モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No12:「サルビア・マドレンス」と 世界を一周したプラントハンター、ゼーマン

2010-08-01 13:13:53 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No12

メキシコにいつ来たかよくわからないために危うく忘れるところだったプラントハンターが一人いた。
ドイツ、ハノーバー生れのゼーマン(Seemann, Berthold Carl 1825-1871)で、メキシコのサルビアを二種採取して1856年にゼーマンが命名者となっているので、これ以前にメキシコでプラントハンティングをしている。1848-1849年にかけてサルビア以外の多数の植物をメキシコで採取しているのできっとこの頃なのだろう。

(地図)ゼーマン探検のコース

(出典)University of Pittsburgh, Library
Seemann著『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』

彼は、世界を一周する探検隊に参加し、イギリスからブラジル・リオデジャネイロに行き、そのまま南下して南米最南端の海峡から太平洋に面した中南米の国ペルー、コロンビア、ヴェネズエラ、エクアドル、ニカラグア、パナマ、そしてメキシコ、米国、そしてフィジー、ハワイを探検し、マレーシア、シンガポール、そして南アフリカ・ケープ地方のテーブルマウンテンに登り英国に帰国するが、メキシコ以外に数多くの国で植物を採取した。

1859年に、彼はフィジーへ旅立って島の植物相の植物カタログを出版し、1860年代は再び南米を探検旅行して、1864年にはベネズエラ、1866-67年はニカラグアを旅行した。その後パナマの砂糖農園の管理、ニカラグアでは金鉱山の管理者となったがここで黄熱病にかかり亡くなる。晩年は、プラントハンター、植物学者のコースからはずれ目標を見失った感がある。


(出典)wikipedia

このゼーマンは、19歳の時の1844年に英国でプラントハンターの実践を学ぶためにキュー王立植物園に修行に来た。そして1941年からキュー植物園の園長だったW.Jフッカー卿(Hooker,William Jackson 1785-1865)の推薦で「HMS Herald, 1847–1851」の探検隊に参加することが出来た。フッカー卿(父)の目にとまったのだからよほど優秀だったのだろう。

この「HMS Herald, 1847–1851」探検隊を説明しなければならないが、英国海軍の軍艦ヘラルド号を使い、1847年から1851年までアメリカ西海岸とハワイ・フィジーなどの太平洋を探検し、南アフリカ喜望峰を経由して1851年6月6日に帰国した。

途中の1848年からは、北極探検をしていて消息がなくなったフランクリン探検隊(Sir John Franklin 1786–1847)の捜索にも従事し、ベーリング海峡、北極海周辺の探索も行った。このフランクリン探検隊全滅の原因は、自然の脅威が原因ではなく3年分の食糧を缶詰で持っていったが、蓋を閉じる際に使用した鉛が原因だったようだ。人間が作り出した文明の犠牲として有名な事件だったが、既にこの時から水俣病が起きていたのだ。

探検隊の人員構成を見ておくと、ヘラルド号の艦長はケレット(Sir Henry Kellett 1806-1875)で、フランクリン探検隊捜索の時に新しい島を発見し、船名をとってヘラルド島と名付ける。同乗したのは、生物学者フォーブス(Forbes,Edward 1815 –1854)、ナチュラリストとしてエドモンズトン(Edmondston, Thomas 1825–1846)とグッドリッジ(Goodridge,John 不明)そして、ゼーマンもナチュラリストとして乗船したが、席順は最下位でありエドモンズトンのアシスタント的な位置づけなのだろう。

(写真)左側がヘラルド号

(出典)University of Pittsburgh, Library
Seemann著『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』の挿絵

ヘラルド号は、調査船として1822年に建造された500トンの木造帆船で、ディズニーランドか、ラスベガスのホテルにありそうなノスタルジックないい感じがするが、これで長期間の大航海をしたので快適とはいえない生活だったのだろう。
英国海軍の船には“HMS”という略称が使われる。何の略かと思ったら“Her Majesty's Ship(女王陛下の船)”だった。なるほど英国だ。

エドモンズトン死亡の怪
1846年7月、悲劇はエクアドル北西部にあるエスメランダ(Esmeraldas)地方の港町Atacamesで起きた。銃の暴発でエドモンズトンが死亡した。21歳だった。
歴史に“もし”ということは無いが、彼が生きていればバンクス卿と似たようなキャリアを経験し英国のアカデミーをリードする人物となったのだろうと推測できる。

何故推測したのか? 
という問いには英国だからと答えざるを得ないが、国をリードする人間は、若い時に難関を突破させる試練を与えられ試されるようだ。多分生死をかけるほどの難関であり生き残った者が(バンクス卿のように)その後の世界を構築する権利を得る。こういった考え方が英国の上流階級にあったように感じ取れる。

エドモンズトンは、20歳の頃に英国の次代のリーダー候補として選ばれたのだろう。
では、エドモンズトンは選ばれた人間なのだろうかというキャリアを垣間見ると
彼は、ゼーマンと同じ年に生まれ、その家系はスコットランド北方にあるシェトランド島では地主であり科学者を輩出した優れた家系のようだ。

エドモンズトンは早熟であり、11歳でシェトランド島の植物相を調査して編集し、20歳の時にはグラスゴーにある大学の植物学教授に任じられた。この数ヵ月後にはHMSヘラルド号のナチュラリストの地位を提供された。
この選定に関わったのが、キュー植物園の園長フッカー卿の息子Joseph Dalton Hooker(1817 – 1911)のようだ。息子のフッカーは、エドモンズトン11歳の時のシェトランド島の植物相の成果に接しており、8歳年下のエドモンズトンを盟友と認めたのだろう。

一方、このパートの主役ゼーマンは、帰国後の1853年に探検旅行の成果報告としての本を著する。その序文は次のような書き出しで始まる。
『1846年7月、トーマス・エドモンズトン氏の死亡後に、かねてよりフッカー卿(父)が約束していた、HMSヘラルド号のナチュラリストの名誉ある地位に任命された。』という書き出しで彼の探検旅行記『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』の序文が始まる。

序文の書き出しとしては奇異な印象を受けるが、初めの頃はゼーマンの自己顕示の表れだろうとしか思っていなかった。だが、ここにミステリーがあった。

エドモンズトンを撃ったライフル銃はゼーマンの銃であり、その引き金を引いたのはゼーマンのズボンの裾だった。
暴発が起きた場面は、(ヘラルド号に戻る?)ボートの中であり、ゼーマンの後にエドモンズトンが座っていた。そして、ゼーマンの銃口がエドモンズトンに向いていてズボンの裾が引き金を引いてしまった。
弾は、Whiffin氏の腕を貫通しエドモンズトンの頭に当った。エドモンズトンはかすかな悲鳴を上げ水に落ち死亡した。という。

悲劇的な事故が起きてしまった。というのが公式見解のようだが、これは偶発の事故だったのだろうか?
綿密に計画され周到にレッスンをした計画殺人という可能性は無いのだろうか? いまさら詮索しても意味の無いことを真剣に調べてしまった。

動機は、既に書いているので推理していただきたい。同年齢でなかったら起きなかったのかもわからない。?
(真剣に考えた方は意見をコメント欄に書いてね!)

ゼーマンが採取したサルビア
ゼーマンがメキシコで採取したサルビアはたったの2種であり、そのうちの一つが、サルビアの中では稀有なカナリア色の濃いイエローの花が咲く「サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis)」だった。
草丈2m、手のひら大のハート型の葉、茎の先に花穂を伸ばしそこになまめかしいイエローの花が晩秋から多数咲く。秋の日に映えるこの強烈な色はクールダウンしていく気持ちを掻き立てる力がありそうだ。
秘めたる野心があるゼーマンが発見した花だけのことはありそうだ。

(写真)サルビア・マドレンシスの花


「サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis)」についてはこちら
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No11:ジャーマンダーセージとドイツの移民、シャフナー

2010-07-25 13:48:31 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No11

お奨めしたいメキシコのサルビアがある。
英名の“ジャーマンダーセージ”のほうが通用しているが、最初に誰が採取したかわかっていない。が、1800年代の早い時期に既にヨーロッパの庭で栽培されていたというので、このこと自体サルビアとしては珍しく米国では1980年代に導入されたようだ。
花色は光を反射させないためか渋いブルー、葉は灰緑色で小さな楕円形、草丈30cmぐらいの小潅木なのでこじんまりしている。このサルビアを見ていると、落ち着いた気持ちになれる。

「サルビア・カマエドリオイデス(Salvia chamaedryoides)」
ジャーマンダーセージ(Germander sage)



“ジャーマンダーセージ”こと「サルビア・カマエドリオイデス(Salvia chamaedryoides)」は、初期に誰が採取したかわからないが、1793年にスペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されている。この頃からヨーロッパに持っていかれ庭で普及したのだろう。
再発見は、ドイツ生れの医師・薬剤師のシャフナーが1876年9月メキシコで採取している。その後、パリー(Parry,Charles 1823-1890)とパーマー(Palmer,Edward 1829-1911)が1878年にメキシコのサン・ルイス・ポトシの2000-2500mの山中で採取している。
(「ジャーマンダーセージ」に関してはここを参照)

