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鎌倉七口・名越切通のまんだら堂と大切岸

2012-11-27 18:01:19 | 鎌倉巡り
名越切通のまんだら堂と大切岸

    

鎌倉には、鎌倉七口といって7か所の切通或いは坂がある。極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂(けわいざか)、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝比奈切通そして名越(なごえ)切通である。
名越切通は三浦へ抜ける街道が通るところであると同時に、そこに設けられた防衛の施設跡と更に葬送遺構が残っている。



名越切通 
1180(治承4)年に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地であった。そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、多くは細く急な尾根越えの山道か、危険な波打ち際の崖下の道であったと思われる(古代の「東海道」がこの地域を通っていたと考えられるが、具体的なルートは明らかではない)。
13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展するが、頻繁となる物資や人々の往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなった。その難渋さを除くため、都市の基盤整備の一環として、のちに「鎌倉七口」などと呼ばれる切通路が開削されたと考えられる。
1966(昭和41)年に国史跡に指定された。



まんだら堂跡
         

名越切通の葬送遺構にあたるのがまんだら堂やおびただし数のやぐら群であり、鎌倉時代には一大霊園であったと思われている。最近の発掘調査ではやぐら付近や周辺の平場などに遺体を火葬したと思われる跡も確認されており、まんだら堂一帯は死者の埋葬場プラス火葬場とういう一大葬送遺構であったようだ。
やぐらが造られた時代は鎌倉時代後期から室町時代のはじめ頃と考えられている。
やぐらは岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓である。やぐらは鎌倉を中心とした周辺特有のものと見られるが、近年では全国の北条氏などと関連の強い地域などにも確認されているという。
この地にまんだら堂(仏教の悟りを開く道場を指す)という地名が残ることから、かつてここにも寺院が存在し曼荼羅堂などのお堂があったのかも知れないが、そのような寺院があったという実証が現在まで見つかってはいないようだ。
太平洋戦争中の1941(昭和16)年から1943(昭和18)年にかけてまんだら堂跡は掘り起こされている。
ここのやぐら全てが一般的なやぐらと違い、全部が隠匿(いんとく)やぐらだといわれる。それは、やぐら内に五輪塔を積み上げ石で扉を閉ざして隠されていたという。一般的なやぐらというと、全面を開放して内部には装飾を施し五輪塔などの供養塔を安置するものとされる。
今見るまんだら堂跡の五輪塔は苔に覆われているが、掘り出された当初は、五輪塔に刻まれた梵字には金箔が貼られていたそうだ。
まんだら堂のやぐらが造られた時期は、鎌倉時代後期から室町時代はじめ頃のものと考えられていて、どのよな人々を埋葬したのか一切謎のままだ。やぐらに埋葬された人々は、根拠がない話であるが、一説には新田義貞が鎌倉攻めをした時の戦死者を葬ったとか、名越一族の菩提寺跡だともいわれる。
名越一族とは、鎌倉時代の北条氏の一族で、鎌倉幕府二代執権・北条義時の次男・北条朝時を祖とし、名越の地にあった祖父・北条時政の邸を継承したことで名越を称した。
また、まんだら堂は、平安時代以降の上層武士達の墓地らしいという以外は、裏付けとなる資料は何も残されていないようだとの資料もあり、一方では、経済力を蓄えた商工業関係者などもいたのではないかともいわれる。憶測情報も様々だが梵字に金箔が貼られていた事実からも高貴な方の遺構だとは思える。
結局は何故にこれほどの数のやぐらがここに集まり、隠されていのか、本当に不思議であることに尽きる。
              
逗子市教育委員会の説明書によると、
『まんだら堂が確認できるのは1594(文禄3)年の検地帳であるが、そこには畠の地名しか記載されていないので、どんな建物だったのかは不明である。
やぐらの数は150穴以上が確認されており、これだけまとまったやぐら群を鎌倉市内でも見ることはできず、貴重な存在である。
やぐらとは鎌倉市内に見られる独特の中世のお墓である。平地が少なく山間部に鎌倉石(比較的柔らかい)を削り、洞窟状態(普通2m四方程度の大きさ)に五重塔が置かれている。鎌倉アルプスの途中にも「百八やぐら」といわれるやぐら群が見られる。この遺跡は圧巻である。』


やぐらの数は150穴以上というのはまんだら堂だけではなく、まんだら堂とその周辺エリアを含めた数ということだ。
まんだら堂周辺の文化財調査は現在も行われているようでシートを被せた平地があった。今後の調査を期待する。
         
           法性寺のやぐら

         

         
           まんだら堂展望台からの眺め


防衛遺構の大切岸?
    

名越切通は鎌倉七口でも朝比奈切通と並んで古い道の姿が残るところである。名越切通は「道」そのものより防衛遺構そのものととらえた方が的を得ているといわれる。狭く屈曲した道と、切通周辺には平場・堀切・置石などの遺構が見られ、これらこそが鎌倉城と呼ばれる由縁である。
そしてその代表的な遺構が「お猿畑の大切岸(おおきりぎし)」である(お猿畠とは大切岸の下にあるほんの狭い畑を指す)。山の斜面を2段、3段と垂直の崖に削り、各段の上には平場が設けられている。その長さはおよそ800mに渡り高さは3~10mにも及ぶ。今は、その上が鎌倉逗子ハイランドに抜けるハイキングコースになっている。
それでは何故、名越切通にはこのような防衛遺構が多く残るのでろうか。それはこの切通を通る道が三浦半島の三浦氏の本拠地へと繋がっているからである。鎌倉の実権を握った北条氏にとって最後で最大のライバルが三浦氏であり、防衛としての目的で築かれたことが定説となっていた。
北条氏が名越に山荘を構え、ここ名越坂には砦を築き三浦氏の進入を防ごうと大切岸を眺めると思いたくなるのも当然であり得るような壁である。
但し、注釈的に大切岸の遺構は近年の研究では中世の石切場跡とする説もあると書かれてもいた。
ウィキペディアのフリー百科事典でも、『切岸(きりぎし)とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた城、特に山城の周囲に多く、また鎌倉の周囲の丘陵斜面にも作られた。』とあるので、今回、防衛遺構説に沿って書こうと予定していたのだが、まんだら堂で配布された資料によると、その定説を覆されてしまった。
近年の発掘調査の結果で「大切岸」は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で堀残されたもの、つまり石切り場跡だということが確認された。
石切り作業が行われた時期ははっきりとはわからぬが、堆積している土砂の上層に、江戸時代、1717(宝永4)年の富士山噴火による火山灰が含まれているので、それより古い時代であることは確実である。
14~15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに切石が盛んに用いられているので、その頃が中心ではなかったかと考えられる。
そして、資料の結びとして
ただ、この結果のみをもって、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断することはできない。
『吾妻鏡』に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていた。あくまでも推測だが、このように大々的は石切りを行っていても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に堀り割ることはせずに、あえて城壁のような崖を残したのかも知れない。
とあり、納得する。
            
             狭いながらも大切岸手前に広がるお猿畑

           
             工事中の法性寺の大切岸と左手にやぐら    

今年のまんだら堂の臨時公開は12月9日までの土、日曜日の10~16時の限定である。
                                     荒天の場合は閉鎖もある。

       アクセス JR鎌倉駅 3番緑ヶ丘入口行き   緑ヶ岡入口下車 8分
              JR逗子駅 6番亀が岡団地循環  緑ヶ岡入口下車 8分
                                     亀が岡団地北下車 5分

                       


                                     参考資料:逗子市教育委員会
                                            平成24年度 臨時公開資料他

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