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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

返還された上瀬谷通信施設に大戦の遺物  終戦70年にあたって-3

2015-07-03 12:09:24 | その他
          
6月30日に在日米軍上瀬谷通信施設(横浜市瀬谷区・旭区)が、日本に返還された。歓迎すべき話である。しかも戦後70年の節目の年に。
1951(昭和26)年に接収されたこの施設は、242ヘクタールで、返還面積では横浜市最大のもので、瀬谷区面積の14%余をも占めるという。
横浜市では、根岸住宅地区と池子住宅地区と海軍補助施設の返還が今後予定されている。

返還された米軍上瀬谷通信施設の敷地内には、現在は環状4号線の一部になっている「海軍道路」が南北に走っている。
その海軍とは、米軍施設の道路なので、てっきり「Nevy」かと思うかもしれぬが、この海軍、「日本海軍」のことである。
          

海軍厚木航空基地の敷地には、明治時代から火薬火工工場があった。その後太平洋戦争を控え、多量の火薬類を扱う必要となり、久里浜・池子・瀬谷に弾薬、火薬庫の新設計画があがった。
瀬谷は厚木基地に近く、人口も少なかったから候補地になったと思われる。そして、1940(昭和15)年から3年をかけて農地から海軍施設へと生まれ変わった。
その海軍施設とは、海軍第二航空廠瀬谷瀬谷補給火薬庫で、高座郡寒川町にあった毒ガス製造工場で生産された毒ガスも保管されていたようだ。
、また、第二海軍航空廠瀬谷補給工場も併設されていた。
敷地の中央を引込線が通っていた。引込線跡は現在の「海軍道路」であり、相模鉄道瀬谷駅の北側から当時桑畑であった瀬谷中学校敷地内をカーブした後およそ2.8km、直線で敷設され、蓄電池車(AB10型)が荷を運んでいた。
この道、一説では緊急用の滑走路だったという話もあるが、その真偽は定かではない。
          
資料:横浜・瀬谷地図くらぶ

          
戦後軌道はなくなり、平和のシンボル桜が植えられた。今や桜の名所となっている。
          
          

施設敷地の四方にはコンクリート製の門柱が建ち、昭和40年代までは残っていたという。
          

戦後は米国海軍に接収されたが、一旦は使用価値がないため返還されるが、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発によって再接収される。
東西冷戦の時代の米国情報収集艦プエブロ号事件発生時、この通信基地が通信を傍受したことで、「上瀬谷」の名が全世界に知れ渡った。これも今や遥か昔となった。

2003(平成15)年、当施設の司令部が青森県三沢基地に移転され、ようやく返還の運びとなった。
基地フェンス近くには、何に使われていたかわからぬコンクリート構造物も存在する。
          
          
          
コンクリート構造物は、家庭菜園の畑の奥で、米軍通信施設のフェンスの手前に存在する。

返還された敷地の活用については、広く市民に意見を求めている。
そこで、歴史の名を道路にしか残していない、弾薬庫をはじめとする旧日本海軍の施設がここにあったことを専門家が検証することを期待したい。
また、コンクリート構造物は、旧日本海軍施設の部分的なものではあるが、平和の大切さを語る遺構として残して頂きたいものだ。

        戦後70年
        今年は節目の年
        平和の尊さを改めて見直す機会にしたい
        平和日本を

5. 3 Yokohama Bay Area

2015-05-06 15:34:23 | その他
GWの真っただ中、初夏の陽射しを浴びて、ひと、ひと、ひとのベイエリアを歩く。

神奈川県庁
GW中は公開しているというので見学した。定期的には毎月第3日曜日に公開しているという。
県庁の建物は、関東大震災で焼けた本庁舎に代わる4代目で、1928(昭和3)年に建てられ、庁舎としては、大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いもの。
横浜三塔の横浜市開港記念会館・ジャックの塔、横浜税関本庁舎・クイーンの塔と相並び、県庁はキングの塔と呼ばれている。3月10日は、ゴロ合わせで「三塔の日」となっている。
          
