モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No31:スペインの絶頂期にメキシコを探検したエルナンデス

2010-12-08 18:31:35 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No31

メキシコのサルビアを始めとした植物の採取記録は1800年代からしかわからない。
ということは、コロンブスから300年間、空白の期間がある。
征服者・統治者スペインは何もしなかったのかという疑問があるが、ここに焦点を当ててみたい。
価値を認めない限り、或いは、意図を持たない限り行動に至らないことはいうまでもない。植民地を増やすための探検、自国にはない原材料を入手するための探索、自国で生産した商品を販売するためのマーケット調査など、ヨーロッパの重商主義、産業革命の進展にともなってフロンティアの獲得競争が熾烈になる。
そのトップに君臨したスペインは、何もしなかったわけではなかった。メキシコで二回の大規模で科学的なアプローチによる植物・動物などの調査を行った。
初めての調査は、1570年代であり、二回目が1780年代からのセッセの調査だった。
何回かに分けて彼らの活動をフォローしてみることにする。

大航海時代のスペイン王室の国庫は空っぽ!
医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)は、1567年スペイン国王フェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)の私的侍医となる。

(写真)Francisco Hernandez 1514-1587
 

フェリペ二世は、1580年にポルトガルを併合し、1588年にエリザベス一世のイングランドに無敵艦隊が破れここから下り坂になるが、スペイン最盛期の国王であった。
しかし、国王に就任した1556年には父親から多額の借金も引継ぎ、王室の国庫はデフォルト(借金踏み倒し)を何度か行いしのいでいる状況であった。

だから、アメリカ大陸の植民地経営には関心が強く、新世界の有用植物を貴金属と同じように資産として捉えていた。
特に薬用植物に関しては、高価であり輸入に依存していたので、国庫負担を減らすことでも関心が高かった。
ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシ・チリ唐辛子・カボチャ・トマト・インゲン豆など新世界の食用植物は、いまではメガ級の世界でも重要な食材となっているが、これらに関してはあまり関心がなく、タバコを除き利権化することが出来なかった。

プラントハンターの元祖、フェリペ二世
1570年 フランシスコ・エルナンデスを植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命した。
コロンブスが新大陸に到着してから78年も経過したが、この間に、輸入に頼っていた高価な“しょうが(生姜)”を、1530年頃にメキシコにもって行き、植民地での栽培に切り替えることに成功した。
など小さな成果はあるが、フェリペ二世の期待値には届かない。

フェリペ二世の指示は明確で、
・ 薬草に詳しい全ての人間から情報を収集すること
・ 薬草など個別の特徴などの内容を得ること
・ 植物(苗)・種子を得ること
薬用植物をターゲットとしたプラントハンティングそのものであった。
これが、組織的・戦略的な“プラントハンター”の始まりでもあり、新世界の資源・資産を把握・評価する手法の第一歩でもあった。
この点では、16世紀末のスペインは、プラントハンターの独走的なトップランナーであった。

“しょうが(生姜)”は、いまでは日本食には欠かせない食材となっているが、インドなどを原産地とした熱帯植物で、この当時は、非常に高価な香辛料であった。
しかも中継貿易を支配していたヴェニス、ポルトガルの商人に利益を搾り取られていた。
この状況を、植民地の薬草を使って変え、既存利権構造の破壊が目的となる。

わき道にそれるが、重商主義時代の国家間の争いには、背後に植民地での植物が絡んでいる。
スペインのタバコ利権を壊すためにイギリス・オランダが挑戦し、
オランダのコーヒー利権を壊すためにイギリスが紅茶を育てかつ争い、
イギリスが確立した紅茶に対しては植民地アメリカが戦った。
など、植民地という新しい経営資源を使った国家間の競争戦略でもあった。

これをマーケティング的にパターン化すると
・ 原価ゼロの構築(コスト優位性の構築)
・ 代替物・競争物の構築(競争優位性の構築)
・ 強権での集権化(選択と経営資源の集中投下)
昨今の企業戦略と同じことを異なるフェーズでおこなっていたことになる。

フェリペ二世は、統治と意思決定に優れたセンスを持った国王のようであった。
書類王とも言われ、晩年に修道院で隠遁するまで、決裁の連続であったという。
新世界メキシコの組織だった動植物の調査研究がなされたのは、フェリペ二世の英明と思う。