パリーとパーマーはいずれ触れることになるが、記録に残る第一発見者のシャフナー(Schaffner, Johann Wilhelm、又は、Schaffner, Jose Guillermo 1830-1882)は、ドイツ、ダルムシュタットで生まれ薬剤師としての訓練を受けた。メキシコに移住し、1852-1857年の間は、薬剤師として勤め、1871-1874にハイデルベルク、ミュンヘン、ウィーンで医学を学び、1875年から死亡するまでサン・ルイス・ポトシで医者・薬剤師を開業する。そしてこの頃から植物の収集を始める。
という程度しかわかっていない。だから、どこかの植物園やスポンサーのために植物を採取するのではないので、プラントハンターというよりはプラントコレクターという方が適しているだろう。

彼が採取した植物は、キュー植物園のデータに182種登録されているので、趣味の領域を超え本格的に採取したといえる。
このうちサルビア属の植物は6種類が含まれていて、その中に“ジャーマンセージ”と呼ばれる大好きな「サルビア・カマエドリオイデス(Salvia chamaedryoides)」があった。

シャフナーの植物標本のコレクションは、彼の死後にドイツ出身の薬剤師ヴィゲナー(Vigener, Anton 1840 -1921)が買い取り、温泉がある保養地ヴィースバーデンにある博物館(Museum Wiesbaden)に寄贈している。
ドイツの保養地バーデンバーデンにもカジノ、ミュージアム、クアハウスなどが小川をはさんだこじんまりした街並みにあったが、ヴィースバーデンにはカジノつきのクアハウスがあるそうだ。

シャフナーが住んでいたサン・ルイス・ポトシは、メキシコを縦に貫く二つの山脈のうち東側にあるシェラ・マドレ・オリエンタル(Sierra Madre Oriental)の標高1850mの高地にある州都で、1583年にフランシスコ会派の入植から街づくりが行われ、フランスのルイ9世の名を取ってサン・ルイス(セントルイス)とつけられた。
ポトシが加えられたのは、この地域で金・銀を産出したので、1545年に発見されスペインを大国に押し上げる原動力となった南米ボリビアのポトシの銀山にあやかったという。

もっとも、これらの金銀財宝を略奪するためにカリブ海には英国・フランスの非公式公認海賊が横行した。映画“パイレーツオブカリビアン”の世界であり、彼ら海賊が中南米の植物をヨーロッパにもたらした可能性も高い。(とても歴史に残せないとは思うが?)この時代の珍しい植物は、高価な絵画か宝石なみの価値があったので、心優しくなくても取り扱えたが、生きたまま持ち帰るのが難しいので手を出しにくかったのだろう。

シャフナーが採取したサルビア

2.Salvia macellaria サルビア・マセラリアの謎
学名の「Salvia macellaria」は、1939年に米国の植物学者・プラントハンターのエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)によって命名されたが、シャフナーは、1876年にサン・ルイス・ポトシのSan Miguelito山でこのサルビアを採取している。
しかし、このサルビアは謎のサルビアのようで、今もって確定していない。命名したエプリング自身が、“Salvia greggii と Salvia chamaedryoides の自然交雑種である可能性が高い”と述べている。
おや?この組み合わせは、「サルビア・ムエレリ(Salvia muelleri)」と同じではないか!
「S.ムエレリ」も好きな花だが、その出自には疑問のところがある。

(写真)「S.マセラリア」として販売されていたSalvia greggii hybrid
  
(出典)Plantdelights.com
http://www.plantdelights.com/Catalog/Current/Detail/salvia_california_sunset_05952.html

「サルビア・マセラリア」として販売されている花色で青紫、イエローオレンジなどがあるが、イエローオレンジの花色に関しては、「サルビア・グレッギー」の交雑種とわかってきたようだが、青紫色の花色となると「サルビア・ムエレリ」に限りなく近くなる。キュー王立植物園でもこのサルビアを間違っていたようなので素人には難しいのだろう。
(「S.ムエレリ」に関してはここを参照)

3. Salvia neurepia サルビア・ネウレピア
  
(出典)Botanic Garden
http://www.botanic.jp/plants-sa/salneu.htm

1876年にシャフナーがサン・ルイス・ポトシの森の中で発見し、「サルビア・ネウレピア(Salvia neurepia)」と命名したが、1939年にエプリングによってサルビア・ミクロフィラの変種「Salvia microphylla var. neurepia」と修正される。

秋に赤い花を開花させ、葉は小さな楕円形でフルーツの香りがするので、Fruity littleleaf sageとも呼ばれる。

4.Salvia oresbia サルビア・オレシビア(=Salvia darcyi)
  
(出典)Sue Templeton's Nursery
http://www.salviaspecialist.com/itm10103.htm

「サルビア・オレシビア(Salvia oresbia)」は、1876年にシャフナーがサン・ルイス・ポトシの山中で採取しているが、1991年10月20日に英国のコレクターであるコンプトン(Compton, James A. 活躍時期:1994)がメキシコで採取し、別名の「サルビア・ダルシー(Salvia darcyi J.Compton)」として1994年に登録した。今では、「サルビア・ダルシー」の方が有名であり、発見にまつわる逸話の方もよく知られている。
というのは、手柄を横取りしたというか新発見の植物の命名での英国人の身びいきがあった話である。

米国のYucca Do Nurseryは、1988年からメキシコの植物調査を始め、オーナーの
ローリー(Lynn Lowery)は、若手のジョン・フェアリー(John Fairey)とカール・ショーンフェルド(Carl Schoenfeld)を連れて行った。この二人が野生種の「サルビア・ダルシー」を1988年に発見した。

Yucca Do Nursery は、1991年に英国のメキシコ探検隊を案内することになり、この隊員の一人であったコンプトンがシェラマドレオリエンタルの山中で「サルビア・ダルシー」を採取し、英国の植物学者で後にミズリー植物園のダルシー博士(D'Arcy, William Gerald 1931-1999)にちなんで名前をつけた。
Yucca Do Nurseryが無視され、後に発見したコンプトンの命名が採用された経緯はこんな感じだった。

メキシコに住み着いたシャフナーとこのシリーズNo10で登場したギエスブレットの二人は、その居住地での素晴らしいサルビアを採取しており、通り過ぎる旅行者にはない選択眼がありそうだ。

ところで、Yucca Do Nurseryの探検隊はメキシコで重要なことを体感しているという。メキシコ人達が自分たちの植物の価値に20世紀後半になって気づき始めた。ということであり、プラントハンターの活動が制約される時代に入ることを意味する。
そして、100年以上も遅れて、サルビアはまさに21世紀になってその価値を認められる。
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No10:メキシコに留まったリンデン探検隊メンバー、ギエスブレット

2010-07-17 11:35:50 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No10

ギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste Boniface 1810-1893)は、何とセンスのよいコレクター(プラントハンター)なのだろう!
彼が採取したサルビアを確認していたら欲しいものばかりだ。日本ではまだ馴染みがないものが多く、メキシコのサルビアの多様性に感嘆する。

Who ?? ギエスブレット?
ところで、ギエスブレットだが、彼は、シリーズNo4で取り上げたベルギーのプラントハンター、リンデン((Linden, Jean Jules)のところで、小さく登場していた。だから無視しようかと思ったが、彼が採取したサルビアが無視できないのでとりあげることにした。

それをレビューしてみると次のようになる。
1835年9月25日にリンデン、フンク、ギエスブレットは、ベルギー政府の支援でアントワープからブラジルのリオデジャネイロに向かい12月27日に到着した。

ここで三名は、ブラジルの動植物の収集捕獲と調査をおこない、1837年3月にベルギーに戻る。

1837年9月に二回目の探検として三名はキューバに向かい12月にはバナに到着した。翌年1838年には動植物の捕獲収集と商業情報の収集を目的にメキシコを探検し、この年の8月には、ベルギーのもう一人のプラントハンター、ガレオッティと一緒に四名でメキシコ最高峰のオリザバ山に登頂した。
リンデン、フンク、ギエスブレット、ガレオッティがメキシコで出会ったということがこの先の展開の道筋を創るので覚えておいて欲しい。

リンデンは黄熱病になったので一人残り、フンク、ギエスブレットは、1840年9月にベルギーに戻る。一方、リンデンは、同年12月にベルギーに戻り、先に帰った二人と再会する。
ガレオッティも、1835-1840年のメキシコ探検旅行から1840年に帰国する。

さてここから四名は三つのコースに分かれ、それぞれの関係は扇のような関係となる。
リンデンとフンクはランの育種園ビジネスに向かい、ガレオッティはサボテンの育種園ビジネスを立ち上げる。
ギエスブレットは、メキシコに戻りヨーロッパの顧客に植物を収集・栽培して供給するビジネスを展開することになる。
より具体的に説明すると、リンデンとフンクにはランを栽培して供給するビジネス、ガレオッティにはサボテンを収集し供給するビジネスであり、ヨーロッパの植物園・植物愛好家には植物とその標本を収集提供するビジネスである。

この構想は、オリザバ山登頂の時に話し合われたというから面白い。
1840年に彼ら四人はベルギーに戻るが、その後の行動は、回り道をしないで直線的に行動しているので相当な信頼関係が形成されたのだろう。肉体的・精神的に厳しい時を一緒に乗り越えた人たちは、未来を共有できる“仲間”となれる。を地でいっているようだ。

