戸塚宿
「お江戸日本橋七つたち」 夜明け前の午前4時に江戸をたち10里目の戸塚宿が最初の宿であった。
このため、宿場は大変なにぎわいで神奈川では、小田原宿に次ぐ宿の数であった。
『戸塚宿を歩く』は不動坂の近く大山前不動堂・大山道道標からスタートする。
1)旧大山道分岐
ここは、江戸時代、東海道より大山詣での大山道入口にあたる。

2)大山前不動堂
不動坂の語源にもなった不動堂。
明治まではここに大山雨降神社の一の鳥居がたっていたと云う。

大山道の道標
3)五処橋供養碑
以前、五太夫橋(ブリジストン工場前)にあったという。
5つの橋すなわち鎌倉小町の夷川橋、八瀬(長谷)の観音橋、長野間(長沼)の倉田橋、柏尾・名瀬の綿(渡)戸橋、名瀬・谷(矢)部の猿橋を供養したもの。
1670(寛文10)年、柏尾村の人達によって建てられた。

4)王子神社

建武の中興といわれた時代、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は自ら征夷大将軍となり、足利尊氏を排除しようとしたが失敗、鎌倉宮)に幽閉された。
北条時行のよる乱(20日天下とも云う)で鎌倉を一時的に占領する直前、反足利派による政治利用を恐れた足利氏の手の者によって親王は暗殺される。親王の側女は敵の目をかすめ首を抱いてここ柏尾の斉藤氏((鎌倉ハム創始者の祖)を頼って逃れてきて、井戸(首洗井戸)で首を洗い、この地、王子神社に埋めて厚く弔ったという。本殿横には「御首お鎮め松の根」という松の巨木の根が残されている(下写真)。

5)益田家のモチの木
不動坂交差点からやや江戸寄りに鎌倉ハム創立者のひとり、益田家がある。この家の庭にそびえる『益田家のモチ』は天然記念物。

6)護良親王首洗井戸
『護良親王首洗井戸』の碑と『四つ杭』(地名)の由来の碑がたっている。それによると、四つ杭とは親王の首をこの井戸で清め、その際、井戸に4本の杭を打ち祀壇としたことが地名となったと云う。


7)旧東海道と鎌倉ハムの蔵(斉藤商会ハム工場跡)
柏尾の地で英国人が1874(明治7)年、ハムの製造を開始した。その後日本人がその技術を習得し、国産ハムの製造販売を開始する。鎌倉郡で造られたハムと云うことで「鎌倉ハム」のブランド名となった。斉藤商会のレンガ製のこの蔵は1918(大正7)年建てられた。
この通りは旧東海道で古い建物が存在する。
8)五太夫橋
ブリジストン工場前の国道(東海道)には「五太夫橋」という名の橋が舞岡川に架けられている。ここは中田に住んでいた石巻(五太夫)康敬が徳川家康を息せきけって迎え平伏した場所で、彼の名に因んで五太夫橋と名付けられたという。康敬は小田原の北条氏康、氏政、氏直の三代にわたって仕えた小田原城の重鎮である。豊臣秀吉による天下統一目前の1590(天正18)年、北条氏直の代理で石巻康敬が降伏のため上洛した。その席で秀吉は氏尚が上洛しないことを敵対行為だと康敬を攻め康敬は死罪となるべきところ家康に助けられ中田に蟄居した。康敬はその後、中田の地頭となり、子々孫々、代々その職を継いでいる。

9)寶蔵院

馬頭観世音文字塔1844(天保15)年】 木食観正塔【1818(文政元)年】
10)江戸方見附
宿場の出入り口には、見附と呼ばれる構造物が存在していた。一般に江戸側の出入り口にあたるところを江戸方見附(江戸見附)、京側を上方見附と呼んだ。この間がいわば宿場の範囲、宿内となるわけである。
その江戸見附跡名が信号機の表示に残っている。

11)八幡大神(東峯八幡社)
東海道の分岐に「八幡社参道」の石柱が埋もれていた。
八幡太郎義家が東征の折、境内の椎の木に馬をつなぎ休息をしたと云う伝説が残っている。
六手青面金剛や庚申塔など石像仏が多い神社でもある。

12)妙秀寺
日蓮宗のお寺。境内に「かまくらみち」の道標があり、これが安藤広重が描いた矢部大橋の絵にある道標ではないかと云われるが、浮世絵は「かまくら『道』」ではないか?


