メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No50
メキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)は、1870年にワシントンD.Cのジョウジタウンで生まれた。
彼女の父 Enrique Guillermo Antonio Mexia(1829ー1896)は、祖父Jose Antonio Mexia (1800ー1839)が抵抗し銃殺されたサンタ・アナメキシコ大統領(Antonio Lopez de Santa Anna)に仕える外交官としてワシントンD.Cに赴任していたからだが、翌年の1871年に現在のテキサス州のメキシアに移った。
この地には祖父Jose Antonio Mexiaが所有していた広大な敷地があり、メキシコ革命の英雄である祖父を記念して町の名前がメキシアと名づけられたという。
祖父のJose Antonio Mexia (1800ー1839)は、ベラクルーズ生まれのメキシコ人と本人は主張していたが、キューバからの流民なのでテキサスのメキシアから名前を採って名乗っていたのかなと思っていたがそうではなかった。
メキシアの若い頃の足跡は良くわかっていない。
幼少期はテキサスで過ごし、初等教育は、フィラデルフィアおよびカナダのオンタリオの私立学校で受け、メリーランドのSt. Josep's Collegeを卒業した。
ここまでは良家の子女というキャリアのようだが、メキシアは当時としては晩婚であり、
メキシア28歳の1898年にドイツ系スペインの商人Herman E. Laueと結婚し、若いころ住んでいたメキシコのTacubayaに住んだ。
1904年にHerman E. Laueが死亡し、その後Agustin Reygadasと再婚したが離婚しサンフランシスコに移住した。二番目の夫の写真がメキシアの保存資料の中に残っているが、時期が1919-1922年であり、メキシアの二度の結婚生活は両方とも短く恵まれていなかったようだ。
お嬢様として育てられ、女性としてのキャリアはソーシャルワーカーとしかわかっていないが、メキシアが歴史に登場してくるのは、1921年メキシア51歳のときにカリフォルニア大学バークレー校の植物学の講座に参加するようになってからだ。
プラントハンターとしてのメキシア
メキシアは1921年から68歳で死亡する1938年までの17年間でメキシコ、南米、アラスカ探検に出かけ、8,800品種・延べ145,000もの植物を採取し標本を作った。その中には500品種もの新種が含まれていたので欧米の植物学会に多大な貢献をした。というのは、メキシアが採取した植物標本は米国の博物館・植物園及びロンドン、コペンハーゲン、ストックホルム、ジェノバ、パリ、チューリッヒ等ヨーロッパの主要な植物園にも配布したからだ。
メキシアの植物探索旅行の費用を支えたスポンサーは、カリフォルニア大学と米国農務省などだが、51歳からの実績のないビギナープラントハンターに最初からスポンサーとして支援するほどいつの世も甘くない。
どのようにしてプロになっていったのかを示すエピソードが2つほど残っていた。
本格的な植物採取の探検は、1925年9月16日―1925年11月19日までのメキシコ西部シナロアへの旅だった。
この探検隊は、スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978)が中心のメンバーで、メキシアはメキシコに住んでいたので探検隊の役に立つのではないかという自薦参加のようであり、費用も自己負担したようだ。
但し、カリフォルニア・アカデミーに採取した植物標本の複製を提供するので、これを評価し成果報酬的に資金を提供して欲しいという申し入れを行ったという。
実際に事後に探検費用が戻ったかどうかは分からないが、スタンフォード大学、カリフォルニアアカデミーとの付き合いができたことは間違いない。
しかもこの探検は顕著な成果があったので、プラントハンターとしてのメキシアの登竜門となり、全5回のメキシコ探検へと発展することになった。
また、もうひとつのエピソードは、最初の頃のメキシアは、“旅行”自体が目的で旅を楽しんでいたようだ。50歳も過ぎると当然の目的でわかりやすい。
しかし、同好会的な園芸クラブはこれでも良いのだろうが、大学の植物学という研究機関では通用しない。ましてや、第三者から探検にかかる多額の費用をスポンサードしてもらうとなると成果が求められるのでなおさら大変だ。
寝る時間を惜しみ、昼間に採取した植物の汚れを落とし、乾燥させ、植物標本をつくる作業と、採取した植物の特徴及び採取した場所などについて整理・記述する地道な作業を夜間に行わなければならないし、これが目的にならないといけない。
