モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その46: 西欧をときめかした日本のユリ②

2008-08-06 09:35:19 | ときめきの植物雑学ノート
シーボルトとカノコユリのストーリー

日本産のユリが欧州に渡ったのは、1830年代の頃で、
シーボルトが持って帰って普及させたカノコユリ、スカシユリがこれにあたる。

花びらが茎に向かって大きく反り返り、紅色の花びらに濃い紅色の斑点がはいっているので、
鹿の子のような斑点が入ったユリ、カノコユリと呼ばれている。

 
(出典)カノコユリ(シーボルト日本植物誌)京都大学

このカノコユリが欧州で初めて紹介されたのは、
江戸時代の1690-1692年に長崎にオランダの医者として来たドイツ人のケンペルスで、
彼の著書「廻国奇観」に日本の植物をたくさん紹介している。
この中にカノコユリが入っていたのだ。

そしてシーボルトは、カノコユリの学名
この花を初めてヨーロッパに紹介したケンペルに敬意を表して献じた。

また、ツンベルグも命名者となっており、江戸時代に日本に来た3名の医者・植物学者がカノコユリでそろった。
(Lilium speciosum Thunb.α.Kaenpferi Sieb.et Zucc.)

属名のスペシオースム(L.speciosum)は、“美しい”という意味で、
シーボルトもテッポウユリとさえ比較しなければ、カノコユリは美しさNo1だとも認めている。

ということは、琉球・奄美原産のテッポウユリをも知っていたことになる。
テッポウユリは、その後欧州でマドンナリリーに取って代わることになる。

さらに面白いのは、シロカノコユリの学名に“タメトモ”を使っている。
その理由は(原訳文から)、

“真っ白な花をつけるユリには、日本の高名な英雄の名前にちなんでタメトモという日本名を我々はそのまま使うことにした。タメトモは、このユリを琉球から初めて持ち帰ったとされている。”
※シロカノコユリが琉球原産という理解はシーボルトの間違いで、カノコユリ同様に日本原産。


1832年には、シーボルトが生きたままで持って帰ったこのカノコユリが咲いたそうだ。
(この時代、植物を生きたままで輸送するのが難しい時代で、大部分は塩水でやられるそうだ。)
このカノコユリは、イギリスで大変な人気を呼んだ。


カノコユリの原産地である鹿児島県川内市の甑島(こしきじま)
この島には、たくさんのカノコユリが自生していた。
この島をカノコユリの生産拠点にしたのは、横浜の貿易商でユリの輸出で活躍した
アイザック・バンティング(1851-193?)。

彼は、神社にお供えとしてあった美しいユリに感動し、そのユリを寄進したヒトを調べ、その人から順に
買った店、仕入れた問屋、産地を逆上がりで調べ甑島にたどり着く。

さらに、社員を派遣し現地調査を行い、生産者からの仕入れルートを作り、イギリスにサンプル出荷をしたところ大評判を得たようだ。
このユリがカノコユリで、日本では「紅コシキ」と呼ばれ、欧州では「横浜の誇り(Yokohama pride)」として販売された。
彼は、カノコユリのプラントハンターだけでなく、マーケティングも行った。


ヤマユリが欧州&世界を感動させる
1862年には、日本のヤマユリがイギリスにもたらされた。

このユリを送ったのは、同時期に日本にいた3人、J・G・ヴィーチ、ロバート・フォーチュン、シーボルトだった。
ロバート・フォーチュンは、 「その43 菊・キク・きくの常識と意外性の歴史」でふれたが、
ヴィーチに関しては、別途どこかで書いてみようと思っている。

スペインの無敵艦隊を破った時から欧州の端にある粗野な国家イギリスが紳士の国家に成長する。
この過程で、貧困な植物相のイギリスが、世界の植物を集め、
“園芸”という自然を愉しむ価値観を創造することになる。

植物を集めることに関しては、キュー植物園が寄与し、 “園芸”の価値観を創造することに貢献したのが
“ヴィーチファミリー、ヴィーチ商会”で避けて通るわけにはいかない。

そして、ヴィーチなどが送ったヤマユリは、
ユリの王者とも評され、ヨーロッパに大ユリブームを創ることになる。

そして日本は、ユリの球根が重要な輸出商品となった。

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