13)一里塚
江戸、日本橋から丁度10里目の一里塚。
節目の一里塚なので案内板だけではなくモニュメントが欲しい気がする。

14)吉田大橋
吉田町と矢部町の境の柏尾川に架かる吉田大橋。

広重が描いた『こめや』の看板がのっている「東海道五十三次 戸塚」の浮世絵はこの地を描いたもの。
橋には広重の浮世絵などの浮世絵が飾られている。


15)とつか宿 お休み処
ここは戸塚宿まちづくり拠点「とつか宿 お休み処」。
事務局長さんに歓迎され、お茶とお菓子を御馳走になった。
戸塚宿のDVDを観たり、宿の情報をうかがった。
東海道宿場町のつながりがあって、東海道宿場サミットなるものが毎年開かれているという。
戸塚駅周辺再開発が2015(平成27)年に完了するので、その年に戸塚宿でサミットを開きたい計画をしているという。また、廉価なゲストハウスをつくってたくさんのお客を呼びたいと云う構想もあるようだ。
戸塚宿の活性化に努力している事務局長さんに応援のエールをおくりたい。
戸塚宿を散策される方は是非立ち寄ってください。歓待されると思います。
保土ヶ谷宿にも金沢横町に「程ヶ谷帷子番所」と云う案内処があり、同じように宿場の情報が得られる。この番所に詰めている方も立ち寄る人が少ないと嘆いていたので、程ヶ谷帷子番所も是非に立ち寄って頂きたい。
また、神奈川、保土ヶ谷、戸塚宿の連合体のようなつながりもあると云う。宿場それぞれ活性化に努力しているようである。
16)開かずの踏切
ラッシュ時には1時間以上この踏切は開かない。開いたと思ったら3分ほどで再び閉まるのが現状のようだ。
かの有名な吉田茂元首相を怒らして、戸塚有料道路(通称ワンマン道路)が出来た元凶の場所。
それも、再開発「戸塚駅前地区中央土地区画整理事業」の一環でようやく立体交差となる。

17)淡島大明神道標
大善寺門前(上矢部町、柏尾川右岸)にある淡島神社の道標。
淡島神社は和歌山県和歌山市にある加太淡嶋神社が総本社で全国に淡島神社系の神社は千社余りと云われ、人形供養、針供養で有名である。

18)清源院
浄土宗・南向山清源院。開基は「於万の方」。この人は岡津の人で、岡津の彦坂小刑部の推挙により大奥に仕えた。40歳のころ辞任した後に清源院尼と称して今の西林寺(泉区岡津町)のところに住んでいたが、やがて戸塚に移って清源院を開いた。
山頂には於万の方の火葬跡と伝えられている碑があると云うので墓地内を巡ったが見つけることが出来なかった。墓に上がる参道の左手に「朝日堂」と書かれた石塔や青面金剛(元禄)がある。その右隣に「心中句碑(住職・崇准の句」(写真上段右)。)戸塚宿内の大島屋の倅(19歳)と伊勢屋の抱え女郎ヤマ(16歳))が、この寺の井戸に飛び込み心中をしたことを詠んだもの。

参道右には芭蕉の句碑
19)高松寺
境内には戸塚の文化人たちの墓や石碑がある。山門の上が鐘楼となっている。
臨済宗、潤岳山高松寺。

20)内田本陣
中宿・内田七郎右衛門の本陣。間口18間(32.8m)、奥行14間(25.5m)、畳数152枚あった本陣である。

21)脇本陣跡
本陣とは異なり大名などの宿泊がない時には一般客が宿泊できた。規模は本陣に比べ小さいが、諸式は全て準ずる。戸塚宿には、脇本陣が3軒あった。

22)澤邊本陣
澤邊本陣の初祖である澤邊宗三は、戸塚宿設置の功労者。妹は岡津の代官、彦坂小刑部元正の妻になる。

23)羽黒神社
戸塚宿の鎮守のひとつ。澤邊河内守信友が羽黒薹権現を勧請したことが始まりと云われる。
羽黒山神社はもと澤邊家の屋敷神だったと思われる。境内には稲荷社があり、ほかに青面金剛(元禄)や三猿付き阿弥陀立像(延宝)があり、常夜灯(天保)、手水鉢(享保)などの古い品がある。


24)海蔵院
山門の上部に掘られている竜の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。二列に並んだ六地蔵も珍しい。

鐘楼には弁天様と天女が描かれている。


25)八坂神社
神社の「お札まき」は指定無形文化財。

26)「かまくら道」の道標
日立正門の傍らに「これよりかまくら道」と刻まれた道標がある。
江戸の時代にはここから東海道線を越え、大橋・東口前から来た道と上倉田で合流して鎌倉へと向かっていたようだ。

