メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No36
■ 登場人物
1. セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808):探検隊長兼メキシコ王立植物園の責任者。
2. セルバンテス(Cervantes ,Vicente (Vincente) de 1755–1829):メキシコ王立植物園最初の植物学教授。
3. センセブ(Jaime Senseve ?-1805):薬剤師、薬学者として参加。途中から植物園に異動させられる。
4. ロンギノス(Longinos, Martínez, José 1756-1802):セルバンテスの弟子、ナチュラリストとして参加。探検隊を脱退する。
5. キャスティリョ(Castillo ,Juan Diego del 1744-1793):プエルトリコの王立ガーデンのコミッショナー、植物学者として参加。著作後病死。
6. セルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)、主任アーティストとして参加。
7. エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)アーティストとして参加。メキシコ出身。
8. モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)植物学者として1790年から探検隊に参加。セッセと並ぶ中心メンバーとなる。
9. マルドナド(Jose Maldonado)植物学者としてモシニョーと同時期に参加。モシニョーの学友。
センセブの解任とモシニョーの台頭
(写真)1628年頃のアカプルコ
(出典) Commons.wikimedia
第二回の探検旅行は、1789年5月14日から始まった。コースはメキシコシティから南南西の太平洋側にあるゲレーロ州アカプルコを目指し、途中クエルナバカ、メキシコ独立の英雄Vicente Guerrero (1783 - 1831) の出身地Tixtla、現在はメキシコシティとアカプルコの高速道路があるChilpanzing、そしてアカプルコを訪問した。
アカプルコは、メキシコを征服したコルテスが1523年以降この一帯を征服する部隊を送り出し発見したという説があるが、1531年にはメキシコシティとの間の幹線道路を作り、フィリピンとアカプルコ間のガレオン貿易が1550年代に始った。そして東洋との唯一の貿易港として1573年からメキシコが独立する1821年まで栄えたところだ。
この探検旅行では、問題を起こすセンセブを探検隊員からはずし、メキシコ王立植物園で植物標本や剥製を作る仕事に異動させた。
代わりに、セルバンテスが教えた学生の中からこの探検隊のセッセと並び中心となるモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)とマルドナド(Jose Maldonado)が1790年から参加する。二人ともメキシコ出身なのでアーティスト同様に年俸が500ペソぐらいの安い報酬だったのだろう。
センセブは、スペイン王室にもつコネを使いモシニョー達の探検隊参加を阻止しようと動き、これが認められる指令が届いたが、探検隊は既に第三回の探検に出発していたので後の祭りとなり反古となった。
これで、一人目の問題児が消えることになる。
後にセッセ探検隊の主役となるモシニョーは、スペイン人の両親からメキシコで生まれその生い立ちは貧しかった。勉強するために多くの仕事をし、1778年に神学校のSeminario Tridentino de Méxicoを卒業し神学と論理学の学位を授与された。この年にDoña Rita Rivera y Melo Montaño と結婚し、オアハカで神学校の教師として務めた。
しかし、地方での教育に満足できずにメキシコシティに戻りPontifical 大学で医学を学び、さらにサンカルロス美王立術学院で数学を学んだ。1787年には医学士として収入を得、セルバンテスが教えるメキシコ王立植物園の植物学のコースでも学び目立った存在となった。モシニョーのこのキャリアは、まるでレオナルド・ダ・ヴィンチを目指しているように思われる。
この時の学友がマルドナドで画家のエチェベリアと共にセッセに見出されることになり、モシニョー33歳の時にセッセの探検隊に正式に加わることになる。
実際は、1788年にセルバンテスが植物学を教える王立植物園が出来ているので、この学生としてモシニョーが参加し、セッセのために植物を採取することを行っていたので、彼の能力は見極められていたようだ。
モシニョーは、太平洋北西部のカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アラスカ、カナダの行政区のブリティッシュコロンビアを探検し、重要なコレクションを作ったが、しかし実際はほとんど報酬が支払われなかったようだ。
スペイン王室がモシニョーの雇用を認めていないので出せなかったのだろうが、どうして暮らしていたのだろうか?
