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絹の道・浜街道を歩く 3日目

2013-05-27 12:00:01 | 養蚕・シルク
東急南町田駅を下車、浜街道の3日目。
ここから相鉄線西谷駅まで歩く。町田街道と国道16号(八王子街道)を進むことが基本であるが、国道の左右の蛇行した旧道を歩くことも楽しみだ。


 
小鶴橋~横浜町田IC
駅前の16号を渡り、東に向かって小鶴(おづる)橋から町田街道を歩き出す。9:15
長津田辻(ながつたつじ)バス停があり、その先の信号、町田市辻が長津田辻だ。ここで交差する大きな道は、現在は国道246号だが、江戸時代の大山道で、当時は大山詣等で行き交う人達で賑わったと言われている。長津田は、江戸時代生糸の輸送の中継地点として発展、明治20年以降、副業として養蚕が盛んになった。
この辻の南北に道祖神と地蔵さまが祀られているという。
ひとつの道祖神は、246号を北上し、町田南つくし野郵便局前にある。もうひとつ南側の辻地蔵尊は246号の道を隔てて、ちょうど反対のところに祀られていた。

長津田辻を交差する道まで戻る。左折して、東名入口交差点で国道16号に出る。 9:30

横浜町田IC~若葉台団地入口
その先、東名高速道路の横浜町田インターチェンジ付近を横切るのが、本日最大の難関だ。まずはラブホテに並ぶ道をインターチェンジの取り付け道路に突き当たる所で横浜4トンネルでくぐる。左折して階段を上がる。右手に国道16号(大和バイパス)を見ながら少し行って、坂道を左に曲がりながら下りてトンネルをくぐって、右折して階段を上がる。その先、東名高速道路を第一跨道橋で跨ぎ、直進して、右の国道16号と平行して進む。とてもややっこしい。その先は環状4号を跨道橋で跨ぎ、その先の卸センター入口信号の少し手前で国道16号を左に分け、右斜め前方に坂を上っていくのが旧道だ。この辺りはラブホテルのメッカ。右手に横浜市川井浄水場がある。すぐ先、川井浄水場入口信号で、国道16号を歩道橋で横切る。ここからは、八王子街道である。 10:45

ここで道を誤る。卸センター入口信号にきて安心してしまったのだ誤りの原因だ。。滝沢隧道を漕ぐったことが誤りだった。そして若葉台団地の端を進んでしまった。本来は団地に接触しないコースを歩く筈であったのだ。
気がついて若葉台南まで戻り旧道、若葉台入口に進み予定コースに戻った。30分の遅れとなった。途中、大貫谷戸水路橋を眺める。「かながわの橋100選」の中に入っている。
1952年に建設されたトレッスル橋脚を有する鋼水路橋で、橋長は306m。流量1日48万立方メートルの水路橋で、相模湖系原水の導水路として、川井から西谷を経由して野毛につがり、横浜の繁華街である横浜駅や関内方面に送水している。


若葉台団地入口~中原街道
大貫橋という小さな橋を渡るとすぐに、左手奥の斜面の中腹に五角柱の石塔が小さなフェンスに納まっている。四面には「天照太神」「大巳貴神」「埴安姫神」「倉稲魂神」「少彦名神」と刻まれている。

その先に「長源寺前バス停」があって、その先左手奥の高台に長源寺がある。
参道に入ると左手に舟に乗った地蔵(入船地蔵)が、反対側には台座に下の石柱に三界萬霊と彫られた地蔵座像が置かれている。
石段を上がって山門に達する。
石段下には台座下に名が掘られた6地蔵など8地蔵が祀られ、羽黒・湯殿・月山の出羽三山の供養塔も。
ひとり一人に名が刻まれている6地蔵に出会ったのとは初めてである。
禅林地蔵尊(地獄担当)、無二地蔵尊(餓鬼担当)、護讃地蔵尊(畜生担当)、諸龍地蔵尊(修羅担当)、伏息地蔵尊(天上担当)と名乗られる。
小高いところに境内があるので、眺めがよろしい。
1096(永長元)年に源義家が奥州征伐時の祈願達成のお礼に鎧を奉納されたと伝えられている。その時祈願した十一面観音は子年に期間限定でご開帳がある。次は7年後。

