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奥州藤原氏の華麗なる世界

2014-10-08 17:06:48 | 散策
今から800年余り昔のこと、東北に奥州藤原氏によって燦然(さんぜん)と輝く人口十数万の一大都市・平泉が存在した。
戦いのない平和な世界・浄土思想を理想として、東北全土に100年間、戦のない平和な世界がもたらせられた。しかし、中央や西国に於いては源氏と平氏が死闘を繰り返した時期であり、公家社会から武家社会に時代は大きく変わろうとする転換期であった。
 
藤原氏
奥州藤原氏は、南は現在の福島県にある白河の関から、北は青森県にある外ヶ浜までを制圧しており、それは、現在の東北地方をすっぽり治めていたことになる。
                    
基礎をつくった初代・清衡は、幼いころに父を失い、その後の戦いで弟を失った。
(後三年の役において、敵味方に分かれて戦い、結果的に殺してしまった。)
その経験から、中尊寺を建立。建立の際の法要で、
『鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える・・・』
と、読み上げた。
これは「みちのく」といわれた辺境の地・東北に、仏の教えによる平和な理想社会である「仏国土」を建設する願文である。
                    
二代・基衡は、清衡の教えである浄土思想を守り、一層の普及を尽くした。
毛越寺を建立し、浄土庭園を造り、仏教都市づくりに着手した。
                              
三代・秀衡は、基衡が手掛けた毛越寺を完成させ、当時の都であった平安京をしのぐ無量光院などをつくり上げた。
この時代が、藤原氏が最高を栄華を誇った時代とされる。しかし、平家追放の依頼を断ったり、義経をかばったりしたことなどで、平泉の栄華に影を落とし始めた。          
          
秀衡が建立した無量光院は、毛越寺より一回り大きい規模で、宇治平等院をまねて、平泉の猫間が淵を宇治川、束稲山(たばしねやま)を宇治の朝日山に見立てた背景とし、中央の池には金鶏山を映し中島に本堂を建てた絢爛豪華な新院であったたと言われる。
                    
四代・泰衡は代をついで直ぐに、鎌倉幕府による奥州征伐によって滅ぼされた。
          

藤原氏の金
奥州の黄金は、藤原氏が治める以前から、豪族によって利用されてきたが、後三年の役で権力を手中にした清衡によって、一括管理、利用された。
この時代は、金の鉱山を掘って、金を精錬する技術はなく、川から採る砂金であった。
当時、砂金が採れるのは、奥州で、特に気仙郡(今の岩手県)や本吉郡(宮城県)といった北上川流域であった。宮城県北東部の太平洋沿岸、石巻、気仙沼・本吉地方は、産金を行った坑道の跡地がたくさん残っていることもあって、「黄金海道」と呼ばれている。
どれだけの量の黄金が採取されたであろうか、藤原氏三代、100年でおよそ10tと言う。コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時のヨーロッパ全体で20tに満たない量であったというから、その量は一地方都市としては膨大な量と言えよう。
                    
一番黄金文化が栄えたとされる三代秀衡の時代は、当時の都を凌ぐほど、平泉は金に溢れていたと言われている。
                    
マルコポーロが、東方見聞録で日本を紹介した『ジパング』に登場する「黄金で作られた建物」は、中尊寺がモデルとされる。
                   
また、黄金は海外からの貴重な品を買う代価となり、その品を献上品に使い、政治的に安定した、戦のない平和な世界を築く資金にもなった。
                    
清衡は、中国の宋から仏教経典一切経5千数百巻をおよそ4tの金で購入している。この経典は、千人の僧侶が8年をかけて金文字と銀文字で書き上げたものだという。
また、金は朝廷への献上され、鎌倉幕府が黄金5千両に対し、藤原氏は倍の1万両であったという。献上の多さによって奥州の平和を確保していたようだ。
          
平泉の黄金文化を象徴は中尊寺金色堂であるが、極楽浄土を表現するために使用されている莫大な黄金の多さもさることながら、木材のほとんどが南洋産の貴重な伽羅木(きゃらぼく)で占め、遥か南洋の海からシルクロードを渡ってもたされた夜光貝の螺鈿細工(らでんざいく)もある。建築家や工人までを海を渡って招き入れる独自の海運ルートをも確立した資金にも黄金が使用されたであろう。
最近になって、金色堂内や邸宅跡から小石状の高純度の金塊が発見されていう。当時は砂金きりなかったと思われていたので、藤原氏はほかにも高純度の金塊を案出する隠し金山があったのではないだろうかと想像をめぐらす研究家もいるようだ。
          
このように、藤原氏の戦いのない平和な世界・浄土思想である「仏国土」を建設するにあたって、裏には潤沢な黄金という資金があって、その黄金が惜しみなく使われたことによる。
                 

浄土思想
藤原氏の保護のもと、平泉に開花した仏教文化。盛時の中尊寺には、寺塔60余宇、禅坊300余宇と言われる。
贅を尽くした荘厳のありさまは、中央の平安京に比肩するもので、まさに地上に極楽浄土を再現したごとくであったと言う。
清衡は、白河の関から青森の外の浜までの道1町ごとに、卒塔婆を立て並べ、中尊寺が中心であることを周知させた。村人は中尊寺に年貢や薪を届けており、また、中尊寺の僧が主体的に村の小さなお祭りにも参加し、思想の普及、啓蒙活動も盛んに実践されていたようだ。
          

藤原氏栄華の軌跡
平泉文化遺産センターでは藤原氏が奥州平泉で繰り広げられていた栄華の軌跡の一端が、模型で表現されている。それは公家文化と武家文化が混在した華麗なる文化である。
17万騎を抱えていた藤原氏が、頼朝の奥州征伐で、裏切りにより20日という短期間あっけなく敗れてしまった。頼朝の軍勢は、28万4千騎であった。
同時に宮中をもしのぐ雅な奥州藤原文化が消滅した。


先の東日本大震災の大津波によって、岩手県内の博物館をはじめとする文化施設が多く被災した。とりわけ陸前高田市立博物館は、施設が頬水没し、多くの展示・収蔵資料が流失した。それを免れた資料も全て海水に浸かってしまった。その中に藤原氏に関する金鉱の資料も含まれていたことを加筆しておく。

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