提灯が美しかった。
 

              

          


鎌倉八雲神社・初神楽

2014-01-07 17:55:00 | 鎌倉巡り
鎌倉最古の厄除け神社として知られる八雲神社は、「八雲さん」、「お天王さん」の愛称で親しまれている大町の鎮守である。
新羅三郎義光が兄の八幡太郎義家の助勢(後三年の役・1083~87)のため奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため、京都の祇園八坂社の祭神を勧請したのが八雲神社の始まりと伝えられている。
           
 
正月6日は、八雲神社の伝統ある「初神楽」であり、鎌倉神楽が舞われ、新しい年の豊作や大漁が祈願される。
鎌倉神楽は、「湯立神楽」又は「湯花神楽」とも呼ばれ、各地で行われる神楽の元となったといわれている。
その神楽の由縁は、釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を使って神事を執り行うところからきている。

拝殿前の境内には、竹の四柱がたてられ、五色の紙垂(しで)を挟んだ縄が張られ、斎場が設けられている。
           
          
紙垂は、雷光・稲妻をイメージしてカット折られている。落雷があると稲が育ち豊作となることからだといわれる。
            

斎場の脇には、大釜で湯が沸かされている。
           

定刻15時に神事は開始された。
 

祝詞奏上の後、神楽が開始された。 
神楽は、残念ながら拝殿の中で行われたため、参拝者は遠眼で眺めるように、見学した。       
                

          

          

          

          
          


 
狩衣(かりぎぬ)を脱ぎ、白衣となって拝殿と境内の斎場を往来して、神楽は続く。
 


神官が笹の葉で湯花(湯しぶき)を参拝者に振りまく。これを浴びるとその年は健康で過せるという。
          

          

           

最後は、お供物のミカンや飴が参拝者にまかれる。頂いたミカンはとても甘かった。
           

           


建長寺花まつり・花供養2013

2013-04-10 11:11:11 | 鎌倉巡り
建長寺花まつり・花供養


              


花まつり
 

              



 

 

 

 

 

                
アマチャの木
 
アマチャの木を見たご婦人がアジサイの木と思ったと話していたが、当然ガクアジサイの変種なので大きな違いはないだろう。
アマチャの木とはそんな木。



花供養
 



 

 

  

 

               
花供養の導師のあいさつの中で日本人も江戸時代終わりまでは、日常の挨拶をするときにも手を合わせた。それが明治に入り西洋文化を取り入れる中であいさつも現代行われている形となってしまった。
合掌とは花がたくさんあることを意味することで、全ての草木を供養したい。
この花供養は今年から始めた行事でこれをご縁に続けたいと話された。

 

花供養で二十数人の僧侶が読経する般若心経を聞いていると心が洗われる思いとなった。



         関  連      :鎌倉花まつり

         前回の鎌倉記事:
鎌倉荏柄天神左義長2013

鎌倉花まつり2013

2013-04-09 09:25:13 | 鎌倉巡り
4月8日はお釈迦様の誕生日で花で飾った「花御堂」という小さなお堂に誕生時のお釈迦様を安置し、甘茶を注ぎかける行事が行われる。
これを「灌仏会(かんぶつえ)」といい、通称「花まつり」と呼ばれている。
甘茶を注ぎかける行事は、お釈迦様が生まれた直後に周囲を見わたし七歩あるき、右手を天に指し左手を大地に向けて「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と言ったと。その時に天竜が天から下って甘い露(雨とも)を注いだという説話が元といわれる。

鎌倉のお寺で開かれた「花まつり」をめぐる。



極楽寺 極楽寺3-6-7
 
         
 
花まつりの日前後3日間は本堂及び奥の院の墓地にある高さ4mの忍性塔が特別公開される。


普明山法立寺成就院 極楽寺1-1-5
 
                   
 
シャガ

  
桃の花と白く波立つ由比ヶ浜海岸



海光山慈照院長谷寺 長谷3-11-2
 
 
 
 
 
シャクナゲ



行時山光則寺 長谷3-9-7
 
 
 
外来種のカタバミの仲間(自然が運んだようだ)


ボタン                    オキナグサ

長谷寺に参道から道を1本北に移動しただけなのに参拝客があまり訪れず、しかも四季の花を愛でることが出来、好きな寺院のひとつである。


本覚寺
               
               
 
八重桜



比企谷妙本寺 大町1-15-1




甘茶の接待



参道や鐘楼の傾斜地に咲くシャガ


                 
八重のヤマブキ

 
八重桜

                  
早くもフジの花が咲く


  
亀谷山寿福寺 扇ガ谷1-17-7
 
一般公開はされていない。

海蔵寺 扇ガ谷4-18-8
 
 
 

          オダマキ                      ミツマタ

 
ツツジとシャクナゲ



甘茶は、ユキノシタ科のガクアジサイの変種であるアマチャの若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。乾燥させることによって甘味が生じ、およびそれを煎じて作った黄褐色の飲料が甘茶である。
甘茶を今回初めて飲んだのだが、最初が極楽寺である。砂糖を加えているのではというほど大変甘い飲み物であった。
その極楽寺から甘茶の梯子が始まった。檀家の方の接待があったり、給茶器が置いてあるお寺もあった。
「花まつり」の季節は、その名の通り多くの花が咲き乱れる。
鎌倉では週末に「鎌倉まつり」が始まり翌週には流鏑馬神事が行われる。鎌倉の華やかな季節が到来した。



         関  連      :建長寺花まつり2013
         前回の鎌倉記事:鎌倉荏柄天神左義長2013

鎌倉荏柄天神左義長2013

2013-01-16 10:44:27 | 鎌倉巡り
                    鎌倉荏柄天神左義長2013


         

         
勧請は1104(長冶元)年。祭神は菅原道真である。
1180(治承4)年、鎌倉大蔵の地に鎌倉幕府を開いた源頼朝は荏柄天神を鬼門の守護神と仰ぎ、改めて社殿を造立した。以降歴代将軍は鎌倉幕府の尊社とした。
盛時には日本三大天神の一つとして福岡の大宰府や京都の北野天満宮に匹敵する天神社で、古来の名社である。



準備
         

         

         

左義長神事
左義長は1月15日10時に始まった。
         

         



         


点火
         



         

         

         

         


雪は降ったが春が 紅梅咲く
                  

         
  

鶴岡八幡宮左義長2013

2013-01-15 16:22:09 | 鎌倉巡り
                      鶴岡八幡宮左義長2013

         

         
            源氏池は全面結氷と思えるほどであった


                   1月15日 朝7時 左義長の神事が始まる
左義長神事は、1年の始めに当たり、けがれをはらい清め、暖かい春の到来と今年の豊かな収穫を祈る火祭りである。
一般に「どんど焼」、「さいと焼」、「ダンゴ焼き」などと呼ばれる行事で、鶴岡八幡宮では、1月15日、午前7時から源氏池北側のほとりで正月の注連飾りや門松などを積み上げ、浄火で焚きあげる。
         

