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旧東海道「小田原宿」を歩く

2013-03-07 00:00:01 | 東海道宿場町
小田原宿

           
江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場が小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。
最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていた。
 
小田原宿は譜代大名・大久保氏11万3千石の城下町でもあって神奈川県最大、東海道でも屈指の宿場として栄えた。
大久保氏以前の戦国時代に小田原を治めていたのは北条氏で、鎌倉幕府執権の北条氏と区別するために後北条氏(ごほうじょうし)、或いは小田原北条氏と後世の歴史家からは呼ばれている。


          
         その北条氏の祖である北条早雲の像が小田原駅西口に建てられている


東海道小田原宿は江戸見附近くの山王神社からスタートする。
         

 
山王神社
山王神社は『新編相模風土記稿』に、1558年頃(川中島合戦があったころ)に村の鎮守として祀られていたと記されている。
         
          
社にある井戸の水面に夜空の星や月が写って見えたことで、別名「星月夜の社」と呼ばれる。
江戸時代初期に活躍した儒教学者の林羅山が山王神社を参拝した折に、箱根山を登る旅人の「百千の籠(たくさんのちょうちん)」が見えたと「星月夜」の詩を詠んだ。
また、徳川家康が小田原攻めの際に、戦の勝利を祈った神社でもある(当時の山王神社はこの場所ではなかった)。

江戸口見附・山王原一里塚
山王神社の先に江戸口見付跡があった。小田原城下に入る東の出入口でここからが小田原宿内である。
見附とは、枡形門に設けられ鍵の手の状態に通行し、昼夜番士が警戒にあたる見張番所もあった。
見附には北条氏時代の小田原城防衛のための土塁が築かれていたので、東海道を通す際にこの土塁を壊して枡形門が作られた。
ここは江戸より丁度20里(およそ80km)にあたり、やや海よりの場所に山王原村一里塚が設けられていた。
          
         

蓮上院土塁
北条氏時代の小田原城の外郭遺構。
北条氏は、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築いた。この辺りは、その総構の最も南部にあたり、小田原合戦時にはこの東側に徳川家康が陣取った。
         

 
新宿町から古い町名が続く
旧東海道は「新宿交差点」で左折して蹴上げ坂を上る。坂とはいえない坂を100mほど進んで右折をする。昔はもっと傾斜があったのだろうか。
万町(よろっちょう)と呼ばれた町である。道の両側に蒲鉾屋が目に着く。
旧東海道はこの先、高梨町(甲州街道の起点、問屋場があった)、宮前町(高札場、本陣:1 脇本陣:1 旅籠:23で本町とともに宿の中心)、本町(本陣:2 脇本陣:2 旅籠:26)、欄干橋町(本陣:1 旅籠:10)、筋違橋町(すじがばしちょう)、山角町(瓦職人が多い)、御組長屋(おくみながや)などの町並みが続く。
小田原市は「歴史的町名保存事業」を実施し、旧町名を調査するとともに、この調査に基づいて町名保存碑を設置している。現在保存碑は77を数えるようだ。

新宿町
江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。
町は藩主帰城の時出迎場であったほか、郷宿(ごうやど・藩役所などへ出向く村人達が泊まる宿屋)や茶屋があり、小田原提灯造りの家などもあった。
                  
万町
町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町内には、七里役所という紀州藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には、旅籠が5軒ほどあり、小田原提灯造りのいえもあった。
         

高梨町
東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央 南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取次所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と10日交代で勤めていた。
         

宮前町
小田原北条氏時代、この町は、上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、 町の中央に城主専用の出入り口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)が あり、同時代末期、町内には本陣1、脇本陣2に旅籠が23軒ほどあって、隣の本町ととも に小田原宿の中心であった。
         

宮小路
町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。
この横町は神社の門前から東へ延び青物町に至るまでの通りをいう。
         

脇本陣古清水旅館
江戸時代、大清水本陣とその隣の古清水脇本陣は兄弟で経営していた。明治以降、本陣と脇本陣を合併した古清水旅館が脇本陣跡に建てられ平成の時代まで続いた。現在は高齢者専用の賃貸住宅になっている。その2階には「脇本陣古清水旅館資料館」がある。希望すれば見学できるようだが、訪れた日は管理人が不在で残念ながら見学できなかった。
         