観光旅行気分で、こんなことに全く無頓着で人の気持ちなど気にしないメキシアだったので、見かねたフェリス女史は、ブライアント博士(Harold C. Bryant 1886-1968)に話をして、植物探索の旅の目的について彼が忠告をしたという。
ブライアント博士の忠告が効いたのか、後世に残るボタニスト、プラントハンターとしてのメキシアが誕生した。
探検旅行での写真があるが、机の上には採取した植物を分類記述した書類と思われるものがたくさんあり、仕事に打ち込んでいる様子が写っている。
メキシア晩年の頃の写真と思われるが、厳しい顔立ちとなりつまらなそうにしている印象もある。自由奔放な天性が通じない世界に入ってしまったからなのだろうかと思ってしまう。51歳からの植物への興味関心は、得るものもあったが失うものもあったのだろう。
(出典)Philosophy of Science Portal
ここで登場したブライアント博士について補足説明をすると、彼は、1916-1930までカリフォルニア大学公開講座の講師を務めた鳥類学者で、1930-1939は国立公園局のチーフディレクターとなる。
ブライアント博士は、カリフォルニア大学での思い出として三人の優れた学生の名前を挙げている。メキシア、ブラッセリン女史(Nina Floy Perry Bracelin 1890-1973)、モーセ女史(Elizabeth E. Morse )の三人で、特にブラッセリン女史は1927年からメキシアの友人となり採取した植物の整理分類に興味がなかったメキシアの仕事を引き継ぎ、後に『The Ynés Mexía botanical collections』としてまとめて出版した。ブラッセリン女史がいなかったらメキシアの評価も埋もれてしまったのかもわからない。
『The Ynés Mexía botanical collections』
【メキシアのプラントハンティング記録】
1.1922年 : プラントハンティングの始まりはカリフォルニア大学バークレー校古生物学研究員のE. L. Furlongをリーダーとするグループでのメキシコ研修旅行
2.1925年9月15日―1925年11月19日
・ 探検地: メキシコ西部、シナロア
・ スポンサー・リーダー: フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978):スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員
・ 成果: 500品種3600の植物を採取
3.1926年9月―1927年4月
・ 探検地: メキシコ西部:シナロア、ナヤリト、ハリスコのシエラマドレ山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学バークレー校の教授セッチェル(Setchell, William Albert 1864-1943)が部分的に出資。
・ 成果: 1600品種33,000の植物を採取。
4.1928年6月9日―9月12日
・ アラスカ探検: アンカレッジ、アラスカ
5.1929年5月6日―9月1日
・ 探検地: メキシコ北部および中央部:チワワ、メヒコ、プエブラ、ヒダルゴ
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア工科大学教授ファーロング(E. L. Furlong)
・ 成果: 315品種5000の植物を採取
6.1929年11月―1932年3月
・ 探検地: 南米ブラジル、ペルー探検:リオデジャネイロ、ビソザ、ディアマンティナ、アマゾン、ペルー、サンチャゴ峡谷
・ シポンサー: 米国農務省がスポンサーで同省のチェス(Chase,Agnes M.)が同行
・ 成果: 3200品種65,000の植物を採取
7.1934年9月―1935年9月
・ 探検地: 南米エクアドル:海岸よりの平野、アンデス山脈の東部アマゾン川、北部の高地、コロンビア国境地帯
・ スポンサー: 米国農務省がスポンサーでヤシ、キナノキなどの資源植物の探索
・ 成果: 900品種5,000の植物を採取
8.1935年10月―1836年1月
・ 探検地: 南米ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリー、アンデス山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学植物園 グッドスピード(Goodspeed, Thomas Harper 1887-1966)をリーダーとした探検
・ 成果: 300品種1,900の植物を採取
9.1936年1月―1937年1月
・ 探検地: 南米ペルー・マチュピチュ、チリー南部、エクアドル
・ 成果: 1,000品種13,000の植物を採取
10.1937年7月―8月
・探検地: 米国ミシガン
11.1937年10月31日―1938年5月20日
・ 探検地: メキシコ南西部:オアハカ、ゲレーロ