         

         

      

         

         

         

         
             国大付属の小・中学校の生徒の通学時刻となって眺めながら通って行く

         
             紅白のダンゴを持参して左義長の火で焼いている方も見かける

         

         
             片づけをしている(10時半過ぎ)

雪の影響を心配したが、神社では、2~3日前に納められた注連飾りや門松など円錐状に積み上げてシートかけて準備をしているので全く影響はなかったとのこと。
影響があったのは参詣者だけのようだ。
左義長(さぎちょう)の由来を知ったのは、神奈川の東海道宿場町を回っている中で、大磯町を巡った時である。
大磯町の紹介では、左義長の名は、中国の仏教と道教の故事に基づいたものであるが、大磯では明治時代後期(1890~1912頃)に大磯に居を構えた初代内閣総理大臣伊藤博文の側近によって使われ始めたという伝承がある。
1978(昭和53)年に「大磯の左義長」として、神奈川県無形民俗文化財に指定されたために、左義長の名称が一般に普及したと思われる。1997(平成9)年には、国の重要無形民俗文化財に指定されたという。
元々は各地で行われているような道祖神を祭る行事であったようで、毎年1月14日早朝、相模湾に面した大磯北浜海岸に十基ほどの「サイト」と呼ばれる、高さは10mほどのワラの山が作られ、旧年中の神棚の飾り物やダルマなどがくくり 付けられる。
そして、14日の夜、点火される行事のようだ。


                    静かな八幡様にお参りする
         

         

 

         
            本殿内で2人の巫女さんが舞の練習をしていた まだ8時前だというのに

         

鎌倉七福神巡り

2013-01-01 00:00:01 | 鎌倉巡り
新年最初は、おめでたく七福神をとりあげた。
七福神とは・・・。
大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋尊の七人の福徳の神をいう。
福禄寿・寿老人は同じであるとして、吉祥天を入れることもある。
七福神は室町時代末期に京都の町衆文化の中ではじまり、確立したする説が有力である。 但し、初期の七福神の構成は必ずしも一定ではなく、現在の構成が確立したのは江戸時代になってからといわれている。 
上野寛永寺の住職天海僧正の進言に従い、徳川家康が祭祀したものが、全国に広まり、固定化したともいわれるが、その間の事情については必ずしもはっきりとはしない。
その七福神。各地に数々ある中で、世界遺産で話題となっている鎌倉が今は旬と、鎌倉七福神を巡った。
鎌倉七福神。通常は江ノ島の弁財天を含めた八カ所の七福神巡りのようであるが、今回は鎌倉のみの七福神巡りとした。



鎌倉七福神巡り

長谷寺(大黒天・・出世、開運の神)
長谷観音の名で知られている浄土宗の寺。 木造ではわが国最大級の十一面観世音菩薩。アジサイをはじめとする花の寺として人気。大黒堂の大黒天は、「出世開運授け大黒天」。
         


  大黒堂


  こちらには弁財天も祀られている
 

  冬でも花が咲いている 左は10月桜 右は?

         
            携帯で案内が知ることが出来るなんて世の中変わった

撮影できないが木造の十一面観世音菩薩像は圧巻である。


本覚寺(恵比寿・・長寿の神・・商売繁盛、五穀豊穣の神)
夷神は、夷堂に安置され、鎌倉幕府の守護神として源頼朝によって祀られたのがはじまり。日蓮の骨が分骨される日蓮宗の寺。目の病を治す日朝様。しあわせ地蔵。
正月には「鎌倉えびす」が開かれる。
         



      

宝戒寺(毘沙門天・・病魔退散、財宝富貴の神)
北条氏の菩提を弔うため足利尊氏が建立した天台宗の寺。 北条執権屋敷跡。別名萩寺。地蔵大菩薩。毘沙門天は本堂、地蔵大菩薩の左脇に仏母准胝(じゅんてい)観世音と一緒に安置。


     
        聖徳太子堂

鶴岡八幡宮(旛上弁財天・・芸の神、在運を招く神)
鶴岡八幡宮内の源氏池に浮かぶ社。北条政子の創建とも伝えられ、頼朝が旗揚げの際に戦勝祈願。社には弁財天像は置かれておらず、鎌倉国宝館に鎌倉時代の弁財天像が置かれており、「裸弁財天」として知られている。
         

          



              

           
               八幡宮新年初頭の行事         

御霊神社(福禄寿・・知恵の神)
御霊(ごりょう)神社は平安時代の武将・鎌倉権五郎景政を祀る。 後三年の役で活躍、敵の矢を目に受けながらも奮戦したことから目に御利益があるとされる。9月の例祭では、福禄寿も参加する面掛行列が行われる。
歌舞伎の『暫』は鎌倉権五郎景政が「暫く~」の一声で、さっそうと現われる。
市指定の文化財になっている庚申塔がある。


         

         
           面掛け行列祭りでの11面の中の福禄寿

    
       市指定の庚申塔は江戸時代初期の1673(延宝元)年建立

妙隆寺(寿老人・・長寿の神)
日蓮辻説法址の近くにある日蓮宗の寺。二代の日親上人は、灼熱の鍋を被せられる拷問に耐えたことから「鍋かむり日親」と呼ばれた。本堂前の御堂には、欅一木造りの寿老人像が祀られている。境内には寿老人石像も置かれている。


 

       
                                   鍋かむり日親

浄智寺(布袋尊・・家庭円満の神)
鎌倉五山の第4位 鎌倉十井の井「甘露の井」(クリック)。布袋和尚の石像は境内奥のやぐらの中に祀られている。唐様「花頭窓」の鐘楼。
                   

         

         

         
            布袋尊と観音像



本日の順路
七福神巡りははじめの浄智寺をめぐったら次は、八幡宮なのだが葛原ヶ岡ハイキングコースを選択した。
JR北鎌倉駅=山ノ内501
↓8分【県道21号横浜鎌倉線を鎌倉方向に】
浄智寺=山之内1402
【葛原ヶ岡ハイキングコースを進む】
     
↓12分
天柱峰碑
中国元の僧で浄智寺の住職も務め、この丘を愛した竺仙梵僊が名付けた。「天柱」とは「世を支える道義」という意味。
         
↓12分【葛原ヶ岡ハイキングコースを進む】
葛原岡神社=梶原5-9-1
後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社。
         

         

         
         縁結び石のご祭神 大黒様は 良縁の神様として知られている 男石と女石      
↓15分【葛原ヶ岡ハイキングコースを進む】
銭洗弁天=佐助2-25-16 
頼朝が見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけ、そこに洞を穿ち社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。北条時頼はこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。
         
             神社の入口上方に数個のやぐらを見かける

         


頼朝が夢のお告げをみたのは巳の年、巳の月、巳の日の巳の時刻だったという。正月3日は巳の日なので巳の時刻(9~11時)にこの神社で願い事をすれば、頼朝にあやかって叶うこと大である。なお、元旦は午前6時の開門である。
         