長源寺を出てくるとバス停そばの肉屋から揚げもののいいにおいがしてきた。
交差点の宮ノ下に到着。左手高台に神明神社がある。この辺り一帯を支配していた榛谷重朝をはじめとする畠山一族が所領安堵のため、積極的に伊勢神宮へ所領を寄進して、伊勢神宮を勧請したといわれている。
境内右手奥に庚申塔が1基立っているが摩滅が激しい。

神社の裏から出て、川井本町への住宅街に進む。丘の中腹の静かな道を歩いていく。右手に作業場を兼ねたような長い庇がある石蔵がたっている。新しい感じがする。川井本町住宅の中、職員募集の貼紙がある家の前の二股を右に行く。その先をしばらく直進する。やがて左手の路地の角にお堂があり、地蔵像が祀られている。傍らの説明によれば岩船地蔵といい、1725(享保10)年の建立で、全国的な大飢饉の時、老人や子どもを守るために建立された。脇に小さな庚申塔も。

八王子街道(国道16号)の 川井本町交差点に出て、すぐ先の川井宿町の交差点を左に入り、旧道を進む。
川井宿は、昔の八王子街道沿いに宿あった集落のようだ。
そのまま道なりに少し回り込んで右にカーブ、これまでの道の延長線を右下に見ながら並行して進む。
この辺り、本線から引っ込んでいて静かな住宅街が続く。
左手路地の角に地蔵堂があり、舟光背のある地蔵尊(舟形地蔵)と1813(文化10)年の堅牢地神塔がある。地蔵尊の造立は、江戸時代前期の延宝年間(1673~81)だから先ほどの岩船地蔵よりも半世紀ほど古いので、かなり古いことは確かだ。
          


中原街道~鶴ヶ峰浄水場
その先、中原街道との交差点にさしかかる。バス停に都岡辻とある。
中原街道を横切って、旧道を直進する。この辺りの中原街道沿いにも石像物がいくつかあるが、そのあたりは過去に載せた『大御所様の道・中原街道を行く 4日目』をご覧いただき、今回は省略して先に進む。
今宿神明社前の信号を左折すると、右手に長屋門が建っている。長屋門だけがそこにある。なにか不似合いな光景だ。長屋門だけが現代に残っている感じである。江戸後期の建造。
          

しばらく進む。同じ形をした新築の建売住宅が見え、その先に神明社があった。創建、由緒などは不明なようだ。
旧道に戻る。静かな道が続く。その後、一旦八王子街道(国道16号)と合流する。先ほどの道からうって変って、自動車の激しい往来が暫く続く。
今宿西信号から旧道は、左に上がって行く。
すぐ先、左手に旧家であろう、石蔵が見え、瓦葺きの立派な門構えをした家がある。
          

左手に地蔵堂がある。右が1669(寛文9)年、左が1758(宝暦8)年の年号が刻まれている。寛文は先ほどの地蔵尊の延宝よりひとつ古い年号である。どんどん昔にさかのぼる。
その先左手路地の角に古めかしい双体道祖神がある。関東では珍しい。だが最近は、信州の夫婦の仲睦まじい双体道祖神がうけて、新しい双体道祖神を見かけるようになった。
          

