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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

「海軍道路」案内板が設置される

2017-04-12 16:50:43 | その他

2017年3月末に瀬谷区に走る「海軍道路」の案内板が設置された。
瀬谷の近代史を調べている団体「瀬谷・地図くらぶ」が行政に長年の要望をしてようやく実現した。
区民の中にはアメリカ海軍の通信基地の脇を通るのでその名がついたと思われていた。その誤りを正すためにも第二次大戦中に軍事基地がこの地にあったことを記して欲しい要望であった。
案内板は奇しくも、かつて海軍道路に走っていた畜電池機関車の蓄電池交換場所であったと当会の機関紙「横浜・瀬谷地図くらぶ瓦版」が紹介している。



畜電池機関車は瀬谷駅から現在の市立瀬谷中学校を通って、海軍道路を北上旧日本海軍施に弾薬・軍需物資を運搬していた。運搬距離およそ2,800m。

現在は桜の名所になっている。

除夜の鐘

2016-12-30 14:52:02 | その他
除夜の鐘をつく理由は諸説あるが仏教では、人の心にある煩悩を祓うためと云われている。それは人には百八つの煩悩があるり、その煩悩を祓うために除夜の鐘は108回撞くとされているそうだ。
煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを云い、心の乱れ・汚れを指し、代表的な煩悩には、精神的や肉体的な欲望、怒り、執着、猜疑などがあり、それを細かく説明をするサイトも見受ける。
煩悩を祓うには、修行を積んだ者しかできないとされるが、除夜の鐘には一般の我々に於いても心の乱れや汚れを祓う力があるという信仰が今日まで伝わり、除夜の鐘の儀式となって続いているようだ。それで、普通の日ではなく、除夜、つまり大晦日に鐘を撞くのだが、我々凡人はそれを知らずに昔からの風習と云うことで撞いていると思う。なお、除夜とは、除日(じょじつ)の夜のことを指し、「除」には、古いものを捨てて新しいものに移るという意味がある。
つまりは除日とは、一年の最後の日ということで、大晦日を指していると書かれている。
除夜の鐘を108つ撞く寺院では、107つを旧年に、最後の108つ目を新年に撞くと云う。そうではなく、一般信者に数は関係なく鐘撞きができる寺院も見ける。
ここ、横浜市旭区の浄性院も後者で、わが家族も撞いたこともある。





江戸時代初期、徳川家康から当地を拝領し治めていたのは、平安時代の武将・源頼光四天王のひとりで京都の一条戻り橋に於いて鬼の腕を切り落としたとされる渡邊綱を先祖とする渡辺家が浄性院を再興した。

渡辺家の墓

正式名は「源圓山 浄性院 長安寺」であり、これは寺を再興した渡辺富次の法名、浄性院殿源譽月法道圓大居士からの由来とされる。
また本尊の阿弥陀三尊は、大本山光明寺第42世直蓮社玄譽無上人が1674(延宝2)年に総本山知恩院38世になった後、富次の逝去と重なって知恩院より下付されたもので、350年近くの古い仏像である。
また、梵鐘は区内で最も古く、1788(天明8)年、物部氏の作といわれる。

浄性院の梵鐘

浄性院の梵鐘には、1590(天正18)年8月、徳川家康が「関八州を保有した翌年、武蔵国二又川の地を分けて、渡辺孫三郎源勝(みなもとのかつ)に与えた。」と記されている。
また、鐘の鋳造しているころの世状で、1783(天明3)年7月に浅間山の大爆発があり、鐘銘には苦しかった当時の様子を伝えている。
「この年浅間山の災いがあった。これ以来不作の年は続き、武士も農民も悉く困り果てた。富める者にして施しを好む者も、近隣をはばかり寄進しなくなった。とりわけ、貧しくしても仏の道を信ずるものが、毎日の米塩にこと欠く有様となった。貧者らは、上人に対し、喜捨ができないことを嘆いた。しかし、上人は、『古えより能(よ)くなる年もあれば成らぬ年もある。天が我をして任ずることが出来なければ、必ずや後に続くものが生まれる。わたしは此の事を信ずるが故に、一時の困窮に志を曲げることができない』といい放ち」さらに続けたとある。1786(天明6)年十代将軍家治が没した年、宮仕えの者が上人に喜捨したという。そして、不況つづきだった作物は、7年に入ってやっと実るようになり、村々は生きかえり仕事に精を出したという。
梵鐘は1788(天明8)年4月8日に完成した。
浅間山の噴火では、火山灰が関東・甲信越に降り注ぎ、浅間山を中心に死者は2万人を越えた。作物は降灰のため枯死し、空を覆う噴煙は陽光をさえぎった。上州・信州では救米を叫び農民騒動が起きている(資料:旭区の郷土史より)。

