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モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No22:プリングルが採取したサルビア その4

2010-11-03 10:16:51 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No22 

プリングルは、1902年10月7日にメヒコ州でサルビア・パテンスを採取しているが、その100年以上前のプラントハンターと植物学者の葛藤の痕跡を取り上げる。

15. Salvia patens Cav. (1799).


(出典)モノトーンでのときめき

サルビア・パテンスは、小さな花が多いサルビアのなかでも大柄で美しい透明感のあるブルーの花が咲く。日本でも人気があるサルビアとなっているが、その由来に謎が多かった。

これまでわかったことは、
1.園芸市場への導入は、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようであり、これはハートウェグのところを参照していただきたい。

2.一方学名は、1799年にこの当時のスペインの大植物学者で、ダリアをヨーロッパに導入したマドリッド植物園の園長カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されている。

新たにわかったことは、
カバニレスにサルビア・パテンスの植物標本を提供したのは、或いは、奪われたのは、フランスに生まれスペインで活躍したプラントハンターで植物学者のNée, Luis (1734-1801)だった。つまり、Neeが最初の発見・採取者ということになる。

(写真)Née, Luis の肖像画

(出典)ウイキペディア

Néeはどんな経緯でメキシコに行ったかといえば、
スペイン国王チャールズ三世(Charles III 1716-1788)がスポンサーとなり、イタリアの貴族でスペインの海軍士官・探検家マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro 1754 – 1810)を隊長に、太平洋・北アメリカ西海岸・フィリピン・オセアニアを科学的に調査する探検隊を派遣した。
この探検隊に二人の植物学者、Neeとチェコの植物学者・プラントハンターのTadeo Haenke(1761-1816)が参加した。

(写真) マラスピーナ(Malaspina ,Alessandro)

(出典) Museo Naval de Madrid

(地図) マラスピーナ探検隊の航路


(出典)ウイキペディア

この探検隊は、1789-1794年の間に行われ、南アメリカ大陸を廻りメキシコのアカプルコに到着したのが1791年で、そして、カルフォルニア・アラスカを探検してアカプルコに戻ってきたのが1792年なので、Néeがメキシコの植物を採取したのは1791年から1792年のこの時期だろう。

英国の場合は、プラントハンターと植物学者は分業と協業の関係にあり、新種と同定し学名をつけるのは植物学者の役割だった。
Neeは、この探検隊での同僚のチェコの植物学者Tadeo Haenkeが採取した植物について記述・命名してスペインの科学ジャーナルに1801年に発表しているので、単なるプラントハンターでもなく植物学者としての向上心があったようだ。

彼らは、この探検で数多くの植物を採取したが、サルビア・パテンスがそうであったように、Neeが採取した植物の大部分は、大植物学者カバニレスが命名し栄誉を得ている。

スペインに帰国後のNeeの足跡が良くわからない。また死亡時期も文献によって異なる。
Née の死亡時期を1801年と書いたが、カリフォルニア、アラスカなどで採取した植物の記述がこの時期にされているのでおかしいことになる。1803年又は1807年死亡という説が妥当であり、晩年が良くわからないがスペインに失望し、ナポレオン革命が進行中のフランスに戻ったという説がピッタリとくる。

苦労して採取した手柄を奪われ、怒り・絶望でスペインを離れたという説があるが、さもあらんと思う。
こんな美しいサルビアにも、世俗の争いがあったようだ。

さらに追加すると、探検隊の隊長マラスピーナは、政府転覆の陰謀の疑惑で捕まり、1796年から1802年まで刑務所に入れられた。
彼が書いた膨大な報告書は発禁処分となり後に散逸した。膨大な投資を行った探検の結果を活かさなかったスペインはその閉鎖性が人・モノ・カネ・情報を集めることが出来なくなり国際的な競争力を失っていくことになったのだろう。
しかし、大航海時代のスペインは論理的でないところが面白い。

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No21:プリングルが採取したサルビア その3

2010-11-01 13:15:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No21 
COP10、生物多様性条約第10回締約国会議が無事終了した。議長国として日本の果した役割は評価されてよいものだろう。
この「生物多様性」が突如出てきたという感をぬぐえない方も多いと思うが、生物の原産地国とこれを利用する国との戦いが現実にあるということで、ミドリムシが将来の食糧にも航空機用の燃料にもなる可能性があるなど、生物(動物・植物・微生物)の価値がますます高まることは間違いない。

プラントハンターが活躍していた時代でも、薬用植物、建築資材となる樹木など人間の生活に有用性な生物に関しては持ち出し禁止などの方策が取られていたが、これがますます厳しくなってきた。
ということを頭の隅においていただき、メキシコのサルビアを数多く採取したプリングルの足跡を追いかけてみたい。

多様な植物の宝庫メキシコの気候


植物の宝庫メキシコの気候について簡単に触れておく。
メキシコは緯度的には熱帯に位置するが、米国と接する北部は標高1000m前後、中央部は2000m前後もある高原の国であり、さらに、南北に二つのシェラマドレ山脈が貫くのでメキシコ湾側の東側は雨量が多く、西側は乾燥した気候となる。
気候図を見てもらえばわかるように、メキシコの北西部は乾燥した砂漠性気候、北東部はステップ気候、その中間に地中海性気候地帯がある。中部はサバナ気候地帯が占め、ユカタン半島の付け根は熱帯雨林、熱帯モンスーン気候と多様な気候地帯がある国だ。
この多様な気候が、多様な生物を育てる環境となり、植物の宝庫ともなっている。
南アフリカ、中国雲南地方なども植物の宝庫であったが、まだまだ未発見の植物があるかもわからない。

プリングルは、メキシコの各地を探検し、プロのプラントハンターとして数多くの植物を採取した。ここでは、サルビアに特化して彼が採取した品種を紹介しているが園芸種として現存しないものが結構ありそうだ。

14. Salvia leucantha Cav. (1791). 


(出典) モノトーンでのときめき

今では日本の秋を彩るサルビアとなりつつあり、英名では、「メキシカンブッシュセージ(Mexican Bush Sage)」と呼ばれるようにメキシコ原産のブッシュ的に大株に育つ。
目立つ花なのでスペイン人によって1700年代に発見されたようだが誰かはわからない。このシリーズNo9でとりあげたグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)が、1849年4月にコアウイラ州サルティロで採取したのが記録に残る最初となっている。
プリングルは、これより遅れて1902年10月16日にメヒコ州でこのはなを採取している。原種はベルベット・タッチの白い花だが、赤紫の花もある。この種は、サルビア・レウカンサ‘ミッドナイト’(Salvia leucantha 'Midnight')である。
植物情報に関してはここを参照していただきたい。

15. Salvia littae Vis. (1847).  サルビア・リッタエ


(出典)Robin’s Salvias

サルビア・リッタエは、メキシコ、オアハカ原産で、湿ったオークの森の端に群生し、花穂は30cmほどに成長し秋から冬にかけて赤紫色のベルベットのような生地の花が咲く。ライムライトの萼がこの花色をさらに引き立て魅力を増す。茎は横に広がり地面に接するとそこから発根する。

命名は、イタリア,パドーヴァ大学の植物学教授Visiani, Roberto de (1800-1878)が1847年に記述しているが、この初期の採取者はわかっていない。プリングルは、1894年10月18日にオアハカ州の2700mのところでこれを採取している。

16. Salvia lycioides A. Gray (1886). サルビア・リシオイデス


(出典) Robin’s Salvias

サルビア・リシオイデスは、Canyon sage(峡谷のセージ)とも呼ばれるが、メキシコ北部から米国南部の乾燥した石灰質の峡谷に自生し、草丈30-45cmと丈が低く横に広がるように生育する。
プリングルがこのサルビアの第一発見者で、メキシコ北部にあるチワワ州のサンタ・エウラリアで1886年10月2日に採取している。サンタ・エウラリアは、1652年にスペインのキャプテンDiego del Castilloによって創られた鉱山町でチワワ州では最も古い集落のようだ。
このサルビアの青花はとても美しいが、出自はまだ混乱があるようだ。葉は灰緑色なのでサルビア・ムエレリと混同することもないが、サルビア・グレッギーと交雑しやすいのでその変種と間違えられるようだ。