↓15分【葛原ヶ岡ハイキングコースを進む】
佐助稲荷 夢のお告げ(出世稲荷) =佐助2-22-10
頼朝がまだ伊豆に配流中の身であったころ、「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めたという。のちに、鎌倉に武家政権を築き上げた頼朝は、「かくれ里」と呼ばれるこの地に祠を見つけ、御家人畠山重忠に命じて社を建立させた。「佐助」という名は、佐殿(すけどの)と呼ばれていた頼朝を助けたという意味がある。


         

         
         
神社にアライグマとタイワンリスにエサを与えないようにという看板がたっていた。
浄智寺から葛原ヶ岡ハイキングコースに入ってすぐに甲高い鳴き声を聞いた。中型の野鳥の鳴き声だろうと思って歩いていくと、それがタイワンリスの鳴き声であった。少し歩いて行くとまたもタイワンリスが鳴いている。求愛なのか縄張り維持なのか分らぬが、その鳴き声は怖いほどのものだった。
今年、数回鎌倉に来ているが、不思議に一度も見かけていないのだが、今回は八幡宮の境内でもメイン通りをちょっと外れると見かけた。この佐助稲荷の参道でも見る。多いことは事実なのだろう。

↓18分【市役所通りの佐助一丁目信号まで進み、その先西へバス停・一向堂を過ぎる】
北条氏常盤亭跡 鎌倉市常盤 
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えた。この場所は、大仏切通の北に位置し約11万平方メートルが国の指定史跡となっている。史跡内では、「法華堂跡」や「やぐら」が確認さている。「タチンダイ」と呼ばれる「北条政村別邸跡」北面の断崖には、数基のやぐらがあって、一番大きなやぐらの中には、甕(かめ)の形をした穴が残されている。この穴には朱入りの甕が納められていたという。
         

         
北条氏常盤亭跡は、「武家の古都・鎌倉」世界遺産登録でユネスコの現地調査員が見て回った21史跡のひとつである。
今年6月にカンボジアで開かれる世界遺産委員会で登録の是非が決まる。決まってもらいたいものである。
  
     裏山で日光が遮られている場所なのに綺麗なスイセンが咲いていた
↓5分【長谷大谷戸の住宅地を進み、県道32号藤沢鎌倉線を左に長谷観音前信号入る】
長谷寺=長谷3-11-2 
↓6分【長谷観音前信号出て右側ひとつ目の路地を入り道なりに進む】
御霊神社=坂ノ下4-9 
↓8分【江ノ電線路を渡り、ひとつ目の変則十字路を左折、32まで東に、長谷観音前信号まで北上、左折 浜辺を歩く】

         
             冬の渚はさみしくてよせる波だけが騒いでいた
         
本覚寺
↓8分【江ノ電線路を渡り、ひとつ目の変則十字路を左折、32まで東に、長谷観音前信号まで北上、左折】
夷三郎社《蛭子神社》=小町2-23-3 
蛭子神社は小町の鎮守。神仏分離によって、本覚寺にあったという夷三郎社(夷堂)がここに遷され、もともとこの地にあった七面大明神と宝戒寺にあった山王大権現を合祀して蛭子神社となった。社殿は、鶴岡八幡宮末社の今宮(新宮)のものを譲り受けている。
         

         
↓4分【小町大路を北上】
日蓮辻説法址=小町2-22
松葉が谷の草庵(クリック)から毎日小町大路の街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い法華経を教え熱心に説いていた。「煩悩菩薩・生死即涅槃(ねはん)」「南妙法蓮華経」と唱え、人生のいろいろな悩みや執着はそのまま悟りだと思い、法華経を信じる事を説いた。
         
↓5分【小町大路を北上】
妙隆寺=小町2-17-20 
↓5分【小町大路を北上】
宝戒寺=小町3-5
↓5分【宝戒寺前の横大路を西に進むと鶴岡八幡宮鳥居前、三の鳥居に】
鶴岡八幡宮=雪ノ下2-1-31  
【八幡宮からは若宮大路と呼ばれる参道の段葛(だんかずら)を歩く】
           
↓5分
JR鎌倉駅


おわりに
    
            本年もよろしくお願いします 
                       

鎌倉七口・名越切通から材木座、大町の散策

2012-12-01 16:21:05 | 鎌倉巡り
名越から材木座、大町の散策

「国指定史跡名越切通」の道標が立っている。ここから名越(なごえ)切通が始まる。
名越切通
      
岩盤を削った切通の道を少々進んでいくと、直ぐにまんだら堂跡への上り口がある。
切通入口からとっても近かった。石段を登って行くとまんだら堂跡の平地が開けて明るくなってゆく。

まんだら堂跡
         
まんだら堂跡・大切岸はこちらをクリック

まんだら堂跡を後にして鎌倉方向に進んでいく。
道から少し離れたところに名越切通の説明板を見つける。右手に法性寺・大切岸に通じる分かれ道の案内もある。
ここにも「国指定史跡名越切通し」の標識がある。この辺りが名越切通の一番高い位置になるようで、ここから先は下りとなる。
下る前に、右折して大切岸に向かう。法性寺(ほっしょうじ・ほうしょうじ)との分岐の左手に石造建造物石廟が2基ある。

石造建造物石廟
石廟(せきびょう・石造墳墓堂)の内部には火葬骨を納めた蔵骨壺が納められていたという。発見された五輪塔の一部や、かわらけ片などから鎌倉末期から南北朝期に造られた古いものと想像される。
         

 
この石廟は、あまり見かけたことのない珍しい形をしている。埋葬されていたのは誰で、周囲にやぐらが多いの対してここだけ何故このような石廟なのかは全くの謎であるが、何れにしても埋葬者は特別な人物と思われる。

大切岸の上は視界が開け、法性寺の山王様を祀った岡がそこだけニョキっと高くなって見える。
大切岸についての解説板があるのではと進んでは行ったが見当たらないので、戻って法性寺に下ることにした。ここから大切岸を眺める。それと前回は足を運ばなかった山王権現社にも行った。

         

法性寺  久木9-1-33
中世鎌倉の日蓮宗の古刹・猿畠山法性寺(えんはくさんほっしょうじ)。白猿伝説の寺。
日蓮聖人が鎌倉の松葉ヶ谷で様々な法難いあい焼き討ちに遭った際、3匹の白猿が日蓮聖人を助けこの寺にある岩窟に案内したという。
         扁額の白猿

  
   日蓮聖人を祀る祖師堂                 日蓮聖人が隠れた岩穴

再び名越切通に戻り、下り始める。木々で遮られる日陰の下、石段が続く。近くでイベントが開かれているようで音楽が大きく聞こえてくる。
                   
日陰から直ぐに明るくなり、横須賀線のトンネルの上に出る。名越切通ってこんなに短かったかと半年前の記憶をたどってみる。
狭い道を下って行くと広場で町内会のもちつき大会が開かれていた。イベントはふたつの自治会の合同で開かれているようだ。そのひとつが松葉町内会というのだが、むかしこの辺りは松葉ヶ谷(まつばがやつ)と呼ばれ、日蓮が草庵を置いたところでもあり、その地名に因んだ名前が自治会名として残っていることは散策する者としては嬉しい。

