あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
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絹の道・浜街道を歩く 4日目(西谷~横浜港) 最終

2013-05-31 10:47:52 | 養蚕・シルク
「浜街道」は芝生の追分で終わり、生糸はこの先、東海道と横浜道を通って横浜港へと運ばれていった。
芝生の追分~浅間神社
芝生(しぼう)の追分からは、旧東海道を江戸の方向に進み浅間神社へ向かう。うしろは賑やかな松原商店街。
横浜の浅間町は元は芝生(しぼう)村という地名だった。
芝生村は、武蔵国橘樹郡に属した。村内を東海道が貫通し、神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間の立場(たてば)として栄えていた。
村名の「芝」とは低木のことを指し、この辺りには低木が沢山生えていたことから「芝生」になったようだ。明治時代に入り、兵役義務によって村民が徴兵され、出身地が「しぼうむら」と言うのはあまりに縁起が悪いということになった。そこで、1901(明治34)年の横浜市編入の際に、芝生村を代表する浅間神社にあやかって、浅間町と改称した。

浅間神社は街道から数メートル高台にある。上り口左手の崖に横穴古墳群があるというのでうろついたが解らず、地元の方に訪ねたが初めて聞いたと解らなかった。むかしは、冨士の裾野に通じている「横穴・冨士の人穴」といわれたようだ。境内にも十いくつもの横穴があると、神社の由緒と併記して「浅間神社横穴古墳群」に書かれてあるのに、『おぬし、読んでないな。』
責めても仕方がないが、神主さんが来るといわれ、話をつないでくれた。神主さんの案内通りにうろついたがやはり解らぬ。浅間神社下交差点まで降りて左の商店街を回ってみたが、結局解らずあきらめて平沼橋に向かう。
追分から先は以前、区の歴史散策で関内まで歩いているので、この「絹の道散策」では何度となく間違ったが、この先の道筋に迷いはない。その時にガイドをされた方は外国航路の船に乗っていて、退職後は史跡廻りをチャリンコで周って我々素人を案内して下さった。数回お付き合いさせて頂いているがとても案内の上手な方であった。

浅間神社~野毛坂
浅間下交差点から平沼橋へと向う。ここから「横浜道」に入る。道路には「旧東海道」や「横浜道」の表示が埋められている。

「横浜道」は幕末の横浜開港に際して、東海道と横浜港を結ぶために造られた街道である。
1858(安政4)年に日米修好通商条約が結ばれ、翌年、神奈川で開港することが決められていたが、徳川幕府は東海道で栄えている神奈川宿に港ができて異人が往来することに反対し、対岸の横浜村に開港することにして、横浜村も神奈川の一部だと強弁した。
そのため、神奈川~横浜間を結ぶ道として、神奈川宿と程ヶ谷宿の中間である芝生村から、当時の海岸線に沿って新田間(あらたま)橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)を架けて道を築き、戸部村から野毛山を越える野毛の切通しを造り、野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)を架けて現・馬車道付近を通って横浜港に至る道を施工した。施工は開港前のわずか3ヶ月間であったという。
平沼橋は帷子川と相鉄線・JRの鉄道に架かる橋である。
  
橋を渡るときに思い出し、区の歴史散策では橋を渡る前に相鉄線の線路脇に浮世絵が描かれた案内板が置かれている場所に行ったことを思い出し平沼橋の右を下って行った。元平沼橋を渡ると案内板があり、近くには電車を見せに来たのか、乳児と若い母親がいた。
案内板は横浜道に就いて解説されたもので、浮世絵は平沼橋手前の新田間(あらたま)橋からの景色で、当時は遠く川崎・大師河原まで眺められたようだ。

平沼橋の下まで戻り、文明の力を使って橋上にでる。橋を渡り、階段を下って平沼商店街へと進む。
京急のガードを潜る。11:50
帷子川(かたびらがわ)水系二級河川・石崎川に架かる敷島橋を渡る。敷島橋は震災復興橋で1930(昭和5)年に建造、鋼板桁橋である。この橋は1909(明治42)年に建造された旧弁天橋の部材を転用使用している。
下流となりの石崎橋も1928(昭和3)年に建造。