天明8年4月や武州都築郡二股川村の銘が読める


昭和39年頃までの本堂

日本の三大梵鐘と梵鐘をランク付けするが、それは京都の知恩院、方広寺と奈良の東大寺。この夏、その東大寺を訪れたが、あまりのデカサに驚いた。

東大寺の梵鐘 下のカップルと比較すると・・・

最近は寺院が住宅地に囲まれているため除夜の鐘撞きが中止になったとか、除夜ではなく徐日に撞く寺院も出てきている。信仰からは外れるが、古くから伝えれている日本の文化が消えてしまうことは寂しいことである。
NHKの「ゆく年くる年」で鐘の音を聞くだけになってしまうのだろうか。その「行く年くる年」の番組でその年訪れた寺院が紹介されると本当に一年の締めくくりと感じるのは私ひとりだろうか。残念ながらその偶然は、これまで2回程だったのだが、今年はどうかな?。

我が家では、遠く鐘の音が聞こえ新年を迎える。

カワハロ 20th パレード

2016-11-01 14:13:26 | その他
                
20周年を迎えた川崎のハロウィンは新川通り、市役所通り、駅前京急線高架下通りの車両規制を行っての2,500人が様々な扮装をしてパレードした。


JR川崎駅構内もハロウィン

市庁舎もハロウィンモード
































公園には更衣場所も用意


🔴パレード終わってチネチッタで









報道陣も このクルーはサンディジャポン? マイクに「サンディ」と




開催が20回となったこともさること、経済効果がバレンタインを超えたと言われ、子供がお菓子を貰うための仮装ではなくなってしまい、もはや日本の一大イベントとなっている。

訪れた日:2016.10.30



瀬谷区役所ロビー展示「瀬谷の戦争遺産」開催

2016-10-21 15:22:23 | その他




タウンニュースにも紹介されている「瀬谷にあった戦争の記憶・上瀬谷軍事施設 ~地図・写真でみる瀬谷の戦争遺産~」が昨年の8月に引き続き10月17日~28日間に瀬谷区役所2階ロビーにて開催されている。

今回の特色は先の太平洋戦争における瀬谷の被害を体験者から聞き込むなどした独自の資料を展示していることである。










横浜港見学クルージング

2016-09-10 03:22:43 | その他


地元のコミスクで、横浜港見学の募集があったので、参加した。
横浜港見学は横浜港振興協会が青少年への海洋、海事思想の普及と、市民の港湾への理解を深めることを目的に市内の小学生と市民を対象に募集・開催している。
今回の見学はマリンシャトルに乗船して横浜港内を、そしてマイクロバスに乗車して港の施設を見学する2コースセットである。

横浜港は1859年、ペリーの来航によって開港したひとつで、249の岸壁と10のふ頭施設から形成している。
先ずは、マリンシャトルクルージングである。

13時30分、山下公園の岸壁を離れ、一時間のクルージングが始まった。一路横浜航路を進む。
正面に、全長860メートル、海面からの高さ55メートル、工費800億円の横浜ベイブリッジが現れる。クインエリザベス号の53メートルを上回る高さに決めたが、現在では60メートルを超える船も現れ、ベイブリッジをくぐれぬ船も出てきている。右手は山下ふ頭。
船は横浜ベイブリッジをくぐり、直進する。
右手は、本牧ふ頭。別名赤いキリンと言われるガントリークレーンが立ち並ぶ。その先には横浜港のシンボルタワーが白い姿を現している。