ギエスブレットに関しては、これ以上の目ぼしい情報がない。あるのは彼が収集した植物となる。
ちなみに彼が採取して記録に残っているものを見ると次のようになる。

キュー植物園: 80種(内サルビア3種)
ミズリー植物園:264種(内サルビア12種)
アーノルド樹木園:188種(内サルビア9種)

それにしても、ギエスブレットのセンス、サルビアを見る目は素晴らしい。

ギエスブレットが採取したサルビア

1.Salvia atriplicifolia (受理された学名は、「Salvia cacaliifolia又は、Salvia cacaliaefolia」)

(出典)Wikipedia

「Salvia atriplicifolia」は、1864年10月メキシコ・チャパスの山中でギエスブレットが採取したが、受理された学名は、ベルギーのプラントハンターで盟友のリンデンが同じチャパスで採取した「サルビア・カカリフォリア(Salvia cacaliifolia)又は、(Salvia cacaliaefolia)」となる。
園芸市場への導入は、アイルランド生れの園芸家ロビンソン(Robinson,William 1838-1935)が1933年に英国に持ち込み、米国では、1970年代にサンフランシスコのゴールデンゲートの下にある森林公園ストリビング植物園(Strybing Arboretum)、ロスアンゼルスにあるハンティングトン植物園が導入し、 1980年代の後半には好感度の高い花になったという。
そういえば、ゴールデンゲートの下に植物園があるのは知っていたが、ナパ・ヴァレーでワインを飲むことだけに気を取られてしまったな・・・と反省を。

このロビンソンは、 "野生の庭"と呼ばれる別荘風の小さな庭づくりに革命的な思想を持ち込んだ園芸家及び園芸ジャーナリストであり、1870年にアメリカの園芸家との交流と植物探索の旅に出かけている。この時にメキシコ、オアハカのシェラにも旅をしているので、メキシコの植物を庭に導入することに抵抗感は無かったのだろう。
整然とした幾何学的な庭にはサルビアは導入されにくいが、“野生の庭”という考えが出来たから導入しやすくなったというのには実感がある。

2.Salvia disjuncta
    
(写真出典)Plannt Delights Nersury
http://www.plantdelights.com/Catalog/Current/Detail/08469.html

「サルビア・ディスユンクタ(Salvia disjuncta)」は、メキシコ、オアハカ及びチアパス州の2300-3400mの比較的高いところの暖かく湿った山中に生息し、ギエスブレットは1864年にチャパスの山中で採取した。
庭への導入は、大分たった1980年代の後半にサンフランシスコのストリビング植物園(Strybing Arboretum)の学芸員が採取し、1993年に育種園などに販売を始めた。
開花期は10月から霜が降りる頃までだが温暖なところでは冬中咲くので貴重な花かもわからない。花色は赤色で花数は少ない。樹高は1.3mで根に近いところは木質化する。
日本ではまだなじみのないサルビアだが、茎、葉、花とバランスが良さそうなサルビアなので欲しい一品でもある。

3.Salvia chiapensis(Chiapas sage)


ギエスブレットは、メキシコ・チアパスの山中で「サルビア・チアペンシス(Salvia chiapensis)」を採取した。時期は良くわからない。
1895年に米国人のネルソン(Nelson, Edward William 1855-1934)も採取しているが、この花が庭に導入されたのは、1981年のカリフォルニア大学植物園バークレーの探検隊がチアパスで採取してからであり、1991年までこの植物園の園長を務めたOrnduff, Robert (1932-2000)がリードした探検隊だったのだろう。彼は、メキシコから「サルビア・メキシカナ‘ライムライト’」の親となる「サルビア・メキシカナ(Salvia mexicana)」を採取している。
「サルビア・チアペンシス(Salvia chiapensis)」は、“チアパスセージ(Chiapas sage)”とも呼ばれるように、チアパスの2100-2900mの霧の多い湿った地域で生息し、草丈50-60㎝で横に広がり、花茎を伸ばしその先に鮮やかな桃色の花を8-11月まで咲かせる。光沢のあるオリーブ色の葉も美しい。

4.Salvia miniata(Belize sage)

出典)Wikipedia

ギエスブレットは、チアパスの森林の中で「サルビア・ミニアタ(Salvia miniata)」を発見採取した。時期はわかっていないが、1846-1870年の間だろう。
この「サルビア・ミニアタ」は、メキシコのチアパスからベリーズ、グアテマラの600mと低く、温暖で霧が多い湿った山腹に生息し、“ベリーズセージ(Belize sage)”とも呼ばれる。開花期は7月から霜が降りるときまでで、燃えるような赤色の花が多数咲く。光沢のある緑色の大きめの葉との組み合わせは素晴らしい。
しかし、何時、誰が庭に持ち込んだか良くわからない。しいて言えば、1990年代の早い時期にサンフランシスコのストリビング植物園(Strybing Arboretum)が導入したようだ。

5.Salvia carnea

(出典)The National Gardening Association

「サルビア・カルネア(Salvia carnea)」は、1864-1870年の間にメキシコのチャパスでギエスブレットが採取した。
これ以前に採取したのがフンボルトとその盟友ボンブランであり、メキシコ滞在の1803-1804年に採取したのだろう。
ガレオッティもこのサルビアを1840年に採取している。ガレオッティはこのサルビアに「サルビア・マーテンシィ(Salvia martensii)」と命名したがこれは学名として受理されなかった。

最初に命名された名前が優先されるというルールがあるので、これを採取したコレクター、或いはプラントハンターに名誉が讃えられることになる。
このような経緯があるが、この「サルビア・カルネア」は、室内庭園のスペースがあったら素晴らしい景観をつくる感じがする。注目したいサルビアだ。

6.Salvia cinnabarina
    
(出典)cabrillo callege
http://www.cabrillo.edu/academics/horticulture/salvias/html/cinnabarina.html

「サルビア・シンナバリナ(Salvia cinnabarina)」は、鮮やかな朱色の花と緑の葉がとてもエレガントで、まるでパイナップルセージと呼ばれる「サルビア・エレガンス(Salvia elegans)」に似ている。
このサルビアは、ギエスブレットがメキシコのチアパスで1864-1870年の間に採取しているが、それ以前にこのシリーズで登場したガレオッティが最初のコレクターのようであり、リンデン、グレッグ(1849年)も採取している。
種小名のcinnabarina は、ラテン語であざやかな朱色を意味するcinnabarinumから来ている。

まだまだ魅力的なサルビアを採取している。続きを書くかちょっとためらっている。書かない場合を考えてギエスブレットが採取したサルビアを記載しておく。

付録:ギエスブレットが採取したサルビア
(1) Kew植物園に記録されているサルビア
Kew植物園には全部で80種、サルビア属では3種が記録されている。
1.Salvia atriplicifolia Fernald
2.Salvia disjuncta Fernald
3.Salvia ghiesbreghtii Fernald

(2) ミズリー植物園に記録されているサルビア
ミズリーには、全部で246種を採取、サルビア属では12種が記録されている。
4.Salvia cacaliaefolia Benth
  Salvia cacaliaefolia Benth.
5.Salvia carnea Kunth
6.Salvia cinnabarina M. Martens & Galeotti
7.Salvia coccinea Buc'hoz ex Etl.
  Salvia ghiesbreghtii Fernald
8.Salvia holwayi S.F. Blake
9.Salvia karwinskii Benth.
10Salvia oblongifolia M. Martens & Galeotti
11Salvia recurva Benth.
12Salvia reptans var. reptans Jacq.
13Salvia rubiginosa var. hebephylla Fernald

(3) アーノルド植物園に記録されているサルビア
全部で188種、サルビア属は9種が記録されている。
  Salvia atriplicifolia Fernald
14Salvia chiapensis Fernald
  Salvia chiapensis Fernald
  Salvia disjuncta Fernald
  Salvia ghiesbreghtii Fernald
15Salvia miniata Fernald
16Salvia multiramea Fernald
  Salvia rubiginosa Bentham var. hebephylla Fernald
17Salvia venosa Fernald
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No9

2010-07-12 13:21:20 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No9:チェリーセージ(Salvia gregii)と米国西部のフロンティアマン、グレッグ

(写真)サルビア・グレッギー


日本でもチェリーセージはポピュラーな花になった。暑さ寒さに強く、四季咲き性があるこの小潅木は,葉からセージ特有の薬臭い香りがストレスを癒す働きがある。
しかしチェリーセージは、3種類の異なる種の総称として使われていて誤解が生じていることも否めない。

基本種でもある「サルビア・グレッギー(Salvia gregii)」は、メキシコ北東部の塩を意味するサルテヨ(Saltillo)で、アメリカ人の探検家・商人・医師・地図製作者のグレッグ(Josiah Gregg 1806 -1850)が1848年に発見・採取した。
サルティヨは、スペイン人が作った街で400年以上もたつ古い街であり、現在ではメキシコのデトロイトといわれるほど自動車産業が進出している。近くにはチワワ砂漠があるので乾燥した温暖なところのようだ。

ハーバード大学アーノルド植物標本館のデータには、グレッグは379種類の植物を採取しているようだが、サルビア属ではこの「サルビア・グレッギー」1種しか採取していない。というのも不思議だ。

「サルビア・グレッギー」に関してはここを参照

米国西部のフロンティアマン、グレッグの生涯
(写真)グレッグ

(出典)the Old Lewiston Schoolhouse Library and Museum
http://www.oldlewistonschoolhouse.org/web7.htm