27)富塚八幡
「戸塚」の地名の起源。
昔、ある武士が十人の盗賊を退治し、ここに十人を埋めた塚があり十塚が戸塚となった説と、境内の前方後円墳は富属彦命の古墳でこの名をとって富塚が戸塚となった説がある。

28)諏訪社
社前には菅原道真公の石像座像(文化4年)がある。

29)親縁寺
冨士塚山・親縁寺(しんねんじ)


門前の阿弥陀立像(寛文) 青面金剛庚申塔(三猿・元禄)
茅葺の鐘楼の天井には龍が描かれている。

30)上方見附跡
江戸見附から、約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入り口にあたる。
ここから長大な大阪の上りが続く。

31)第六天神社
第六天社はとくに神奈川県を中心に分布する珍しい神社。神道では国生みの神の6代目のオモダル・カシコネの夫婦神のことを云い、仏教では第六天魔王(他化自在天)のことを云う。
第六天魔王とは仏道を邪魔する悪魔で、人の欲を利用して自分の望みをかなえるという欲望の頂点にいる神である。これらが習合して古くは寺であったが、明治の廃仏棄釈で神社となった。この神を信仰した人物は坂田金時と織田信長である。また、豊臣秀吉は信長が信仰したこの神の神力を恐れて、信仰禁止令を出した。
当時、相模国は秀吉と対峙する小田原北条氏の支配地であったためこの相模国中心に信仰が残ったと思われる。

32)大坂の庚申塔群


33)大坂松並木
大坂では、天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。


昔の松並木と現代の松並木
34)お軽勘平の碑
「仮名手本忠臣蔵」の一場面として有名なお軽勘平の道行の碑。

35)原宿の一里塚
江戸寄り11番目の一里塚で、吹上の一里塚とも云われた。
当時は松の木が植えられていた。

江戸から5番目の宿場町・戸塚の散策は原宿の一里塚をゴールとした。
スタートの大山道道標から5km少々を歩いたが、その道筋には案内看板があるのみで戸塚駅周辺の再開発を代表するように昔の面影は見られない。
しかし、一歩神社や寺院の境内に入ると古い石仏像を数多く見ることが出来た。古きものが残されていた。


【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.06散策】
「お江戸日本橋七つたち」 夜明け前の午前4時に江戸をたち10里目の戸塚宿が最初の宿であった。
このため、宿場は大変なにぎわいで神奈川では、小田原宿に次ぐ宿の数であった。
『戸塚宿を歩く』は不動坂の近く大山前不動堂・大山道道標からスタートする。
1)旧大山道分岐
ここは、江戸時代、東海道より大山詣での大山道入口にあたる。

2)大山前不動堂
不動坂の語源にもなった不動堂。
明治まではここに大山雨降神社の一の鳥居がたっていたと云う。


大山道の道標
3)五処橋供養碑
以前、五太夫橋(ブリジストン工場前)にあったという。
5つの橋すなわち鎌倉小町の夷川橋、八瀬(長谷)の観音橋、長野間(長沼)の倉田橋、柏尾・名瀬の綿(渡)戸橋、名瀬・谷(矢)部の猿橋を供養したもの。
1670(寛文10)年、柏尾村の人達によって建てられた。

4)王子神社


建武の中興といわれた時代、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は自ら征夷大将軍となり、足利尊氏を排除しようとしたが失敗、鎌倉宮)に幽閉された。
北条時行のよる乱(20日天下とも云う)で鎌倉を一時的に占領する直前、反足利派による政治利用を恐れた足利氏の手の者によって親王は暗殺される。親王の側女は敵の目をかすめ首を抱いてここ柏尾の斉藤氏((鎌倉ハム創始者の祖)を頼って逃れてきて、井戸(首洗井戸)で首を洗い、この地、王子神社に埋めて厚く弔ったという。本殿横には「御首お鎮め松の根」という松の巨木の根が残されている(下写真)。

5)益田家のモチの木
不動坂交差点からやや江戸寄りに鎌倉ハム創立者のひとり、益田家がある。この家の庭にそびえる『益田家のモチ』は天然記念物。

6)護良親王首洗井戸
『護良親王首洗井戸』の碑と『四つ杭』(地名)の由来の碑がたっている。それによると、四つ杭とは親王の首をこの井戸で清め、その際、井戸に4本の杭を打ち祀壇としたことが地名となったと云う。