その先、綺麗な花が咲くお宅があったのでカメラに移す。帰宅して家人に聞くとカルミアだという、北アメリカ原産のつつじ科の植物で、少々お値段が高いという。赤色系もあり、個人的にはつつじよりも綺麗だと思う。
右にカーブしながら下りて行き、今度は左にカーブ、今宿東町信号で再び右手からの八王子街道と合流する。
すぐ先、鶴ヶ峰本町信号に着く。ようやくここまで来た感あり。
ここからは先ほどの石像の江戸時代を大きくさかのぼり、鎌倉時代初期の史跡にと進む。武将畠山重忠にちなむ史跡散策である。その散策道は一度「ガイドの会」の案内で歩いたことがある。
鶴ヶ峰本町信号の二股を左前方、山側に行く。すぐに「史跡六ツ塚 重忠公霊堂」の矢印が書かれた案内板がある。そしてその角に三体の石仏が安置された祠がある。左から地神塔、地蔵尊、右は観音様。

ここを左に上がって行くと、薬王寺と六ツ塚がある。鎌倉幕府創建の功臣として、源頼朝の信頼厚い重臣だった畠山重忠は、頼朝の没後の1205(元久2)年、実権を握った初代執権・北条時政の謀略により、北条義時の大軍に敗れ、ここに一族郎党134騎とともに葬られている。享年42
薬王寺は、重忠公の霊堂であり、飛び飛びの六つの塚となって主従が祀られている。

再び先ほどの旧八王子街道に戻る。その先二股を左に上がって行くと、左手にアルミ製の塀と門構えの屋敷がある。難しい漢字三文字の表札が掛かっている。このお宅は、伝説では重忠公の郎党で、合戦後六ツ塚の墓守としてこの地に残ったとされる。その先を進む。右手は鶴ヶ峰浄水場で、工事のため白い塀が囲んでいる。その塀際に、史跡・駕籠塚ある。重忠の急を聞き、妻は駕籠で駆けつけたが、重忠の戦死を聞きおよび、駕籠中で自害。そのまま駕籠ごと埋葬された。  12:30(予定より30分早い)

近くに鶴ヶ峰神社があるので、足を伸ばして参拝する。
史跡・駕籠塚の坂を下って国道16号の鶴ヶ峰バスターミナルの信号に出る。
この先もしばらく重忠史跡巡りである。
信号を渡ると右手に鶴ヶ峰公園があり、公園内に鶴ヶ峰稲荷神社が祀られている。由緒は解らないが、星川杉山神社が管理しているようで初午祭も行われれているようだ。

公園沿いには帷子川が流れている。川を渡り、駅前商店街の道を信号機なしの横断歩道で横切る。車が頻繁に通過するので、先の信号によって渋滞になったころを見計らい渡らねばならない。むかし帷子川はこの辺りを流れていて、近くには「鎧の渡し」があったと書かれた碑が立っている。碑の脇を渡ると「鎧(よろい)の渡し緑道」。
この先、重忠の「首塚」「首洗い井戸」「さかさ矢竹」「畠山重忠公碑」が続く。
「首塚」「首洗い井戸」は、旭区の区役所の裏側に碑がたっている。

帷子川がこの近くを流れていた時代に、河原に直径1mほどの穴があって水が湧いていたそうだ。そこの水で重忠の首を洗い清めた。首塚は碑がたっているわずか先に祠があり、そこに祀られた。
「さかさ矢竹」「畠山重忠公碑」はその先、鶴ヶ峰駅入口の信号を渡ったところにある。
「さかさ矢竹」は、重忠が戦って敗れて死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの・矢の矢じりろ羽根を除いた幹の部分)二筋を地に突き刺した。やがてこの矢が自然に根付き、年々2本づつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹は1965(昭和40)年ころまでは、旭区役所北東側の土手一面に茂っていたが、その後すべて消滅してしまった。没後800年にあたり、こにさかさ矢竹を植え、再び繁茂を期待すると由来に書かれている。