県旗は神奈川の「神」の字を図案化したもので、公募によって1948(昭和23)年に制定された。
          

知事室
       
知事室が一番人気か、長蛇の列待ちであった。
          
知事室・知事応接室の表札にはなっているが、配置表を見ると入ったところは秘書室で、右手奥に副知事室が、左手が知事室になっているようだ。
          

          
窓にはめ込まれている鉄の飾りが建物の古さを物語っている。
          
まだ現役で、知事が毎日執務しているという(↓↑)。
ほぼ中央に3つの旗が置かれている。左から日章旗、県旗、シンボルカラー旗。
シンボルカラー旗は県の気候・風土・県民性を象徴した「かながわブルー」だとのこと。
          
壁にかかっている時計は本庁舎創建当時から使用されている。

旧貴賓室(第3応接室)
          
歴代知事の写真が飾られている。椅子のひじ掛けに重厚さを感じる。
          

          
絵画の下はマントルピースが設置されているのだが見学者が多くて上手く写真には収められなかった。
          
旧知事公舎で使用されていたと思われる食器類。県のマークが印されている。

旧議場(大会議場)
          

          
シャンデリアが見事。赤絨毯が気になる。
この議場では結婚式も挙げられるという。

屋上
          
大桟橋が一望。
          

          
仮装行列「ザよこはまパレード」も上から眺められる。
確か屋上は平日ならば、いつでも上がれたと記憶している。それで、屋上は初めてではない。

階段

装飾灯や階段等に模様に極楽に咲く幻の花といわれる宝相華のモチーフがあしらわれている。

マスコットキャラクター
県下各地の27キャラクターが集合するようだ。
  
けんけつちゃんとよいしょの金太郎

大桟橋
本日は豪華客船「コスタ・ビクトリア(イタリア)」が停泊している(17時出港)。
1996年に就航年で、全長が253m、 総トン数は75,116トン、1,928名が乗船できるという。
今回のクルーズは、「東洋のハワイ」 と呼ばれる温暖な韓国最大の島・済州島→長崎県佐世保→東洋のガラパコスとも呼ばれる奄美大島→横浜港の7日間の旅だという。
因みに先月浪でベイブリッジが通過できず寄港できなかった「クインエリザベス」は 全長が294m、総トン数は90,400トン、乗客2,092名とのことだ。
「コスタ・ビクトリア」は2012年から通年アジアに配船されており、11~3月は東南アジア、4~10月は日本、中国、韓国を中心として運航している。
          

          

 

          

                     

開港記念港祭り・仮装行列「ザよこはまパレード」
今回で63回目。マーチングバンドやバトンなどの68団体、3,900人が山下公園から伊勢佐木町までをパレードした。沿道の見物人は35万人だという。
          

          

          

          

          

          

赤レンガ倉庫街
1899(明治32)年、東洋初の接岸式ふ頭として新港ふ頭の建設が始まり、その一環で赤レンガ倉庫が保税倉庫(当時は横浜税関新港埠頭倉庫と呼ばれていた)としてつくられた。
2号倉庫は1911(明治44)年に竣工した。
現在、1号館(南側)はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設として使用されている。
          

          

          

          

横浜の桜をめぐる-4 三溪園

2015-04-10 11:28:20 | その他
生糸貿易により財を成した実業家・原富太郎(三溪)によって、1906(明治39)年に公開された日本庭園。
失われようとしている京都や鎌倉の歴史的建造物を、三渓園一帯の自宅敷地内に移築保存し、1906(明治39)年無料で開放した庭園。三重塔など各所に配された歴史的建造物と桜が絶妙な調和をみせ、「日本人の春」を感じさせてくれる。





























訪れた日:2015.3.30

横浜の桜をめぐる-3 港の見える丘公園

2015-04-09 17:14:08 | その他
江戸時代末期、横浜が開港した際に、イギリスとフランスの軍隊が当地に駐留した。
太平洋戦争後も、アメリカ軍など進駐軍がこの地を接収した。接収が解除になってから、横浜市が公園用地として手に入れ整備し、1962(昭和32)年開園した。
この公園は、終戦直後の1948(昭和23)年にヒットした流行歌『港が見える丘』にちなんで命名された。
山下公園と並んで、横浜市の観光地の公園のひとつで、横浜港を見渡せる高台に位置している。
港が見える丘公園といえば、バラの花なのだが、今回は桜を求めてこの公園に上がった。







スタジオジブリ作品『コクリコ坂から』では、主人公が毎朝、下宿屋の庭で信号旗を揚げるシーンがある。その下宿屋・コクリコ荘がある場所はこの公園がモデルといわれる。
公園に2枚の旗がたなびいている。旗の意味は「安全な航海を祈る」だそうだ。