17. Salvia melissodora Lag. (1816)  サルビア・メリッソドラ


(出典)Botanic Garden

No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ

メキシコ、シエラマドレ西側の山脈地帯で、チワワから南のオアハカまでの1200-2500mの乾燥した山中に自生し、そのたたずまいは上品であり灰緑色の葉からはグレープの香りがし、Grape-scented sageとも呼ばれている。すみれラベンダーの花にはミツバチ・蝶・ハチドリなどがひきつけられ、初霜の時期から春まで開花する。
日本で育てる場合は、温度管理が重要で軒下などの日当たりが良いところで育てる。
メキシコのタラフマラ族のインディオに解熱剤として長く使われてきたハーブでもある。
1837年にハートウェグがメキシコで採取したのが記録に残る最初だが、命名は、スペインの植物学者で1800年にカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)と出会い彼の弟子になり、後にマドリード植物園の園長となったMariano Lagasca y Segura (1776 -1839)が1816年に「Salvia melissodora」と命名したので、メキシコの植物調査を行って1803年にマドリッドに戻ったセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)探検隊の採取した植物標本に含まれていたのかもわからない。
プリングルは、1903年10月6日にこのサルビアを採取しているので、ハートウェグよりかなり遅れた採取だ。

18. Salvia mocinoi Benth.(1833) サルビア・モシノイ

  
(出典)Conabio

このサルビアは、スペインの植物学者セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)が時期不明だがメキシコで採取している、1803年以前であることは確かなようだ。
プリングルは、1899年2月8日にメキシコ、モレーロス州の2200mのところで採取している。しかし、植物情報が少なくわずかに青紫の花が咲くサルビアということしかわからない。

19. Salvia occidentalis Sw. (1788). サルビア・オキシデンタリス


(出典) Institute of Pacific Islands Forestry

サルビア・オキシデンタリスは、1788年にスウェーデンの植物学者スワーツ(Swartz, Olof or Olavo (Peter) 1760-1818)によって命名されている。スワーツは、ウプサラ大学でのリンネの弟子であり、多くの弟子が世界の植物調査に出かけたように彼も1783-1786年に北米・西インド諸島、特にジャマイカの植物調査を行う。
このサルビアは、West Indian sageとも呼ばれ、西インドの先住民が歯痛の時に使っていたという。
アメリカ南部からメキシコ、カリブ諸島の50-1000mの低地の比較的湿ったところに生息し、丈が低く横に広がりブッシュを形成し、大き目の卵形の葉、ブルーの小さな花が咲く。しかし、植物情報は豊富でない。
多くのプランとハンタが中南米・カリブで採取しているが、時期不明なものが多い。ダーウイン(Darwin ,Charles Robert 1809-1882)が1835年にガラパゴス諸島で採取したのが記録に残る最初のようだ。
プリングルは、1900年5月10日にベラクルーズ州ハラパでこのサルビアを採取している。
ダーウインが上陸した頃のガラパゴス諸島は、囚人の流刑地だったというので、囚人達も歯が痛いときはこのサルビアを使っていたのだろう。

(続く)

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No20:プリングルが採取したサルビア その2

2010-10-16 10:53:08 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No20 

プリングルは、数多くのサルビアを採取しているが詳細がよくわからないものも多い。可能な限りフォローしてみることにする。

7.Salvia concolor Lamb. ex Benth. (1833). サルビア・コンカラー

(出典)Robin’s Salvias

8月から10月まで素晴らしい濃いブルーの花を咲かせるサルビア・コンカラー。草丈・幅200㎝と大柄な潅木を形成し、耐寒性があるサルビア。
命名者の一人ランバート(Lambert, Aylmer Bourke 1761-1842)は、英国の植物学者でマツ属の権威。最初のコレクターは、Campbellまではわかるがそれ以上はわからない。
プリングルは、1901年9月2日にメキシコで採取する。

8.Salvia elegans Vahl (1804). サルビア・エレガンス(パイナップルセージ)

(出典)モノトーンでのときめき

秋咲きのサルビア・エレガンス。緋色の花、明るい緑色のパイナップルの香りがする葉と、その美しい姿は日本でも大分普及している。
しかし我が庭のエレガンスは、3-4年で株を更新しなかったことも影響しているためかこの夏の暑さで全滅してしまった。カッティングで殖やしておくべきだったと悔やんでも後の祭りだった。
このサルビア・エレガンスは、1804年に、デンマーク・ノルウェーの植物・動物学者でウプサラ大学でリンネに学んだバール(Vahl, Martin (Henrichsen) 1749-1804)によって命名されているので、誰が最初に採取したかわかっていないがフンボルト探検隊以前に採取されていたのだろう。
プリングルは何度かこのサルビア・エレガンスを採取しているが、彼が最初に採取したのは1891年12月22日メキシコ、ミチョアカン州だった。
ヨーロッパといっても英国の庭に導入されたのは1870年代といわれている。しかし、英国での呼び方であるパイナップルセージ(pineapple sage)では、「Salvia rutilans Carrière(1873)」という新たな名前で100年以上も呼ばれていた。

9.Salvia flaccidifolia Fernald (1907).

(出典) senteurs du quercy

草丈60㎝で直立する花序に青紫の花が咲き耐寒性が弱い。
プリングルがこのサルビアの最初の発見者で、1906年9月6日にメキシコ、イダルゴ州でbarrancaで採取した。

10.Salvia fluviatilis Fernald (1900). サルビア・フルビアティリス

(出典)Robin’s Salvias

プリングルが最初に発見したサルビアで、1898年5月16日にメキシコ、モレーロス州の州都クエルナバカにある小川付近で発見・採取した。この年の9月29日には米国人のコレクター、ホルウエイ(Holway, Edward Willet Dorland 1853-1923)が同じ地域で採取しているので4ヶ月ほど早かった。
このホルウエイは、アイオワの銀行員で休日には植物・菌類を採取した趣味人だった。19世紀末には植物学の教育を受けていない趣味のコレクターが登場し始めたことには注目しておきたい。

このサルビアは、ライムライトで知られるサルビア・メキシカーナに似ているようだが、青紫の花は小さく、小川付近で発見されたということもあり乾燥した土壌を嫌うようだ。

11.Salvia henryi A. Gray(1870). サルビア・ヘンリー

(出典) Western New Mexico University Department of Natural Sciences & the Dale A. Zimmerman Herbarium

真っ赤な花冠とマロウのような切れ込みがある葉に特色があるサルビアで、崖や岩が多い峡谷に生育する。
プリングルは、1884年5月25日に米国アリゾナでこのサルビアを採取しているので、メキシコのサルビアとは言いにくいが、誰が最初にこのサルビアを採取したのかわからないが、記録に残る最初の採取者は、1881年8月ニューメキシコ州でラズビー(Rusby, Henry Hurd 1855-1940)が採取していた。
アメリカ南部からメキシコ北部が原産地なので収録することにした。
なお、採取者のラズビーは、テキサス・ニューメキシコ・南米で植物探索をしたコレクターで、1891年に設立されたニューヨーク植物園の設立メンバーの一人でもある。

12.Salvia iodantha Fernald(1900).  サルビア・イオダンタ

(出典)Robin’s Salvias

プリングルは、このサルビアの最初の発見・採取者で、1899年2月5日にメキシコ、モレーロス州の気候温暖な古都クエルナバカの707メートルの山中で採取した。
成長が早く草丈200㎝で横にも広がるので広い庭に向いているが、剪定をしたほうが良いようだ。気候温暖なところで生育しているので耐寒性は強くない。
花は、パーマが採取したサルビアで紹介した“Salvia purpurea Cav.(1793)”と似ているが、紫色ではなく深い紅色なので区別しやすい。

13. Salvia lasiantha Benth. (1833). サルビア・ラシアンサ

(出典)Robin’s Salvias

プリングルは、このサルビアを1894年9月4日にメキシコ、オアハカ州の2000mの山中で採取するが、最初の採取者は、スペインの医者・植物学者で1780年に軍医としてメキシコに赴任したセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)とその同僚Mociño, José Mariano (1757-1820)で、1786年に、時のスペイン国王チャールズ三世(1716 -1788)にスペインの新大陸植民地での大規模な植物・動物などの資源を調査する提案を行い、その中心メンバーとして探検で活躍したので、1786年前後のことなのだろう。
「サルビア・ラシアンサ」は、冬に開花するサルビアで温室で育てる必要がありそうだが、赤紫の萼とオレンジの花のコンビネーションが見事な花だ。それにしても美しいサルビアだ。
なお、このシリーズのNo8で、ガレオッティが1840年頃採取した「Salvia chrysantha」は類似のサルビアだが、先に命名されたサルビア・ラシアンサが優先される。

(続く)

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No19 閑話休題。メキシコの発見は?