グレッグに関しては、「サルビア・グレッギー」で以前に書いたものを加筆して紹介する。
グレッグは、多才な発展途上中の人だったようだ。
44歳でなくなっているが、彼が活躍していた時代は、日本では江戸から明治という激動の頃であり、米国では、東から西へというフロンティアスピリット真っ最中の時期でもあった。
彼を称して米国ではアメリカのフロンティアマンと呼んでいる。直訳すると「辺境の人」ということのようだが、イリノイ、ミズーリで育ち1824年彼が18歳の時に教師となったが、これ以降から「フロンティアマン(辺境の人)」として大きく人生が変わっていく。

彼は慢性消化不良と結核で病弱であり、1831年5月、彼が25歳の時に医者から自然の多いところで療養すると良いと言われ、学業をあきらめサンタフェ(Santa Fe、現在は米国ニューメキシコ州だがこの当時はメキシコの領土)行きの隊商に加わり貿易商になることを決意した。8週間で彼は完全に回復し、サンタフェで、貿易商サットン(Jesse Sutton)の帳簿係りの仕事を見つけ、そして、米国と北メキシコとの貿易商を目指した。

(地図)グレッギーが貿易商として活躍した地域(緑のピン)by google


1830年代に彼は、バン・ビューレンがあるアーカンソー州の北部にあるミズリーとサンタフェとの間での貿易取引に従事し、アーカンソーのバン・ビューレンからメキシコのチワワまでの新しい通商路のコースを切り開いた。
このコースの途中には、インディアンの居住地があり、西部劇で見る幌馬車に乗り点在する家々・村々を廻り、自然の脅威だけでなくインディアンにも襲われたようでありまさに西部劇そのものだったようだ。

このコースは、後にカルフォルニアの“ゴールドラッシュ”にあやかろうとする山師達のルートとなり西部開拓史のインフラとなるほどポピュラーになったという。
また、後の1849年からの米国陸軍マーシー大尉(Marcy ,Randolph Barnes 1812‐1887)の西部入植者の護衛通路でもこのルートが使われた。

グレッグの健康も回復し商いも順調に行き10年後にはかなり成功したという。しかし、彼が非凡なのは、38歳の時の1844年にサンタフェでの商売での経験をまとめた『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』という博物誌を出版したことだ。斜め読みする限りでは、観察眼に優れ当時の情景が浮かんでくる読み物となっている。


この本は大成功を収め、米国だけでなくイギリス、フランス、ドイツでも翻訳され出版されたというから、商人から一躍著述業・文化人となり、地図、地質、木の種類、人々の生活、政治状況などの権威ともなる。いわば、米国南西部とメキシコの北部地域の博物学・文化人類学・植物学・政治経済学などの権威となったのだ。

米国南西部から北メキシコ地域は、それだけまとまった情報が無かった地域であり、1850年代後半には、米国国務省も西部への入植者の事故・死亡の多さへの対処を考えざるを得なくなり、マーシー大尉(Marcy ,Randolph Barnes 1812‐1887)を呼び寄せ西部移住のガイドブックをつくることになる。マーシー大尉は、西部への幌馬車隊入植者に付き添って護衛する任務をテキサス州などで行っていて、地図などを作っていたので適任者だった。

マーシーが1859年に作成したのが「大草原の旅行(The Prairie Traveler: A Hand-book for Overland Expeditions)」で、西部入植者のガイドブックとして実践に基づいたマニュアル本となっておりベストセラーとなった。

西部開拓史初期におけるグレッグそしてマーシー大尉の足跡の大きさがこれらからも伺える。

貿易商から探検家・植物プラントハンターへの変身と人脈
『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』を出版した翌年の1845年に、グレッグは医学の学位をとるためにケンタッキー、ルイスビルの医科大学に入学し、1848年春まで一時医者をサルテヨ(Saltillo)で開業した。健康であれば学業をあきらめずに医学博士としてのコースを歩んでいただろうからこの果せなかった夢を実現したかったのだろう。

この医者時代に、ドイツ生まれで1833年のドイツでの学生主導での反乱・革命に破れスイス、パリなど逃亡生活を余儀なくされ、1835年に米国に移住した医師・植物学者・ナチュラリストのヴィスリゼヌス(Wislizenus ,Frederick Adolphus 1810‐1889)と知り合い、植物学にも興味を抱くことになる。

ヴィスリゼヌスは、1839年からセントルイスに転居し、1846年まで同じドイツ出身でミズリー植物園の創設者でもあるエンゲルマン教授(Engelmann, George 1809–1884)のもとで働き、1846年5月4日から1847年6 月8日までサンタフェ、エルパソ、チワワを通過してコアヴィラ(州都がサルテヨSaltillo).まで自費での探検旅行をした。しかし、テキサスへの領土野心を持った米国がメキシコに宣戦布告をしたのが1846年5月であり、スパイと疑われて6ヶ月拘留された。
この旅行では、帰国後の1848年に探検記を出版、また462種の植物を採取し、このことで彼を有名にした。

グレッグは、ヴィスリゼヌス、エンゲルマン教授と知り合うことで、プラントハンターとしての環境を整えたことになる。

この頃の米国とメキシコの関係
(地図)1847年までのメキシコの領土

(出典)ウィキペディア

米国は、現在の米国の中部全体に位置するルイジアナを1803年にナポレオン時代のフランスから1500万ドルという破格な安い値段で買収した。この時のルイジアナは、現在の米国全領土の1/4を占めほど広大な地域であり、この買収によって、太平洋岸の西部地域に進出する意欲が高まり多くのアメリカ人がメキシコ領北部そしてその先の太平洋側に流入してきた。

一方メキシコはといえば、1821年にスペインからの独立を宣言するが、この頃から現在のテキサス州に当たるコアウイラ&テキサス州(州都サルティヨ)にアングロサクソン系の入植者が来るようになり、1836年にはメキシコから分離独立してテキサス共和国をつくった。
ここが火種となり、1845年に米国はテキサス共和国を併合し、1846年5月にメキシコに宣戦布告をしアメリカーメキシコ戦争が勃発する。
この戦争はメキシコが敗北し、1848年2月のグアダルーペ・イダルゴ条約で、テキサス、カリフォルニアなどリオ・ブラーボ以北の領土を割譲し、メキシコは国土の半分ちかくを失った。

グレッグは、この戦争が起きた地域のことをよく知っているエキスパートであり、通訳・ガイド・通信員としてドニファン大佐(Doniphan, Alexander William 1808 – 1887))の隊に加わり、地図作成の情報を陸軍省のために収集した。
グレッグに植物学を教えたヴィスリゼヌスは、6ヶ月間メキシコ側に拘束されていたが開放された後は、ドニファン大佐の隊と共に行動しているので、ここでも二人は出会いがあった。
そして、「サルビア・グレッギー」は、この時に発見して採取したようだ。

グレッグ、サンフランシスコまでの新ルート開拓に向かう
メキシコとの戦争が終わった後のグレッグは、さらに未開拓地でありゴールドラッシュで沸いている米国西海岸のフロンティアにスイッチを切り替えることになり、1848年にメキシコ西部からカルフォルニア・サンフランシスコまでの探検旅行を行うことになる。

探検の目的は、太平洋に至るルートの発見とそのための地図作製、樹木・植物探索などで7人の探検隊を組織して出発した。道々緯度・経度を測ったり樹木植物の収集などを行ったので一日3~4km歩くのがやっとで、たちまち手持ちの食糧が底をつき飢餓との戦いでもあったようだ。ハーブといえば価値観があるが、野草を食べ飢えをしのいでいたという。
山を越え森林を抜け餓死直前に海に出会い、目的の太平洋に至るルート開拓が出来た。

がしかし、この探検隊はこの後仲間割れをして分裂してしまう。隊長グレッグと一緒に行動すると飢えてしまうということを知ったせいでもある。
グレッグはサンフランシスコに戻る途中に悪天候にあい落馬した。そして動けない彼は見捨てられ餓死した。1850年2月25日だった。

44歳の若さであったが、彼の名は、西部開拓史に残る探検家であり、採取した植物などは、セントルイスの著名な植物学者エンゲルマンに送っていたので、23種にグレッグの名前が残り、サルビア・グレッギーはそのうちの一つだが、米国の大植物学者グレイ(Gray,Asa 1810‐1888)によってその功績を讃えられ名付けられた。

さらに、サンフランシスコの南にフンボルト湾があるが、ここは1775年にスペイン人によって発見されたがそれ以降忘れられていた。グレッグ隊が再発見をしてそれを確認するために派遣されたモーガン将軍とローラヴァージニア達が1850年3月にフンボルト湾と名付けたという。

教師、行商の商人、雑貨屋の店主、医師、地図測量技師、探検家、ナチュラリスト、植物コレクター、作家などいくつもの顔を持つグレッグ。
好奇心がフロンティアを拡張しそれぞれに水準の高さを足跡として残していった。
「サルビア・グレッギー」は、フロンティアに咲いていた花であり、フロンティアをいくつも乗り越えていったヒトの花でもあった。
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No8

2010-07-05 08:56:20 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No8: メキシコのサボテンを世界に広めたプラントハンター、ガレオッティ

そういえば、シリーズN04のベルギーのプラントハンター“リンデン”のところでこんな記述をした。
「リンデン探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。」

この時はリンデンと同郷のベルギーの探検家としてしかガレオッティを認識しなかったが、リンデンたちと行動を共にすることによってプラントハンターとして育っていったようだ。
リンデン探検隊は1838年にメキシコ探検に来ているが、ガレオッティは、1835年大学卒業後直ぐにメキシコの地質学的なリサーチに派遣されて来ていたので、リンデン達よりもメキシコ探検の先輩であり、地質学的な探索だけでなく、プラントハンティングにも興味関心が広がっていったのだろう。

ガレオッティの生い立ち
ガレオッティは、1814年にパリで生れ、1830年8月にベルギー独立の革命がおきるがこの直後あたりにベルギー・ブリュッセルに父親と共に移住し、有名な地質学者で地図製作者でもあったファンデルマーレン(Vandermaelen, Philippe 1791-1869) が1830年に設立した“Etablissement Géographique de Bruxelles”で学んだ。直訳するとブリュッセル地理学院とでもなるのだろうか?