『港が見える丘』がベースとなって誕生した歌がザ・ピーナッツの『手編みの靴下』(作詞:岩谷時子/作曲:宮川泰)ということ。この曲はそれほど知られていないが、詞を代えて大ヒットしたのが園まりの『逢いたくて逢いたくて』である。日活で園まり主演の映画化がされて、相手役にはなんと渡哲也というからスゴイ。
また、横浜の代表的なご当地ソングとなっている1969(昭和44)年に大ヒットした、いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はこの公園から見た、横浜と川崎の工業地帯の夜景をイメージしたものだという。


訪れた日:2015.3.30

横浜の桜をめぐる-2 野毛山~みなとみらい

2015-04-07 16:48:22 | その他
野毛山公園
横浜開港時、日米修好通商条約では神奈川を開港することが決められた。しかし徳川幕府は東海道で栄えた神奈川宿に異人が入ることを恐れ、対岸の横浜村(現在の関内付近)を開港することにし、横浜を神奈川の一部だと強弁した。
当時、神奈川―横浜間の交通は不便で、陸路であれば程ヶ谷宿から大きく迂回するしかなかった。そこで幕府は神奈川と横浜を短距離で結ぶ道を造ることとし、神奈川宿と程ヶ谷宿の間、芝生村(現在の浅間神社・浅間下交差点の近くの西区浅間町)から、当時の海岸線に沿って3つの橋を架け、野毛山を越える野毛の切通しを造り、横浜港に至る「横浜道」を造った。
野毛の切通しへと至る道の途中には関門と番所がいくつも設けられ、通行が厳重にチェックされた。野毛の切通しの上には神奈川奉行所を築き、いざというとき開港場に架かる吉田橋を落とし、野毛山を砦とする意図があったとも言わる。
時代が流れ、明治には、ここ野毛山に生糸で財を成した豪商・原善三郎の邸宅や茂木惣兵衛(もぎ そうべえ)の別荘があった。
1923(大正12)年の関東大震災によってこの地域は壊滅的打撃を受けた。その後、震災復興とともに公園建設が行われたが、太平洋戦争終了後は米軍に接収された。
1951(昭和26)年に動物園や児童遊園が造られ、「野毛山遊園地」として開園した。




















掃部山公園
江戸時代まで、この辺りは「不動山」と呼ばれていた。
1884(明治17)年、旧彦根藩士らがこの辺一帯を購入庭園とし、元藩主・井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)にちなみ「掃部山」と名付けられた。
その後、大正期に市へ寄贈され「掃部山公園」となった。1909(明治17)年には横浜開港50周年を記念して井伊直弼の銅像が建立された。
この公園にはおよそ200本の八重桜が植えられ、明治以来桜の名所として知られている。


















みなとみらい さくら通り
「さくら通り」は、JR桜木町駅~横浜ランドマークタワー~パシフィコ横浜へと約500mに渡り続く109本の桜並木で、みなとみらいエリアの中でも桜の名所のひとつである。












大岡川
大岡川は、横浜港に流れる河川で、上流は「幻の城」で訪ね、天然の外堀となっていた笹下川である。
今回、京急黄金町駅から日ノ出町駅間の大岡川沿いを歩いて野毛山に向かったのだが、桜は満開ではなく、少々淋しい状態で跡をたった。見ごろは、訪れた日から5日後であったことをTV報道で知った。









訪れた日:2015.3.30

横浜の桜をめぐる-1 三ツ池公園

2015-04-06 16:53:26 | その他
その名のとおり、県立三ツ池公園の園内には3つの池(上の池、中の池、下の池)があり、江戸時代後期ごろより水田の灌漑用水池としてつくられた。
日本さくら名所100選のひとつに選定されていて、園内には78品種1600本を超える桜が植えられていて、花見客で賑わう。
この時期では、主な桜では染井吉野、大島桜、山桜、冬桜が咲き、染井吉野が7割を占めるという。


























アクセスは、JR京浜東北線「鶴見駅」西口より市営バス6系統、67系統、104系統の「梶山」または「新横浜」行きに乗車。但し、バス停はバスローターリー内ではなく、駅西側を走る道路脇に建つ「みずほ銀行」前である。
「三ツ池公園北門」バス停で下車。そこから公園までは、徒歩約3分。
帰りはここに戻るか、公園南側の「寺尾中学入口」バス停で循環バスに乗る。
小学校の遠足以来の散策であった。