川を渡ると桜橋商店街に入る。
東海道・国道1号を戸部七丁目の交差点で過ぎ、戸部四丁目の交差点に着く。
左側に岩亀横丁がある。
幕末1859(安政6)年、外国人対策やオランダ公使からの要請で、港崎遊郭(みよさきゆうかく・現在の横浜スタジアムがある横浜公園付近)を開業した。その規模は遊女屋15軒、遊女300人ほどで、その中に町の名主も勤めた岩槻家佐吉が経営する遊女屋あり、その名が、岩槻の音読みから「岩亀桜(がんきろう)」呼び、そこの遊女が、病に倒れた際に静養する寮がこの地、戸部町四丁目界隈にあったことで、岩亀横丁と呼ばれるようになった。
岩亀桜の一番の売れっ子喜遊大夫(きゆうたゆう・亀遊の説も)は、ペリー艦隊の軍人に言い寄られたが、これを拒み有名な辞世『露をだにいとう倭(やまと)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさじ』を残して喉を懐剣で突いて自害した。これは「日本の遊女はアメリカ人に はなびきません」というような意味だそうだ。このことで、攘夷女郎がいた店として、岩亀桜に客が押し寄せたといわれる。だが、この辞世の句、攘夷論者による創作という説もある。享年17或いは18歳。
現代では、沖縄米軍と沖縄風俗業、韓国と従軍慰安婦について問題発言をした□□党の代表が世間を騒がしているが、遠い昔には一本筋が通った女性がいたこと知った。
横丁の中ほどに、遊女が信仰した「岩亀稲荷」がある。

また、これから行く、横浜公園内日本庭園には岩亀楼の灯籠が、現存している。
しかし、岩亀楼を含め港崎遊郭は、開業から7年後の1866(慶応2)年に起きた大火災により消失してしまい、遊郭は関外に移転した。
戸部四丁目信号に戻り野毛坂に向かう。 
上り坂を進んで行くと表示のない交差点に差しかかる。左から来る道は、紅葉坂から神奈川奉行所跡を通る道である。近くには、井伊直弼の銅像がある掃部山(かもんやま)公園や伊勢山皇大神宮などがあるが時間が押しているので横浜道を進む。
通りの家に綺麗な花が咲いていたので写す。名は解らない。

野毛坂に到着。

野毛坂~吉田橋
野毛坂交差点に建つ横浜中央図書館の向かい側に、「野毛山住宅亀甲積擁壁」と呼ばれる横浜市認定歴史的建造物が積まれている。

この一角は、明治期に生糸・米穀物商で成功した平沼専蔵の邸宅地があった。
擁壁の石積方法は、亀甲積といわれ、原石の表面を六角形に加工し、亀の甲羅のような形に積み上げる。この高い施工精度と構造的な特徴は、横浜屈指の芸術的な擁壁とのこと。
平沼専蔵は、政治家としても市会議員、県会議員、貴族院議員、衆議院議員(政友会)などを経歴。平沼銀行や池袋~飯能を結ぶ武蔵野鉄道(現西武鉄道)も設立。「埼玉ゆかりの偉人」とされるが、株の大暴落で破綻、九州の耶馬渓に身を投じる。
野毛坂を左折し、野毛町を通り、大岡川の都橋を渡る。右手には2階建ての長屋風の飲み屋街(都橋商店街)が大岡川のカーブに沿って建てられている。
東京オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並みを美しくするために、露店や屋台を収納して出来たのが都橋商店街で、「ハーモニカ横丁」の愛称で呼ばれている。
この道は図書館から馬車道通りの関内ホールに通じる道で、「小満んの会」の日に図書館に寄ってからと何度となく利用した道なのに、この2階建の飲み屋街は気がつかなかった。川に沿って丸くカーブした建物は美しささえ感じる。
先日、テレ朝の昼間の再放送時間帯に「事件14」が放送された。
話はこの商店街のスナックが舞台になっていた。
北大路欣也さんが弁護士役で登場するドラマだが、固いドラマなので最近は観なかったが、たまたま再放送を観た「事件14」がここが舞台なんて不思議だ。都橋のひとつ上流の橋にたたずむ弁護士のバックに丸くカーブをした建物が数回映し出されていた。

