モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No38:セッセ探検隊⑥:漂流するモシニョーと植物画

2017-02-22 15:33:35 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No38

モシニョーの漂流

(写真)JOSÉ MARIANO MOCIÑO
 
(出典)出版本「JOSÉ MARIANO MOCIÑO」

スペインに帰還したセッセ探検隊員を待っていたのは、労をねぎらう者も、褒め称える者もいない中で差し迫った問題は、生きていくための糧をどう手に入れるかが現実の問題として起きてきた。

セッセは家族と住み、メキシコの植物についての原稿を完成させる作業を行っていたが、出版の陽の目を見ることなく1808年10月4日に死亡した。(セッセ探検隊の成果報告は、1890年代まで発表されなかった。)

モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)は、細々の年金をもらい貧困にあえいでいた。セッセが死亡する1808年或いは1809年までは、セッセ家の居候となり何とか生き延びていた。

その後、1811-1812年には司祭・政治家・博物学者のジャベ(Llave ,Pablo de La 1773 – 1833)と共にセッセ探検隊の収集した素材を検証する仕事を行っていたところ、マドリッド自然史博物館の責任者の仕事が舞い込み、ここで教えることをしていた。
やっとありついた自然史博物館の仕事は、1808年にスペインに進攻したナポレオン派が支配し、モシニョーを責任者に取り立てたのは新スペイン国王となったナポレオンの兄だったので、フランスがスペインから撤退した1812年に敵国協力者としてモシニョーが逮捕された。
生きるためには仕事を選べなかったので運が悪いと片付けることも出来ない。

モシニョーのコレクション
1812年にモシニョーは逃げることにした。
手押し車に彼が大事にしていたコレクション(原稿・植物画・植物標本など)を入れ、徒歩でフランス国境まで逃げた。
ここには、ナポレオンをして言わしめた「ピレーネを超えるとアフリカ(ピレーネのむこうはヨーロッパではない。)」1000~2000m級の山が連なるピレーネ山脈があり、相当な困難な旅だったのだろう。

モシニョーのコレクションは、1812年にピレーネを越えてフランスに渡った。
このコレクションがこれからの主題となるが、何故モシニョーがスペインから持って出れたのかが疑問でもある。
もっと厳密にすると、セッセがこれを予見して許したのだろうか?

これまでの経緯を整理すると
1. モシニョーは、ただ働きに近い状態でセッセ探検隊に加わっていた。
2. メキシコで採用されたモシニョー、アーティストのセルダ、エチェベリアなどメキシコで生れたクレオールは、働きの割りに低賃金で差別待遇をされている不満があった。
3. モシニョーは、1803年にスペインにセッセ達よりも先に到着し、この時に重要なコレクションを帯同していた。
4. セッセ探検隊は王室が出資しているので成果物を報告・納品する必要がある。マドリッド王立ガーデンに保存されているモノが納品されたものだろう。しかし、これ以外の成果物があり、セッセとモシニョーが持っていたものだ。
5. 全てを納めなかったところに理由がありそうだ。考えられるのは、正統な賃金を支払わなかったクレオール達の成果を彼らの所有とセッセが認めたのか、モシニョーがクレオールを代表して自分たちの権利を主張して作品を手放さないでいたのか、或いは、探検隊の活動を評価しなかったスペイン政府をセッセとモシニョーが見切ったのか、何らかの理由があるはずだ。
6. セッセは、モシニョーを信頼し、マドリッドに戻って貧困にあえぐモシニョーを居候として支えた。モシニョーが持っていたコレクションは、この時にセッセと共有化されたはずだ。
7. セッセに成果を公表する意志があるならば、彼の死に当たって彼が書いていた原稿をモシニョーに託するはずだが、そうではなかったようだ。セッセが著していた植物画がついていない辞書のような植物全集は、価値が劣ることをセッセはわかっていたはずだ。

ということを考えてみると、セッセは、給与を支払わなかったクレオール達の権利を認めて、植物画や彼ら分の植物標本を認めていたのだろう。と考えざるを得ない。

ドゥ・カンドールとの出会い
(写真)Augustin Pyramus de Candolle
 
(出典)wikipedia

モシニョーは、地中海に面したフランス南部のモンペリエでスイスの植物学者ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)と出会った。

ドゥ・カンドールは、1796年にパリに来て、パリ大学の医学部で学び1804年に医学博士の称号を取得した。この学生の頃にレリチェール(Charles Louis L’Héritier de Brutelle 1746-1800) 画家のルドーテ(Pierre-Joseph Redouté 1759-1840)と出会い、植物学と植物画を磨くことになる。
1807年には、中世の1220年に設立された由緒ある医学部があるモンペリエ大学医学部の若き有能な教授となり、1816年にジュネーブに戻ることになるが、モシニョーは最適な人物と出会ったことになる。

ただ、モシニョーがモンペリエにたどり着いた頃には、彼は貧困で苦しみ盲目に近くなっていた。
モシニョーは、ドゥ・カンドールに彼が持ち出したメキシコのフローラの原稿と植物画を見せ、ドゥ・カンドールは、その当時のヨーロッパで知られていないメキシコの植物の科学的な分類と記述、および、素晴らしい写実的な植物画の価値を認めた。

ドゥ・カンドールが1816年にジュネーブに戻る時、ジュネーブでモシニョーのコレクションを共同研究しようと持ちかけたが、モシニョーはこの申し入れを断った。
その断りが「私はあまりに歳をとり病気で、あまりに不運です。私のコレクションをジュネーブに持っていって研究し、私の将来の栄光をあなたに託します。」ということであったという。
すべてを悟ったうえでの、このままでは死ねないというモシニョーの思いが結構泣かせる。

モシニョーのコレクションは、1816年にスイスのジュネーブに渡った。


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