センセブがモシニョーたちの参加に猛反対したのには、自分より優れたメンバーが参加すると自分のポジションが亡くなってしまうという明確な理由があったことがこれでわかる。
さらに言えば、センセブには人種的な階層意識が強かったのかもわからない。メキシコは、移民してきた白人、メキシコで生れた白人同士の子供(クリオーリョ)、インディオ及び黒人、及びその混血が進みカースト制のような階層社会であり、これを乗り越えるのは困難だったようだ。この時代になると人口構成からもクリオーリョの社会進出を認めざるを得なくなるがトップにはなれなかった。
センセブの階層的なプライドと能力が秤にかけられ、セッセはモシニョーなどのクリオーリョ達の実力を取ったのだろう。
ロンギノスが離脱、キャスティリョが病死
(写真)古都グアダラハラの風景
(出典) Truth With a Camera Workshop Blog
第三回の探検は、1790年5月17日にスタートした。目的地はメキシコシティから北西540㎞にあるメキシコ第二の都市グアダラハラで、スペイン領の北西部を探検する。グアダラハラは歴史ある街で、テキーラの原産地として知られるテキーラがこの近くにある。
グアダラハラで、二つのグループに分かれ、第一のグループは、モシニョー、キャスティリョ、アーティストのエチェベリア、マルドナドの4名でグアダラハラの北にある温泉があるところで知られたAguas Calientes、鉱山からの富で出来た街Álamos、少数先住民タラウマラ族が住むTarahumaraに向かった。セッセは、北西メキシコの太平洋側にあるシナロアから南下して第一のグループと合流する計画となっていた。
この探検隊には、ロンギノスが参加していないが、彼はセッセなどと口論をして探検隊から離脱し、1791年1月-1792年9月まで単独でカルフォルニアの探検をする。
これでオルテガが組織した五人のうち二人がいなくなることになる。
原因は良くわからないが、ロンギノスが残した原稿・メモなどから記述が表面的で不正確なモノがあるということがわかっているので、セッセ或いはマドリッド植物園時代の師匠に当るセルバンテスからこの点を指摘されていたのだろう。
旅の途中のアグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)で、カルロス四世(Carlos IV, 1748-1819、在位:1788-1808)からの指示が待っていて、北アメリカ北西部バンクーバー島近くのヌートカ湾(Nutka)の自然誌を調査するようにという命令があった。
このあたりは英国とスペインの間で領有権での争いがあり、資源調査の意味もあった。
モシニョー、キャスティリョ、アーティストのエチェベリア、マルドナドの4名が向かうことになったが、キャスティリョが壊血病で倒れたので三人で向かった。
モシニョー達は、1792年4月29日から9月21日までヌートカ湾で先住民のヌートカ族の生活・風習をまなび、最初のNootkan―スペイン語の辞書、動植物のカタログ、エチェベリアによる水彩画などを作成し、モシニョーが「Noticias de Nutka」としてまとめた。
このオリジナルは紛失したが、コピーが1880年にメキシコの図書館で見つかり、1913年に100部だけ再出版されたという。
このように第三回の探検は、1790年から1792年まで2年間実施した。
仲たがいの結果として、
センセブは探検隊から外れたことで消息がわからずに歴史から消えてしまった。きっと消えるべくして消えていったのだろう。
ロンギノスは一匹狼となったが、カルフォルニア、グアテマラ、ユカタン半島を探索し、マドリードの政府にボックスで多数の標本を送って自然史博物館の前身ガビネット自然歴史館を組織することになる。1803年にユカタン州カンペチェで死亡する。
ロンギノスのメモのオリジナルは100年以上も忘れられたが、カルフォルニアの初期探検者でもあるのでカルフォルニアの鉄道王が残したハンティングトン(Huntington Library)図書館が取得して保存している。これをまとめた本が1938年にシンプソン(Lesley Byrd Simpson)により出版された。
協調性は無いようだが筋を通した生き方だと思う。
キャスティリョは、アグアス・カリエンテスで執筆をし「Plantas descritas en el viaje de Acapulco」を著した後の1793年7月26日この地で壊血病で死亡した。
キャスティリョの偉いところは、セッセ探検隊の成果報告「Flora Mexicana」のために多額の出版費用(4万ドルという?)を残したという。
キャスティリョのこの行為は、芭蕉の辞世の句『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』を思い出させる。
■ 登場人物
1. セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808):探検隊長兼メキシコ王立植物園の責任者。
2. セルバンテス(Cervantes ,Vicente (Vincente) de 1755–1829):メキシコ王立植物園最初の植物学教授。
3. センセブ(Jaime Senseve ?-1805):薬剤師、薬学者として参加。途中から植物園に異動させられる。
4. ロンギノス(Longinos, Martínez, José 1756-1802):セルバンテスの弟子、ナチュラリストとして参加。探検隊を脱退する。
5. キャスティリョ(Castillo ,Juan Diego del 1744-1793):プエルトリコの王立ガーデンのコミッショナー、植物学者として参加。著作後病死。
6. セルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)、主任アーティストとして参加。
7. エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)アーティストとして参加。メキシコ出身。
8. モシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)植物学者として1790年から探検隊に参加。セッセと並ぶ中心メンバーとなる。
9. マルドナド(Jose Maldonado)植物学者としてモシニョーと同時期に参加。モシニョーの学友。
センセブの解任とモシニョーの台頭
(写真)1628年頃のアカプルコ
(出典) Commons.wikimedia
第二回の探検旅行は、1789年5月14日から始まった。コースはメキシコシティから南南西の太平洋側にあるゲレーロ州アカプルコを目指し、途中クエルナバカ、メキシコ独立の英雄Vicente Guerrero (1783 - 1831) の出身地Tixtla、現在はメキシコシティとアカプルコの高速道路があるChilpanzing、そしてアカプルコを訪問した。
アカプルコは、メキシコを征服したコルテスが1523年以降この一帯を征服する部隊を送り出し発見したという説があるが、1531年にはメキシコシティとの間の幹線道路を作り、フィリピンとアカプルコ間のガレオン貿易が1550年代に始った。そして東洋との唯一の貿易港として1573年からメキシコが独立する1821年まで栄えたところだ。
この探検旅行では、問題を起こすセンセブを探検隊員からはずし、メキシコ王立植物園で植物標本や剥製を作る仕事に異動させた。
代わりに、セルバンテスが教えた学生の中からこの探検隊のセッセと並び中心となるモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)とマルドナド(Jose Maldonado)が1790年から参加する。二人ともメキシコ出身なのでアーティスト同様に年俸が500ペソぐらいの安い報酬だったのだろう。
センセブは、スペイン王室にもつコネを使いモシニョー達の探検隊参加を阻止しようと動き、これが認められる指令が届いたが、探検隊は既に第三回の探検に出発していたので後の祭りとなり反古となった。
これで、一人目の問題児が消えることになる。
後にセッセ探検隊の主役となるモシニョーは、スペイン人の両親からメキシコで生まれその生い立ちは貧しかった。勉強するために多くの仕事をし、1778年に神学校のSeminario Tridentino de Méxicoを卒業し神学と論理学の学位を授与された。この年にDoña Rita Rivera y Melo Montaño と結婚し、オアハカで神学校の教師として務めた。
しかし、地方での教育に満足できずにメキシコシティに戻りPontifical 大学で医学を学び、さらにサンカルロス美王立術学院で数学を学んだ。1787年には医学士として収入を得、セルバンテスが教えるメキシコ王立植物園の植物学のコースでも学び目立った存在となった。モシニョーのこのキャリアは、まるでレオナルド・ダ・ヴィンチを目指しているように思われる。
この時の学友がマルドナドで画家のエチェベリアと共にセッセに見出されることになり、モシニョー33歳の時にセッセの探検隊に正式に加わることになる。
実際は、1788年にセルバンテスが植物学を教える王立植物園が出来ているので、この学生としてモシニョーが参加し、セッセのために植物を採取することを行っていたので、彼の能力は見極められていたようだ。
モシニョーは、太平洋北西部のカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アラスカ、カナダの行政区のブリティッシュコロンビアを探検し、重要なコレクションを作ったが、しかし実際はほとんど報酬が支払われなかったようだ。
スペイン王室がモシニョーの雇用を認めていないので出せなかったのだろうが、どうして暮らしていたのだろうか?
