モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No16:メキシコ植物相の最高なコレクションを残した、プリングル

2010-09-16 11:07:31 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No16

“プラントハンターのプリンス”登場
これまでは、ヨーロッパからの探検家、移民だったが、アメリカ生れのプラントハンターがこのシリーズで初めて登場する。
しかも、北アメリカ特にメキシコの植物のカタログを作ることに35年の時間を費やし、20,000種にも及ぶ品種が含まれた500,000枚もの植物標本を作り、その中には29の新しい属と1,200もの新種を発見・採取したという圧倒的な量を誇るプラントハンターで、紆余曲折したキャリアでこれを成し遂げた。

(写真)Cyrus Pringle at age 38, in 1876

(出典)The University of Vermont

この人物の名はプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)で、彼は、1838年5月6日にジョージⅢ世(在位:1760-1820年)の王妃シャーロットにちなんで名付けられたカナダと国境を接するアメリカ北東部のバーモント州の小さな町シャーロットでスコットランドから入植した移民の子供として生れた。
ちなみにジョージⅢ世は、アメリカの植民地に重税を課しアメリカ独立戦争を引き起こした植民地入植者にとっては憎き当事者だ。晩年は認知症で周りが苦しんだという。

1859年にバーモント大学に入学するが一学期で退学する。彼の兄が亡くなったので母の農場を手伝う必要に迫られたからだ。
もともとプリングルは、農業に関心があり早い時期から才能を開花させていた。
彼が19歳の1857年の時に、母の農場で園芸での最初の成果があった。それは、大きなストライプがある夏リンゴがなる苗木を作出したことである。
翌年の1858年には最初のナーサリー(育種園)を開き、果物とジャガイモを育てた。その中でジャガイモを交配させることにより、“スノーフレーク(Snowflake)”と呼ぶ新しい品種を作出した。
後に彼が作出したジャガイモの新品種は英国でも評判になりロンドン園芸協会の賞を獲得するなど、農場経営に科学的なアプローチを早くから取り入れていたのには驚きに値する。
こんな才能を既に開花させていたので大学を卒業するまでもないが、大学を卒業していたのならばどうなったのだろう?

信仰と拷問
大きな試練は南北戦争(American Civil War 1861-1865)で起きた。
プリングルは、早い時期からクエーカーの教えに共鳴し、1863年2月に学校教師で優秀なクエーカー(またはキリスト友会徒)の話者でもあるグリーン(Almira Greene)と結婚した。
その5ヵ月後の7月に北軍から召集があったが、他の二人のクエーカー教徒と共に戦争に反対の立場を貫き、兵役不服従の罪で犯罪者と一緒の牢に拘束され、10月には牢から外に引きずり出され歩けなくなるまでの拷問を受けた。
この話を聞きつけたクエーカー教徒でもある農務長官に当るアイザック・ニュートンがリンカーン大統領に伝え恩赦を取り計らったという。

リンカーン大統領は、南北戦争を遂行し奴隷制度を廃止するためにクエーカー教徒の支持を獲得する必要があり、アイザック・ニュートンの起用もこの流れから起きている。
クエーカー教徒というのは俗称で“Religious Society of Friends(キリスト友会)”が一般的で、17世紀の英国でジョージ・フォックス(George Fox、1624-1691)が創設した。
宗教には“教祖”“経典”“教会”という三教がピラミッド構造で組織を構成しているが、クエーカーにはこれがない。現在の信者は世界で60万人、北米に12万人程度というから驚くほど少ない。しかし、平和・平等・誠実・質素が教えの骨格を作っているので、リンカーン大統領にとってもまた核と温暖化の脅威にさらされる現在の我々にとっても有難い価値観でもある。

園芸家からプラントハンターに
1863年11月6日に仮釈放されたプリングルは、シャーロットの農場で趣味と家業の園芸・農業に戻った。
彼の健康が回復した1868年からは、プリングルは再び彼のエネルギーを果物・コーン・トマト・小麦・オート麦などの交配を行い新種を作ることに情熱を傾けた。