ガレオッティは優秀な卒業論文を書き、1835年にベルギーのアカデミーから金メダルを受賞したが、この授賞式には出席せずにメキシコに出発し、その年の12月に到着している。
彼がメキシコに行ったのは、ファンデルマーレン兄弟がスポンサーとなり、中央アメリカの地質学的な情報を収集するためであり、メキシコには1835-1840年までの5年間滞在し、オリザバ山の登頂、Chapala 湖の地図と博物誌などの作成が実績として残っていてこれらが本来の探検旅行の目的であった。
スポンサーのファンデルマーレン兄弟は、家業がフランダースの裕福な石鹸メーカーであり、フィリップは家業を継がずに地図製作者として名を上げ、中央アメリカの地図製作のための情報を収集するためにガレオッティをメキシコに派遣した。

しかし、ガレオッティは、このメキシコ滞在期間中に植物学への興味を深め、数多くの植物、特にサボテンを採取して1840年にベルギーに戻った。彼が集めた植物と標本は、後にブリュッセル植物園が購入している。

帰国後、ブリュッセル大学で地質学を教える職を提供されたが、これを断り、郊外で育種園を経営するビジネスを選択し、帰国直後の1840-1841年に、サボテンなどを輸入して販売するビジネスを具体化するためにメキシコに旅行した。

開業資金面では、彼の友人である数学者のケトレ(Quetelet, Lambert Adolphe Jacques 1796 –1874)に出資を頼んだが、彼は、サボテンとガレオッティの夢を理解することが出来なかった。そこで資金調達のために、彼のメキシコでの植物コレクションの一部(8000標本)を売ることにしたが、その中のたった一つのサボテンが労働者の一年の賃金に当たる500フランで売れたというから好事家のマーケットが成立していたようだ。
やはり、事業を立ち上げるのは大変だ。

この育種園では、植物学者マルティン(Martens, Martin 1797-1863)と一緒に働き、ガレオッティが採取した植物の同定・分類などを担当し、多くの植物に命名者として“M.Martens & Galeotti”と足跡を残している。
ただし、同定するための過去の植物情報が少なかったためか、或いは、唯我独尊だったのかわからないが、先に発見され命名されているモノが結構あり、マルティンとガレオッティが命名した植物名は受理されないものが多い。
植物命名の総本山であるロンドンのリンネ協会、キュー植物園などとのネットワークが無かったのか、この権威を認めていないためなのか、或いは園芸ビジネスに主眼を置き学名などに気にもとめていなかったのか、チェックが甘かった。
ガレオッティの採取した植物を調べていてこれには大分泣かされた。一つの植物品種には一つの名前というリンネの考えは正しいし間違いが排除できる。と調べることに無駄に近い汗をかきながら思った。

ガレオッティの育種園は、経済危機も影響し1849年頃倒産する。
この頃のヨーロッパは10年周期で景気の変動があったが、ジャガイモの根ぐされ病、ペストの流行などで1845-1849年のアイルランドの大飢饉は、100万人が餓死し100万人がアメリカなどへ移住したという。ケネディ家もこの時の移民の一人であり、アイルランドからの移民の子孫から米国大統領を輩出するが、これは後のことであり、ヨーロッパでは経済危機と革命の嵐が吹き荒れる時期にガレオッティの育種園が倒産した。
ガレオッティの育種事業は10年持たなかったが、メキシコのサボテンを世界に広めたのはガレオッティであることは間違いない。

1852年からはブリュッセル植物園と一緒に園芸誌“d’Horticulture pratique”の編集を始め、1857年に最初の発刊を行った。
また、倒産後の職としてブリュッセル植物園に1853年から彼が亡くなる1858年まで園長として勤め、彼の個人的なコレクションは死亡後に植物園が買い取った。
44歳と早世であったが、メキシコのシダ、サボテンなどで新しい種の発見など成果を残している。

ガレオッティが採取したサルビア
キュー植物園の植物標本登録データベースには、ガレオッティがメキシコで21種のサルビアを採取したと記録されている。そのうちのいくつかを紹介する。

(1)Salvia longispicata
 
(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm

ガレオッティが1840年にメキシコ南西部で発見・採取した「サルビア・ロンギスピカタ」は、標高400‐2000mの地域に自生する1.3mぐらいの小さな多年生の潅木で、青紫の花を長い花序にコーンのようにスパイク状に密集してつけるので“ロンギスピカタ”(long+spike)という種小名がつけられた。
しかし、実物の写真を掲載しているところが少なく、現在はあまり栽培されていないのだろう。この写真も実物とマッチしているかどうか疑問のところがあるという。

この「サルビア・ロンギスピカタ」は、「サルビア・ファリナケア(Sslvia farinacea)」との自然交配で“ラベンダーセージ”で知られる「サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')」が誕生していて、こちらの方が有名になっている。

(写真)サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')

※ サルビア・インディゴ・スパイヤーの説明はこちら

(2)Salvia chrysantha (類似:Salvia lasiantha(True Species))
(写真)類似のサルビア・ラシアンサ(True Species)

(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm

採取年は不明だが、学名は「サルビア・ロンギスピカタ」同様に1844年にMartens &とGaleottiによって命名されているので、1840年頃採取されたのだろう。採取した場所は、メキシコ中部のザカテカス州カニタス・デ・フェリッペ・ペスカドル付近の山中。というところまではわかったが、このサルビアの植物情報がなかなか見当たらない。仕方ないので類似の「サルビア・ラシアンサ」の写真とその植物情報を記述する。
「サルビア・ラシアンサ」は、冬に開花するサルビアで温室で育てる必要がありそうだが、赤紫の萼とオレンジの花のコンビネーションが見事な花だ。こんなサルビアもあったのだと感心してしまう。

(3)Salvia galeottii(同義 Salvia coccinea)

「サルビア・ガレオッティ」は、1840年6月にメキシコ、ベラクルーズの近くにあるハラパ(Jalapa)でガレオッティによって採取され、1844年に「Salvia galeottii」と命名された。しかしこの花は、「サルビア・コクシネア」と既に違った学名で1777年に発表されておりこれが優先されている。
「サルビア・コクシネア」は、日本でも普及していて、園芸品種を含めてピンク、レッド、ホワイトなどカラフルな花色が楽しめる。
(写真)サルビア・コクシネア

サルビア・コクシネアの説明はこちら

(4)Salvia martensii (同義:Salvia carnea var. carnea)

(サルビア・カルネアの写真リンク)The National Gardening Association

「サルビア・マーテンシィ」は、1840年にガレオッティがメキシコ南西部で採取したサルビア。1844年に「Salvia martensii」と命名されたが、「サルビア・カルネア(Salvia carnea var. carnea.)」と同じであり、メキシコシティから南西方向に150km行ったところにあるバレデブラボ地域に自生する。夏から秋にかけて長い花穂を伸ばし、淡いピンクの小さな花をつける。木質性の1.2mぐらいの潅木で、温暖なところでは一年中花をつけるというが、耐寒性が弱いようなので育てにくいようだ。

雑 感
1830年にオランダから分離独立したベルギーは、北部がオランダ語圏、南部がフランス語圏で、現在でもこの違いが解決しないで分離独立の動きがあるという。
この新興国ベルギーのプラントハンターであるリンデンとガレオッティには、生涯プラントハンターを追及した英国のプラントハンターとは異なり、スポンサーから独立した財政基盤を創ろうとする共通した行動が見られた。この違いはどこから来ているのだろうかという疑問と興味がわいてしまった。

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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No7

2010-06-28 14:41:04 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ

(写真)サルビア・パテンス
 
サルビア・パテンスについてはここを参照

「サルビア・パテンス」のこれまでの謎
6月ともなるとこの美しいブルーの花が咲く。サルビアの中では大柄な花であり、花数は少なく、しかも一日花では無いが二日程度しか咲いていない。
この印象に残る美しい花なのに、園芸の歴史的記録に残されていない事実がある。

「サルビア・パテンス(Salvia patens Cav.)」の学名は 、1799年にスペインの植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)によって命名されているが誰が採取したか不明だった。

一方、ミズリー植物園のデータベースに記録されているコレクター(発見・採取者)で最も早いのは、1863年にエンゲルマン(Engelmann, George 1809–1884)がメキシコで採取したとあるので、命名時期より相当時間がたってからの記録となる。