2010-10-12 08:49:44 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No19 

いまから518年前の1492年10月12日、コロンブスが新大陸に到着した。

(地図)サン・サルバドル島とカリブ海諸島


到着した場所は、キューバの北東に位置するバハマ諸島の東端にある島であり、この島に上陸し、神に感謝してその島に“聖なる救世主”を意味する“サン・サルバドル”と命名した。

南アメリカ大陸、オセアニア大陸はまだ知られていないが、この時点から世界は大きく広がり、速いスピードで動き始めることになる。この世界を広げていく冒険(冒険には投資がつきものだが)の動機は、黄金と征服欲望にあったようだ。
この当時のヨーロッパでは金・銀の産出量が少なく、高価な香辛料などの輸入で決済する金・銀が枯渇状態にあった。

金を求めるスペイン人の行動は直線的で貪欲だった。20年間はカリブ海の諸島から採取できる砂金でゴールドラッシュ状態だったが、1515年以降は急激に砂金が取れなくなってしまった。
そこでやっと、アメリカ大陸の方に目が向き始めた。
何しろ、金のあるところにはスペイン人が現れ、スペイン人が現れたところは部族社会が崩壊し人口減少となるというほど搾取とヨーロッパから持ち込んだ病原菌で現地社会を壊滅状態にしたほどだ。

メキシコの発見は偶然だったようだ。
奴隷狩りを目的にキューバ島のサンティアゴを1517年2月8日に出航した船が、嵐に巻き込まれ偶然にユカタン半島の北端にたどり着いた。
船から陸地に5.5㎞入ったところに大きな集落を発見した。カリブ海の島々にはない大きなものでこれがマヤ文明との歴史的な出会いであった。
そして、上陸して神殿で金製品を見つけてしまった。

この時の船長は、コルドバ(Francisco Hernández de Córdoba, ?-1517年)で、ユカタン半島の発見者として名を残したが、チャンポトン近くでのマヤ人の襲撃で受けた傷でキューバに戻ってから死亡した。

金製品を見つけたスペイン人は、それを略奪するという投資をすることになる。しかも投資は回収しなければならないので信頼できるものでなければならない。
発見者のコルドバは信頼できないので排除され、この失意が死を速めたようでもある。
選ばれたのは、この時の総督ベラスケスの甥グリハルバであり、1518年1月末にサンチャゴを出航した。
結論を急ぐが、グリハルバも約690kgの金を持って帰り、何かがあるという疑問がなくなり確信に変わったようだ。

第三回の探検隊は、メキシコを征服したコルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)が登場することになる。コルテスは1518年11月18日にサンチャゴを出航した。

コロンブス本人は、アメリカ大陸に着いたのではなく、インドに着いたと信じて疑っていなかった。
そして、死ぬまで黄金の島ジパング(日本)、さらにはアジアの香辛料を求めてモルッカ諸島にたどり着きたいというロマンを持ち続けた。

コルテスは、1521年8月31日にアステカ帝国を滅ぼしたので、実にあっという間の出来事だった。
そして、征服者スペイン人は、現実的な黄金だけを求め中南米を破壊尽くしたという。

そんな中で、美しく多様な植物は、その美しさを発見してもらうために300年間そこに咲き続けていた。
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No18:プリングルが採取したサルビア その1

2010-10-02 22:59:53 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No18 

メキシコには300種を超えるサルビアがあると言われているが、プリングルはその三分の一ものサルビアの原種を採取した。ミズリー植物園のデータでは、171種のサルビアを採取し、ダブりを除くと91品種もの採取した標本が残されている。

プリングルは、キュー植物園など米国・ヨーロッパの植物園などに植物標本を販売していたので、これらを付け合せるとメキシコのサルビアの三分の一以上を採取していて、メキシコ原産サルビアの最高のコレクションを残した。
しかし、現在では栽培されていない或いは現存していないサルビアも結構ある。どんなサルビアなのかを説明できないものが結構あるが、可能な限り調べてみようと思い、何回かに分けて記載する。

1.Salvia aspera M. Martens & Galeotti (1844). 

(出典)Robin’s Salvias

このシリーズNo8に紹介したベルギーのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)が1840年にメキシコで採取したのが最初で、プリングルは大分遅れた1895年11月にメキシコシティの南方向にあるプエブラ州で採取した。
「サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis)」同様に、サルビアとしては珍しい明るい黄色の花で希少価値があるが、あまり普及していないようだ。

ちょっと脱線をしてメキシコ原産の植物と料理の関係を眺めてみる。

メキシコ料理の代表“モーレ”の由来
プエブラは、メキシコシティとベラクルーズを結ぶ幹線上にあり、今ではメキシコ料理の代表的ソース“モーレ・ポブラーノ”の産地として知られる。
プエブラのモーレ発祥の由来は、サンタ・モニカ修道院の修道女が美食家の司教のために作ったソースといわれている。
その材料は、何種類かの唐辛子、トマト、アーモンド、ピーナッツ、クルミ、ゴマ、干しぶどう、チョコレート、パン、トルティージャ(トウモロコシの粉を薄く伸ばして焼いたもの)、タマネギ、ニンニク、コショウ、シナモン、砂糖、ラード、月桂樹の葉など。これらをすりつぶし弱火で時間をかけて炒め、鶏肉の汁で伸ばしソースにしたもの。

この食材の中で、メキシコ原産の野菜・果実は、唐辛子、トマト、トウモロコシ、チョコレートの原料となるカカオであり、ピーナッツは南米アンデスが原産地でありコロンブスがヨーロッパにもたらした。
モーレは、ヨーロッパの調理法と味覚、そして、メキシコ原産の食材が出会って完成した料理でもあるといえそうだ。

2.Salvia ballotiflora Benth. (1833).  サルビア・バロティフローラ

(出典)thedauphins

1833年に英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によって命名されているので、最初の採取者は不明。1848年にグレッグ(Josiah Gregg 1806-1850)、1898年北部メキシコにあるコアウイラ州でパーマー、そして、1900年4月17日にプリングルもコアウイラ州で採取している。
Blue Sageとも呼ばれ、四角い枝で芳しい香りのする60-180cmの潅木。葉はコモンセージのようにギザギザで青紫の花が咲く。乾燥させた葉は、肉類に風味をつけるために使われる。

3.Salvia brachyodonta Briq. (1898).
(写真)プリングルが採取した植物標本

(出典)米国国立樹木園

メキシコ南西部に位置するハリスコ州(Jalisco)の州都グアダラハラ付近の丘陵地の斜面で1889年9月27日にプリングルが採取。
偶然にプリングルが採取したこのサルビアの標本を見つけたが、実物の写真は見つけられなかったので、どんなサルビアなのか良くわからない。

4. Salvia cardinalis Kunth (1818). ≒ Salvia fulgens Cav.(1791) サルビア・フルゲンス
(写真) Salvia fulgens (syn. S. cardinalis)

(出典) Robin’s Salvias

サルビア・カーディナリスは、フンボルト探検隊の植物学者・プラントハンター、ボンプランによって採取され、探検隊の標本を整理していたドイツの植物学者クンツ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)によって1818年に命名された。
プリングルもこのサルビアを1892年9月にメキシコの3000mを越える高地で採取した。
しかしこのサルビアは、1791年にスペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)によって「Salvia fulgens Cav.(1791)」と命名されていたので先決めが優先される。

草丈150㎝程度で、大きな真っ赤な花が7-11月まで開花する素晴らしいサルビア。

5. Salvia chapalensis Briq. (1898).  サルビア・チャパレンシス

(出典) flickr.com

サルビア・チャパレンシスは、1892年11月22日にプリングルがハリスコ州にあるメキシコ最大の淡水湖チャパラ湖付近の豊かに茂った峡谷で採取した。これが最初の発見・採取で発見場所の湖の名前を名付けた。
花序を伸ばしそこに濃い目のブルーが美しい花が咲く。

6. Salvia clinopodioides Kunth (1818). サルビア・クリノポディオイデス

(出典)Robin’s Salvias

ヨーロッパ人での最初の採取者は、フンボルト探検隊の植物学者・プラントハンターのボンプランが1800年代の初めに採取していたが、プリングルは、1892年10月11日にメキシコ南西部太平洋岸のミチョアカン州Pátzcuaroでこのサルビア・クリノポディオイデスを採取した。
初期の頃はサルビア“ミチョアカンブルー”として知られていて、9月から渦巻状の半穂に美しいブルーの花が咲く。

(次回に続く)

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No17:プラントハンターのプリンス、プリングルの貧困

2010-09-22 09:19:24 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No17 (プリングル、その2)

プリングルの貧困とスポンサー
プリングルは膨大な植物標本を採取しているが、これは、経済的な危機と無縁ではないようだ。ハーバード大学植物学教授のグレーが亡くなってからのプリングルは、常に経済的な危機に陥っていた。
これをカバーするために新たなスポンサーとしてアメリカの製薬会社2社(イーライリリー及びパーク・デイヴィス)、メキシコの国立医学研究財団などと契約をした。
パーク・デイヴィス社は、現在はファイザーに買収されているが新薬開発で臨床実験を組織的にした世界初の企業として歴史に名を残している。19世紀末から製薬会社がプラントハンターのスポンサーとして登場したことは注目に値する。