・ 成果: 700品種13,000の植物を採取
※ メキシアはオアハカで病気になり1938年5月にサンフランシスコに戻り、7月12日に亡くなった。
メキシア(Mexia, Ynes Enriquetta Julietta 1870 -1938)は、1870年にワシントンD.Cのジョウジタウンで生まれた。
彼女の父 Enrique Guillermo Antonio Mexia(1829ー1896)は、祖父Jose Antonio Mexia (1800ー1839)が抵抗し銃殺されたサンタ・アナメキシコ大統領(Antonio Lopez de Santa Anna)に仕える外交官としてワシントンD.Cに赴任していたからだが、翌年の1871年に現在のテキサス州のメキシアに移った。
この地には祖父Jose Antonio Mexiaが所有していた広大な敷地があり、メキシコ革命の英雄である祖父を記念して町の名前がメキシアと名づけられたという。
祖父のJose Antonio Mexia (1800ー1839)は、ベラクルーズ生まれのメキシコ人と本人は主張していたが、キューバからの流民なのでテキサスのメキシアから名前を採って名乗っていたのかなと思っていたがそうではなかった。
メキシアの若い頃の足跡は良くわかっていない。
幼少期はテキサスで過ごし、初等教育は、フィラデルフィアおよびカナダのオンタリオの私立学校で受け、メリーランドのSt. Josep's Collegeを卒業した。
ここまでは良家の子女というキャリアのようだが、メキシアは当時としては晩婚であり、
メキシア28歳の1898年にドイツ系スペインの商人Herman E. Laueと結婚し、若いころ住んでいたメキシコのTacubayaに住んだ。
1904年にHerman E. Laueが死亡し、その後Agustin Reygadasと再婚したが離婚しサンフランシスコに移住した。二番目の夫の写真がメキシアの保存資料の中に残っているが、時期が1919-1922年であり、メキシアの二度の結婚生活は両方とも短く恵まれていなかったようだ。
お嬢様として育てられ、女性としてのキャリアはソーシャルワーカーとしかわかっていないが、メキシアが歴史に登場してくるのは、1921年メキシア51歳のときにカリフォルニア大学バークレー校の植物学の講座に参加するようになってからだ。
プラントハンターとしてのメキシア
メキシアは1921年から68歳で死亡する1938年までの17年間でメキシコ、南米、アラスカ探検に出かけ、8,800品種・延べ145,000もの植物を採取し標本を作った。その中には500品種もの新種が含まれていたので欧米の植物学会に多大な貢献をした。というのは、メキシアが採取した植物標本は米国の博物館・植物園及びロンドン、コペンハーゲン、ストックホルム、ジェノバ、パリ、チューリッヒ等ヨーロッパの主要な植物園にも配布したからだ。
メキシアの植物探索旅行の費用を支えたスポンサーは、カリフォルニア大学と米国農務省などだが、51歳からの実績のないビギナープラントハンターに最初からスポンサーとして支援するほどいつの世も甘くない。
どのようにしてプロになっていったのかを示すエピソードが2つほど残っていた。
本格的な植物採取の探検は、1925年9月16日―1925年11月19日までのメキシコ西部シナロアへの旅だった。
この探検隊は、スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978)が中心のメンバーで、メキシアはメキシコに住んでいたので探検隊の役に立つのではないかという自薦参加のようであり、費用も自己負担したようだ。
但し、カリフォルニア・アカデミーに採取した植物標本の複製を提供するので、これを評価し成果報酬的に資金を提供して欲しいという申し入れを行ったという。
実際に事後に探検費用が戻ったかどうかは分からないが、スタンフォード大学、カリフォルニアアカデミーとの付き合いができたことは間違いない。
しかもこの探検は顕著な成果があったので、プラントハンターとしてのメキシアの登竜門となり、全5回のメキシコ探検へと発展することになった。
また、もうひとつのエピソードは、最初の頃のメキシアは、“旅行”自体が目的で旅を楽しんでいたようだ。50歳も過ぎると当然の目的でわかりやすい。
しかし、同好会的な園芸クラブはこれでも良いのだろうが、大学の植物学という研究機関では通用しない。ましてや、第三者から探検にかかる多額の費用をスポンサードしてもらうとなると成果が求められるのでなおさら大変だ。
寝る時間を惜しみ、昼間に採取した植物の汚れを落とし、乾燥させ、植物標本をつくる作業と、採取した植物の特徴及び採取した場所などについて整理・記述する地道な作業を夜間に行わなければならないし、これが目的にならないといけない。