そして、園芸市場に登場したのは1838年頃とBetsy Clebsch著「The New Book of SALVIAS」に書かれているが、誰が園芸市場に持ち込んだかもわからない謎があった。

この「サルビア・パテンス」を園芸市場に持ち込んだのが、ロンドン園芸協会からメキシコに1836年に派遣されたプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)のようだ。
これは、“Mexconnect”というメキシコの専門Webに掲載されたTony Burtonの論文に書かれていて、時期及びハートウェグの探検コースから見ても納得できる要素がある。

ハートウェグが採取した植物で有名なのは、その後大ブームとなったラン、英国では落葉樹が多く針葉樹が少ないこともあり様々な針葉樹などであり、パトロンの園芸協会も興味関心からサルビアは外れていたのだろう。
この「サルビア・パテンス」に関心が向くのは、自然で野性的な庭作りを提唱したウイリアム・ロビンソン(William Robinson 1838-1935)が「英国のフラワーガーデン」1933年版で“園芸品種の中で最も素晴らしい植物のひとつ”と絶賛してからであり、それまで忘れられていたようだ。
“美”とは、それを受け入れる認識が出来ないと美しく感じないのだろう。

ハートウェグのキャリア
1830年代にメキシコを探検したプラントハンターは3人いる。シリーズNo3のフランス人と思われるアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)、シリーズNo4のベルギーのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)とその仲間達。
そして、三番目がドイツ人のプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。

ハートウェグは、ドイツ、カールスルーエの庭師の家系に生れ、早くから植物学の英才教育を受けた。パリに出てパリ植物園で働いていた頃、キュー植物園のフッカー(Hooker,William Jackson 1785-1865)にその才能を見出されロンドン園芸協会のプラントハンターとして採用された。

最初の探検旅行は、ハートウェグ24歳のときの1836年にメキシコに派遣された。メキシコが選ばれたのは、この時期には中南米の植物が魅力的であることが知られており、
3年間の予定であったが7年間にもなり、1843年に英国に戻るまでにメキシコ,中央アメリカ、南アメリカとジャマイカを探検し、ヨーロッパで知られていなかった数多くの植物をロンドンの園芸協会に送った。

同時期に中南米で活躍したベルギーのプラントハンター、リンデンも数多くのランを採取し、“リンデンのラン帝国”といわれるほどの園芸種を栽培して販売したが、ハートウェグも数多くのランを採取しランブームを演出した。しかもこの二人は、メキシコとコロンビアで遭遇していてプラントハンターとして熾烈な競争相手でもあったようだ。

ハートウェグが送った植物は、英国で19世紀最高の植物学者と評されるようになるベンサム(Bentham ,George 1800-1884)によって分類され1839年からシリーズで出版した『Plantae Hartwegianae』に記載された。このベンサムは、中南米の植物の権威となり、なかでもシソ科・サルビア属の権威ともなったが、ハートウェグ、G.J.グラハム(Graham, George John 1803-1878)などのプラントハンターが採取した植物標本が彼の元に集まったから整理・分類できた。

英国の素晴らしさは、園芸協会のようなプラントハンターのスポンサーだけでなく、キュー植物園・植物学者などとの連携をとり、実業だけでなく基礎研究も同時に進めたところにありそうだ。ワンソースマルチユースを実践しているところが素晴らしい。
唯一不満なのは、ベンサムも同じだが、植物学者として登場する者の多くが親の膨大な遺産を受け継いだ貴族・富裕階級であり、その資産を使った暇つぶし的、趣味的なところがあることだ。プラントハンターにはこの出自の良さが無く、ハングリーで結果勝負だからシンプルだ。

ハートウェグのメキシコの探検
1836年メキシコの大西洋岸にあるベラクルーズに到着したハートウェグは、ドイツの植物学者サルトリウス(Sartorius ,Carl 1796-1872)を訪ねている。

サルトリウスは、ハートウェグより10年前にメキシコに来て、ユカタン半島の付け根部分に当たる現在ではグアテマラ北部に位置するエル・ミラドールで牧場とサトウキビ農場を経営し、かたわらでベルリン植物園のプラントハンターとしてメキシコの植物を採取して送っていた先輩に当たる。
サルトリウスは、ヨーロッパからメキシコに来た植物学者・プラントハンターが表敬訪問するキーマンとなっていて、ベルギーのプラントハンター、リンデンも彼を訪問している。

ところでこの エル・ミラドール(El Mirador) だが、ジャングルに覆われていたところから1926年にマヤ古代都市がここにあったことが発見されたところであり、紀元前6世紀頃には人口10万人を超える繁栄を誇ったが、燃料となる樹木を刈りつくしたか或いは水がなくなったのか都市を維持できなくなり、放棄されジャングルに覆われていたという古代ミステリーの地でもある。

(参考映像)The Tombs of El Mirador

ハートウェグの歩いたところを地図に描いたが、1836年から1839年までメキシコを探検した。コースは、ベラクルーズからレオン、ラゴスデモレノ、アグアスカリエンテス、そして1837年10月の初めには鉱山町のボラーニョスに着いた。ここからは、サカテカスに向かい、1838年2月にサンルイスポトシに着いた。グアダラハラ、モレリア、メキシコシティと南下し、メキシコシティから英国に収集した植物などを荷造りして送り出した。この中に、サンルイスポトシあたりで採取した「サルビア・パテンス」が含まれていたのだろう。
とすると、1838年に英国に届き庭園に植えられた可能性が高まる。

さらに南下してオアハカ、チャパスに向かい、グアテマラ、エクアドル(1841-1842)、ペルーとジャマイカに旅行し、1843年に英国に戻った。

(写真)ハートウェグの探検コース(黒:第一回、赤:第二回)
  

第一回の探検が大成功だったので、同じ目的で第二回の探検として、1845年から1848年までメキシコ、カリフォルニアへの探検に出発した。
メキシコのベラクルーズに到着したのは1845年の11月で、太平洋側のマサトランに向かってメキシコを横切り、雪をかぶったOrizabas山の東側で「Hartwegia purpurea」と名づけられたランを発見した。

カリフォルニアへの出発は1846年5月まで出来なかった。英国と米国の間でビバカリフォルニアの領有問題があったためで、6月になってやっと出発することが出来、サンフランシスコ、サクラメントバレー、そしてシェラ山麓に旅をした。南方では、ソウルダット、サンアントニオ、サンタルチア山脈を探検し、耐寒性の強い植物。樹木、ランなどを採取し、これらの植物は園芸協会を満足させるものであった。

彼がメキシコの高地で種を集めた多数の針葉樹と彼がうまく耕作に導入した多数の新しいランを含むいくつかの重要な発見をした。

ハートウェグが採取したサルビア
ハートウェグは、メキシコで8種類、その他の地域で8種類、合計16種類のサルビアを採取している。そのいくつかを紹介すると。
(1)サルビア・メリッソドラ(Salvia melissodora)

(写真出典)ボタニックガーデン

メキシコ、シエラマドレ西側の山脈地帯で、チワワから南のオアハカまでの1200-2500mの乾燥した山中に自生し、そのたたずまいは上品であり灰緑色の葉からはグレープの香りがし、Grape-scented sageとも呼ばれている。すみれラベンダーの花にはミツバチ・蝶・ハチドリなどがひきつけられ、初霜の時期から春まで開花する。
日本で育てる場合は、温度管理が重要で軒下などの日当たりが良いところで育てる。
メキシコのタラフマラ族のインディオに解熱剤として長く使われてきたハーブでもある。1837年にハートウェグがメキシコで採取。

(2)サルビア・キーリー(Salvia keerlii)
  

これから人気になるサルビアで、1m×1mのワイドな潅木に育ち、夏から秋にかけて短い花序にライラック色の花が咲き誇る。灰緑色の卵型の葉は芳しい香りがする。
1839年にハートウェグがメキシコで採取。

(3)サルビア・ストロニフェラ(Salvia stolonifera)

(写真出典)
http://home.earthlink.net/~salvia1/SlvSum01.htm#stenophylla

メキシコ・オアハカの2500-3000mの雲霧林に自生する落葉性の多年生植物で、レンガ・オレンジ色の大きな花が特徴的で、1839年にハートウェグが採取した。

(4)サルビア・サビンシサ(Salvia subincisa)
   
(写真出典)Intermountain Region Herbarium Network

直立の小型のハーブであり、深い青紫の中に白いマークが入った花色が美しい。
乾燥した砂地やロードサイドに自生する。葉は鋸状の切れ込みがある細長く、この特色が別名で“sawtooth sage(鋸状の歯のセージ)”と呼ばれる。

(5)サルビア・ビティフォリア(Salvia vitifolia)

(写真出典)
http://mailorder.crug-farm.co.uk/default.aspx?pid=11649

夏から秋にサルビア・パテンスに良く似た大型の美しいブルーの花を咲かせる。葉は、緑色の大きなベルベットのようなタッチの葉なのでサルビア・パテンスと区別しやすい。メキシコ・オアハカの森林の中に生息する。1839年にハートウェグが採取。

ハートウェグがメキシコで採取したサルビアを通してみると、どれも素晴らしい。
メキシコ以外で採取したサルビアを最後に記載しておく。

Salvia derasa (Colombia)
Salvia excelsa (Guatemala)
Salvia flocculosa (Ecuador. Riobamba)
Salvia nana var. eglandulosa (Guatemala. Quetzaltenango)
Salvia pauciserrata (Colombia. Bogata)
Salvia pauciserrata subsp. pauciserrata (Colombia. Bogata)
Salvia rufula subsp. latens (Colombia.)