7)旧東海道と鎌倉ハムの蔵(斉藤商会ハム工場跡)
柏尾の地で英国人が1874(明治7)年、ハムの製造を開始した。その後日本人がその技術を習得し、国産ハムの製造販売を開始する。鎌倉郡で造られたハムと云うことで「鎌倉ハム」のブランド名となった。斉藤商会のレンガ製のこの蔵は1918(大正7)年建てられた。
この通りは旧東海道で古い建物が存在する。

8)五太夫橋
ブリジストン工場前の国道(東海道)には「五太夫橋」という名の橋が舞岡川に架けられている。ここは中田に住んでいた石巻(五太夫)康敬が徳川家康を息せきけって迎え平伏した場所で、彼の名に因んで五太夫橋と名付けられたという。康敬は小田原の北条氏康、氏政、氏直の三代にわたって仕えた小田原城の重鎮である。豊臣秀吉による天下統一目前の1590(天正18)年、北条氏直の代理で石巻康敬が降伏のため上洛した。その席で秀吉は氏尚が上洛しないことを敵対行為だと康敬を攻め康敬は死罪となるべきところ家康に助けられ中田に蟄居した。康敬はその後、中田の地頭となり、子々孫々、代々その職を継いでいる。


9)寶蔵院



馬頭観世音文字塔1844(天保15)年】 木食観正塔【1818(文政元)年】
10)江戸方見附
宿場の出入り口には、見附と呼ばれる構造物が存在していた。一般に江戸側の出入り口にあたるところを江戸方見附(江戸見附)、京側を上方見附と呼んだ。この間がいわば宿場の範囲、宿内となるわけである。
その江戸見附跡名が信号機の表示に残っている。


11)八幡大神(東峯八幡社)
東海道の分岐に「八幡社参道」の石柱が埋もれていた。
八幡太郎義家が東征の折、境内の椎の木に馬をつなぎ休息をしたと云う伝説が残っている。
六手青面金剛や庚申塔など石像仏が多い神社でもある。



12)妙秀寺
日蓮宗のお寺。境内に「かまくらみち」の道標があり、これが安藤広重が描いた矢部大橋の絵にある道標ではないかと云われるが、浮世絵は「かまくら『道』」ではないか?



13)一里塚
江戸、日本橋から丁度10里目の一里塚。
節目の一里塚なので案内板だけではなくモニュメントが欲しい気がする。


14)吉田大橋
吉田町と矢部町の境の柏尾川に架かる吉田大橋。


広重が描いた『こめや』の看板がのっている「東海道五十三次 戸塚」の浮世絵はこの地を描いたもの。
橋には広重の浮世絵などの浮世絵が飾られている。




15)とつか宿 お休み処
ここは戸塚宿まちづくり拠点「とつか宿 お休み処」。


事務局長さんに歓迎され、お茶とお菓子を御馳走になった。
戸塚宿のDVDを観たり、宿の情報をうかがった。
東海道宿場町のつながりがあって、東海道宿場サミットなるものが毎年開かれているという。
戸塚駅周辺再開発が2015(平成27)年に完了するので、その年に戸塚宿でサミットを開きたい計画をしているという。また、廉価なゲストハウスをつくってたくさんのお客を呼びたいと云う構想もあるようだ。
戸塚宿の活性化に努力している事務局長さんに応援のエールをおくりたい。
戸塚宿を散策される方は是非立ち寄ってください。歓待されると思います。
保土ヶ谷宿にも金沢横町に「程ヶ谷帷子番所」と云う案内処があり、同じように宿場の情報が得られる。この番所に詰めている方も立ち寄る人が少ないと嘆いていたので、程ヶ谷帷子番所も是非に立ち寄って頂きたい。
また、神奈川、保土ヶ谷、戸塚宿の連合体のようなつながりもあると云う。宿場それぞれ活性化に努力しているようである。
16)開かずの踏切
ラッシュ時には1時間以上この踏切は開かない。開いたと思ったら3分ほどで再び閉まるのが現状のようだ。
かの有名な吉田茂元首相を怒らして、戸塚有料道路(通称ワンマン道路)が出来た元凶の場所。
それも、再開発「戸塚駅前地区中央土地区画整理事業」の一環でようやく立体交差となる。


17)淡島大明神道標
大善寺門前(上矢部町、柏尾川右岸)にある淡島神社の道標。
淡島神社は和歌山県和歌山市にある加太淡嶋神社が総本社で全国に淡島神社系の神社は千社余りと云われ、人形供養、針供養で有名である。