プリングルにとってはこれだけで十分でなく、米国・英国などの植物園・博物館など40社に植物標本1シートを10セントという安い料金で提供するビジネスも行った。
どんなところに供給したかを見ると、スミソニアン協会、ニューヨーク植物園、ミズリー植物園、カリフォルニア科学アカデミー、英国博物館、キュー植物園、エジンバラ植物園などであり、これまでプラントハンターを派遣した主要なスポンサーでもある。

貧困から編み出された手法かもわからないが、これまでのプラントハンターを支えていたのは困難な時間に見合った報酬とその活動費という拘束時間とプロセスに基づいていたが、1シート10セントという成果報酬型にいきなり切り替えてしまい、プラントハンターのビジネス破壊を行った感がある。

プリングルが活動した時代は、鉄道のネットワークが拡大していく時代であり、米国では、1830年代に蒸気機関車の運行が始められ、路線が充実し馬車や川蒸気に取って代わったのが1900年前後の数十年間がその全盛期というから、まさにプリングルの時代に重なる。
一方メキシコの場合は、1873年にメキシコシティ - ベラクルス間 419 km が列強資本によって建設されたのを始まりとし、1908年にはいくつかの私鉄を買収する形でメキシコ国鉄が発足したという。

プリングルのメキシコ探検旅行は、シャーロットから汽車に乗ることから始まる。この新たな移動手段・メディアが出現したので、かつてのプラントハンターの報酬・価格が低下せざるをえなかったのだろう。
単独でのスポンサーで全ての経費をまかなうのが難しい場合は複数のスポンサーに広げるのは当然の理であるが、植物標本1枚が10シリングという手法は原価計算をきちっとしているとは思えず無理があったようだ。

この手法が50万枚の膨大な植物標本を残すことになったが、プリングルの経済的困窮・貧困からは抜け出せなかった。しかし、プリングルにとって40社の顧客を満足させる植物標本を提供することはそれほど難しくなかったようだ。

(写真)メキシコの鉄道網

(出典)ウイキペディア

幻の花だったティグリディア
プリングルは、美しい花を集めたことでも群を抜いていて、バーモント大学にはプリングルのコレクションがあり、バーモント及びメキシコの植物標本が展示されている。
その中には、当時の園芸市場で人気があった植物も採取されていて、プリングルは蘭・タイガーフラワー(tiger flower)と呼ばれるアヤメ科の花、ティグリディア(Tigridia)を園芸市場にも供給して収入を得ていたようだ。

アヤメ科ティグリディア属(Tigridia)の花は、花弁の中心に茶色の斑点、虎斑(とらふ)が入ることから虎を意味するラテン語のtigrisから名づけられ、和名では“トラユリ”と呼ばれる。
メキシコ原産のこの花は、征服者のスペイン人にも注目されていて、彼らが実物を見る前から“Tigridis flos”として知られていたほど憧れの花だった。この花を最初に見て記述したのはスペインのフィリップ二世から1570年にメキシコに薬用植物の調査で派遣されたエルナンデス(Hernández, Francisco (1517-1587)だった。
エルナンデスは、ティグリディアの美しい姿をアステカ人の庭で見た。この花は、一日花だが球根は食糧・薬ともなるので栽培品種として育てられていたのだ。

園芸市場への導入はスペインではなくイギリスから始まったようで、18世紀の後半にメキシコからもたらされ、リバプールの近くのエバートンの地主Ellis Hodgsonが育て球根を分けることで広めたようだ。
珍しい植物を紹介することで園芸市場の大衆化を促進した園芸雑誌、カーティス(Curtis, William 1746-1799)のボタニカルマガジンにもティグリディアが1801年に取り上げられているので、この直前頃にイギリスに入ったことが裏付けられる。

(イラスト) Tigridia pavonia

(出典)Curtis Botanical magazine Vol. 15 (1801) [532]

(写真)実際のTigridia pavonia

(出典) Mnogoletnik foto

プリングルは、ヨーロッパで、そしてアメリカで人気がある蘭とかティグリディアなどの生きている花卉植物をも園芸市場に供給した。もちろん好きな植物の採取活動をするための生きんがための行為だった。

彼は、メキシコは採取尽くしたのか次は南米に行く予定でいたが、1911年5月25日に肺炎を患い73歳で他界した。プリングルは、メキシコの美しい花を発見・採取したことで我々にときめきを与えてくれた。

次回は、
プリングルのサルビアのコレクションも素晴らしいといわれている。
No18:プリングルが採取したメキシコのサルビア
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No16:メキシコ植物相の最高なコレクションを残した、プリングル

2010-09-16 11:07:31 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No16

“プラントハンターのプリンス”登場
これまでは、ヨーロッパからの探検家、移民だったが、アメリカ生れのプラントハンターがこのシリーズで初めて登場する。
しかも、北アメリカ特にメキシコの植物のカタログを作ることに35年の時間を費やし、20,000種にも及ぶ品種が含まれた500,000枚もの植物標本を作り、その中には29の新しい属と1,200もの新種を発見・採取したという圧倒的な量を誇るプラントハンターで、紆余曲折したキャリアでこれを成し遂げた。

(写真)Cyrus Pringle at age 38, in 1876

(出典)The University of Vermont

この人物の名はプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)で、彼は、1838年5月6日にジョージⅢ世(在位:1760-1820年)の王妃シャーロットにちなんで名付けられたカナダと国境を接するアメリカ北東部のバーモント州の小さな町シャーロットでスコットランドから入植した移民の子供として生れた。
ちなみにジョージⅢ世は、アメリカの植民地に重税を課しアメリカ独立戦争を引き起こした植民地入植者にとっては憎き当事者だ。晩年は認知症で周りが苦しんだという。

1859年にバーモント大学に入学するが一学期で退学する。彼の兄が亡くなったので母の農場を手伝う必要に迫られたからだ。
もともとプリングルは、農業に関心があり早い時期から才能を開花させていた。
彼が19歳の1857年の時に、母の農場で園芸での最初の成果があった。それは、大きなストライプがある夏リンゴがなる苗木を作出したことである。
翌年の1858年には最初のナーサリー(育種園)を開き、果物とジャガイモを育てた。その中でジャガイモを交配させることにより、“スノーフレーク(Snowflake)”と呼ぶ新しい品種を作出した。
後に彼が作出したジャガイモの新品種は英国でも評判になりロンドン園芸協会の賞を獲得するなど、農場経営に科学的なアプローチを早くから取り入れていたのには驚きに値する。
こんな才能を既に開花させていたので大学を卒業するまでもないが、大学を卒業していたのならばどうなったのだろう?

信仰と拷問
大きな試練は南北戦争(American Civil War 1861-1865)で起きた。
プリングルは、早い時期からクエーカーの教えに共鳴し、1863年2月に学校教師で優秀なクエーカー(またはキリスト友会徒)の話者でもあるグリーン(Almira Greene)と結婚した。
その5ヵ月後の7月に北軍から召集があったが、他の二人のクエーカー教徒と共に戦争に反対の立場を貫き、兵役不服従の罪で犯罪者と一緒の牢に拘束され、10月には牢から外に引きずり出され歩けなくなるまでの拷問を受けた。
この話を聞きつけたクエーカー教徒でもある農務長官に当るアイザック・ニュートンがリンカーン大統領に伝え恩赦を取り計らったという。

リンカーン大統領は、南北戦争を遂行し奴隷制度を廃止するためにクエーカー教徒の支持を獲得する必要があり、アイザック・ニュートンの起用もこの流れから起きている。
クエーカー教徒というのは俗称で“Religious Society of Friends(キリスト友会)”が一般的で、17世紀の英国でジョージ・フォックス(George Fox、1624-1691)が創設した。
宗教には“教祖”“経典”“教会”という三教がピラミッド構造で組織を構成しているが、クエーカーにはこれがない。現在の信者は世界で60万人、北米に12万人程度というから驚くほど少ない。しかし、平和・平等・誠実・質素が教えの骨格を作っているので、リンカーン大統領にとってもまた核と温暖化の脅威にさらされる現在の我々にとっても有難い価値観でもある。

園芸家からプラントハンターに
1863年11月6日に仮釈放されたプリングルは、シャーロットの農場で趣味と家業の園芸・農業に戻った。
彼の健康が回復した1868年からは、プリングルは再び彼のエネルギーを果物・コーン・トマト・小麦・オート麦などの交配を行い新種を作ることに情熱を傾けた。

(写真) Cyrus Pringle collecting in Arizona, 1884

(出典)panoramio

プリングルがプラントハンターとして活動するのは1870年代からで、ボストンの顧客からバーモントの森から野生植物を採取する依頼が来た。
シダの専門家ダベンポート(Davenport ,George Edward 1833-1907)からはシダを集める依頼があり、そして、アメリカを代表する植物学者でハーバード大学教授グレー(Gray,Asa 1810‐1888)と知り合ったことがこれ以降のプリングルのプラントハンターとしての活動を支えることになる。