  
      
名越坂踏切を渡る。踏切を渡って直ぐに右手の細道に入る。目前に日蓮乞水がみえる。
日蓮乞水
1254(建長6)年、日蓮は名越切通を越えて鎌倉に入ったという。
その折、水を求めた日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺したところ水が湧き出したとされる。
『新編鎌倉志』には、「日蓮乞水は名越切通に達する路傍の小さな井戸を云う 昔日蓮が房総より鎌倉に来る時 此処にて清水を求めしに俄かに湧出せしとなり 大旱にも涸れる事なしとぞ、鎌倉五名水の一なりと云う」と記されている。
現在は、井戸の形をしているが、元は湧き水であって、穴があいているだけであったという。鎌倉五名水のひとつ。
「南無妙法蓮華経日蓮水」(1253(建長5年)と刻まれた石碑がある。この通りを進んで、名越踏切前行くと、ここにも「日蓮水」と刻まれた石碑がたっている。


バス通りに出て、鎌倉十井「銚子ノ井」前から5月の時にはこの先を北上したので今回は南下のコースを選び、バス道路を渡って「大町五丁目3」の住所表示のある路地を入る。
長勝寺松ヶ谷草庵
名越の松葉ヶ谷は、現在の材木座から大町付近といわれている。名越の谷(やつ)を出て西に向かった中心地が材木座であった。材木座は商業地として繁栄していて、海岸には舟が行きかい市が開かれていた。ここで働く下層民や流れ者という浮浪人などが集まって居住したのが名越という(石井進著『御家人制の研究』)。日蓮聖人はこのように、商工業者や流民など雑多な人々が日常生活をしていたところに、鎌倉仏教の祖師となった日蓮聖人はあえて庵室を構えた。
         

再びバス通りに戻って、鎌倉駅方向に歩き、長勝寺バス停前を左折すると右手に長勝寺がある。
大きな本堂の前には日蓮上人と四天王の大きな像が置かれている。その大きさに驚く。

長勝寺  材木座2-12-17
日蓮宗の寺院、山号は石井山(せきせいざん)。本尊は大曼荼羅。大本山本圀(国)寺(六条門流)の旧末寺。
鎌倉時代の武将、松葉ヶ谷の地頭である石井長勝が迫害された日蓮上人を保護し、屋敷を庵として寄進したのがはじまり。法華堂という祖師堂は室町時代の建物で関東最古のものとされており、三門は江戸時代のものという。
         

         

          法華堂

         
ゴーカートの事故で亡くなった日活映画俳優赤木圭一郎(1939~61)の記念碑がある。日活は今年100周年を迎えた、そんな時に参拝したのも何かの縁であろう。

長勝寺の裏門を出て前の道を西へ、ひとつ目の路地を南下する。
来迎寺  材木座2-9-19
源頼朝が1194(建久5)年、旗揚げの時に頼朝に加勢して平家方の軍勢と闘い、89歳で戦死した衣笠城主・三浦大介義明(1092~1180)の冥福を祈って建てた真言宗・能蔵寺(のうぞうじ)という寺がかつてあったといわれている。開山の音阿が時宗に帰依したため、改宗して、寺の名前も来迎寺(らいこうじ)と改められた。
   
境内には、三浦義明の墓と、石橋山の戦いに敗れ三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠の軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓といわれている高さ2mほどの大きな五輪塔がある。
境内を外れた奥には家臣の墓の石塔群がある。


路地を尚も南下、左手奥に。
五所神社  材木座2-9-1
もとの乱橋村には三島社、八雲社、金毘羅社が、材木座村に諏訪社、視女八坂社があったが、乱橋村と材木座村が東鎌倉村に編入され、1873(明治6)年に三島社が材木座の鎮守として村社となり、1908(明治41)年に他の4社と合祀され、五所神社となった。

境内には猪に乗った摩利支天(下左)やお春(下右)などの石仏像がある。お春さんは「かくれキリシタン」だそうで、手を後ろにしばられて、苦しい表情をして、天の光(救い)をもとめている姿だという。
      

さらに路地を南下、左手に。
實相寺  材木座4-3-13
日蓮宗の寺院。山号は弘延山。
実相寺の境内は鎌倉時代の武将・工藤祐経(くどう すけつね・?~1193)の屋敷跡で、1271(文永8)年、日蓮聖人が佐渡に流されている時に、日昭()1236?~1323)が、一門の教化・統率の拠点として開いた濱土法華堂がはじまりとされる。
日蓮聖人入滅後、1284(弘安7)年に濱土法華堂を寺とし、法華寺とした。本堂は、1868(明治初)年の火災の後に再建された。

もっと南下、突き当たったら左手に、ひとつ目右手の路地曲がり道なりに行って左手。
補陀洛寺  材木座 6-7-31
頼朝が1181(養和元)年、文覚(もんがく・1139~1203)を開山として建てたといわれている。ここは、頼朝御祈願所であり、頼朝の供養をここですることになっていたといわれている。竜巻や火災の被害を受け、別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれる。
         

補陀洛寺向かいの路地を西に、突き当たった道路を右に曲がる予定だったが、ふと左手を見ると海があった。
材木座といえば海岸だろうと海に出た。
ウィンドサーフィンを楽しんでいるたくさんのボードが海に浮かんでいた。

材木座海岸
         

この辺り(材木座)を歩いていると、住宅や店舗に昭和のかおりがする建物が目についた。
         

バス道路を北上、左手に。
九品寺  材木座5-13-14
浄土宗の寺院。山号は内裏山。本尊は阿弥陀如来。
この寺は、新田義貞(1301~38)が鎌倉幕府滅亡後に北条方で亡くなった者の菩提を弔うために、1336(建武3)年に創建したものと伝えられる。


道路を北上、十字路奥左手。
向福寺  材木座3-15-13
本堂と庫裡だけのひそやかな寺。本尊の阿弥陀三尊像は南北朝時代の作といわれる。鎌倉三十三所観音霊場第十五番札所。 
向福寺は、『丹下左膳』の作者林不忘(はやしふぼう・長谷川海太郎・1900~35)が新婚生活を送ったといわれる寺。
開山の一向は、時宗の開祖一遍上人(1239~89)と同じく、鎌倉時代に各地を遊行し、踊り念仏によって教えを広めた。本尊は観音、勢至の両菩薩を脇侍とする木造阿弥陀三尊像で、南北朝時代の作といわれている。
1923(大正12)年の関東大震災によって、文政年間(1818~1829)に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は1930(昭和5)年に再建されたもの。
         