左手はこの後バスで訪れる大黒埠頭である。白とブルーの動く駐車場・パナマ船籍の自動車専用船が停泊している。乗用車3,000台が積めるという。

大黒ふ頭の沖合に進む。右手彼方が浦賀水道、正面が房総半島である。部分的に雨に煙っている。
開けた海原に船が数隻停泊している。ここは、検疫錨地(びょうち・停泊場)で、伝染病の有無(検疫所)、密輸品(税関)、密入国者(入国管理局)の調査、検査を受けた後、入港する。

ここから左に旋回し、鶴見航路を進む。
右手は川崎市の扇島。日本鋼管と川崎製鉄の統合会社である、JFE(東日本製鉄所)の建物が建ち並ぶ。
横浜ベイブリッジと並び、横浜を代表する橋の鶴見つばさ橋の下を通る。 全長1,020メートル。一面吊りの斜張橋としては世界最大規模で、大黒ふ頭と扇島を結んでいる。

高さ200メートルの ツインタワーが右手に見える。東京電力横浜火力発電所である。ここでは、横浜市民が一日に消費する電力が生産出来ると言われている。

その先には、「横浜さとうのふるさと」と書かれた建物が見える。太平洋製糖である。江戸時代、砂糖が初めてつくられたのも、白い砂糖を初めて輸入したのも横浜であると言うことで、砂糖のふるさとと言うそうだ。

赤灯台が見える。本来は ツインで、白灯台があったのだが、船舶事故で破損し、陸にあがっているそうだ。

船はゆっくりと航行し、みなとみらい21地区にさしかかる。ランドマークタワー、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、国際平和会議場、コスモワールド、レンガ倉庫などが建ち並ぶ。そしてクルージング最後は、大桟橋ふ頭である。
一時間のクルージングは終わりとなった。次はマイクロバスで大黒ふ頭に移動する。気温が高かい日であったので、車内のクーラーが心地よい。
途中、たくさんのはしけが停泊する景色に出会う。平ボデイの自力走行では航行できずタグボートのよって航行する船で、昭和40年代には2,000隻が航行していたという。それが現代では10分の1の200隻の登録となっている。私たちが小学校で歌った「みなと」の歌詞のなかの『はしけ(端艇)の通いにぎやかに 寄せ来る波も黄金なり』も遠い昔となった。
その先はYCC。日本で最初のヨットクラブと言うことだ。現在は係留施設が金沢区に移動している。
この先、大黒ふ頭へはベイブリッジの二段になる下層部の国道357号線である一般道を通っていく。この国道は地元業者の強い要望で橋の完成後16年経過して、ようやく完成した道である。

大黒ふ頭に降りる。ここは、地下鉄工事の土などによって全て埋め立てた土地である。 深さ60~70メートルの杭を打ち込んでいるが、完成直後は年間10センチメートルほど、現在も数ミリは沈下しているという。

ここの取扱品目は、車、鉄鉱石で、車の量は名古屋、三河に次いで全国3位。メーカーは 三菱・いすゞ・日産ディーゼル・富士重工である。それと中古車の輸出量はナンバーワンである。 輸出先は、東南アジア、中近東、アフリカである。

その先正面に、スカイウォークの施設が見える。 平成元年から12年間営業 していたが、赤字のため現在閉鎖している。
海沿いにはガントリークレーン(大型クレーン)がみえる。横浜港には46機が立つ。1機10億円と言うからすごい金額である。しかしこの大型クレーンは 公共性が高いので七~八割ほど国の補助があるのだと。 自治体が整備して貸し出すのだが、全国で62港大型クレーンが設備化されているが不要な港が多く全国的に無駄をばらまいているとガイドの方が話していた。

Y―CC横浜港流通センターに向かう。 平成4年横浜市が主体となって設立、 輸入貨物の流通確保を目的として、 事務所棟と物流棟がある。5階建ての建物にはループ式ランプウエイ設備されて、各階にトレーラーで移動できる。屋上はコンテナートラックの駐車場になっている。



横浜港のコンテナの取り扱いは昭和60年代から平成初期にかけては世界のベスト一10に入っていたが、現在は港湾行政の問題で、東京港28位、横浜市42~3位まで落ちている。
次に本牧ふ頭のシンボルタワーに向かう。このタワーは出入港の信号と展望施設を兼ねた施設で、48メートルの高さである。上階からの天候が良くなったので眺めが大変良かった。
ここから発する信号は、O(アウト)=出るだけ、I(イン)=入るだけ、X(エックス)=入出共不可となっている。