1880年には、グレー教授から米国西部での植物学的に面白い植物採取の依頼があり、米国国勢調査局からはアーノルド樹木園の園長サージェント(Sargent ,Charles Sprague 1841-1927)の指導の下で森林地帯の探検をして組織的・地理的・経済的なデータを提出する依頼、そして三番目にアメリカ自然史博物館のジェサップ(Jesup ,Morris Ketchum 1830 -1908)から北アメリカの樹木の採取の依頼があった。
スポンサーの筋から見てプラントハンターとして一流と認められ始めたようだ。

1884年の探検旅行の写真があるが、幌のある荷馬車と馬が草を食みプリングルが休息をしている。写真を撮ったのはバーモント、メキシコで一緒に行動したアシスタントのFilemon Lozanoなのだろう。
この写真には、獄中よりは自由があるが、自然の厳しさとプラントハンターの厳しい生活が映し出されていて、この厳しさを乗り越えられる情熱がない限り長くやれない職業を感じてしまう。

アメリカ自然史博物館のジェサップは、銀行業で資産を作り慈善事業や自然史博物館事業にも巨額の資金を提供したのでここの理事長に就任したが、プリングルに依頼した植物の収集は、サージェントがアドバイザーになっていた。
この二人は意見が合わず現場のプリングルにしわ寄せが来た。特にサージェントはプリングルにとって不可能なことを要求し、自分のためだけに仕事をすればよいという厳しいスポンサーだったようだ。この時彼は三十代前半なので功名が先にたちアドバイサーとしてもプロデューサーとしても経験に裏打ちされた人の動かし方を会得していない人物のようだ。

1882年10月にサージェントのわがままな注文に切れてしまったプリングルは電報で辞任を申し出た。
受注者が発注者を切るということは、何時の世も厳しい未来が待っている。スポンサーを無くすだけでなく悪口が広められ生活圏を狭められるということが実際にも起きた。

しかし、このプリングルの苦境を救ったのが、ハーバード大学教授グレーであり、彼をハーバード大学のグレー植物標本館の専任コレクターとして雇い、メキシコでの植物採取を任せた。この時の年俸800ドルをグレー植物標本館で持ち、200ドルをハーバード大学植物園で支払ったというきめ細やかな配慮がされている。

プリングルがメキシコの植物採取に深くかかわったのはグレーのおかげであり、1885年から1909年までに39回の探検旅行を行うことになる。
グレーは1888年に亡くなるが、後任者のワトソン(Sereno Watson 1826-1892)にもプリングルの面倒を見るように申し伝えていたがグレーの4年後に死亡し1892年にはハーバード大学からの支援がなくなった。
このプリングルの苦境を救ったのはグレーの未亡人であり、彼女の個人ローンで切り抜けることができた。

ここまで他人の面倒を見たグレー及び未亡人に感動するが、プリングルは彼らに何を与えたのだろうか?
グレーは、プリングルを"the prince of botanical collectors."と評している。植物学者は新しい植物を採取するコレクターを必要とし、コレクターは、その活動資金を支えるスポンサーを必要とする。この関係において、お互いがお互いを尊敬する関係があったようだ。
プリングルにとってグレーは、一番の支援者であるだけでなく師でもあり、グレーにとっては28歳も離れているので我が子であったのかもわからない。
一人でもこんな尊敬しあえる友をもてたら幸せだろう

メキシコの植物の魅力
メキシコのサルビアについては次回紹介する。

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No15:パーマーが採取したサルビア

2010-09-04 20:06:03 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No15

パーマーが採取したサルビア(No14に続く)
ミズリー植物園のデータでは、パーマーは49種のサルビアを採取している。これはかなり多く、植物の採取場所としてサルビアの宝庫、メキシコ及びテキサスなどのアメリカ南部に絞り込んだその成果が現れている。
その中には意外なものが混じっていて中米の古代文明を支えた重要な栄養源となるサルビアもあった。

(1)Salvia ballotiflora Benth (1833) サルビア・バロティフローラ


(出典) World Botanical Associates

1898年北部メキシコにあるコアウイラ州でパーマーが採取。
1833年に英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によって命名されているので、最初の採取者は不明。グレッグ(Josiah Gregg 1806-1850)も1848年に採取している。
Blue Sageとも呼ばれ、四角い枝で芳しい香りのする60-180cmの潅木。葉はコモンセージのようにギザギザで青紫の花が咲く。乾燥させた葉は、肉類に風味をつけるために使われる。

(2)Salvia betulaefolia Epling (1941).又は, Salvia betulifolia Epling,(1941)


(出典) Image Gallery

メキシコ、ドゥランゴ州Tejamenでパーマー晩年の1906年8月21-27日 に採取。
アメリカの植物学者でサルビア属の権威エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)が新種として命名するが極端に情報がない。

(3)Salvia chionophylla Fernald (1907) サルビア・キオノフィラ


(出典)Robin’s Salvias

テキサス州に隣接するメキシコ北部にあるコアウイラ州の岩と砂利が多い乾燥した傾斜地で1904年8月29日にパーマーが採取した。
銀灰緑色の楕円系の小さな葉と白いマークが入った明るいブルーの花が特徴で、草丈30-60㎝で横に広がるのでロックガーデンのグランドカバーに活用するとよさそうだ。

(4)Salvia coahuilensis Fernald, (1900). サルビア・コアウイレンシス


(出典)CASA CONIGLIO

1898年5月にパーマーがメキシコ、コアウィラ州の州都サルティロで採取。
草丈60㎝程度の小潅木で、晩春から秋まで青紫色の美しい花が咲く。葉は薬臭い香りがし、まるでサルビア・ムエレリのようだが、サルビア・グレッギーのブルー系の花として間違って販売されていることがある。

(5)Salvia coccinea Buc'hoz ex Etl. (1777). サルビア・コクシネア


(出典)モノトーンでのときめき

1777年にフランスの医師・ナチュラリスト、ビュショ(Buc'hoz, Pierre Joseph 1731-1807)等によって緋色(scarlet)を意味する“coccinea”と命名される。
パーマーは、1904年6月13-16日にメキシコ、サンルイスポトシで採取していて、このシリーズNo10 でとりあげたギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste Boniface 1810-1893)も1864 – 1870年に採取している。

米国からブラジルまで広範囲で生息し、ブラジル原産地説があったがメキシコ原産地のようであり、園芸品種を含めて赤、白、ピンクなど様々な品種が作られている。温暖なところでは多年草だが日本では一年草として扱う。

(6) Salvia forreri Greene (1888). サルビア・フォレリ 


(出典)Robin’s Salvias

1888年米国の植物学者グリーン(Greene, Edward Lee 1843-1915)によってサルビア・フォレリと命名されたが、この時の採取者はわからない。記録に残る最初の採取者は、命名後から大分経過した1905年にプリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)が採取していて、パーマーは、1906年7月25日-8月5日の間にメキシコ中部のドゥランゴ州で採取した。
耐寒性が強く、春先から白いマークが入った淡いブルーの小花を多数開花させる。草丈10cm程度で匍匐性があり横に広がる性質を持つのでグランドカバーとして適している。
Salvia arizonicaに近い種でもあるという。

(7) Salvia hispanica L.(1753) サルビア・ヒスパニカ


(出典)Robin’s Salvias

大きな葉、その先から伸びる花穂に小さな青紫の花は、決して見事とはいえない。しかし、このサルビア・ヒスパニカは、紀元前3500年頃から食糧として使われ、マヤ文明、アステカ文明など中米の高度な文明を支えた貴重な食物植物だった。どこがという不思議さを感じるが、花の後のタネにその秘密がある。
マヤ文明が栄えたマヤ地方は、現在のメキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラ、ホンジュラス西端部、エルサルバドル西端部をさし、トウモロコシ・豆を主食とし、この地域ではチア(Chia)と呼ばれているサルビア・ヒスパニカのタネが重要な栄養源を供給していたという。

チア(Chia)の語源は、アステカ文明(1428年頃-1521年まで北米のメキシコ中央部に栄えた)を支えたナワトル族の言葉“chian”に由来し、“油”を意味する。メキシコ南部のチアパス州(Chiapas)は、この派生から来ている
このチア(Chia)は、アフリカのサバンナに生まれ長い時間をかけて日本に伝播した栄養素が豊富な“ゴマ”のようなものだと理解してもよいだろう。