更に少々北上、妙長寺の手前に。
鎌倉十橋・乱橋
新田義貞が鎌倉に攻め入ったときに、北条軍が乱れ始めた場所であることから「乱橋」と呼ばれるようになったといわれる。
      

更に少々北上、右手に。
妙長寺  材木座2-7-41
開山の日実は、伊豆で日蓮聖人の命を救った漁師、舟守弥三郎の子(一説には本人)であり、後に鎌倉を訪れた彼は沼浦(材木座)に一堂を建立した。これが妙長寺のはじまりという。
1878(明治11)年建立の鱗供養塔は、鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商たちの手によるもので、古くから庶民に親しまれてきた寺である。
『高野聖』などで知られる作家・泉鏡花が、1891(明治24)年のひと夏をこの寺で過ごした。その時のことを小説『みだれ橋』(後に『星あかり』と改題)に書いていると教育委員会の解説が貼られている。

三門前には檀信徒以外の入山お断りの立札が、これで親しまれてきた寺なの?。

北上し、横須賀線手前を左手して進むと、すぐ右手路地の入口に「元鶴岡八幡宮」の石碑がある。
由比若神社(元八幡・国史跡)  材木座1-7
1063(康平6)年、頼朝が奥州征伐に祈願して、勝利を収めた後石清水八幡宮を最初に勧請した由比郷若宮の跡といわれ、頼朝によって現在の鶴岡八幡宮に移された。
鳥居の左手に「源義家公 旗立の松」の残骸がたっている。義家(1039~1106)が後三年戦役に向う時に社殿を修復し、ここに白旗を立てて武運長久を祈ったという。


          
神社の文学案内板に「元八幡横の芥川龍之介旧居跡」という興味ある文章が書かれているので紹介する。
龍之介(1892~1927)は1916(大正5)年、東京帝国大学英文科卒業後、横須賀海軍機関学校の嘱託英語教官となり、この地に住まいを設けた。当時、元八幡の北側一画に小山別荘があり、別棟の広い家を借りていた。間取りは8畳2間とその他3間に湯殿と台所がある広い独立家屋であり、庭には池もあった。一度横須賀に転居したが結婚後再びこの地に戻った。
1919(大正8)年執筆に専念することで田端の実家に帰るまでのつごう2年前後の生活のようであったが、当時のことを『彼等の家は東京から汽車でもたっぷり1時間かかる或海岸の町にあったから。』と絶筆となる「或阿呆の一生」に書いているという。
1か月前に芥川家の墓に行ったが今度は住居跡かって感じ。
これをまとめている時に、たまたま結婚前の彼女へのラブレターの話がテレビ番組で放送された。鎌倉散策から離れるが記しておく。 
龍之介の嫁さんとなるべき人は塚本文(つかもとあや・1900~68)さん。結婚する2年前の夏のこと。
大正5年、九十九里の一の宮海岸一宮館に滞在していた龍之介は、16歳の女学生であった文さんに熱烈なるラブレターを送った。

『文ちゃん。
僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして 暮らしてゐます。
何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます。・・・』 
という文章で始まり、そして、
『貰ひたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。
勿論昔から 好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。』
ストレートで飾り気のない長~い文章で、熱き思いを綴っている。
この恋文は有名だそうで、2年後彼女が女学校在学中に結ばれている。文18歳、龍之介27歳であった。写真でみると気難しい龍之介の印象であるが、女性に対する熱き想いは人並み以上であったようだ。
だが、8年後龍之介は睡眠薬で服毒自殺ををしている。龍之介曰、2年ばかりの間死ばかりを考え続けていたという。それでなのか、文が「お父さん、良かったですね」と語りかけという。
熱烈なるラブレターを送ったはずなのに、短かった結婚生活。
滞在した九十九里の一宮館は今や、龍之介ゆかりの宿として名を売っている。


北上する道路に戻り、横須賀線の踏切を越えすぐ左手に。
辻薬師堂
1190(建久元)年、頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王山東光寺の境内にあったものといわれる。その後1704(宝永元)年、大町名越御嶽(名越切通の近く)にあった古義真言宗長善寺に移された。その後、大町辻に移り、1674(延宝2)年には、水戸光圀(1628~1701)も訪れている。江戸末期に焼失したが、薬師堂だけは残ったという。明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設された。
                   
次は向かい側に。
本興寺  大町2-5-32
日蓮宗の寺院。山号は法華山。旧本山は比企谷妙本寺。
日蓮上人の鎌倉辻説法の由緒地(現:鎌倉市大町)に、1336(延元元)年、日蓮の門弟「九老僧」のひとり天目が休息山本興寺を建立した。1382(永徳2)年、日什(1314~92)が二世となり、山号を法華山と改める。 「辻の本興寺」とよばれる。
1608(慶長13)年、本興寺二十七世から妙満寺二十七世となった日経が不受不施を説いたため、江戸幕府によって京都六条河原で耳・鼻削ぎの刑に処せられ、関連寺院は取り潰された。これを慶長の法難という。
なお、日経が与同した師日奥らの不受不施派は、キリシタンとならんで幕府の厳しい詮議の対象となった。このため、三十世日顕(1922~)により1660(万治3)年、 鎌倉郡飯田村(現在の横浜市泉区飯田)に寺基を移したのが本興寺である。
その10年後の1670(寛文10)年、比企谷妙本寺歴代照幡院日逞が辻説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に本興寺を再興した。妙本寺末寺となって現在に至っている。


北上し、「大町四ッ角」を右折、右手。
大町から名越に通じるバス通りにひときわ目に付くお寺、上行寺(じょうぎょうじ)。

上行寺  大町 2-8-17
日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人が1313(正和2)年に開山。本堂は、「妙法寺(こけ寺)」の法華堂を移築したといわれている。


             
          
    
         
                左甚五郎の作とされる三門にある龍の彫物(寺宝)

癌封じが有名。癌はもとよりすべての病にご利益があるとされる「瘡守稲荷(かさもりいなり)」 と、「千手観音像」そして「身がわり鬼子母神」が祀られている。
         

上行寺の向かい側
別願寺  大町1-11-4
別願寺は、鎌倉公方代々(足利基氏・氏満・満兼)の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた。
もとは真言宗の寺で能成寺といったが、1282(弘安5)年、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。同時に寺の名を別願寺とした。
境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした四代鎌倉・公方足利持氏(1398~1439)のものとされる供養塔(宝塔)がある。この供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。
         

「大町四ッ角」までもどり、右折しひとつ目の左路地を入る。突き当たり右手。
教恩寺  鎌倉市大町1-4-29
山門の十六羅漢の彫刻が見事な教恩寺は、一ノ谷の合戦で敗れ捕らえられた平清盛の子で重衡(1157~85)に縁のある寺。
         