吉田町にはいる。
かつて吉田町通りに「菊」という喫茶店があった。店の正面にはピンホールカメラで撮った写真が数枚展示されていて、アマチアカメラマンのたむろ場所になっていた。山の知人である1級建築士もここにたむろしていたひとりである。この喫茶店に遊びにおいでよと誘われ、一度どんな店かと前まで来たことがあったが、同じ一眼レフでも持つグレードが違うし、使うフィルムも違っているしで、中には入らなかった。
その人は、丹沢に上って来る時も変わった外国製のカメラを取換え持ってきて操作を教えてくれた。巷で会う彼の服装は色が統一されダンディで、「ヨッ。1級建築士」と声をかけたくなる雰囲気を醸し出していた。
「菊」がなくなってからはたむろ場所が、ランドマークタワーの喫茶店に変わったと聞く。
吉田橋の到着。また、吉田橋は横浜の開港場(条約や法令によって外国との貿易に使用される港)入口でもある。目の前が関内駅である。13:35

橋の中ほどに、吉田橋関門跡碑がたっている。橋の下は、今は高速道路になっている。 
吉田橋とは、吉田新田に架かる橋のためで、橋が架かると当地が交通の中心地となり、その治安を守るために関門を設けた。この関門には橋番所が設置され、居留地の外国人を攘夷論者から保護するため、出入りを厳重に取締まっていた。
関内、関外の呼び名は、この時以来で、関内は馬車道側である。その関門も1871(明治4)年に廃止された。

吉田橋~横浜港・象の鼻
この先、馬車道通りに入る。
この道は、横浜港を結ぶうちのひとつで、およそ18m(60フィート)の幅で、外国人がこの道を馬車で往来していたので、当時の人はその姿が珍しく思い、「異人馬車」などと呼んでいたことから、「馬車道」と呼ばれるようになったといわれる。ホテルルートイン横浜馬車道(中区弁天通4-53-1)には復元された「異人馬車」が展示されている。
馬車道を進んで行くと左手の県立歴史博物館(中区南仲通5-60)が、かつての横浜正金銀行本店である。
横浜正金銀行は、横浜港開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため1880(明治13)年に設立。その後政府の保護うけて外国貿易関係業務を専門に担当する銀行として成長、世界三大為替銀行のひとつと数えられるようになった。この建物は19048(明治37)年に建てられた。
通りをはさんで向かい側に、「牛馬飲水」という設備が置かれている。八王子から生糸を運んできた馬も利用したのだろうか。

そこには説明板もないの下解らなかったが、先ほど放送していテレ朝の番組「ゆうゆう散歩」で若大将が馬車道から赤レンガ倉庫まで歩いて、その筋道に、「牛馬飲水」の設備が出てきた。そこは解説板があり、脇にはむかしの公衆電話がたっている映像だった。
調べると、番組に登場した「牛馬飲水」は、馬車道十番館(中区常盤町5-67)の前に置かれているもののようだ。そこの解説板によると、大正6年、当時横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬車教会が設けたもので、4ヵ所に設置した。当時、荷馬車教会には3千頭の牛馬がいた。『若大将、よくぞ教えて下さいました。』
次回歩いた時には、しっかり「牛馬飲水」を探してみたい。
        

散策に戻る。
真っ直ぐに133号を横切ると横浜第二合同庁舎がある。7省23官署が入居する全国でも最も大きな地方合同庁舎である。ここに旧横浜生糸検査所があった。
現在の建物は、耐震耐久性の問題から旧横浜生糸検査所を1990(平成2)年に取り壊し、新しいビルの低層部分(前部分)として極力横浜生糸検査所当時の状態に新築復元させた。奥には新たな高層棟(地上23階、地下5階)がある。建物正面上部に飾られた紋章は、蚕が孵化した成虫の蛾を表わしている。
生糸検査所は、開港後、生糸の貿易は、安くて質の良い品が入手できると外国の商社が横浜に進出した。日本商人も生糸が有力な貿易品と知り産地からの集荷に力を入れたが、粗悪品も出回るようなり、外国からの苦情が起った。そこで品質管理や価格安定のため農商務省が1896(明治29)年、横浜と神戸に生糸検査所が開設される。
フランスから製糸技術や生糸検査方法を学び検査機械を買いいれ業務を開始したが、当初は利用者が少なかった。
横浜生糸検査所は関東大震災にて倒壊するが再建され「キーケン」の愛称で市民から親しまれた。
現在の庁舎内には「横浜農林水産消費技術センター」と名を変えながらも生糸の品質検査・格付けを行っている。