これですべての見学は終了。海釣り公園の脇を通って横浜駅東口に向かう。到着は予定通りの16時30分。
お疲れさまでした。

訪れた日:2016.8.3


ザキの商店街を神輿が練る

2016-06-30 14:25:58 | その他



伊勢佐木町ブルースの歌碑

2016 横浜開港祭 みこしコラボレーション

神奈川県下各地保存会のみこしが一堂に集まり
イサザキモール7→1stを練り歩く
「江戸前神輿」「どっこい神輿」
合わせて21基の神輿と3千人の担ぎ手が
威勢のいい掛け声で練り広げる
























ここにも「トラ」が



















訪れた日:2016.6.26


宮沢山王稲荷社例祭2016

2016-03-17 11:31:40 | その他
遡ること360年、徳川四代将軍家綱の時代。 旗本石川六左衛門が石高を補うため瀬野(現在の瀬谷)と和泉間の荒れ地に上矢部村(現在の戸塚区上矢部町)の名主・佐藤家の郎党数名(佐藤、上杉)を第一陣として入植させ宮沢の南、和泉境より開墾を開始させた。
開墾にあたり現在の地に山王稲荷社の祠を建て工事の安全と早期の完成、五穀豊穣、家内安全を祈念したことが始まりとされ、宮沢最古の社である。そこで、この地は宮沢の原点とも云える。




山王稲荷社の名からとった「山王橋」 社は正面の竹藪の中に奉られている


神官によって神事が執り行われる


山王社                                     稲荷社

例祭には昭和初期までは湯花神楽が奉納されており、開墾と湯花神楽の話は「瀬谷の民話」と昔話に残されている。
   
                                            【参考】阿久和・熊野神社の湯花神楽

その後、旗本石川家の領地より石井、広瀬、山中の一族が、また上矢部の付近から岩崎、小川家が入植した。耕地が出来上がったのがおよそ30年後の徳川五代将軍綱吉の元禄年間(1680年頃)だと思われる。
そこで、宮沢村の村社として山王稲荷社からおよそ300m北に神明社を鎮座した。
《開墾の年代は山王稲荷社の解説を参考にしたが区の解説ではこれより20年余早いとされる》

神明社

先ほどの山王橋の下流には地名を冠たる宮沢橋が架かっていて、先代の橋は木製で趣があった。
 
          
橋を渡るとすぐに分岐となり、左手はかながわ道で藤沢方面に向かう。
 
坂を上がりきると畑が広がる。瀬谷区の農地専用地域である。江戸時代に開墾された農地だと思う。
          
ほしのや道は六道の辻へと続く。

一方開墾された和泉川縁の水田は、今は遊水地となった。 








つくしも芽を出し、もう春ですネ


「永遠」を守る軍団・兵馬俑をみる

2016-02-22 16:31:40 | その他



今から2200年前、中国で統一王朝をうちたてた最初の皇帝と云う意味で始皇帝を名乗った。
巨大な陵墓の近くに埋められた8千体の陶製の兵士や馬などが出土した「兵馬俑」は、20世紀最大の考古学の発見であり、世界中の驚きであった。
「俑(よう)」とは、遺骸とともに埋葬された副葬品の人形のことである。
今回、東京国立博物館で展示があったので、閉会間際の日に見学した。
展示の前半は秦王朝の軌跡と装飾品などの展示で、後半が期待の始皇帝が夢見た「永遠の世界」兵馬俑と銅馬車(複製)の展示であった。

その展示品
          
将軍俑
約8千体のうちわずかに10体。指揮官の将軍俑は、戦闘指揮用の馬車付近で出土し、高位を示す冠をつけている。
リボン状の飾りをいくつもつけた鎧を着ています。実戦での機能性よりも装飾性を重視した身なりである。
   

軍吏俑
部隊長級の人物。武器を掲げていたと思われる重装備の豪傑。

歩兵俑
軽装備の服装で最前列に位置する。

手前が軽装備びの歩兵でその後ろが鎧姿の兵士


立射俑
弓または弩(ど)を構えたポーズをとっている射撃手

跪射俑(きしゃよう)
鎧(よろい)に身を包み、元々は右側に弩弓(どきゅう)を携えていたと考えられる。
弩弓とは、弦を張ったまま固定できる弓。履物の裏の滑り止めのブツブツまで表現している。