重衡は、南都焼討ちによって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。
「一ノ谷の合戦」で捕らえられ鎌倉に来た際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたという。その像が教恩寺の本尊で、運慶作と伝えられている。
もともとこの地には、光明寺末の善昌寺があったが廃寺となったため、1678(延宝7)年、貴誉上人によって光明寺境内にあった北条氏康(1515~71)建立と伝わる教恩寺が移築されたといわれている。
その後、浄土宗より時宗に改宗したと考えられる。
もともと教恩寺は、平重衡と直接関係のある寺ではないが、重衡は、源頼朝が与えられたという教恩寺の本尊「阿弥陀如来像」に深く帰依したといわれている。
重衡が往生できるよう祈願すると阿弥陀像が三度うなずいたという伝説もある。
かつては、教恩寺の寺宝の中には、重衡と千手前(せんじゅのまえ・1165~88・源頼朝の侍女)が酒を酌み交わしたという杯があったといわれている。黒の漆塗りで、梅の蒔絵が施してあった杯だったと伝えられている。

         
北上の道まで戻りそのまま北上。本覚寺前を右折。
妙本寺  大町1-15-1
妙本寺は、日蓮宗の寺院。もとは比企能員(よしかず・?~1203)の屋敷で、1203(建仁3)年、比企の乱で比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でもある。その後、比企能員の末子の比企大学三郎能本(よしもと・1202~?)が日蓮上人のためと比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり、日朗を開山として1260(文応元)年に創建された。
総門を入ると、左奥に将軍頼家の側室・讃岐の局(比企能員の娘)を祀る蛇苦止堂(じゃくしどう)があり、真っ直ぐ進めば左手の本堂や鐘楼を経て、朱塗りの二天門の中に、頼家の子・一幡(いちまん・1198~1203)の袖塚や比企一族の墓と、大きな祖師堂に日蓮上人像が祀っている。祖師堂奥には頼家の娘で将軍藤原頼経の御台所としての竹の御所と呼ばれた源よし子(女片に美と書くが漢字がでない・鞠子とも・1001~8)遺言で建てられた新釈迦堂跡がある。祖師堂手前の霊宝殿には、1337(建武4)年銘の霊盤(重要文化財)をはじめ、日蓮・日朗上人ゆかりの多数の寺宝がある。本尊は十界大曼荼羅御本尊。
            

         方丈門

         本堂

         二天門

     
        時国天                      多聞天(毘沙門天)
         祖師殿


    比企一族の墓                      新釈迦堂跡(源よし子の墓)

         蛇苦止殿

本覚寺までもどり、北側の路地を西へ若宮通りに出る。やや北上して鎌倉駅には15時50分に到着する。およそ7時間の散策であった。
長い綴りとなってしまい何所かを削ろうとしたが、足が痛くなるほど歩いた記録だと思い削除はしなかった。
お疲れ様です。



鎌倉七口・名越切通へ再び

2012-11-29 17:33:44 | 鎌倉巡り
逗子駅駅北側をぶらり歩いて名越切通へ

日曜日の朝、逗子駅に降り立つ。
名越切通には5月に一度訪れたがまんだら堂が閉鎖されていたので今回は、公開なったまんだら堂の見学が主目的である。その前に逗子駅駅北側をぶらりと歩く。
そこでスタートは逗子駅西口改札口からである。


横須賀線に沿って久里浜方向へ歩道があるような、ないような道路をしばらく歩く。踏切を過ぎてすぐの左手路地が熊野神社の参道になっている。
熊野神社  山の根2-4-1
由緒によると『1869(明治2)年、社殿炎上のため古記録はないが、源頼朝(1147~99)が勧請したと伝えられる。』というので古い神社である。
1998(平成10)年までは藁葺屋根であった。
         

         
藁葺屋根の社殿を見たかったナ。
神社に散策の安全祈願をして、山の根横穴古墳群へ境内右手の山道を登る。薄い金属の踏み板が階段状となって敷かれているいる。

熊野神社横穴群
山の根地区は、「八十八穴」といわれるほど多くの横穴が存在していていたが、昭和初期の住宅造成で埋められ現在は30数ヵ所となっている。
熊野神社の裏山には7つの横穴が確認されているが、発掘調査されているのは2穴だけである。
調査で、横穴は7世紀はじめから8世紀末にかけて掘られたもので、出土の灯明皿から鎌倉時代のやぐらとして利用されていたと分かる。
         

 
    左手の横穴内                               右手の横穴   

「やぐら」については、『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』で詳しく述べる。

次は久木(ひさぎ)神社に向かう。
道を踏切の先まで戻り右折する。しばらく行くと遠くに久木隧道が見えてくる。
トンネル内は照明があって綺麗な造りとなっているが、久木隧道と右書きになっているので、時代があるのだろう。

久木隧道
久木隧道は、久木地区に建設した横須賀海軍工廠造兵部の工員寄宿舎の工員が逗子駅に向かう近道として1941(昭和16)年に完成した軍用久木隧道。
         
やはり、このトンネルには歴史があった。

久木隧道を抜けるとすぐ右手に、「LS」の飾り文字のついた建物がある。
幼稚園から高校までのキリスト教の女学校である。LSの飾り文字は、校章で「Lobe Seiwa」のようだ。

         
戦前、ここに横須賀海軍工廠造兵部の久木工員寄宿舎があって、横須賀まで通っていた。
工員寄宿舎の敷地は女学校だけではなくかなり広いエリアを占めていて、木造2階建の宿舎25棟と食堂、浴場や倉庫等の付属施設が建っており、最大4,000人の徴用工が寝泊りをしていた。
徴用工とは、戦時中1939年、国家総動員法に基づく国民徴用令によって始まった制度で、国家の強権によって国民を軍需産業に労働力として動員する方策であった。国民勤労報国協力隊、女子勤労挺身隊、学徒勤労動員などの形態があり、終戦時には、616万人に上っていた。
国家によって徴用された場合は、速やかに出頭し2年間の労働に従事せなばならなかった。これに背いた場合は1年以下の懲役若しくは1,000円以下の罰金が課せられた。

久木神社はその女学校の裏手にある。
日曜とあってか、氏子さんたちの手によって清掃作業が行われていた。「おはようございます。ごくろうさまです。」といって鳥居をくぐる。

久木神社  久木6-2-39
社殿は、1925(大正14)年に建てられたもので、狛犬や御影石で造られた鳥居も当時のものである。
もともとは、久木(当時は久野谷村と柏原村)にあった各地の神社を明治政府の方針に従い、1882(明治15)年に今の場所に合祀され久木稲荷(稲荷社)となり、1970(昭和45)年に久木神社と改められた。
合祀された神社は、久野谷(くのや)村から法性寺(ほっしょうじ)三門下の西之諏訪明神社、久木四丁目東小路の白山権現社、久木五丁目岩殿寺に入り右手の富士浅間社、久木中学校奥の若宮八幡社、名越旧道(亀ヶ丘団地小坪一丁目)の新箸(にいはし)の宮とこの場所にある稲荷明神社(草分稲荷)で、柏原村からは柏原明神社(子ノ神社)、東諏訪谷の諏訪社などである。
         

         
ここは、もともと草分稲荷があったところで、現在も久木神社本殿の後ろに祀られている。
草分稲荷
相模風土記稿には「稲荷社 妙光寺持」と書かれているようで、歴史的には古い稲荷のようだ。
         