18)清源院
浄土宗・南向山清源院。開基は「於万の方」。この人は岡津の人で、岡津の彦坂小刑部の推挙により大奥に仕えた。40歳のころ辞任した後に清源院尼と称して今の西林寺(泉区岡津町)のところに住んでいたが、やがて戸塚に移って清源院を開いた。
山頂には於万の方の火葬跡と伝えられている碑があると云うので墓地内を巡ったが見つけることが出来なかった。墓に上がる参道の左手に「朝日堂」と書かれた石塔や青面金剛(元禄)がある。その右隣に「心中句碑(住職・崇准の句」(写真上段右)。)戸塚宿内の大島屋の倅(19歳)と伊勢屋の抱え女郎ヤマ(16歳))が、この寺の井戸に飛び込み心中をしたことを詠んだもの。



参道右には芭蕉の句碑
19)高松寺
境内には戸塚の文化人たちの墓や石碑がある。山門の上が鐘楼となっている。
臨済宗、潤岳山高松寺。

20)内田本陣
中宿・内田七郎右衛門の本陣。間口18間(32.8m)、奥行14間(25.5m)、畳数152枚あった本陣である。


21)脇本陣跡
本陣とは異なり大名などの宿泊がない時には一般客が宿泊できた。規模は本陣に比べ小さいが、諸式は全て準ずる。戸塚宿には、脇本陣が3軒あった。


22)澤邊本陣
澤邊本陣の初祖である澤邊宗三は、戸塚宿設置の功労者。妹は岡津の代官、彦坂小刑部元正の妻になる。


23)羽黒神社
戸塚宿の鎮守のひとつ。澤邊河内守信友が羽黒薹権現を勧請したことが始まりと云われる。
羽黒山神社はもと澤邊家の屋敷神だったと思われる。境内には稲荷社があり、ほかに青面金剛(元禄)や三猿付き阿弥陀立像(延宝)があり、常夜灯(天保)、手水鉢(享保)などの古い品がある。


24)海蔵院
山門の上部に掘られている竜の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。二列に並んだ六地蔵も珍しい。


鐘楼には弁天様と天女が描かれている。



25)八坂神社
神社の「お札まき」は指定無形文化財。


26)「かまくら道」の道標
日立正門の傍らに「これよりかまくら道」と刻まれた道標がある。
江戸の時代にはここから東海道線を越え、大橋・東口前から来た道と上倉田で合流して鎌倉へと向かっていたようだ。

27)富塚八幡
「戸塚」の地名の起源。
昔、ある武士が十人の盗賊を退治し、ここに十人を埋めた塚があり十塚が戸塚となった説と、境内の前方後円墳は富属彦命の古墳でこの名をとって富塚が戸塚となった説がある。

28)諏訪社
社前には菅原道真公の石像座像(文化4年)がある。

29)親縁寺
冨士塚山・親縁寺(しんねんじ)



門前の阿弥陀立像(寛文) 青面金剛庚申塔(三猿・元禄)
茅葺の鐘楼の天井には龍が描かれている。


30)上方見附跡
江戸見附から、約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入り口にあたる。
ここから長大な大阪の上りが続く。


31)第六天神社
第六天社はとくに神奈川県を中心に分布する珍しい神社。神道では国生みの神の6代目のオモダル・カシコネの夫婦神のことを云い、仏教では第六天魔王(他化自在天)のことを云う。
第六天魔王とは仏道を邪魔する悪魔で、人の欲を利用して自分の望みをかなえるという欲望の頂点にいる神である。これらが習合して古くは寺であったが、明治の廃仏棄釈で神社となった。この神を信仰した人物は坂田金時と織田信長である。また、豊臣秀吉は信長が信仰したこの神の神力を恐れて、信仰禁止令を出した。
当時、相模国は秀吉と対峙する小田原北条氏の支配地であったためこの相模国中心に信仰が残ったと思われる。

32)大坂の庚申塔群



33)大坂松並木
大坂では、天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。



昔の松並木と現代の松並木
34)お軽勘平の碑
「仮名手本忠臣蔵」の一場面として有名なお軽勘平の道行の碑。


35)原宿の一里塚
江戸寄り11番目の一里塚で、吹上の一里塚とも云われた。
当時は松の木が植えられていた。


江戸から5番目の宿場町・戸塚の散策は原宿の一里塚をゴールとした。
スタートの大山道道標から5km少々を歩いたが、その道筋には案内看板があるのみで戸塚駅周辺の再開発を代表するように昔の面影は見られない。
しかし、一歩神社や寺院の境内に入ると古い石仏像を数多く見ることが出来た。古きものが残されていた。


【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.06散策】