騎兵俑
上半身鎧の兵士。

馬丁俑
正座をする馬飼い。

雑技俑
兵士ではなく何らかの芸を下ではないか、謎の巨漢。

御者俑
指揮官が乗る戦車の操作。

石製鎧兜
およそ600から700枚の加工した厚さ4~5mmの板状の小石に穴をあけて、ひもと銅製の針金でつないでつくっている。重さは合計20kg超。出土品で完全に復元できたのはわずか。

1号・2号銅馬車
4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできている。1号銅車馬は、立車といい、銅御者1体が手綱を引いて立つ。
2号銅車馬は、安車又はおんりょう車と云い、正座した御者1体が手綱を引く。
皇帝の魂が冥土の世界でも巡幸できるように一緒に殉葬したもののようだ。 軍司令部のミニチュアまで自分の墓の副葬品として準備しており、始皇帝は死後も、墓の中から天下に影響力を持つ意思が固かったと思われる。


兵馬俑は灰色或いは茶色の兵士として出土されているが、もともとは色彩鮮やかであったとされる。
顔は肌色で、鎧兜(よろいかぶと)は黒をベースに赤い線を織り込んだデザインで統一されていたと云う。
赤や黒だけでなく茶色や緑、紫などの多彩な色をつかっていて、現に出土した俑のなかにもカラーがあったといわれ、館内でもカラーの兵馬俑の映像が流れていた。それによると髪を纏めているリボン状の紐は赤であった。

始皇帝は兵馬俑や銅馬車が伴う「写された世界」で死後も皇帝として永遠に君臨しようと望んだ。しかし秦国は彼の死後わずか3年で滅んだ。始皇帝は49歳で亡くなった。
「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」はユネスコの世界文化遺産に登録されている。



会期94日間で入場者は48万人余であった(朝日新聞)。


夜景があまりにも綺麗だったので
皇居二重橋側から




桜田門側から


桜田門
          
お上りさんになってしまった。


資料:東京国立博物館
訪れた日 : 2016.2.19



「瀬谷にあった海軍施設」のパネル展示 終戦70年にあたって-4

2015-08-13 16:49:04 | その他
          
横浜市の瀬谷区役所2階ロビーに於いて地元の歴史を掘り起こすグループが「瀬谷にあった日本海軍施設」のパネル展示を開いている。
期間は戦後70年節目に当たる8月15日を中心とした、8月11日から21日まである。
          

上瀬谷地区一帯は大正から昭和にかけて、広い桑畑の中に雑木林が点在するのどかな相模台地であった。
                    
住宅地は赤で、桑畑は緑で色分けした。

1940(昭和15)年、軍より用地買収の話があり、日本海軍が資材集結所として、施設の建設を始めた。
鉄道引き込み線や各所倉庫群が建てられ、第二海軍航空廠瀬谷補給工場となった。
   
神中線(現・相模鉄道)瀬谷駅から引き込み線が敷かれていた。
引き込み線と道路とは、盛土によって区別がされていた。当時、この道は引き込み線道路と呼ばれていた。
戦後はその盛土に平和の象徴・桜が植えられ名所となっている。引き込み線の敷地は現在歩道となっている。

蓄電池機関車


相模台地には軍の施設が多数建設され、小田急線の北側は陸軍、南側は海軍としっかり棲み分けもされていた。小田急線の駅には「士官学校(現・相武台前)」「通信学校(相模大野)」の名称もあった。
          

                    

軍の資料は機密保護のため、そのほとんどが焼却されたが、戦後に米軍に引き渡された目録から、「火薬庫」と「爆弾庫」があって、火薬庫には信管や落下傘、弾薬庫には爆弾、機銃、プロペラなどがそれぞれ保管されており、横須賀海軍軍需部瀬谷火薬庫も併設されていた。
また、2003(平成15)年になって、特薬庫があって毒ガスを保管していたことも分った。