でも、配置からすると主屋まで乗っ取られた社という感じを受ける。

久木神社から戻って、そのままを直進して行くとすぐに妙光寺がある。久木小学校の向かい側にあたる。

妙光寺  久木6-1-6
四脚門様式の三門がある。
この寺は、室町時代、足利家の元武士を先祖にもつある農民一族の供養のため戦国時代に開山した日蓮宗の寺院。日蓮上人の真骨が寺宝だという。
         

         

         
             ここにもやぐらと思われる穴がある

妙光寺を終えて、更に進み、ふたつ目の十字路を右折して、北上する。
道筋に立派な門構えがあったの写させてもらった、歴史ある門を改修したように感じる。住まいも同様に改修して真っ白な壁が映えていた。
         

しばらく進むと十字路がある。ここを右折する。
十字路の角には線路沿いの県道205号道路から入って来た人が分かるような「坂東三十三観音霊場 第ニ番 岩殿寺」の看板が置かれている。
やがて寺院の手前に「岩殿観音」と記された大きな石柱が立っている。
三門までの道筋には各地の僧侶が歌った歌碑が数多く並んでいる。

岩殿寺
三門には拝観料を納める丈の高い木箱が置かれている。コインを入れると静かな空気の中に大きく響いた。
山門をくぐると左手が納経所、そのまま石段を上る。瓜堀地蔵や報恩供養碑を過ぎ、尚も上がって観音堂に着く。裏手には奥の院岩殿観音が安置されている。
その他、境内には熊野権現社や稲荷明神社などや「鏡花の池」という池もある。

岩殿寺(がんでんじ)は曹洞宗の寺院。山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進されたという。『吾妻鏡』には源実朝らがしばしば当寺に参詣したことが記される。その後衰退するが、1591(天正19)年徳川家康によって再興される。一時期逗子に滞在した泉鏡花が当寺をしばしば訪れたことが知られる。
         

                  

    納経所

         
            鏡花の池

         
            観音堂

                   
                      奥の院

          
            瓜堀地蔵


先ほどの岩殿殿の看板がある十字路まで戻り、その先を進むと線路沿いの県道205号に出る。名越切通には、正面の横須賀線の踏切を渡って県道311号を右折していくのだが、もうひとつ、久木五丁目庚申塔を見たいので県道205号を進んでいく。
線路沿いにしばらく進んでいくと、道路脇に祀られている庚申塔がすぐに見つかり、ご対面である。ここはマンション「逗子ローズプラザ」の敷地のようだ。

久木五丁目庚申供養塔
この庚申供養塔群は、久木一丁目の向原と柏原に置かれていたものが、一度久木五丁目の山裾に移転されたが、関東大震災で山崩れにあった。それを1941(昭和16)年にこの地に移された。
         

 
   青面金剛庚申供養塔        青面金剛庚申供養塔       髭題目庚申供養塔 
   1780(安永9)年造立          1778(安永7)年造立        1782(天明2)年造立   

この庚申供養塔が見つからないのでは心配だったのだが、見つかりひと安心。
このまま北上して法性寺経由でも名越切通に行けるが、それは前回通ったルートなので、今回は先ほどの横須賀線の踏切まで戻り、踏切を渡って県道311号を少々北上し亀が岡団地内を歩くことにした。

ここから先は、コピーした地図を頼りに名越切通入口に向かう予定であった。しかし、「カン」で進むよりも尋ねたほうが確実と、丁度家から出て来た方に道を尋ねた。
そこからは二通りのルートがあるのだが、理解しやすい尾根道を上がるルートを進んだ。
亀が丘団地の住宅地に入り高いほうへ、高いほうへと進んで行く。傾斜のきつい道である。
                 
この亀ヶ丘団地には明治の初期まで新箸(にいはし)の宮という神社があり、鎌倉時代の恋物語の伝承がある。

1177(治承元)年、源頼朝(1147~99)が伊豆配流時代に鎌倉の八幡宮に詣でたあと、家臣ふたりと三浦へ向かう途中名越の山中で道に迷い、ある家に宿を求めた。そこの娘(広尾)が粟飯を炊き、茅の新箸を作って頼朝たちをもてなした。頼朝はたいそう喜んだといい、三浦地方ではその日にあたる7月26日を新箸の節句として祝うようになったそうだ。その後里人がこの一家の地に一堂を建て新箸の宮と云うようになったと伝えている。
世話になった家の主というのは頼朝の異母兄の義平(よしひら・1141~1160)の沼浜館でかつて厩番をしていた。沼浜館とは源義朝(1123~60)の屋敷で、鎌倉時代沼浜の地に建てられていた。その「沼浜」がいつしか「は」抜きとなって現在の逗子市沼間の地名に転訛した。
のちに、幕府を開いてから頼朝の媒酌で広尾は、この時の家臣のひとり、柳川弥二郎と夫婦になった。そして弥二郎はこの辺り一帯・久野谷(今の久木)の代官として治めたといわれる。そしてその後、『吾妻鏡』に出てくる和田義盛(1147~1213)であるという。
その伝承に基づき里人の手によって新箸の宮という一堂が建てられた。後、どういうわけか天然痘に効験あらたかという説が生まれて「疱瘡神社」とも呼ばれた。
1882(明治15)年に先ほど参った久木神社に合祀され祀られている。
しかし、疱瘡神社と名付けられていることで池子の鎮守・神明社境内に祀ってある疱瘡神社、別名疱瘡ばあ様も新箸の宮の伝承があると説く郷土史家もおられる。800年余前の出来事なので、どちらなのかは正すことは無理だろう。 
恋物語となったかは否かではあるがひとつのカップルが生まれたことは事実である。

稜線らしき道にたどりつくと直ぐ右手に「名越切通入口」の案内が見つかる。迷わずにたどり着く。
「国指定史跡名越切通」の道標が立っている。ここから名越切通が始まる。

名越切通
         
岩盤を削った切通の道を少々進んでいくと、直ぐにまんだら堂跡への上り口がある。入口からとっても近かった。石段を登って行くとまんだら堂跡の平地が開けて明るくなってゆく。
目的のまんだら堂跡である。


このあとは、まんだら堂跡、大岸切を見て、名越切通を下り松葉ヶ谷に出て、材木座から大町の散策に向かう。
では、 
    『鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸』 と
    『鎌倉七口・名越切通から材木座、大町の散策』
                                   へワープ。

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鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸

2012-11-27 18:01:19 | 鎌倉巡り
名越切通のまんだら堂と大切岸

    

鎌倉には、鎌倉七口といって7か所の切通或いは坂がある。極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂(けわいざか)、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝比奈切通そして名越(なごえ)切通である。
名越切通は三浦へ抜ける街道が通るところであると同時に、そこに設けられた防衛の施設跡と更に葬送遺構が残っている。