裏手に帝蚕倉庫があっって、生糸の価格安定の為に使用された。
現在はこのC号倉庫1棟しか残っていないが、かつては3階建てのA~D号倉庫があった(中区北仲通り5-57)。建物は1926(大正15)年竣工である。

横浜生糸検査所前から真っ直ぐ進むと海に行き着く。
横浜開港150周年として整備された、横浜港象の鼻パークで、横浜港を望む眺めの良い公園である。
1859(安政6)年の横浜開港に当たり、2本の直線状の突堤が突き出した波止場(現在の大桟橋付根附近)が造られた。西側は税関が、東側の突堤は外国貨物用として使われた。
東波止場は数年後には内側に湾曲した形状に改修され、その形が象の鼻に似ているところから、開港時の物揚げ場を「象の鼻」と呼ばれるようになった。
生糸などがここから海外へ輸出され、1909(明治42)年には、日本は中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっている。
象の鼻の愛称は歴史あるものなのだ。その奥には現在の玄関口大桟橋が見える。

これで、散策完歩ということでコーラ500をあけて祝杯をした。日差しが強く、コーラは喉に心地よい刺激を与え通過していった。
横浜地方今年最高の気温となった日である。

1859(安政6)年の開港により生糸の輸出が始り、馬や人力で、遣水峠を越し、活況を呈した浜街道も、1908(明治41)年の横浜鉄道(現在のJR横浜線)の開通によって、その使命を終え、衰退していった。現在ではその痕跡もわずか1kmほどの「史跡・絹の道」を残すのみである。
八王子から45kmほどの距離。「絹の道」のもここで終わるが、今度は近代日本の文明を届ける出発点になってここから各地へと戻っていった。



横浜港付近には生糸に係るさまざまな史跡があるので立ち寄った。
横浜公園 
JR関内駅南口を下りると斜向かいに横浜公園がある。
南口改札口は横浜スタジアム側の下車口ともあってベイスターズ一色の飾りとなっている。
スタジアムは今日からセ・パ交流戦がはじまり、「勝」旗が道路側に林立している。

日本庭園もあって、訪問者を和ませる。池をはじめ猪おどしや水琴窟までも備えられている。
一角には港崎(みよさき)町と呼ばれた頃、国際社交場(遊郭)として栄えた岩亀楼に置かれていた灯篭がある。

日本庭園から道を一歩隔てて幾何学模様の花弁をしたカルミアがきれいに咲いていた。つぼみは金平糖、花開くと花かんざしなんて表現されたBlogを見かけたが、云い当てている。花の色は白の他にピンクや紫がある、北アメリカ産のつつじ属の仲間だ。

蚕種は明治初年まで生糸に次ぐ輸出品のひとつであったが、1870(明治3)年から暴落しはじめた。投機的な蚕種取引をしていた商人たちは大打撃を受けた。1874(明治7)年には輸出量に対して大幅な過剰生産となり、蚕卵紙44万枚を越える量が、横浜公園で焼却処分され、1875(明治8)年、10年、11年にも処分された。
ベイスターズが横浜に来る以前、横浜公園には平和球場と野外音楽堂があった。
平和球場は高校野球神奈川大会で使用されていたので承知していたし、何故平和球場と呼ばれていたこともうすうす承知していた。
この球場で戦前、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらのアメリカ大リーグ選抜軍と沢村栄治や苅田久徳らを擁する日本代表チームとの間で親善試合が開かれた。そして、戦後の連合軍の接収解除で横浜市に返還され、横浜公園平和野球場となったが、市民の間では平和野球場と呼ばれていた。
でも、平和野球場は知っていても野外音楽堂は知らなかったので調べると、「横浜屋音」とも呼ばれていて名の知られているアーティストもステージにたっている。屋音があった場所は球場の拡張に伴い取り壊されることとなり、最後のコンサートは1977(昭和52)年9月17日の行われた。その日のステージにはカルメン・マキさんの名もある。屋音があった場所は現在の遊具広場の辺りだ。
日本大通り側入口に、当時寺の写真が置かれている。左に平和球場、右上に屋音がよく解る。