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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No6

2010-06-21 18:57:30 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No6:ロンドン園芸協会(王立園芸協会RHS)とプラントハンター

1830年代にメキシコを探検したプラントハンターは3人いる。シリーズNo3のフランス人と思われるアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)、シリーズNo4のベルギーのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)とその仲間達。
そして、三番目がドイツ人のプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。

ハートウェグは、ドイツ人なのにロンドン園芸協会から中南米の植物相の研究で派遣され、コロンビア、エクアドル、グアテマラ、メキシコ、カリフォルニアなどを探検し、多数の植物を採取した。キュー植物園のデータに登録されているだけで、1296種もあるので膨大な植物を採取したことは間違いない。

ロンドン園芸協会の誕生とプラントハンター
ハートウェグをプラントハンターとして契約したロンドン園芸協会は、1804年に誕生し、1861年には、ヴィクトリア女王の夫アルバート公により現在の名前の王立園芸協会(Royal Horticultural Society略称RHS)に発展し、王立キュー植物園、リンネ協会などとともに世界の植物情報をリードする立場をつくった。

この活動の最初は、1800年にウェジウッド創設者の息子で熱帯の果実に興味を持っているJohn Wedgwood(1766 -1844)によって提唱され、1804年3月7日、ロンドン、ピカでリーにあるハチャード書店に7人のメンバーが集まり設立会議が持たれた。

余談だが、1600年代の中頃にヨーロッパにコーヒーが伝わり、“覚醒”と“興奮”をもたらしたようだが、英国では“コーヒーハウス”、フランスでは“カフェ”から近代の様々なものが誕生した。そこには、新しもの好きの人々が集まるので、学会、ジャーナリズム、海運保険、さらにはフランス革命、民主主義までコーヒーハウス、カフェから誕生した。
しかし園芸協会はコーヒーハウスから誕生したわけではなく、1797年に開店したばかりの本屋、ハチャード書店で最初の会議が行われた。これは、コーヒーの輸入代金の支払いが多すぎたので、紅茶に転換させた英国の国策があり、1700年代後半にはコーヒーハウスが廃れていった現実が反映している。

園芸協会設立会議の出席者は、ウェジウッドが議長で、王室庭園の管理者フォーサイス(William Forsyth 1737–1804) 、ナーサリーの経営者ディクソン(James Dickson 1738-1822 ) 、王立協会の理事長で英国の科学技術の総帥バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820) 、バンクス卿の友人で古物研究家・熱帯植物の愛好家のグレヴィル(Charles Francis Greville 1749–1809)、 リンネの植物分類に異をとなえた植物学者ソールズベリー(Richard Anthony Salisbury 1761-1829)、 キュー植物園の園長を務めた父親が書いた植物図鑑『Hortus Kewensis』の第二版を後に出版したエイトン(Aiton ,William Townsend 1766–1849)の7人で、英国の庭園と園芸の促進を進める協会の設立を決議した。
後に、バンクス卿は文通相手で植物の栽培に科学的なアプローチを適用している地主のナイト(Thomas Andrew Knight 1759-1838)を設立メンバーに推薦したので8名がロンドン園芸協会の創立メンバーとなる。

30代から70歳に近いフォーサイスまで年代的にバラバラなメンバー構成だが、バンクス卿につながった人脈で構成されていて、世界は広いが事を決する人脈は狭いということを示している。1788年に設立されたリンネ協会も似たような人間が設立メンバーとなっているが、異色なのはリンネ方式を否定するソールズベリーが入っていることだろう。

(写真)Thomas Andrew Knight 1759-1838
  
(出典)http://www.npg.org.uk/

この園芸協会の基盤を創ったのは、初代理事長ダートマス伯爵(George Legge, 3rd Earl of 1755 –1810)の死亡後、1811年から1838年まで理事長になった第二代の理事長ナイトの時期であり、1821年に志し高く実験的な庭園を作るためにチェスウィックにあるDuke of Devonshire'sの土地を借り、造園家として1823年にパクストン(Joseph Paxton1803-1865)を採用した。彼は後に巨大温室「クリスタルパレス」の設計者となる。(シリーズNo4に登場)
1833年には、今日「チェルシーフラワーショー」として知られる“花と野菜のショー”を開催し、優れた園芸品種を評価・表彰することを始めた。

園芸協会の活動の柱は、庭園と園芸の普及だが、海外の植物の調査研究と英国への導入も大きな目標となっている。1700年代中頃からは王立キュー植物園が海外にプラントハンターを派遣していたが、この中心にいたバンクス卿が死亡した1820年以降は活動が停滞し園芸協会及び園芸ブームで成長しているヴィーチ商会などのナーサリーがその肩代わりをするようになる。

園芸協会がプラントハンターを海外に派遣した始まりは、ナイトが理事長の時の1815年が最初だった。この頃はバンクス卿も健在なのでキュー植物園と共同の派遣のようで、その運営ノウハウを取得するには好都合だったのだろう。
派遣されたのは、東インド会社のお茶の管理官リーブス(John Reeves1774-1856)で、中国・広東で1817年から1830年までの間に700点以上ものキク、シャクヤク、ツバキなどが描かれた植物画を収集し園芸協会に送った。これは中国の植物画の最初の重要なコレクションであり西洋の科学に相当な影響を与えたという。
そして中国が開国する1842年にはフォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)を中国に派遣する。

中国以外では、1821年にドン(Don, George Jr. 1798-1856)をブラジル、西インド諸島、西アフリカのシエラレオネに、1824年ダグラス(Douglas,David 1798-1834)を北アメリカに、そして1836年にハートウェグがメキシコに派遣された。

このように、ロンドン園芸協会の生い立ちは、園芸好きな女性の姿の影も形もなく、男性それも貴族の趣味性が強く出ている。
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No5

2010-06-18 12:11:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No5: ラテンアメリカ・熱帯植物への関心の高まりと園芸の技術革新

中南米の植物相の魅力、つまり熱帯・亜熱帯性植物の魅力は、18世紀にはヨーロッパでも知られるようになっていたようだ。

(写真)ヒメヒマワリの花
  

「ヒマワリ」の場合は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込み、医師・植物学者・マドリッド植物園長で1571年出版の『新世界の薬草誌』で、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことで知られるニコラス・モナルデス(Nicholas Monardez 1493-1588)がヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van 1853-1890)がヒマワリの絵を描いたのは1888年頃であり、この頃にはヨーロッパにかなり広まっていた。

中南米の植物の魅力を広く知らしめたのは、「ダリア」と、シリーズNo2で触れた1799年から1804年に実施した「フンボルトのラテンアメリカ探検隊」だった。
「ダリア」の場合は、1801年からマドリッド王立植物園の園長を死亡する1804年まで務めたカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 – 1804)が、ダリアをヨーロッパで初めて開花させ、メキシコ・中南米の熱帯植物への関心を高めるに至った。

一方、フンボルトと一緒に旅行したフランス人の植物学者ボンブラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)は、彼自身が採取した60,000種に及ぶ植物標本と、新発見した植物などを「Plantes equinoxiales」としてまとめ1808年にパリで出版しており、彼らが旅行したベネズエラ、コロンビア、ペルー、エクアドル。キューバ、そしてメキシコの植物相が1800年代の初めには知られるようになった。

19世紀の発明、巨大温室とウォードの箱
この熱帯植物の関心を寒冷地の英国・ベルギー・ドイツなどで現実に栽培できるようになったのは、産業革命の恩恵でもある“鉄”と“ガラス”と“スチーム”であった。産業革命以前は木枠の小さな温室しか出来なかったが、鉄とガラスで巨大温室がつくられるようになり、1800年代は、熱帯植物、“ラン”がブームとなる。
また一方で、室内でのシダ類などの観葉植物ブームもあったが、これは、産業革命で汚れた大気・スモッグというマイナスナ環境から生じたブームであり、小さなガラス箱で育てるなどが流行した。
このように、“鉄”と“ガラス”が巨大温室を可能とし、熱帯の植物・樹木が富の象徴として鑑賞の対象となった。

巨大温室の代表的な建築物は、庭師でもあり庭園設計家でもある英国のパクストン(Joseph Paxton1803-1865)によって設計された「クリスタルパレス(The Crystal Palace)」であり、1851年にロンドンで開催された第一回世界博覧会の会場Hyde Parkに建設された。

(写真)クリスタルパレス
  
(出典)
http://www.davidruiz.eu/photoblog/index.php?showimage=792

植物を採取するプラントハンターから見た場合にも大きなイノベーションがこの時期にあった。生きた植物を本国に送るのは大変だった。太陽と海水から甲板の植木箱を守るのが難しく、種子・球根・根などに頼らざるを得なかった。
1829年頃、英国の外科医師ナサニエル・バグショー・ウォード(Nathaniel Bagshaw Ward、1791-1868)は、蛾などのマユを保管していたボトルの中でシダの胞子が少量の肥料で発芽し成長していることを発見した。そこで木製のガラス容器を作り、その中でシダ類が育つことを確認し、この実験結果を発表した。
最初の航海での実験は1833年7月にオーストラリア、シドニー行きの船で行われた。
目的地についても容器の中の植物は元気であり、生きた植物を運搬する容器として使えることが検証された。
これを“ウオードの箱(Wardian case)”と呼び、これ以降の英国のプラントハンターにとって採取した植物の必携の運搬容器となった。特に1860年に日本に来た英国のプラントハンター、ロバート・フォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)は、発明者とは友人関係にあり率先して使っていて、足りない場合は、横浜の大工に“ウォードの箱”を作らせ採取した植物を梱包して送ったという。(その大工はこれをマネシタさんで活用したかどうかは定かではない?)
“ウォードの箱”は、プラントハンターの成果を飛躍的に高めただけでなく、スモックで汚れた英国の植物栽培・鑑賞でも、上流家庭での室内観葉植物の容器としておしゃれなデザイン開発がされ流行したという。(発明者のウォードは、これで特許をとり儲かったかも定かではない?)