こんな由緒ある重要な植物なので誰が発見したという代物ではないが、パーマーは、1896 年4-11月の間にメキシコ、ドゥランゴ州でこれを採取している。

(8)Salvia longistyla Benth. (1833).サルビア・ロンギスティラとボタニカルアート  


(出典)Robin’s Salvias

Curtis's Botanical Magazine

(出典)ウイキメディア・コモン

このサルビアは、メキシコ南西部で1830年に英国人のGraham, G. J. によって採取されている。英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)による命名が1833年なので、グラハムが採取したもので命名されたと思われるが、このグラハムという人物が良くわからない。
パーマーは、1906年4月21日-5月18日の間にメキシコ、ドゥランゴ州でこのサルビアを採取しているが大分遅れて採取している。

サルビア・ロンギスティラは、美しい緑色の大きな葉とワインレッドの花のコンビネーションが良く、秋に開花する。
カーティスのボタニカルマガジンにも1914年にとりあげられ、このサルビアの特色が描かれている。ボタニカルアートの描き方としてとても参考になる。

(9)Salvia misella Kunth(1818)サルビア・ミセラ  


(出典)Annie’s Annuals

フンボルトとボンプランがメキシコ(1803-1804年)で最初に採取したサルビアであり、美しいブルーの花が見事だ。パーマーは、1894年10月-1895 年5月の間にメキシコ、ゲレーロ州アカプルコでこのサルビアを採取した。

命名者のドイツの植物学者クンツ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)は、1813-1819年の間、中南米の探検からパリに戻ってきたドイツの探検家フンボルトのアシスタントとして働き、フンボルトと彼の盟友ボンプランが採取した植物を分類しこれらを元に新世界アメリカの植物相を書いた画期的な本「Nova genera et species plantarum 」(1815-1825)がボンプランの名前で出版した。クンツも著者として末席に記載されている。

(10)Salvia mucidiflora Fernald(1907)= Salvia roscida Fernald,(1900)
(写真)Salvia roscida

(出典)Robin’s Salvias

パーマーは、1906年4月21日-5月18日の間にメキシコ、ドゥランゴ州サンラモンでこのサルビアを採取しているが、正式な学名はサルビア・ロシーダ(Salvia roscida Fernald,(1900))として1900年に命名されているのでこの名前が優先される。
サルビア・ロシーダは、“Salvia fallax”とも呼ばれているが、パールブルーの美しい花を冬場に咲かせるので、花が少ない時期の貴重なサルビアでもある。

(11)Salvia purpurea var. pubens A. Gray(1887) =Salvia purpurea Cav.(1793)


(出典)Robin’s Salvias

パーマーが1886年メキシコ南西部で採取したSalvia purpurea var. pubensは、1793年に既にスペインの植物学者、カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745-1804)によってサルビア・パープリア(Salvia purpurea Cav.(1793))として記述されていたので、この名前が正式な学名となっている。
それにしてもライムライトの葉と赤味が入ったスミレ色の組み合わせは見事だ。開花期が秋半ばから初冬なのでこの時期の花としても貴重だ。
英名で“パープルセージ”と呼ばれるSalvia officinalis ''Purpurea''は別種である。

(12)Salvia reflexa Hornem.(1807)  サルビア・リフレクサ   


(出典) Types of Flowers

1896年4-11月の間にドゥランゴ州でパーマーが採取。英名では、槍状の葉を表すlanceleaf sage、生息地を表すRocky Mountain sageとも呼ばれ、米国ミズリー州、カンザス州、メキシコ北部が原産地。
夏から秋にかけて淡いブルーの小さな花が咲くが、草丈10-70㎝で牧草地・草原で生息し、毒性があるので家畜が食べると有毒という。日本にも帰化していて和名では「イヌヒメコヅチ(犬姫小槌)」と呼ばれる。毒性には気をつけましょう!
命名者ホーネマン(Hornemann, Jens Wilken 1770-1841)は、 デンマークの植物学者。

(13)Salvia reptans var. reptans Jacq.(1798)サルビア・レプタンス


(出典)モノトーンでのときめき

コバルトセージとも呼ばれるサルビア・レプタンスは、コバルトが入ったようなダークブルーの花と針のように細長い緑色の葉が特色で、初秋から晩秋まで茎の先に花穂を伸ばし数多くの花をつける。
パーマーは、1886年6-10月の間にハリスコ州でこのサルビアを採取するが、No10に登場したギエスブレットも1864-1870年の間にメキシコ南部のチアパス州でこのサルビアを採取している。

(14)Salvia roemeriana Scheele (1849) サルビア・ロエメリアナ 


(出典)Robin’s Salvias

草丈50cm前後の小さなサルビア、鮮やかな赤色の花、ハート型のゴツゴツした葉
テキサスからメキシコにかけてが原産地で、パーマは1906年4月にメキシコ、コアウイラ州で採取した。

このサルビアの最初の採取者は、テキサスに住んだドイツのコレクター、Lindheimer, Ferdinand (1801-1879)が1846年4月にテキサスで採取し、学名はドイツのボタニストで探検家のScheele, George Heinrich Adolf (1808-1864)が同郷の地質学者で1845-1846年にテキサスでの地質学調査を行ったレーマー(Roemer ,Carl Ferdinand von 1818 –1891)を讃えて名付けた。
日本で販売されている、サルビア・ホットトランペットはこの種の園芸品種である。

(15)Salvia tiliifolia Vahl (1794) サルビア・ティリフォリア  


(出典) Iris' Tuin

このサルビアは、華麗なところがなくまるで雑草のようであり玄人受けのするサルビアのようだ。ライムグリーン色の葉は丸めで大きく、ブルー色の花はその割りに小さくアンバランスだ。

最初の採取者は、イタリアトリノの植物学の教授、ベラルディ(Bellardi, Carlo Antonio Lodovico 1741-1826)で、1794年にリンネの使徒の一人でもあるバール(Vahl, Martin (Henrichsen) 1749-1804))が命名した。
命名者バールは、デンマーク・ノルウェーの植物・動物学者であり、ウプサラ大学でリンネに学び、ヨーロッパアフリカなどの探索旅行をし、アメリカの自然誌をも著述し、彼が最初に記述したサルビアがこのSalvia tiliifoliaだった。
パーマーは、何度かこのサルビアを採取しているが、最初の採取はパリーと一緒の1878年サンルイスポトシでの探検だった。

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No14:偉大なアマチュア、遅咲きのプラントハンター、パーマー

2010-08-23 19:13:14 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No14

No13にパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)と一緒にメキシコを探検したパーマー(Palmer,Edward 1831-1911)をここでとりあげるが、比較して読んでもらうと似ているが対照的な人物であることがわかる。

欧米の文献では、パーマーのことを“アマチュアのプラントハンター”と記述しているのによく出会う。この指摘が何に基づくのかがよくわからない。
ミドルネームがわからないためなのか?
庭師からスタートしなかったためなのか?
植物採取専業でなかったためなのか?
或いは、パリーのように医学・植物学を学んでスタートしなかったためなのだろうか?

大きな違いは、パリーは豊かであったためストレートに目標を達成したが、パーマーは貧しかったために遠回りをし、80歳まで長生きしたがゆえに晩年にやっとプラントハンターにたどり着いた。という違いがある。

パーマーの生い立ち
エドワード・パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)は、生まれが1829年という説もあり生い立ちが良くわからない。1831年1月12日生れたという説に従うと、彼はイングランド、ノーホォークの庭師の家に生まれ、18才の時の1849年にアメリカ合衆国に移住し、オハイオ州クリーブランドに引っ越した。
そこで、彼は著名な医者・ナチュラリスト・園芸家で1843年設立のクリーブランド医科大学の創設者の一人でもあるコイトランド(Kirtland ,Jared Potter 1793-1877)と出会い、ナチュラリストとしての生き方に強い影響を受けたという。

(写真)パーマーの肖像画

(出典) Harvard University Library

パーマの最初のチャンス
パーマーの最初のチャンスは、彼が22歳の1853年にやってきた。
当時の米国の状況を整理しておくと、米国は、1823年のモンロー宣言でヨーロッパ大陸とアメリカ大陸との相互不干渉を唱え、ヨーロッパ諸国の植民地からの独立戦争が勃発していたラテンアメリカへのヨーロッパ勢力の介入を阻止するいわゆる孤立主義的政策が100年間続くことになる。

この政策の背景には、1803年にナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収、1818年イギリスとの間で旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、1819年スペインから南部のフロリダを購入、1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。
さらに、メキシコとの間での米墨戦争によって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収し、人が棲まない広大な領土を獲得した。つまり、南アメリカ大陸を含めてこの権益を守れば十分に成長できるというフロンティアがあった。

孤立主義を唱えながらも一方で、ヨーロッパ勢力が十分に進出していない東アジア(中国・韓国・日本)へも威嚇外交を行い、ペリー提督が浦賀に黒船4隻を引き連れてやってきたのもこの時代の1853年7月8日だった。