明治天皇宮ノ前行在所(あんざいしょ)跡・清水本陣跡
 
明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣跡である。行在所とは天皇が外出した時の仮御所をいう。
清水金左衛門本陣は、小田原宿にあった4軒の本陣のうちの筆頭で、代々町年寄も勤め宿場町全体を掌握していた。
清水本陣は、天保期には間口およそ33m(18間)、屋敷面積1,320平方メートル(400坪)、建坪およそ800平方メートル(242坪)の大本陣で、尾張徳川家61万石をはじめ諸大名や宮家の宿泊にあてられていた。明治天皇も1868(明治元)年から5回ほど宿泊されている。
          

松原神社
旧東海道の青物町交差点を過ぎた辺りから松原神社の前辺りまでが、かつての小田原宿の中心地である。
松原神社は日本武尊を祀るが北条氏綱の時、海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされ、北条氏の庇護も厚かった。
「松原明神」とも呼ばれる。江戸時代、1686(貞享3)年、老中大久保忠朝(忠世から五代目)が佐倉より小田原に転じた折、小田原宿惣町の総鎮守として盛大な祭礼を行うようになった。
1873(明治6)年、足柄県の県社に指定され、以後、現在に至るまで小田原の総鎮守的象徴である。
         

小田原なりあい交流館
「なりわい交流館」の元は、住吉屋吉衛門と呼ばれた江戸時代の旅籠で、その後、大正時代はブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。
この辺は、海(御幸ノ浜)からの恵み(干物、鰹節、蒲鉾、はんぺん等)を活用したなりわい(生業)が盛んな場所であった。現在は、そのなりわいの紹介や観光案内、お休み処として利用されている。
この建物は、関東大震災で被災した建物を再建したもので、江戸時代から続く「出桁(だしげた)造り」という小田原の伝統的な商家の建築方法だという。


北条氏政・氏照の墓
小田原駅から数分のところにこの墓所はある。
北条氏政は五代の領主、氏照は、その弟。豊臣秀吉の小田原攻めで時の城主氏直が高野山に追放され、父である氏政、その弟氏照は責任を負って自刃した。
この墓所は永く放置されていたものを稲葉氏の代になって北条氏追善のためつくり直したという。
         
         
ここは、願掛けの「幸せの鈴」を結ぶ場にもなっている。
「願」をかけ鈴を持ち帰り、願いがかなったらここに結ぶという。たくさんの鈴が結ばれている。
「幸せの鈴」についての解説板が置かれているが何故に北条氏と結びつくのかは理解できない。
         

第二次世界大戦最後の空襲
いくつかの空襲被害のいたいたしい記録を小田原市内の各所で眼にとまった。
・小田原空襲の碑
碑は青物町交差点脇の建物の壁にはめ込まれていた。
これによると、大戦最後の日、1945(昭和20)年8月14日夜半、B29爆撃機に焼夷弾攻撃を受けた。
高梨町、青物町、宮小路、一丁田などが被害を受けた。
8月14日無条件降伏を決定したあとの小田原空襲であった。
         
・8月15日空襲の記録
空襲の記録は「脇本陣古清水旅館」に掲示されている。
1945年8月15日の1時か2時ごろに空襲を受けた。
この空襲は、埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市の空襲の帰りに行われたもので、アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には記載もなく、計画されていなかった空襲だったようだ。
行き掛けの駄賃というやつか。
         
・太平洋戦争焼夷弾着弾の跡(蓮上院土塁)
太平洋戦争が終わりに近づくにつれ日本各地で空襲がはげしくなり、小田原市内でも1945年4月以降たびたび空襲を受けた。
戦争終結前の8月13日に空襲が蓮上院の土塁に着弾し、大きく土塁を損壊した。
戦国時代の土塁に昭和時代の戦争の傷跡が残る貴重な場所である。
         