訪れた日:2015.3.30公園発表で満開になった日に歩く

東北ドライブ2千キロの旅

2014-10-07 14:56:28 | その他
今回の旅は、岩手・青森両県がメインで、一部宮城と秋田が入る旅であった。
9月末から10月の初頭にかけて、紅葉前の観光客が多く訪れる合間にと旅立った。

我が家を6時前に出立、高速を乗り継ぎ、一路平泉に。
厳美渓
栗駒山を源流とする磐井川沿いに、甌穴(おうけつ)などの特色ある岩が並ぶ渓谷美と、紅葉が見事な観光地として、国の天然記念物に指定されている。
 

西光寺・達谷窟毘沙門堂
「平泉の世界文化遺産」の関連資産のひとつ。
801(延暦20)年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷を討伐した記念として祀った窟(いわや)の毘沙門堂。
北上川の支流、太田川の谷を分岐する丘陵に、達谷西光寺があり、境内の西側に、東西約150メートルの岸壁があり、その下方の岩屋に窟毘沙門堂がある。
また、その西側壁面には、大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる岩面大佛が刻まれている。
 

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺産群
「平泉の世界文化遺産」は、2011(平成23)年に登録され、構成資産は、次の5施設である。
中尊寺
寺伝では、859(貞観元)年、円仁の開山とされるが、実質的な開基は、12世紀の初頭、藤原氏初代・清衡(きよひら)が多宝寺を建立したことが創建と見られる。
藤原氏三代ゆかりの寺として知られるが、平安時代の美術工芸、建築の粋を集めた金色堂は、「平泉の世界文化遺産」を代表する文化財だけあって、日曜日に参拝したこともあり、観光客が多かった。それも意外と若者が沢山参詣しているのには驚く。駐輪場の係員に話を聞くと、富岡の世界遺産に奪われて観光客が減っているという。やはり日本人は新しもん好きなのだろう。
幾つかの伽藍を参詣しながら金色堂に向かう。途中の本堂では小学校女生徒のコーラスが唱歌を歌っていた。
中尊寺は、高校2年の団体旅行で訪れて以来である。
 
観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
藤原氏二代当主・基衡の妻が建設した、毛越寺に隣接している寺院跡。
南北に延びる寺域の北部に2つの阿弥陀堂があり、中央部に池があり、数少ない平安時代の庭園遺構として評価されている。
 
無量光院跡(むりょうこういんあと)
藤原氏三代当主・秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院であった。当時は平等院の規模をも上回るきらびやかな寺院であったが、度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみである。
敷地の西には金鶏山が位置していて、配置的に夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように庭園から見え、浄土思想を現わしていた。
近くには、藤原氏の政庁・平泉館(現在の柳之御所遺跡)があったされる。
   
毛越寺(もうつうじ)
夕方の毛越寺で、観光客は幾人もおらず、静かな庭園であった。受付の女性とこのことを話すと、認識としては差があることは承知していて、特に若者は平泉の世界遺産=中尊寺金色堂と思っているようだと話していた。
 

1泊目はこの近くに宿をとる。建物は古かったが、値段の割に料理が最高で、突立てのあんころ餅、具だくさんのお吸いものがどんぶりほどの器で出たり、牛肉は当然、エビやウナギの蒲焼までがテーブルをにぎわせた。メロンとグレープフルーツのデザートも当然。おかげで友人が持ってきたブドウを食べることができなかった。
金鶏山(きんけいさん)
2日目の最初は、すぐ近くの金鶏山に向かう。
中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する都市平泉の空間設計の基準となった信仰の山という。藤原氏三代秀衡が、無量光院の西側に一晩で築かせたという伝説が残る。
山頂に雄雌の金の鶏を埋めたことにちなにで呼ばれたと伝わる。しかし、発掘では金の鶏は見つからず、カメや壺が沢山発見されたという。この山は、お経を埋めた経塚山だったようである。
金鶏山登山道入口に千手堂と、義経妻子の墓である五輪塔が建てられている。
義経は頼朝の命を受けた藤原泰衡に襲撃され、自らの手で22歳の正室・郷御前と4歳の女の子を殺害したのち自害したと伝わる。
金鶏山は、100m足らずの標高で、登山道入口付近には栗の木が多く植えられており、少々粒が小さい実が沢山落ちていた。
途中で熊よけのベルを鳴らしながら下りてくる、地元の年輩者に出会う。本当に熊が出るのか尋ねると、「昨年は出なかったね。」と返ってきた。前日も近くの道で東北自然歩道「新奥の細道」について地元の方に尋ねると、今は熊が出る可能性もあるので閉鎖しているという物騒な話も聞いていた。
    