ところでパーマーの最初のチャンスだが、キャプテン、ペイジ(Page, Thomas Jefferson,1808-1899)によるパラグアイの水路探検隊(1853-1855)に、看護班の看護士及び植物採取人として加わったことだ。

ペイジ中尉が指揮する米海軍の軍艦Water Witch号は、1853年2月8日にパラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの河川の水路を調査する目的でノフォーク港を出港した。
他国の河川の水路を調査すること自体侵略であるが、さらに米国にとって好都合だったのは、1855年2月にリオデラプラタ川を調査中のWater Witch号が、パラグアイの砦守備隊によって砲撃を受け、舵手の Samuel Chaneyが殺されたことだ。
Water Witch号は、1856年5月8日に修理のためにワシントン海軍ヤードに戻ったが、戦争かしからずんばお詫びかの岐路にたったのはパラグアイで、結局米国に屈服し遺族への賠償と米国に有利な通商条約を1859年に締結することになった。

米国にとっては商圏の拡大が、パーマーにとっては陸路を合流地点であるリオデラプラタまで植物・昆虫・動物などを採取して旅したので、プラントハンターとしての実地訓練がこの探検隊で獲得した。
余談だが、キャプテンのペイジ中尉は、このパラグアイ探検隊がなければ、ペリー提督とともに浦賀に来ていた可能性が高かったようだ。日本に来た黒船4隻のうちの一つであるプリマス号の指揮官であり直前まで中国海域でこの船に乗船していた。

ダブルキャリアコースを歩むパーマー
パラグアイ探検隊から帰国したパーマーは、学費を稼いだことによるのか、或いは、探検隊で経験した専門性を深めるためなのか1856年彼が33歳の時にクリーブランドのホメオパシック大学で学び翌年に医学博士号を取得した。その後、医者を開業したが、南北戦争(1861-1865)が始まった翌年の1862年にアメリカ陸軍に加わって、1868年までアシスタント外科医として勤めた。

パーマーが植物採取をスタートするのは陸軍除隊後の1869年からで、46歳になっているパーマーに、米国農務省がアシスタント科学担当とプロフェショナル・コレクターのポジションを提供した時から始まる。しかしまだこの頃は、植物に特化していないで農務省のミッションで動いていた。
農務省初の植物学者に任命されたのがパリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)なので、この時に上下関係が出来たのだろう。パーリーとパーマーがメキシコ探検をするのは1878年のことだった。

しかしパーマーは、まだ植物採取だけに絞り込んではいなかった。1882-1884年はスミソニアン協会に勤め、アメリカ原住民の埋葬塚のリサーチを行い、独自の文化を持っていた民族であるという報告書を作成し、アメリカ原住民が劣っているという人種差別的な見方を否定した。これは画期的なことであったようで、アメリカの民俗学の草分け的な存在となった。

プラントハンターとしてのパーマーの活動
パーマーの植物採取活動は、1869年、彼が38歳の時に陸軍除隊後から始まる。
1875年にメキシコチワワの北部にあるガダルーペで採取活動をし、ここからメキシコとテキサスにプラントハンティングの場を絞り込むようになる。
そして、彼は、メキシコと南西アメリカで多数の植物を採取し、その数100,000と言われ、その中には、1000以上の新種が含まれる。

これだけ数多くの植物を採取したのに、“偉大なアマチュア”といわれるのは理解しがたい。が、この道一筋で悲惨な死を迎えたフランシスマッソン、フォーレスト、グレッグなどに敬意を表したいが為の区別がなされたのだろう。

この晩年の活動を支えたのは、それまでに農務省、スミソニアン協会などの定職を持ち培ってきたネットワークを活用し、ハーバード大学、スミソニアン協会、英国の植物園・博物館などをスポンサーにして植物標本を売ることで生計を支えてきたので、長期的生活設計を持った堅実な新しいタイプのプラントハンターだと思う。しかもシニアからの現役プラントハンターでもある。

その足跡を眺めるために、以下、植物を採取した記録が残されているところをキュー植物園のデータからピックアップした。
・ 1878年(47歳):メキシコ、サン・ルイス・ポトシ(パリーと一緒)
・ 1880年:Coahuila. Nuevo León、Saltillo、Sierra Madre、Monterrey、Parras、
・ 1885年:Chihuahua、
・ 1886年(55歳):Jalisco、Rio Blanco、Tequila
・ 1887年:Sonora、Guaymas、Mulege、Sur=Mexico、
・ 1888年:United States.
・ 1889年:Guadalupe I.、Sur=Mexico、
・ 1890年:La Paz 、Baja California Sur. La Paz、Sonora、Carmen Island、
・ 1891年(60歳):Colima.、Manzanillo、
・ 1894年:Saltillo、Guerrero、Acapulco、
・ 1896年:Durango、Santiago Papasquiaro、
・ 1898年:Mexico. Saltillo 、Coahuila、Torreno、Mapimi、
・ 1904年:San Luis Potosí、Rioverde、Zacatecas、Coahuila.、
・ 1906年(75歳):Tepehuanes、
・ 1907年:Tamaulipas.
・ 1908年:Chihuahua、
・ 1910年:Tampico、Tamaulipas、Veracruz、

パーマーが採取したサルビア
(次号に掲載)

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No13:内陸部開拓の先駆、ロッキー山脈の植物王、パリー

2010-08-13 09:49:12 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No13

パリー(Parry ,Charles Christopher 1823-1890)は、コロラドの南ロッキー山脈の美しい花々を発見した第一人者として知られている。
彼のプラントハンターのスタートは、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848–1855)に外科医・植物学者として参加したところから始まる。

1846 年4 月25 日に勃発した米国・メキシコ間の戦争は、1848 年2 月2 日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約(Tratado de Guadalupe Hidalgo)の締結をもって終了した。この条約でメキシコはテキサス以西の北部領土を失い国土の約半分を失うことになる。
パリー25歳の時に参加したこの国境線周辺を調べるための調査は、陸軍の測量士・探検家で正確な地図を描くことで実績があるエモリー(Emory,William Hemsley 1811-1887)のリードで実施された。その報告書は、地図だけでなく古生物、動物学、植物学、地理など博物学的な内容を含んでいた。

この米国・メキシコ間の戦争があった1840年代以降は、アメリカのフロンティアの時代であり西部へ、南部へと領土が拡大し、地図作成とその地域の特性を把握する博物学的な探検の時代でもあった。
No9でとりあげたグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)もこの時代に、メキシコからサンフランシスコまでの探検を行い、地図を作り植物を採取し新しい陸路の開拓をしたが、馬から落ちて怪我をした彼は仲間に見捨てられて死亡した。

専門性を持った若者が、自らの責任で未知を切り開いていける活躍する場が数多くあったアメリカ建設初期のいい時代でもあった。

パリーの生涯
パリーは、イングランド南西部にあるグロスターシアで生まれ、9歳の時の1832年に両親と共にアメリカに移住し最初はニューヨークに住んだ。
1842年にユニオン大学を修了し、コロンビア大学に進み医療と植物学の研究を行い1846年に博士号をもらった。このコロンビア大学で植物学者のトーリー(Torrey,John 1796-1873)及びその弟子のグレー(Gray,Asa 1810-1888)の影響を受けたことが後の彼の進路を決定する。何しろこの二人は、アメリカを代表する植物学者であり、パリーも植物学研究の中心にいたことになる。

この時代までの医学生は、薬を自ら作らなければならなかったので植物・薬草の勉強をする必要があったが、医者よりも植物を採取するほうに魅力を感じる者が多かったという。
パリーも、卒業後直ぐにアイオワ、ダベンポートに引越し短い間だけ外科医を開業した。が、外科医よりも野外での植物を収集することに関心があることが彼自身わかり、しかも、師匠のような学者を目指すのではなくフィールドワーカー(プラントハンター)の道に邁進することになる。

(写真)パリーの好んだスタイル、これで山歩きをした
  
(出典)Wisconsin Historical society

その手ほどきは外科医を辞め、1847年の中部アイオワの調査、1848年にウィスコンシンとミネソタの地勢調査にアシスタントとして参画することから始まり、この二つの調査の報告書は、当時の地質学の権威オーエン(Owen,David Dale 1807–1860)が1852年に取りまとめて発表し、この中にパリーのレポートが含まれているという。
この地勢調査の時に採取した植物を、恩師のトーリーに送ったところ、弟子のグレーに「パリーは素晴らしい植物を採取して標本を作る。」と書き送っているので、早くしてプラントハンターとしての技量・センスが認められた。