小田原城
小田原城は箱根外輪山麓の台地上に築かれた。平安時代末期、相模国の豪族土肥一族の小早川氏による築城が起源で、その後、大森、北条氏が居城とした。
上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落を誇こる。特に北条氏末期には、豊臣軍に対抗するため城下全体を総延長9kmにも及ぶ土塁と空堀で囲んだ。これは、後の豊臣大阪城の惣構(城郭構造)を凌いでいるという。
江戸時代は大久保、阿部、稲葉氏と城主が変わり再び大久保氏の居城で幕末を迎えた。現在の天守閣は1960(昭和35)年に復元されている。
大手門跡の鐘楼、学橋、銅(あかがね)門、常磐木門などの見所もある。
         
         

報徳二宮神社
小田原の生んだ農聖・二宮金次郎を祀るため1894(明治27)年に建てられた。
二宮尊徳(たかのり)、通称は金治郎であるが一般的には金次郎と表記される。江戸時代後期の農政家・思想家。小田原藩家老屋敷で武家奉公し、その時に才をなしたという。
柴刈り縄ない草鞋をつくりの金次郎像や成人の尊徳像が祀られている。
         
         
        
右は小田原駅にも金次郎像が置かれているのでそちらを使用。        

対潮閣跡
対潮閣は山下汽船(現商船三井)の創始者山下亀三郎の別邸である。対潮閣には同郷である海軍中将秋山真之(さねゆき)が古希庵に滞在する明治の元老山縣有朋を訪ねる際にしばしば利用された。
秋山真之は司馬遼太郎原作『坂の上の雲』に登場する日本海海戦時の連合艦隊参謀である。虫垂炎を悪化、腹膜炎を併発させこの地で亡くなっている。49歳。
                   

ういろう本舗
中国の元朝に仕えていた公家が日本に帰化し、中国での官職「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」からとって「ういろう」と名乗ったとのこと。
「ういろう」とは痰(たん)切り、口臭予防の丸薬で、『東海道中膝栗毛』にも出てくるという。
また、歌舞伎役者の二代目団十郎は、持病の咳が外郎によって治ったことに感謝して「外郎売」を演題として歌舞伎にとりあげた。外郎の効能を早口でおこしろおかしくまくしたてる内容のようで、中に出てくる台詞は、新劇の若手俳優も練習に取り入れるようで、亡くなった「ちい散歩」の地井武雄さんもここを訪れた際に話していた。
お菓子のういろうである練羊羹の製法は江戸中期に広まったといわれる。
「ういろう」を販売している「外郎家の建物・八棟造り」は、1523(大永3)年に外郎家が建設した建物を再建したもので、棟の数が多いので八棟と呼ばれる。
『東海道名所図会』には、八棟造りの中国風の住居が描かれているが、関東大地震によって崩壊。当時の八棟造りとは若干趣を異にする建物とのこと。
         

ちん里う
梅干しは、城主北条早雲がその薬効と日もちの良さに目をつけ奨励したという。江戸時時代には宿場の土産物として街道を往返する旅人の疲れを癒した。
街道の南側に梅干しの老舗「ちん里う」がある。明治になっての開業という。
         
小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干・ういろう・小田原提灯などが名物として広く知れ渡るようになった。

西海子(さいかち)小路
その昔は、武家屋敷が集まる風情のある小路。
かつて谷崎潤一郎や三好達治など多くの文学者たちが周辺に居を構え、数々の文学作品を生み出したゆかりの地でもある。
         

           尾崎一雄邸書斎                 白秋童謡館

小田原駅跡碑
1896(明治29)年、熱海方面への陸上輸送道路として豆相(ずそう)人車鉄道が開設の際、現小田原駅から南側の東海道早川口に小田原駅が出来ていた。
人力で車両を押して走る鉄道であり、小田原-熱海間、駕籠で6時間かかるところ、4時間で走ったという。
                   

伝肇寺(でんじょうじ)
浄土宗の寺。北原白秋が寺の竹林に家を建て、創作活動に励んだ。白秋の活動を称え、境内には自筆の「赤い鳥」の記念碑が建立されている。
         
         
         