観光旅行気分で、こんなことに全く無頓着で人の気持ちなど気にしないメキシアだったので、見かねたフェリス女史は、ブライアント博士(Harold C. Bryant 1886-1968)に話をして、植物探索の旅の目的について彼が忠告をしたという。
ブライアント博士の忠告が効いたのか、後世に残るボタニスト、プラントハンターとしてのメキシアが誕生した。
探検旅行での写真があるが、机の上には採取した植物を分類記述した書類と思われるものがたくさんあり、仕事に打ち込んでいる様子が写っている。
メキシア晩年の頃の写真と思われるが、厳しい顔立ちとなりつまらなそうにしている印象もある。自由奔放な天性が通じない世界に入ってしまったからなのだろうかと思ってしまう。51歳からの植物への興味関心は、得るものもあったが失うものもあったのだろう。
(出典)Philosophy of Science Portal
ここで登場したブライアント博士について補足説明をすると、彼は、1916-1930までカリフォルニア大学公開講座の講師を務めた鳥類学者で、1930-1939は国立公園局のチーフディレクターとなる。
ブライアント博士は、カリフォルニア大学での思い出として三人の優れた学生の名前を挙げている。メキシア、ブラッセリン女史(Nina Floy Perry Bracelin 1890-1973)、モーセ女史(Elizabeth E. Morse )の三人で、特にブラッセリン女史は1927年からメキシアの友人となり採取した植物の整理分類に興味がなかったメキシアの仕事を引き継ぎ、後に『The Ynés Mexía botanical collections』としてまとめて出版した。ブラッセリン女史がいなかったらメキシアの評価も埋もれてしまったのかもわからない。
『The Ynés Mexía botanical collections』
【メキシアのプラントハンティング記録】
1.1922年 : プラントハンティングの始まりはカリフォルニア大学バークレー校古生物学研究員のE. L. Furlongをリーダーとするグループでのメキシコ研修旅行
2.1925年9月15日―1925年11月19日
・ 探検地: メキシコ西部、シナロア
・ スポンサー・リーダー: フェリス女史(Ferris ,Roxana Judkins Stinchfield 1895-1978):スタンフォード大学ダドリーハーバリウムの著名な研究員
・ 成果: 500品種3600の植物を採取
3.1926年9月―1927年4月
・ 探検地: メキシコ西部:シナロア、ナヤリト、ハリスコのシエラマドレ山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学バークレー校の教授セッチェル(Setchell, William Albert 1864-1943)が部分的に出資。
・ 成果: 1600品種33,000の植物を採取。
4.1928年6月9日―9月12日
・ アラスカ探検: アンカレッジ、アラスカ
5.1929年5月6日―9月1日
・ 探検地: メキシコ北部および中央部:チワワ、メヒコ、プエブラ、ヒダルゴ
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア工科大学教授ファーロング(E. L. Furlong)
・ 成果: 315品種5000の植物を採取
6.1929年11月―1932年3月
・ 探検地: 南米ブラジル、ペルー探検:リオデジャネイロ、ビソザ、ディアマンティナ、アマゾン、ペルー、サンチャゴ峡谷
・ シポンサー: 米国農務省がスポンサーで同省のチェス(Chase,Agnes M.)が同行
・ 成果: 3200品種65,000の植物を採取
7.1934年9月―1935年9月
・ 探検地: 南米エクアドル:海岸よりの平野、アンデス山脈の東部アマゾン川、北部の高地、コロンビア国境地帯
・ スポンサー: 米国農務省がスポンサーでヤシ、キナノキなどの資源植物の探索
・ 成果: 900品種5,000の植物を採取
8.1935年10月―1836年1月
・ 探検地: 南米ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリー、アンデス山脈
・ スポンサー・リーダー: カリフォルニア大学植物園 グッドスピード(Goodspeed, Thomas Harper 1887-1966)をリーダーとした探検
・ 成果: 300品種1,900の植物を採取
9.1936年1月―1937年1月
・ 探検地: 南米ペルー・マチュピチュ、チリー南部、エクアドル
・ 成果: 1,000品種13,000の植物を採取
10.1937年7月―8月
・探検地: 米国ミシガン
11.1937年10月31日―1938年5月20日
・ 探検地: メキシコ南西部:オアハカ、ゲレーロ
・ 成果: 700品種13,000の植物を採取
※ メキシアはオアハカで病気になり1938年5月にサンフランシスコに戻り、7月12日に亡くなった。