(写真) Cyrus Pringle collecting in Arizona, 1884

(出典)panoramio

プリングルがプラントハンターとして活動するのは1870年代からで、ボストンの顧客からバーモントの森から野生植物を採取する依頼が来た。
シダの専門家ダベンポート(Davenport ,George Edward 1833-1907)からはシダを集める依頼があり、そして、アメリカを代表する植物学者でハーバード大学教授グレー(Gray,Asa 1810‐1888)と知り合ったことがこれ以降のプリングルのプラントハンターとしての活動を支えることになる。

1880年には、グレー教授から米国西部での植物学的に面白い植物採取の依頼があり、米国国勢調査局からはアーノルド樹木園の園長サージェント(Sargent ,Charles Sprague 1841-1927)の指導の下で森林地帯の探検をして組織的・地理的・経済的なデータを提出する依頼、そして三番目にアメリカ自然史博物館のジェサップ(Jesup ,Morris Ketchum 1830 -1908)から北アメリカの樹木の採取の依頼があった。
スポンサーの筋から見てプラントハンターとして一流と認められ始めたようだ。

1884年の探検旅行の写真があるが、幌のある荷馬車と馬が草を食みプリングルが休息をしている。写真を撮ったのはバーモント、メキシコで一緒に行動したアシスタントのFilemon Lozanoなのだろう。
この写真には、獄中よりは自由があるが、自然の厳しさとプラントハンターの厳しい生活が映し出されていて、この厳しさを乗り越えられる情熱がない限り長くやれない職業を感じてしまう。

アメリカ自然史博物館のジェサップは、銀行業で資産を作り慈善事業や自然史博物館事業にも巨額の資金を提供したのでここの理事長に就任したが、プリングルに依頼した植物の収集は、サージェントがアドバイザーになっていた。
この二人は意見が合わず現場のプリングルにしわ寄せが来た。特にサージェントはプリングルにとって不可能なことを要求し、自分のためだけに仕事をすればよいという厳しいスポンサーだったようだ。この時彼は三十代前半なので功名が先にたちアドバイサーとしてもプロデューサーとしても経験に裏打ちされた人の動かし方を会得していない人物のようだ。

1882年10月にサージェントのわがままな注文に切れてしまったプリングルは電報で辞任を申し出た。
受注者が発注者を切るということは、何時の世も厳しい未来が待っている。スポンサーを無くすだけでなく悪口が広められ生活圏を狭められるということが実際にも起きた。

しかし、このプリングルの苦境を救ったのが、ハーバード大学教授グレーであり、彼をハーバード大学のグレー植物標本館の専任コレクターとして雇い、メキシコでの植物採取を任せた。この時の年俸800ドルをグレー植物標本館で持ち、200ドルをハーバード大学植物園で支払ったというきめ細やかな配慮がされている。

プリングルがメキシコの植物採取に深くかかわったのはグレーのおかげであり、1885年から1909年までに39回の探検旅行を行うことになる。
グレーは1888年に亡くなるが、後任者のワトソン(Sereno Watson 1826-1892)にもプリングルの面倒を見るように申し伝えていたがグレーの4年後に死亡し1892年にはハーバード大学からの支援がなくなった。
このプリングルの苦境を救ったのはグレーの未亡人であり、彼女の個人ローンで切り抜けることができた。

ここまで他人の面倒を見たグレー及び未亡人に感動するが、プリングルは彼らに何を与えたのだろうか?
グレーは、プリングルを"the prince of botanical collectors."と評している。植物学者は新しい植物を採取するコレクターを必要とし、コレクターは、その活動資金を支えるスポンサーを必要とする。この関係において、お互いがお互いを尊敬する関係があったようだ。
プリングルにとってグレーは、一番の支援者であるだけでなく師でもあり、グレーにとっては28歳も離れているので我が子であったのかもわからない。
一人でもこんな尊敬しあえる友をもてたら幸せだろう

メキシコの植物の魅力
メキシコのサルビアについては次回紹介する。


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