ここから鶴ヶ峰の交差点に行き、相鉄線西谷駅目指して歩を進める。
国道16号の白根信号である。
ここには白根通りも合流している。この先左手に、鶴ヶ峰浄水場の東側から下って来る道にぶつかる道がある。鶴ヶ峰坂とばれ、標柱がたっている。
「長さ2町(218m)の急坂で、旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった」とある。旧八王子街道がここにつながっていたのが浄水場で旧道が一旦途切れているようだ。

鶴ヶ峰浄水場~下白根
白根交差点で国道に出て、国道の下を潜って横断する。すぐに国道と並行する裏道へ入る。二股に分かれるところの右手の藪の中に馬頭観世音(1842(天保13)年)と地神塔(1882(明治15)年)と思われる2体の石仏が置かれている。なかなか見つけにくい場所にある。

白根不動の先で国道16号に合流する。  12:45
この先絹の道先人が歩いた通り、白根不動の信号を渡り、その先の鉄製の階段を降りて、白根町内会館の前を通って行く。鉄製の階段を降りて行くというのも不思議な感じがするのだが、昔はこんなにうねって道があったのかなと疑問も残る。
町内会館の前を流れる中堀川を愛宕白根橋で渡る。16号方向に緩やかに上がってゆくと交差する愛宕信号前に道しるべ不動が祀られている。
ガイドの標柱に、『八王子街道より白根不動への参入口』と書かれている。道しるべ不動は1797(寛政9)年建立。台座の下に「従是右不動道」と刻まれているようだ。

白根不動へは今回割愛するが、ここからは10分ほどである。現在は白根神社と呼ばれているが地元では「白根のお不動さん」と呼ばれている。本尊は弘法大師の作と伝えられるおよそ5cm(1寸7分)の不動明王の座像。源義家(八幡太郎義家)がこの不動を常に信仰していて、前九年の役(1051~59)でこの座像を甲内に納め、奥州に向かい大勝を得たので、そのお礼として1063(康平6)年に鎌倉権五郎景政に命じて堂宇を建立させたのが起源とされる。
境内を流れる中堀川に大滝、小滝の2滝があり、大滝は「白糸の滝」と呼ばれ、幅9m、落差5.5mで、横浜市内では唯一といわれた自然滝であったが侵蝕がひどく修復工事され、現在は新たな親水空間として生まれ変わたっという。ということで滝はなくなり、細いパイプが施され二条流れをつくっているようだ。
その先の信号脇には白根村道橋改修碑がある。『この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を期したものです。』とある。
江戸の住人、櫻井茂左衛門が、土地を買収し、破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったと続いて書かれている。
この辺りは帷子川が蛇行し、また、大変険しい山が入り組んでいる難所の様であった。これで、先ほど町内会館前など、うねった道を上下して歩いたことに納得する。道橋改修碑は、この先の保土ヶ谷の和田村にもある。
横に並んでいるのは、1746(延享3)年の庚申塔である。 
16号から離れ、改修碑の横の石段を上がって細道を進む。右側が開け見晴らしがよく、遠くランドマークタワーが望まれる。


下白根~相鉄線西谷駅
細い坂道を暫く歩く。やがて下り坂になり、広い道に突き当たる。右手に白根信号があるようだ。車の往来が少ないその広い道を横切り、帷子川分水路トンネルの上を進む。左手に猪子山(いのこやま)緑道がある。ウグイス、コジュクエの生息地になっていると書かれた看板がたっている。

そのまま直進して暫く行くと、右手後方からの国道16号と合流する。ここからは保土ヶ谷区。
西谷町第二歩道橋を渡って、右斜め前方相模鉄道の踏切に続く旧道を行く。 
 
線路を渡り西谷駅に到着。15:40

本日は、ここで終了。3日目にしてようやく予定通りに終わる。
次回4日目は、ここから芝生を通って、関内に、そして横浜港が待っている。



                 関連 : 「絹の道」浜街道を歩く 1日目 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 2日目 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(西谷~芝生の追分) 
                     : 「絹の道」浜街道を歩く 4日目(芝生の追分~象の鼻)                



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