東日本大震災被災地を進む
黄金色の畑の中を海岸線へ
平泉をあとに、海寄りへ進む。「絆―ふるさとはまけない!」の看板が読める。
 
奇跡の一本松(陸前高田)
大津波に被災したユースホステルをバックに一本松がたっていた。
時刻は、丁度夕刻の5時。スピーカーから時報を教える音楽が流れた。
「ふるさと」である。
憎い演出に思わず目頭が熱くなり、一本松に向かい黙とうをする。
 
土地のかさ上げ
住いを流された場所に再び住むのであろう。地面をかさ上げしている工事を至るところで目にする。典型的なのは陸前高田の町である。長いベルトコンベアが四方に上空を走っている。
これから、土を固めて安定させるのだから、この上に家が建つのは何時なのだろう。
 
被災
5階建の建物が4階まで被害にあっている。基礎だけ残っている住居跡もたくさん見かける。
国道45号線を北上すると、津波が押し寄せた位置の標識を至るところで見かける。こんな高いところまで来たなんてと、改めて大津波の恐ろしさを知る。
写真は撮れなかったのであるが、被災した店舗をそのままにして、その2階で営業をしている理髪店を見かけた。そこも高い場所だった。
 
復興の土音
宮城県気仙沼、陸前高田へ進み、2日目の宿は、越前高田。
津波で宿は流され、2年間仮設住宅で生活し、昨年新しく今の場所に旅館を再建したという。以前は湾の延長線上にあり、大津波をもろにかぶったと想像する。陸前高田市の旅館では、最初の再建で、そのあとが続かないという。資金という壁に阻まれているのか。
3日目は大船渡、石巻、宮古と東日本大震災の被災地の町を、早く復興して欲しいと願いながら車を進める。
 

リアス式海岸を北上
小学校の社会科の授業で、連続して鋸の歯のようにギザギザに連なっているような地形を「リアス式海岸」というと習ったギザギザの断崖。今は「リアス海岸」と教えているようだ。
3日目は、その海岸の幾つかを回りながら、北上した。台風17号の影響で荒波がたち、写真を撮るにはもってこいのシチュエーションであった。
巨釜・半造
 
碁石岬・穴通磯
 
浄土ヶ浜・青の洞門
 
北山崎・黒崎
 
4日目の早朝、ここ北山崎を訪れた。前日は北山崎より少々北に上がった黒崎の国民宿舎に泊まる。
村営と公営の宿だけあって、復興に携わっている土木工事関係者が観光客の数倍宿泊していた。1年間仕事をして一旦帰り再び来たのだが、人手が足らないため、人数を増やしてまた戻ってくるという職人に出会った。
北山崎は、冷害の原因ともなる、冷たく湿った北東風または東風(こち)である「やませ」が吹き付ける場所としても有名である。
東北人は働き者なのか、早い時間から観光客相手の店が開いている。軽の車で野宿をしていた一人旅の男性も見かけた。
この高さ200mの大海食が連なる崖の景色が、JTBの「自然資源・海岸の部」で唯一、「特A」に格付けられているという。

八甲田山
八甲田山といえば、明治の陸軍雪中行軍遭難事故である。ロープウェイ山頂駅にも映画撮影時の写真が展示されている。
日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した日本陸軍は、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、冬季軍事訓練を準備していた。その冬季訓練を八甲田山中で行い、参加者210名中199名が死亡する遭難事故である。それは、ロシア戦争勃発2年前のことだった。
 