植物学者として一人立ちしたのが、1848年からの米国とメキシコの国境線調査(the United States and Mexican Boundary Survey 1848-1855)だが、何人かいる植物学者のうちの一人であり、1850年にはこの調査も目処が立ちパリーは暇になった。そこで彼は石炭を探しに出かけ、サンディエゴの北部にあるソルダッドバレー(Soledad Valley)で新しい松を発見した。
1850年6月30日に恩師のトーリーに手紙を書き、「もしこの松が新しい種ならば、貴方の名前をつけPinus Torreyanaとしたい。」という処世術も知っていたようだ。
この「トリーパイン(Torrey Pine)」は、世界でも珍しい松で、その数が3000本程度しかないというが、発見者のパリーと生息地のソルダッドバレーを有名にした。もちろん恩師のトーリーもだが。

その後パリーは、ダベンポートで外科医に戻ったが、南北戦争(1861-1865)の頃は,夏場はコロラドで過ごしシカゴイブニングジャーナルに植物誌を寄稿する。
1869-1871年には、イギリスの化学者スミソンが遺贈した基金によって1846年ワシントンに設立されたスミソニアン協会及び農務省の初めての植物学者として勤務し、1873年というから彼が50歳の時に、眠っていた魂がかき立てられロッキー山脈の中央に位置するイエローストーン(ちょうど前年の1872年にイエローストーン国立公園が設置される。)に探検旅行に行き、1878年にはメキシコを探検した。メキシコ探検は、6歳年下で似たような経歴を持つエドワード・パーマ(Edward Palmer1829-1911)と一緒に植物探索をした。(パーマに関しては後にとりあげる。)

パリーは、生涯で30,000以上のユニークな植物をカリフォルニア・コロラドなどで集め、最も優雅で美しいコロラドの山々の野生の草花・植物を記述する第一人者だった。
親交のあるキュー植物園の園長フッカー(Hooker,Joseph Dalton 1817 – 1911)からは“コロラドの植物の王”と称された。或いは、ロッキー山脈の美しい花々を紹介したので、“ロッキーの帝王”と言ってもいいのだろう。

晩年は、温厚で人にやさしく、植物学上の知見・標本などを独り占めしないで、求めるヒトには温かく支援したと言う。アーサー・グレーなどはこの恩恵に相当助けられたようだ。

アメリカの1800年代は、単なる冒険家・探検家ではなく科学的な国土の資源調査が求められた時期であり、軍人・冒険的な科学者がチームを組んで国土調査を実施した。
パリー、グレッグなどがその隠れた逸材であり再評価が進んでいるようだが、人間としても興味がわく。
荒野でのプラントハンティングに生死をかけるほどのめり込んでいたので、本質的には二人とも同じだと思うが、パリーは長生きした分丸くなったのだろうか?或いは、角が取れ丸くなった分長生きしたのだろうかとも思ってしまう。

パリーが採取したサルビア
キュー植物園のデータベースには4種のサルビアが記録され、ミズリー植物園のデータベースには、23種のサルビアを採取したとなっている。
その中から気になるサルビアをとりあげる。

(1)Salvia serpyllifolia Fernald (1900) サルビア・セルビリフォリア

(出典)Robins’s Salvias

「サルビア・セルビリフォリア」は、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシ(San Luis Potosí)の1850-2460 mの山中で「サルビア・ミクロフィラ」をも採取したパリーとパルマによって同じ場所で発見採取された。
当初は「パープルのミクロフィラ」と思われていたが、1900年に別種として米国の植物学者フェルナルド(Fernald, Merritt Lyndon 1873-1950)によってクリーピングタイム(Thymus serpyllum)に似た葉をしているのでserpyllifoliaと命名された。
そして育苗園では1990年頃に種から栽培されるようになったというが、日本ではまだあまり普及していない。
この赤味が入ったパープルは実に素晴らしい。これが、小さな光り輝く葉と一体になり横に広がる姿は見ごたえがありそうだ。開花期は夏から秋で、木質の60-90cmの樹高。

(2)Salvia amarissima Ortega (1797) サルビア・アマリッシマ

(出典)Iris' Tuin

メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
受理された学名はSalvia circinnata Cav. (1797) ,類似Salvia polystachya Cav.(1791)
Salvia urica の近縁など帰属がまだ怪しげなところがあるが、確かに「サルビア・ウリカ」に似た花であり、ブルーの花に白いマークが入るのは美しい。草丈150㎝と大柄で、初夏から晩秋まで開花する。
最初に採取したのは、1785年にニュースペイン(=メキシコ)の植物園の園長になったスペインの植物学者セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)。

(3)Salvia glechomifolia Kunth (1818) サルビア・グレコミフォリア

(出典)Les Senteurs du Quercy

1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでパリーとパーマが採取したが、最初の発見者は、フンボルトとボンプランのようだ。
草丈30cm程度で匍匐性があり、花穂を伸ばして花弁の中央に白い線が入ったヴァイオレッドブルーの小さな花を夏中咲かせる。葉に特色があり、種小名の“glechomifolia”は、 「グレコマ(Glechoma)」のような葉をしたを意味する。

(4)Salvia hirsuta Jacq.(1798) サルビア・ヒルスタ
(図)Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )

(出典)Missouri Botanical Garden、Library
Plantarum rariorum horti caesarei Schoenbrunnensis descriptiones et icones|Opera et sumptibus Nicolai Josephi Jacquin. Volume 3 of 4
Illustration of Salvia hirsuta (Salvia hirta Kunth, )

「サルビア・ヒルスタ(Salvia hirsuta Jacq)」は、オーストリアの植物学者ジャカン(Jacquin ,Nikolaus Joseph von 1727-1817)の著作にイラストで描かれている。花は確かにシソ科特有の口唇型であり初夏から晩秋に開花するという。葉は丸みを帯びて草丈60㎝と書かれている。
ジャカンは、1755-1759年にマリー・アントワネットの父親に当たるフランシス一世の命でシェーンブルン宮殿の植物を集めるために西インド諸島と中央アメリカに行かされたので、この時に採取し「Salvia hirsuta」と1798年に命名した。

パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシでこの「サルビア・ヒルスタ」を採取しているが、実物の写真はなかなか見当たらなかったので、栽培種として現存しているのか疑問がありそうだ。

(5)Salvia nana Kunth (1818)サルビア・ナナ

(出典) Iris' Tuin

パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サンルイスポトシの山中でこの「サルビア・ナナ」を採取する。第一発見者はフンボルトとボンプランで、メキシコのサルビアシリーズNo7でとりあげたハートウェグもグアテマラで1841年に採取している。
花は、良く見ると(2)でとりあげた「Salvia glechomifolia 」に良く似ていて近縁種のようだ。さらに似ているのは、コスミックブルーセージと呼ばれる「サルビア・シナロエンシス(Salvia sinaloensis)」だ。

(6)Salvia puberula Fernald(1900) サルビア・プベルラ

(出典)Robin’s Salvias

パリーとパーマが1878年にメキシコ、サンルイスポトシの1850-2460 mの山中で採取した。
この種は、 「サルビア・インボルクラタ(Salvia involucrata)」そっくりであり、密接な関係がありそうだ。わずかな違いは葉の色のようであり、黄色味が強いライムイエロなのが「Salvia puberula」、緑色が強いライムグリーンなのが「Salvia involucrata」ということのようだが、どうも大きな違いではなさそうだ。

(7)Salvia regla Cav.(1799) サルビア・レグラ

(出典)Robin’s Salvias

パリーとパーマは、1878年にメキシコ、サン・ルイス・ポトシの山中でこの「サルビア・レグラ」を採取する。
直立性の樹高200㎝の落葉低木で、初夏から晩秋まで緋色の花が枝先につく。葉はハート型で光沢があり芳香がある。サルビアとしては大型であり、直立も珍しい。さすがにメキシコはサルビアの宝庫だ。

■パリーが採取したその他のサルビア

8.Salvia axillaris Moc. & Sessé ex Benth(1878)
・ メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取。
・ サン・ルイス・ポトシからオアハカへの中部メキシコ原産の多年生植物で、草丈100㎝、花は小さな黒紫色の萼内部に隠される小さな白いチューブというから是非見たいと思ったが、見つけることが出来なかった。
9.Salvia chamaedryoides Cav. (1793)
⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
10.Salvia keerlii Benth. (1798)
・ ⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
11.Salvia laevis Benth.(1833)
12.Salvia mexicana L. (1753).
・⇒「No3:サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎」参照
13.Salvia microphylla Kunth (1818)
⇒「No2:大探検家が発見した サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)」
14.Salvia oresbia Fernald (1900)
⇒「No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー」参照
15.Salvia patens Cav. (1799).
・⇒「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」参照
16.Salvia tiliifolia Vahl(1794)
17.Salvia unicostata Fernald(1900)

※ 学名の表示:属名、種小名、命名者、( )内は命名された年
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