大久寺(たいきゅうじ)
日蓮宗大久寺は小田原藩主大久保家の菩提寺である。1590(天正18)年、初代大久保忠世が建立した。
         
         
                       大久保家墓所

居神(いかみ)神社
境内には鎌倉時代末期の古墳群がある。城下に残る古碑としては最古のもので、根府川石で作られた。
1317(文保1)年銘の大日、1322(元享2)年銘の阿弥陀の両種子板碑(しゅじいたび)や線刻五輪塔など5基が小田原市の文化財に指定されている。「種子」とは梵字のこと。

         
                   

光円寺
浄土宗光円寺は1633(寛永10)年、三代将軍家光の乳母である春日局が開基したといわれている。
         

上方口見附(板橋口)
光円寺の前の交差点が「板橋見附跡」。
ここが、小田原宿の上方口(板橋口)で、箱根への第一歩を印すことになる。
戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築いた。この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入口が設けられていた場所である。
       

醤油工場
旧東海道は板橋口で国道1号線から分かれる。
しばらく行くと、土蔵と繋がった赴きある家を見かける。
醤油工場の看板がかかっている。
1903(明治36)年創業の内野醤油で、日露戦争の勝利から「武功」と名付けた醤油を製造販売していたが、現在は作業はしていないという。
         

古希庵
明治の元老山縣有朋が1907(明治40)年に古希を記念して営んだ別荘。板橋の南向き丘上に総面積11,630平方メートルに、和風木造平屋建ての本館、木造2階建て洋館、煉瓦平屋建ての洋館が建ち並び、入口には、茅葺き屋根の門がある。山地回遊式庭園は毎週日曜日に一般公開されている。
         

山王神社板橋の地蔵尊
「板橋のお地蔵さん」と地元で親しまれている。1569(永禄12)年香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移奉した。堂右手には直径1.5mほどの一木から彫られた恵比寿様が祀られている。
    
小田原用水取水口
北条氏時代に小田原では古水道が造られ、城下での飲用水として使われていた。その際の早川からの取水口。

取水口からは先をしばらく現在の東海道を歩く。

風祭一里塚跡
箱根登山鉄道・風祭駅から箱根寄りに江戸より21里の風祭一里塚跡がある。道祖神が同じところに祀られている。
         

長興山紹太寺
江戸時代には、東海道に面したこの場所に石造りの門が建っていたという。
紹太寺は、春日の局と、その子で小田原城主となった稲葉氏一族の菩提寺である。
開基当時は東西1.65km(14町70間)、南北1.12km(10町16間)という広大な寺域に七堂伽藍が配置されていたという。
         
         
茅葺きの本堂から550m、石段を360段余上ったところに稲葉家一族と春日局の墓がある。解説によると二代城主正則とその正室の墓以外は春日局をはじめとした墓石は実際には供養塔であるとのこと。
         

箱根登山鉄道
箱根登山鉄道の入生田駅先の踏切を渡る。
小田急線が箱根湯本まで乗り入れていることで、車両の軌間が違うためレールが3本走っている。
         

日本初の有料道路
1875(明治8)年、小田原の板橋から湯本まで、全長4.1km、幅員平均5mの我が国初の有料道路が開通した。
江戸時代の東海道を広げ、急坂も人力車が通れる勾配に付け替えた。
開通してから5年間、道銭(通行料)を取った。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘であったと案内に書かれている。
調べると、「有料の人力車道」という表示もあった。
日本初と案内板には書かれているが、「我こそは日本初の有料道路」という路線が全国各地に乱立しているようだ。
         

三枚橋交差点
「箱根湯本駅」を遠くに眺める三枚橋交差点で旧東海道は分岐して湯本の温泉街に入ってゆく。
         



小田原宿は小田原城を中心とした観光地として残ったことで、これまで歩いた宿場町に比べ案内板が多く置かれて迷うことなく巡ることが出来た。

小田原宿を抜け、神奈川県内の東海道の宿場も8つ巡ったことになる。
残るは「天下の嶮・箱根宿」である。


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2012.3.29散策】

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