センセブがモシニョーたちの参加に猛反対したのには、自分より優れたメンバーが参加すると自分のポジションが亡くなってしまうという明確な理由があったことがこれでわかる。
さらに言えば、センセブには人種的な階層意識が強かったのかもわからない。メキシコは、移民してきた白人、メキシコで生れた白人同士の子供(クリオーリョ)、インディオ及び黒人、及びその混血が進みカースト制のような階層社会であり、これを乗り越えるのは困難だったようだ。この時代になると人口構成からもクリオーリョの社会進出を認めざるを得なくなるがトップにはなれなかった。
センセブの階層的なプライドと能力が秤にかけられ、セッセはモシニョーなどのクリオーリョ達の実力を取ったのだろう。
ロンギノスが離脱、キャスティリョが病死
(写真)古都グアダラハラの風景
(出典) Truth With a Camera Workshop Blog
第三回の探検は、1790年5月17日にスタートした。目的地はメキシコシティから北西540㎞にあるメキシコ第二の都市グアダラハラで、スペイン領の北西部を探検する。グアダラハラは歴史ある街で、テキーラの原産地として知られるテキーラがこの近くにある。
グアダラハラで、二つのグループに分かれ、第一のグループは、モシニョー、キャスティリョ、アーティストのエチェベリア、マルドナドの4名でグアダラハラの北にある温泉があるところで知られたAguas Calientes、鉱山からの富で出来た街Álamos、少数先住民タラウマラ族が住むTarahumaraに向かった。セッセは、北西メキシコの太平洋側にあるシナロアから南下して第一のグループと合流する計画となっていた。
この探検隊には、ロンギノスが参加していないが、彼はセッセなどと口論をして探検隊から離脱し、1791年1月-1792年9月まで単独でカルフォルニアの探検をする。
これでオルテガが組織した五人のうち二人がいなくなることになる。
原因は良くわからないが、ロンギノスが残した原稿・メモなどから記述が表面的で不正確なモノがあるということがわかっているので、セッセ或いはマドリッド植物園時代の師匠に当るセルバンテスからこの点を指摘されていたのだろう。
旅の途中のアグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)で、カルロス四世(Carlos IV, 1748-1819、在位:1788-1808)からの指示が待っていて、北アメリカ北西部バンクーバー島近くのヌートカ湾(Nutka)の自然誌を調査するようにという命令があった。
このあたりは英国とスペインの間で領有権での争いがあり、資源調査の意味もあった。
モシニョー、キャスティリョ、アーティストのエチェベリア、マルドナドの4名が向かうことになったが、キャスティリョが壊血病で倒れたので三人で向かった。
モシニョー達は、1792年4月29日から9月21日までヌートカ湾で先住民のヌートカ族の生活・風習をまなび、最初のNootkan―スペイン語の辞書、動植物のカタログ、エチェベリアによる水彩画などを作成し、モシニョーが「Noticias de Nutka」としてまとめた。
このオリジナルは紛失したが、コピーが1880年にメキシコの図書館で見つかり、1913年に100部だけ再出版されたという。
このように第三回の探検は、1790年から1792年まで2年間実施した。
仲たがいの結果として、
センセブは探検隊から外れたことで消息がわからずに歴史から消えてしまった。きっと消えるべくして消えていったのだろう。
ロンギノスは一匹狼となったが、カルフォルニア、グアテマラ、ユカタン半島を探索し、マドリードの政府にボックスで多数の標本を送って自然史博物館の前身ガビネット自然歴史館を組織することになる。1803年にユカタン州カンペチェで死亡する。
ロンギノスのメモのオリジナルは100年以上も忘れられたが、カルフォルニアの初期探検者でもあるのでカルフォルニアの鉄道王が残したハンティングトン(Huntington Library)図書館が取得して保存している。これをまとめた本が1938年にシンプソン(Lesley Byrd Simpson)により出版された。
協調性は無いようだが筋を通した生き方だと思う。
キャスティリョは、アグアス・カリエンテスで執筆をし「Plantas descritas en el viaje de Acapulco」を著した後の1793年7月26日この地で壊血病で死亡した。
キャスティリョの偉いところは、セッセ探検隊の成果報告「Flora Mexicana」のために多額の出版費用(4万ドルという?)を残したという。
キャスティリョのこの行為は、芭蕉の辞世の句『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』を思い出させる。
新年あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします
幸多い一年でありますよう、お祈り申し上げます
may
そろそろネタが尽きるかなと思いつつも、全然尽きない植物はすごいですね?
本年もよろしくお願いいたします。
ただ資料がスペイン語が多いので、日本語訳はいい加減なので英語に訳して読む手間がかかりちょっと時間がかかります。それにしても翻訳がインターネットでは無料という便利な時代になりましたね。
こんな国境の線が実生活では消えつつある時代に、アジアはナショナリズムが強まりそうなので当分危ない状況が続きそうです。
仲が悪いということはコストがかかり、無駄なエネルギーを使うのでエコでなくエゴですね。
本年のよろしくお願いいたします。