中央部分が毒ガスを保管した特薬庫


この海軍施設は、アメリカ軍も航空写真を撮り、詳細に分析している。写真には施設ごとに番号が付けられ、「爆発物保管庫」「非爆発物保管庫」「部品倉庫」「守衛所」などの名称が付記されている。
                          

戦後この施設は、上瀬谷通信基地としてアメリカ軍に接収され朝鮮戦争で活躍している。      

今年6月我が国に返還されたが、現在でもわずかながら遺構が存在している。



コンクリート水槽


タンク受け台


使用目的不明の遺構


施設の中心を南北に走る道路を「海軍道路」と呼んでいる。
これは横浜市道路局が1978(昭和53)年「愛称道路」として瀬谷中学校交差点から北へ2,850m、八王子街道間を命名した。
                     

1945(昭和20)年5月23日、現在の区役所付近に焼夷弾が落とされた(横浜大空襲は5月29日)。また同年4月3日には瀬谷本郷原(現・本郷2丁目)に250kg爆弾25個が投下されている。
          


          

今回パネル展示を開催したグループは、1998(平成10)年、南瀬谷小コミスクで「横浜今昔地図くらべ」と題した講演会を機に地図好き仲間が集まり発足した。
瀬谷区共催の「瀬谷区の埋もれた歴史をさぐる2つの講座と現地歩き」を4回開催している。郷土瀬谷の歴史を掘り起こし、これからのまちづくりに役立てるべく活動を行っている。
瀬谷の昔に関心がある方の参加を希望している。

レトロな昭和の香りの通天閣

2015-07-10 16:31:23 | その他

          
          

展望台に通じるエレベーターを待つ建物に飾られている看板や映画のポスターは「昭和」である

初代の通天閣は近くにあった映画館からの延焼火災で焼け落ち、1956(昭和31)年に二代目が再建された。
通天閣は新世界と云う繁華街に建つ高さ100mの展望台である。
初代は1912(明治45)年に建設された。電灯工事にはパナソニック創業者の松下幸之助(当時17歳)さんも携わったと云う。
日立のネオンが映える夜景はイコール「大阪」と代表され景色である。初代の塔になると、ライオン歯磨きや阪神電車の広告だった。
また、正午には「日立の樹」のCMソングが流れる。以外にも知られていないのでは。
聞きたかったナ!
          

                    この木なんの木 気になる木
                     名前も知らない 木ですから
                     名前も知らない気になるでしょう

『この木なんの木』で知られている曲である。

        
          
展望台に上がるのには一旦地下に  それから円筒形のエレベーターで2階に上がる(左)          歩いてきた商店街(右)
2階で展望台へのエレベーターをもう一度待つ・・・
        

          
30分待ちでエレベーターは2階から展望階の5階に上がった



     
帰りは福のトビラから鉄製の階段を下りて行った
    
階段はすりガラスのを通す外からの灯りと部分照明で暗くは感じなかったがここで地震が来たら?そう思う通路だった
それがいけなかったのか その夜 震度5弱の地震が発生した
予定よりも早く帰途についていたので新幹線には閉じ込まれることはなかった
これが予定通りだったら・・・



通天閣といえばビリケンさん。
笑っているのか怒っているのか、不思議な表情で、これが関西人には受けているようだ。
このビリケンさん、日本で生まれたのではなく1908(明治41)年にアメリカの女流美術家の夢に現れた神様だという。以外だ。
そしてたちまちのうちに「幸福のマスコット」として、世界中で大流行したとのこと。

足の裏をなでると幸運が訪れると云う

もうひとつ。
通天閣と云えば、明治から昭和初期にかけて活動した将棋棋士・阪田(坂田)三吉(1871~1946)さん。
塔の下には、碑がたっている。
三吉の妻と云えば「小春」とおもいきや、これは戯曲作家の創作で実名は阪田コユウ(1881~1927)さん。
長年の苦労や三吉の眼病の看護などで病に倒れる。臨終の床で「お父ちゃん、あんたは将棋が命や。どんなことがあっても、アホな将棋は指しなはんなや。」と三吉に云ったと。 


         
通天閣には高三の夏休みに一度訪れたことがある。その時は下で眺めただけであった。
半世紀前のことである。


訪れた日:2015.5.30