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信濃国・真田家松代藩武家屋敷を訪ねる

2012-11-12 14:45:55 | 信州路&甲斐路
旧横田家武家住宅

旧横田家は、禄高150石の中級武士で、郡奉行や表御用人(幕末期)を勤めた家柄である。
この建物は、他の藩士宅と同様、一種の公舎で敷地3,340.82平方メートル(およそ1,012坪)に、長屋門・一部2階建て主屋・隠居屋・土蔵(2棟)の5棟が建っている。18世紀末から19世紀中頃にかけて建設されたもので、松代城下の典型的な武家住宅の特徴があらわれている。
また、遠くの山を借景とした庭園、池に流れ込む泉水路や広い菜園も続いている。
1984(昭和59)年、敷地の北半分と建物が長野市に譲渡され、1986(昭和61)年に国の重要文化財に指定された。このため旧横田家武家住宅と名前の前に「旧」がつくという。
1991(平成3)年には大規模な改修工事が行われている。

表門(長屋門)
 構造:切妻造、桟瓦葺(さんがわらぶき)屋根
 建造:1842(天保13)年

         

         

主屋
 構造:寄棟造、茅(かや)葺屋根
 建造:1794(寛政6)年

         

         

         

          式台付玄関

         

         

          勝手

隠居屋
 構造:寄棟造、茅葺屋根
 建造:1820(文政3)年

         

         

         

         

土蔵2棟
 構造:切妻造、桟瓦葺屋根
 建造:不明(江戸後期)



庭園

         

      

          泉水路

横田家は、幕末から明治・大正・昭和期にかけて、多くの人材を輩出している。
姉の英(和田英・1857~1929)は、群馬県・官営富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、日本初の民間器械製糸場である西条村製糸場(後の六工(ろっく)社・長野市松代町)の創立・経営に携わった。富岡製糸場での体験を「富岡日記」に記している。
また、富岡製糸場の工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現富岡市イメージキャラクター「お富ちゃん」)のモデルにもなっている。

                   横田英

          富岡製糸場

          作業風景

          全景模型

          
英の弟にあたる横田秀雄(1862~1938)は慶応大学法学部教授を経て大審院長、その子・正俊も最高裁判所長官を務め、二代続けて裁判所の最高地位に就いている。 退官後は明治大学の総長に就く。
また、秀雄の弟・謙次郎(1864~1932)は小松家に養子にはいり、逓信省勤務時代には国内の電信・電話事業の基礎を築き、日露戦争時には韓国に派遣され電信電話の普及に努める。退官後は貴族院議員に選出され、鉄道大臣となっている。


旧前島家住宅

前島家は、上田、松代を通して真田家に仕えた家臣で、一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して和歌山県の九度山に移った者もいたと伝えられる。禄高は江戸中期300石、幕末には200石であった。
この屋敷は、真田家の松代入封(にゅうほう・大名などが封ぜられた領地にはじめてはいること)の際に拝領したと伝えられる。
現在の敷地は、幕末の屋敷地(763坪・2,500平方メートル余)の約半分であるが、敷地内に主屋、土蔵、三社、庭園が現存している。
江戸時代の中級武家屋敷の様子を良好に伝えている。

         

         

         

                   

                 
         

旧前島家住宅では、ボランティアのご婦人2人に漬物とお茶で歓待され、しばしば茶のみ談義となった。こんな経験は初めてのことである。

このほか、松代城下の武家住宅は、旧樋口家(禄高230石)住宅、20mの長屋門を移築した白井家(100石)表門、22mもの松代藩最大級といわれる長屋門がある山寺常山(160石)邸、そして筆頭家老格無役席の矢沢家(1,400石)表門などが現存している。
今回は、ぶらり旅ではなかったので残念ではあるが見学はカットとなった。「いずれまた。」となるだろうか?



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