プラントハンターのパイオニア、エルナンデス
1570年、医師・植物学者フランシスコ・エルナンデス(1514-1587)は、スペイン国王フェリペ二世から植民地全域の薬用植物情報を集める特命に任命された。
やはり、金・銀・宝石を略奪する腕っ節が強い海賊タイプだけでは物事が進まないことがわかり、植物・薬草の専門家を送り込まなければならなくなったのだろう。

1571年8月、彼は、息子のJuanを連れてメキシコに行き、1572年2月にベラクルーズに到着した。中央メキシコなどを3年間精力的に歩き、薬草及びその情報の収集、サンプルの収集・分類、先住民などからのヒアリングなどを行い、1577年にメキシコを去るまでに800の木版画を取り入れた38冊の原稿を2年間で作成した。
しかし、エルナンデスの探検旅行の日記・メモなどは保存されていないので、どんな調査を行ったかということがわからない。

新世界メキシコの動植物を記述した博物誌としては初めてであり、フェリッペ二世は、ナポリの出版業者Nardi Antonio Recchiにこの簡潔な要約版を作るように依頼したが、途中で死亡したので、最終的には1651年まで完成しなかった。

また、このエルナンデスのオリジナル原稿は、Escorial王立図書館に保存されていたが、残念ながらこの王立図書館が火事になり原稿は1671年に消失した。
しかし、部分的な原稿は筆写であるがRecchiのところとメキシコに残っており、メキシコの聖ドミンゴ修道院の修道士によってラテン語からスペイン語に翻訳され、エルナンデス死後の1615年にメキシコで出版された。この版はペーパーバックのように廉価版なので結構普及したようだ。

(タイトル)Quatro libros. De la naturaleza, y virtudes de las plantas, y animales que estan receuidos en el vso de medicina en la Nueua España… Mexico: Viuda de Diego Lopez Daualos. 1615.

(出典) The Internet Archive
※インターネットアーカイブ:Hernández, Franciscoの作品群が収録されている。作品画像をクリックするとページ内容が閲覧できる。

マドリッドで原本から筆写したイタリアの医師・出版業者Nardo Antonio Recchiは、1580年代にラテン語のダイジェスト版を制作し、この写本が彼の死後に手を加えられ1651年に出版された。
それまでの薬草などが書かれた傑作は、ディオスコリデス(Dioscorides紀元40-90年頃)の薬物誌で15世紀まで医学の世界で使われていた。この本には約600種の薬草などの薬が説明されているが、Recchiのダイジェスト版には、エルナンデスが記述した新世界の3000種ものハーブなどが収録されていたので驚きをもって迎えられたという。

(タイトル)Rerum medicarum Novae Hispaniae thesaurus, Rome: Vitalis Mascardi, 1651.

(出典) The Internet Archive

同時代、モナルデス「新世界の薬草誌」
エルナンデスと同時期のスペインの医師・植物学者でマドリッド植物園長のモナルデス(Nicolas Monardes 1493-1588)は、新世界に旅行はしなかったが、メキシコなどから帰国した兵士・水夫・商人などから植物の苗・標本などを購入したり聞き取り調査をし、1565年に「Historia medicinal de las cosas que traen de nuestras Indias Occidentales(新世界の薬草誌)」を出版した。この本は1577年にJohn Framptonによって英語に翻訳され出版されたので、エルナンデスの本が出版される前の新世界の植物を取り扱っていたので影響力があった。
特に、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことでも知られる。
(タバコの参照)ときめきの植物雑学:その28:コロンブスが見落としたタバコ(Tobacco)

また彼は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込んだヒマワリをマドリッド植物園長で育て、ヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。


当時のグローバルNo1のスペインは、結構しっかりしていたなという感想を抱いたが、エルナンデスの調査結果を生かしきれたのかなという疑問も残る。
エルナンデスは、土着の薬草とその活用を調べたので、今日まで残っていたら新薬を生み出す貴重な情報が含まれていただろう。
生贄を奉げる宗教を根絶やしにするためにその宗教と結びついたハーブ類まで根絶やしにされたようだ。エルナンデスは、伝承が消えかかるギリギリの時代にメキシコを調査していたのでよけいに貴重な情報のような気がする。


(この稿は、「ときめきの植物雑学」シリーズ、 その31 にフェリッペ二世とエルナンデスに関して記載した記事を再編集した。)

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