新田次郎の原作を映画化する撮影も、ここで行われたのだが、過酷なロケだったと、当時売れない時代の大竹まことさんが、撮影の模様をEテレのある番組で話されていた。過酷さは半端ではなく、俳優や助監督までが逃げ出したという。撮影を待つまでのエキストラ人は、雪に穴を掘って暖を執り、自分の身は守ったという。主演、北大路欣也さんの「天は我々を見放した」の台詞は、あまりにも有名で当時の流行語にもなった。
山頂で埼玉県の深谷から来たという御夫婦に出会った。おふたりは、日本海を走って、津軽半島から南下して来たという。我々は、太平洋側を通って北上して八甲田に来た。面白い巡り合わせだと思った。宿を決めない旅だという。それに比較して、5泊全て宿を予約して旅する我々。
その4日目の宿泊は、十和田湖畔。温泉宿は15軒ほど点在するという。
泊まった宿は、料金の割には予想外に大きなホテルで、部屋も格子戸を構え、ほかの部屋より高級な感じ。バス・トイレ付の12畳。予約は電話でカニ+牛肉の部屋はおまかせコースとしていた。旅館に露天風呂があったことで宿を決めたのである。浴室入口には、2階から地下1階まで流れ落ちる豪快な人工滝もあった

奥入瀬渓流
今回の目玉のひとつ。
十和田八幡平国立公園に属し、十和田湖から流れを発する奥入瀬川の14kmの渓流である。
当初、電動自転車を借りて渓流を回る予定であったが、前日八甲田山から湖畔の宿に向かう際にこの渓流沿いを車で走ってみると、狭いものの駐車スペースが、たくさん点在していることが分かった。その上、紅葉時期には早いので通行する車両も少ないので、車移動でも十分可能なことがわかった。
そこで、8時過ぎに宿を起ち、流れに沿ってコースの中間の石ヶ戸までの渓流を堪能した。この道は、滝も多く存在し、「瀑布街道」とも呼ばれている。
 

十和田湖
青森県と秋田県にまたがる湖で、十和田八幡平国立公園内に位置した、十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖と言われている。大きさとしては国内12番目。
 
十和田神社
恐山と並び東北二大霊場と言われる。湖畔の乙女の像の奥に神社は祀られている。
祭神は日本武尊であるが、明治の神仏分離までは東北地方に色濃く残る水神信仰の象徴であったと言われており、奥の院には青龍大権現が祀られている。
また、神社から山中奥には占場であり、吉凶を占う場として信仰を集めている。現在は占場へ下る梯子が通行禁止となっている。それでなくとも参拝した時は、うす暗い時刻であったので本殿までとした。
拝殿は、細かな彫刻が施され、重厚で、かつ荘厳さを感じる。
 
乙女の像
十和田湖を世に出した功労者3人を讃える目的で像を建立したという。「智恵子抄」で知られる高村光太郎、1953(昭和28)年の作品である。
今や十和田湖のシンボルとなっているが、像を見ると現在の女性と比べて、ウェストが太くてごっつい感じがする。当時の女性の体型なのだろう。
     

八幡平
5日目の宿は、平泉の入口である東北自動車道の一関インター近くのホテルに予約していた。予定は全て終えたが、ホテルに向かうには時間が早いので、計画から外した八幡平に向かった。
向かって追加したことが正解であり、きれいな紅葉がみられた。
 
深田久弥の日本百名山に挙げられている山であるが、地形がゆるやかで、沼や湿原が多い。
伝説によると、奥州蝦夷征伐に訪れた坂上田村麻呂が、山賊の残党を追う途中に八幡平にたどり着き、その極楽浄土のような景色に感激した。そこで、戦の神である八幡神宮を奉り戦勝を祈願。残党を討伐後に再び訪れ、戦勝の報告を行うとともに、この地を「八幡平」と名付けたとされる。が、これは史実ではないようだ。

八幡平を堪能して、高速に入る。5泊の宿は一関である。宿に入るには時間は早い。それでは1日短縮し一路帰途にと、740キロをばく走する。
今回の東北旅行、遡ると4年前の山形の旅で、越境して岩手まで足を延ばす計画をしたが、その時は一寸時間がかかりすぎということで、岩手は翌年に持ち越したのである。
だが、翌年不幸な地震が発生。それからのびのびとなってしまった。計画を膨らませ、やっと実現した東北旅行は、連日向天気の走行2千キロの旅であった。
昨年の瀬戸内の旅同様、「運転手は君だ」で、助手席に座っていれば目的地に着いてしまうドライブであった。
頼もしい50年来の友である。感謝、感謝。