名越切通 
1180(治承4)年に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地であった。そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、多くは細く急な尾根越えの山道か、危険な波打ち際の崖下の道であったと思われる(古代の「東海道」がこの地域を通っていたと考えられるが、具体的なルートは明らかではない)。
13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展するが、頻繁となる物資や人々の往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなった。その難渋さを除くため、都市の基盤整備の一環として、のちに「鎌倉七口」などと呼ばれる切通路が開削されたと考えられる。
1966(昭和41)年に国史跡に指定された。



まんだら堂跡
         

名越切通の葬送遺構にあたるのがまんだら堂やおびただし数のやぐら群であり、鎌倉時代には一大霊園であったと思われている。最近の発掘調査ではやぐら付近や周辺の平場などに遺体を火葬したと思われる跡も確認されており、まんだら堂一帯は死者の埋葬場プラス火葬場とういう一大葬送遺構であったようだ。
やぐらが造られた時代は鎌倉時代後期から室町時代のはじめ頃と考えられている。
やぐらは岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓である。やぐらは鎌倉を中心とした周辺特有のものと見られるが、近年では全国の北条氏などと関連の強い地域などにも確認されているという。
この地にまんだら堂(仏教の悟りを開く道場を指す)という地名が残ることから、かつてここにも寺院が存在し曼荼羅堂などのお堂があったのかも知れないが、そのような寺院があったという実証が現在まで見つかってはいないようだ。
太平洋戦争中の1941(昭和16)年から1943(昭和18)年にかけてまんだら堂跡は掘り起こされている。
ここのやぐら全てが一般的なやぐらと違い、全部が隠匿(いんとく)やぐらだといわれる。それは、やぐら内に五輪塔を積み上げ石で扉を閉ざして隠されていたという。一般的なやぐらというと、全面を開放して内部には装飾を施し五輪塔などの供養塔を安置するものとされる。
今見るまんだら堂跡の五輪塔は苔に覆われているが、掘り出された当初は、五輪塔に刻まれた梵字には金箔が貼られていたそうだ。
まんだら堂のやぐらが造られた時期は、鎌倉時代後期から室町時代はじめ頃のものと考えられていて、どのよな人々を埋葬したのか一切謎のままだ。やぐらに埋葬された人々は、根拠がない話であるが、一説には新田義貞が鎌倉攻めをした時の戦死者を葬ったとか、名越一族の菩提寺跡だともいわれる。
名越一族とは、鎌倉時代の北条氏の一族で、鎌倉幕府二代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とし、名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承したことで名越を称した。
また、まんだら堂は、平安時代以降の上層武士達の墓地らしいという以外は、裏付けとなる資料は何も残されていないようだとの資料もあり、一方では、経済力を蓄えた商工業関係者などもいたのではないかともいわれる。憶測情報も様々だが梵字に金箔が貼られていた事実からも高貴な方の遺構だとは思える。
結局は何故にこれほどの数のやぐらがここに集まり、隠されていのか、本当に不思議であることに尽きる。
              
逗子市教育委員会の説明書によると、
『まんだら堂が確認できるのは1594(文禄3)年の検地帳であるが、そこには畠の地名しか記載されていないので、どんな建物だったのかは不明である。
やぐらの数は150穴以上が確認されており、これだけまとまったやぐら群を鎌倉市内でも見ることはできず、貴重な存在である。
やぐらとは鎌倉市内に見られる独特の中世のお墓である。平地が少なく山間部に鎌倉石(比較的柔らかい)を削り、洞窟状態(普通2m四方程度の大きさ)に五重塔が置かれている。鎌倉アルプスの途中にも「百八やぐら」といわれるやぐら群が見られる。この遺跡は圧巻である。』


やぐらの数は150穴以上というのはまんだら堂だけではなく、まんだら堂とその周辺エリアを含めた数ということだ。
まんだら堂周辺の文化財調査は現在も行われているようでシートを被せた平地があった。今後の調査を期待する。
         
           法性寺のやぐら

         

         
           まんだら堂展望台からの眺め


防衛遺構の大切岸?
    

名越切通は鎌倉七口でも朝比奈切通と並んで古い道の姿が残るところである。名越切通は「道」そのものより防衛遺構そのものととらえた方が的を得ているといわれる。狭く屈曲した道と、切通周辺には平場・堀切・置石などの遺構が見られ、これらこそが鎌倉城と呼ばれる由縁である。
そしてその代表的な遺構が「お猿畑の大切岸(おおきりぎし)」である(お猿畠とは大切岸の下にあるほんの狭い畑を指す)。山の斜面を2段、3段と垂直の崖に削り、各段の上には平場が設けられている。その長さはおよそ800mに渡り高さは3~10mにも及ぶ。今は、その上が鎌倉逗子ハイランドに抜けるハイキングコースになっている。
それでは何故、名越切通にはこのような防衛遺構が多く残るのでろうか。それはこの切通を通る道が三浦半島の三浦氏の本拠地へと繋がっているからである。鎌倉の実権を握った北条氏にとって最後で最大のライバルが三浦氏であり、防衛としての目的で築かれたことが定説となっていた。
北条氏が名越に山荘を構え、ここ名越坂には砦を築き三浦氏の進入を防ごうと大切岸を眺めると思いたくなるのも当然であり得るような壁である。
但し、注釈的に大切岸の遺構は近年の研究では中世の石切場跡とする説もあると書かれてもいた。
ウィキペディアのフリー百科事典でも、『切岸(きりぎし)とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた城、特に山城の周囲に多く、また鎌倉の周囲の丘陵斜面にも作られた。』とあるので、今回、防衛遺構説に沿って書こうと予定していたのだが、まんだら堂で配布された資料によると、その定説を覆されてしまった。
近年の発掘調査の結果で「大切岸」は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で堀残されたもの、つまり石切り場跡だということが確認された。
石切り作業が行われた時期ははっきりとはわからぬが、堆積している土砂の上層に、江戸時代、1717(宝永4)年の富士山噴火による火山灰が含まれているので、それより古い時代であることは確実である。
14~15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに切石が盛んに用いられているので、その頃が中心ではなかったかと考えられる。
そして、資料の結びとして
ただ、この結果のみをもって、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断することはできない。
『吾妻鏡』に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていた。あくまでも推測だが、このように大々的は石切りを行っていても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に堀り割ることはせずに、あえて城壁のような崖を残したのかも知れない。
とあり、納得する。
            
             狭いながらも大切岸手前に広がるお猿畑

           
             工事中の法性寺の大切岸と左手にやぐら    

今年のまんだら堂の臨時公開は12月9日までの土、日曜日の10~16時の限定である。
                                     荒天の場合は閉鎖もある。

       アクセス JR鎌倉駅 3番緑ヶ丘入口行き   緑ヶ岡入口下車 8分
              JR逗子駅 6番亀が岡団地循環  緑ヶ岡入口下車 8分
                                     亀が岡団地北下車 5分

                       


                                     参考資料:逗子市教育委員会
                                            平成24年度 臨時公開資料他