中井屋重兵衛店跡碑 
本町通り二丁目交差点の日本生命ビルとENEOSスタンドとの間のさくら通りにある。
中井屋重兵衛(1820~1861)は、出身地と屋号を配慮した名前で本名黒岩撰之助。出身地は上州、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原。1859(安政6)年の開港と同時に横浜へ進出し、幕末の混乱期、外国貿易を目的に誰よりも早く時代を予見した人物である。
独自の商才と商魂で危険や冒険をものともせず、開国の先駆者として横浜随一の豪商の名を築いた人物であったが、時代に追いつかず、法度を犯した理由で身の破綻を迎え、横浜から突然姿を消したといわれている。彗星のごとく現われ、生糸や織物・雑貨などを外国商人相手に商売し、外国人も驚く銅(あかがね)御殿の豪壮さは他を圧する本建築であった。
本町通に面したさく通りの跡碑には、広重の錦絵と共に豪商中井屋の隆盛を伝える記述が記されている。

シルク通り 
シルク博物館から横浜公園まで歩く途中の日本大通り駅に近いファインケルビル角の路地が「シルク通り」である。ここは生糸や蚕種などの貿易を行った外国の商社が数多くあったことから呼ばれるようになったという。
また、ここ旧居留地90番地には開港ごろといわれる大砲がある。米国使節ペリーが来航の折、幕府が会見場所の警護を松代・小倉の2藩に命じた。松代藩は、佐久間象山が5門の大砲を持ってきたとされ、このうち3門が横浜市のシルク通りの地中から出てきたといわれている。ここには、そのうちの1門が展示されている。

シルクセンター前の桑の樹
シルク博物館の入口に古い桑の樹がある。この樹は、旧津久井郡(相模原市緑区)の養蚕家から寄贈された。樹齢100年以上である。樹には丁度熟した実がなっている。近くには「絹と女」の像がたっている。

シルクセンター(横浜市中区山下町1番地)
横浜港第桟橋入口近くにあって横浜港における生糸・絹産業及び貿易の振興並びに観光事業の発展を目的とした施設である。
センター内にあるシルク博物館は、シルクに関する歴史をたどりながら、絹の科学・技術の理解を深めるとともに、主要なシルク製品の産地の紹介、 貴重な絹服飾の工芸美の鑑賞の場を提供している。
展示以外に、真綿づくりやくみひもの実演など講習会も開催、シルクの普及を図っている。また、シルクに関する様々な資料を保管し、閲覧も行っている。

横浜商品取引所(中区山下町1・シルクセンター4F)
1894(明治27)年に「横浜蚕糸外四品取引所」として発足した横浜商品取引所はシルクセンタービルで生糸や野菜などの取引を行ってきたが、2006(平成18)年をもって閉鎖された。

生糸も運んだ氷川丸 
横浜港山下公園前に係留されている氷川丸は、1930(昭和5)年、横浜で竣工し、北アメリカシアトルへ向かって初航海をして以来、シアトル航路の花形客船となった。この船の下層部にはシルク・ルーム(生糸倉庫)があり、生糸輸出にも一翼を担っていた。生糸は高価な輸出品であったので、輸送中の湿気を防ぐため特殊な構造の倉庫に納められていた。

●>旧三井物産横浜支店倉庫(旧日東倉庫、横浜市中区日本大通)
この倉庫は1910(明治43)年、三井物産横浜支店の倉庫として建てられた生糸貿易の拠点で、横浜赤レンガ倉庫よりも古い横浜最古の倉庫。関東大震災の火災から生糸を守り震災復興に貢献した。
所有者が三井物産の関連会社から都内の不動産業ケン・コーポレーションへと移り、最近、解体の話が出てきて話題となったので、追記した。
 
(2014.10末)

 

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