 
赤い十文字草とコケモモ。4日目、八甲田山に向かう途中に買い求めた。赤い十文字草は珍しい。車の旅ならでのおみやげ。

「横浜小満んの会」初笑い2014

2014-01-21 17:43:33 | その他
横浜小満んの会」初笑い




この日をもって正月の行事は終了するという、「二十日正月」のこの日、「横浜小満んの会」の初笑いが開かれた。
120回と節の良い回から新しい年がはじまった。そして、出てくるお囃子まで違っていた。

今年の予定は次の予定だ。
  第121回(3月)・・・・松竹梅、橋場の雪、胴乱幸助
  第122回(5月)・・・・雛つば、髪結新三(上、下)
  第123回(7月)・・・・たらちね、有馬のおふじ、大山詣り
  第124回(9月)・・・・粗忽長屋、お札はがし、寝床
  第125回(11月)・・・猪買い、忍三重、八五郎出世

おたのしみに。

「甘酒横町界隈を歩く」 それから

2014-01-04 13:10:56 | その他
最近、寝る前の一時を歴史関連の本を読んでいる。
WALKMANを耳にしながらなので、そんなに固い内容ではない。それを数頁読むのである。
「甘酒横町界隈を歩く」のBlogを書き終えた日、昨日であるが、いつものようにその本を読んでいると、すぐに目にはいったのは、偶然にも日本橋小伝馬町をまわた時の「時の鐘」の文章である。
読んでみると大変参考になり、Blogの内容を改めようと思った。
そこで、「ハッ」と思った。『偶然』オバケに追いかけられていることに気がついたのである。『偶然』が今も引きずっているのである。いつからか?
それは、遡ること11月末の京都旅行である。

京都の市中を外れた道を歩いていると、屋根の飾りに彰禧様が飾られている立派な家を幾つか目にする。いかにも京都という家の趣を感じる建物である。
それから、あだしのの念仏寺を拝観した。念仏寺と云えば、フジTVの「赤い霊柩車」である。そのドラマの登場者である、1級葬祭ディレクター・秋山役を演じている大村崑さんの事が同行の友人との話題となった。
「かなりの年だと思うけれど、頑張っているネエ。」 「でも、若い時に大病しているんだよね。」
と、話はそこで終わったのだが、その続きは、その夜のBS-TVが、説明してくれた。そこにTV番組との『偶然』がまたまた発生した。
         
昭和のレトロな風景を訪ねる趣旨のBS-TVの番組は、大阪市の平野区を歩く内容であった。おそらく関東では見られぬ、関西のローカル番組ではなかろうか。
まずは、屋根の飾りの彰禧様が出てきた。「彰禧様の飾りは京都ばかりではなく大阪にもあるんだヨ。」とこのタイミングの良さは、こうなると、私に向かって説明しているように思えてくる。

つづいては、オロナミンCの崑さんの看板である。「崑さんは若い時に結核で肺の半分を切る大病をしている。」ここで昼間の会話にあった大病が何なのか説明してくれた。
大病後に移した顔は顎がとがっているので、この看板は初代の看板だ。と解説があった。オロナミンCの看板には初代や二代目があるようだ。
TV番組との『偶然』が京都でもあったのだ。
この驚きの内容はBlogには載せなかった。TV番組との『偶然』が多すぎるので、「今回もかよ」と読み手がうっとうしくなるだろうとやめておいた。
それが、そこで書かなかったことで後で思うに『偶然』オバケが追いかけ始めたように思える。
今回、人形町を回るとオロナミンCの看板も彰禧様も出てくるではないか。
オロナミンCの看板を目にした時は時々目にする光景だなんて思っていた。
だが、彰禧様に出会ったときにはお江戸にはありえない飾りがあると驚きがでた。
『偶然』オバケが現れた。
 
「甘酒横町界隈を歩く」でも、一旦は京都旅行と関連付けて書いたのだが、最終的にはカットしてBlogをオープンした。
だから何で書かないのだと『偶然』オバケが追いかけ始めていて、時の鐘の記事なったと勘ぐりで思ってしまう。

そして、その「時の鐘」なのだが、日本橋本石町で聞くまでもなく、前もって京都旅行のあだしの念仏寺で聞いていたのであった。
『偶然』オバケの追いかけは、落ちまでつけてくれていた。
                   
この『偶然』オバケの追いかけが消えてしまうように、敢えてこの『「甘酒界隈を歩く」 それから』を書いた。
事実は小説よりも「奇」なりと申しまして・・・

ところで、「時の鐘」の文章はこんな内容である。題して『江戸の暮らしの指標 本石町の時の鐘』とある。
江戸時代、時を知らせる手段は、はじめは江戸城内の太鼓の音であった。のちに鐘に代わり2時間ごとに鳴らしていた。その最初の鐘が、今回訪れた日本橋本石町の鐘である。
1626(寛永3)年、200坪の土地を拝領して鐘楼を造り、鐘つき役が鐘をついた。最初に3回、続けて時刻の数をついた。
         
この本のサブタイトルが面白い。『「町」から「街」へ―― 時を超えた東京散歩』。いかにも私のBlog名『あの町この街歩こうよ』の歴史参考書にふさわしい名である。 出来過ぎかと思えるほどだ。
それから、大村崑さんの年齢は82歳。ほんとに、「元気ハツラツ!」である。

                       関連 : 甘酒横町界隈を歩く


井の頭公園の歌姫・あさみちひろさんの公園ライブ

2013-12-17 17:48:19 | その他
井の頭公園の歌姫、中高年のアイドルあさみちゆきさん。
ストリートミュージシャンとして活動。歌謡曲、フォーク、演歌、J-POPとジャンルを飛び越え、古きよき昭和を感じさせる歌を聴かせているといわれる。
2001年11月より井の頭公園で歌いはじめ、先月12年目を迎え、今回のライブは第177回目。
このライブを聞きに、バスや電車を乗り換え2時間かけてやってきた。
     
プロフィール
1978年1月11日、山口県生まれ。
2003年、テイチクエンタテインメントから「紙ふうせん」でレコードデビュー。
              
 
今回の曲目
①港のカラス ②井の頭線 ③青春のたまり場 ④娘から愛をこめて ⑤ふるさと ⑥井の頭公園  ⑦新橋二丁目七番地 ⑧兄弟船(リクエスト) ⑨悲しき口笛(リクエスト) ⑩愛染桜
およそ50分のライブ、デビュー以前からのファンの皆さんとの会話が楽しかった。
          
今年もNHK紅白歌合戦の出場者が決まったが、残念だが選に漏れしまった。
昨年、大物演歌歌手がひとり出場不可となり、あさみさんには話題曲があったので、その歌手のあとがまにと思っていたが叶わなかった。
いつかその日がと願う。
             

今回は歌わなかったが、

   十年ぶりに 降りた駅                 十年ぶりに この街で
    想い出たずねて ここは来た            あなたは誰かと 暮らしてる
    三本立ての 黄昏シネマ              ハッピーエンドの 黄昏シネマ
    学校帰りに 待ち合せたね             涙がぽろりと こぼれて落ちた

    固い座席に もたれたら               私は今でも ひとりだと
    あなたが隣に いるようで              あなたに伝える 人もない

    あなたの遠い 青春の                私の遠い 青春の
    私はきっと エキストラ                 あなたはずっと 主人公
    それでもいい それでもいい             まぶしすぎて まぶしすぎて
    同じ季節を生きた                   今も瞳をそらす

《黄昏シネマ》

この歌が好きだ。
青春時代の苦くも甘酸っぱい想い出。誰もが持っている青春時代の淡い1ページではないだろうか。
          
            
昨日の夕刊から「この演歌的人生」という連載記事がはじまった。
第1回目は藤圭子さんであった。
彼女の怨歌代表作といえば「圭子の夢は夜ひらく」である。この「夢は夜ひらく」は、園まりさんら4組の競作から始まり持歌として、カバー曲として50組以上の歌手によって歌われている。
あさみちゆきさんも2004年に「ちゆきの夢は夜ひらく」として発売している。
彼女の「夢は夜ひらく」をはじめて耳にした時、フォークから演歌までの幅広く歌う歌手の曲なのだろうかという驚きがあった。実に「圭子の夢は夜ひらく」以上の怨歌を感じたからである。
ただ、原曲が練馬少年鑑別所で歌われていた曲を補作したものというので、それもOKなのかな。
その「ちゆきの夢は夜ひらく」とは、

     うまれて来なけりゃ よかったと       ブランド(鞄)バックと ひきかえに
      寒い目をした おとうとよ           あの娘が散らした 青い花
      生きているよね 逢いたいよ         風の間に間に ヒラヒララ
      ・・・・夢は夜ひらく                ・・・・夢は夜ひらく
  
              
            

次回は、2014年1月11日。あさみさんの誕生日にライブ。
これからも活躍を!