(写真)“ウオードの箱(Wardian case)”
  
(出典)http://www.wardiancase.com/

1800年代の中頃までには、寒冷地でも熱帯植物を育てて鑑賞する施設、温室が出来上がり、また生きたままで運搬するウォードの箱が実用化され、世界の珍しい草花・樹木が英国などで育てられる基礎環境が整った。
後は、世界の珍しい植物を採取するプラントハンターとその費用を負担する目的なり意義が課題となるが、植物のファン・マニアが集まった園芸協会が重要な役割を担ったので、この歴史は次回に触れることとする。
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No4

2010-06-13 13:35:19 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No4: 
複式簿記的頭脳を持った? ベルギーのプラントハンター、“リンデン”

英国よりも半世紀以上遅れているが、ヨーロッパの小国であるベルギーでも海外に派遣したプラントハンターがいた。
ベルギーが位置するネーデルランド南部は、歴史的に園芸が盛んなところでこの土壌があったのでプラントハンターを派遣したのだろうと思ったが、そうではなかった。

このネーデルランドへの園芸の普及は、ユグノー教徒の移住と関係がある。
ルイ14世が改革派教会(カルビン派)の保護を約束したナントの条約を破棄した1685年以降、ユグノー教徒が迫害を逃れフランスから移住した。ユグノー教徒が移住したネーデルランド、イギリス、南アフリカ、米国には、彼らが愛した園芸とその栽培技術を持ち込み、花を愉しむというタネをまいていったという。

では、ベルギーのプラントハンター派遣の経緯を見てみよう。

(写真)Linden, Jean Jules 1817-1898


(出典)国立ベルギー植物園
http://www.br.fgov.be/PUBLIC/GENERAL/HISTORY/lindenherbarium.php

1817年ルクセンブルグで生れたリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)は、1834年にブリュッセルの大学の科学学部に入学し、1835年の春、ベルギー政府がラテンアメリカの動植物などの科学的な調査を目的とした探検隊を募集しているのに応募した。
この探検隊には、リンデンの他に動物学としてのフンク(Funck,Nicolas 1816-1896) ,植物学としてギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste 1810-1893)も選ばれた。

三人の中ではリンデンが最も若く、彼が18歳の時の1835年9月25日にアントワープを出発した。目的地はブラジルであり、3ヶ月かかって大西洋を渡りリオデジャネイロにはその年の12月27日に到着した。
ブラジルでは動植物を採取・捕獲し、この探検でランへの関心が芽生え生涯を通じての目標となった。
1837年3月にベルギーに戻り科学者だけでなく国王からも温かい歓迎を受け金メダルを授与された。リンデンも若いわりにはしっかりしていて、国王に採取してきた自分用の珍しい植物をプレゼントし、最高のスポンサーをこれ以降も握り続ける。

王室の庭園を飾る植物が欲しくてラテンアメリカに探検隊を派遣しているわけではないことがこれでわかるが、ベルギー政府が何故このような探検隊を組織してラテンアメリカに送り込んだかが疑問となる。この疑問を解くにはベルギーの歴史を知っておく必要がありそうだ。

ベルギーの歴史

  

現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクをベネルックス3カ国とも言うが、この3カ国の低湿地地帯をネーデルランドと呼んだ。
この地域は、中世から水路交通の便利さを生かした商業、毛織物工業そして芸術・文化が栄えたところであり、ヨーロッパの名門ハプスブルグ家(オーストリア)、スペインのハプスブルグ家、ナポレオンのフランスなどの支配下に入り、また旧教と新教徒との宗教的な対立が激しくあったところでもある。
単純化した図式でいうと、ヨーロッパの旧体制と新体制が激突した先進的な地域だと言っても良さそうだ。

ポイントだけを掴むと、ネーデルランドは、スペインとの長い戦いを経て1596年に北部7州がネーデルランド連邦共和国として独立し、1600年代の100年はスペイン・ポルトガルに替わり世界No1の覇権国家として急成長した。
その後イギリス、フランスに押され、この両国のバランスの下で振り子のように舵を取っていたが、ナポレオンが失脚した後の1813年にベルギー、ルクセンブルグを含むネーデルランド王国(現オランダ王国)が出来た。
初代の国王ウィレム1世は、新教徒が多いオランダ中心の治世を行ったため、カソリック系の住民が多いベルギーは分離独立戦争を行い1830年にフランス語を公用語としたカソリック国家として独立を宣言した。翌年の1831年にレオポルド1世(Léopold Ier、在位1831-1865)が初代国王として就任した。
言葉と宗教と経済的差別がオランダからの独立の原因だが、宗教はいまなお争いの原因として厄介な代物となっている。

独立後のベルギーは、農業国家から脱皮し、独立して10年後の1840年頃にはヨーロッパ大陸で最初に産業革命を達成したヨーロッパ有数の工業国となり、原材料の輸入と製品の輸出での海外進出に積極的となる。

リンデンのラテンアメリカ探検隊の狙い

リンデンたちのラテンアメリカ探検隊の企画は、ベルギー政府が1835年春に立案し、この年の9月には実施されているので、このスピーディな意思決定はトップダウン型の理屈抜きのところがありそうだ。
理屈は後で説明するとして、意思決定をはやめた要因は、国王レオポルド1世の長男で後のレオポルド2世(Leopold II)が1835年4月9日に誕生したことにありそうだ。探検隊企画立案のタイミングがピッタリだし、真の狙いを付け足しにして誕生を祝うイベントとして提案したのだろう。

さてその理屈だが、公式には“ラテンアメリカの動植物などの自然科学及び社会科学的な調査研究”とあるが、最大の狙いは、1831年に出来たばかりのベルギーという国の国内向けの“シンボル操作”的な国家事業であろう。
国民に建国されたばかりのベルギーという国を意識させ、現在の不満を我慢し目を国外に向けさせるオーソドックスな政治手法の一つだが、戦争ということをやらないで探検という手段をとった見識は素晴らしい。
そして、農業から工業にシフトしつつある途上での商品・製品の輸出先としてのラテンアメリカの国情・市場調査も大きな狙いだった。というよりもこちらが本線の狙いだったのだろう。
リンデンたちへの資金支援を三回も行ったので、探検隊の名を借りた市場調査は成果があったのだろう。
しかし三回目の探検旅行は、ベルギー政府の思惑とリンデンの思惑とにズレが生じたのか、ベネズエラ・コロンビアへの探検旅行の企画では政府助成金が削減された。
政府は輸出市場での商業情報の収集・調査が目的だが、リンデンたちは園芸商品のビジネス化が目的となっていったのでズレが生じたのだろう。

メキシコ探検

最初の探検であるブラジルから戻ってきて半年後の1837年9月に、三人の探検家チームは第二回探検隊のキューバ・メキシコ探検に向けてフランスのルアーブルから出港し、12月にキューバに到着した。

翌1838年からはメキシコ中部の大西洋側にあるベラクルーズからユカタン半島先端までを探検し、商業情報の収集と数多くの動植物の採取を行った。キュー植物園のデータでは、メキシコでの植物の新種採取は171種が採取されている。
また探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。

(写真)Pico de Orizaba(5611m)

(出典)
http://www.skimountaineer.com/ROF/ROF.php?name=Orizaba

ユカタン半島あたりでリンデンは黄熱病になり回復に時間がかかったので仲間二人とわかれ、Funck とGhiesbreghtは 1840年9月にベルギーに戻った。一方、リンデンは、キューバ、米国経由で12月末にベルギーに戻った。

リンデンは、第三回のベネズエラ・コロンビア探検の時に、ジャマイカ・キューバ・メキシコ・米国を経由して帰るので、メキシコには1844年の夏場にも来ている。

リンデンが採取したメキシコのサルビア
リンデンは、メキシコで6種類のサルビアを採取・発見している。
「サルビア・リンデニー(Salvia lindenii)」 「Salvia antennifera」「Salvia biserrata」 「Salvia cacaliaefolia」「Salvia rubiginosa」などである。
ドゥ・カンドールが「植物界の自然体系序説」で記述した三つのサルビアを紹介すると。

(1)Salvia lindenii

メキシコ、グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルの1200-2500mの山の松とオークの森の端に生息し、花色は赤からピンク。葉は灰緑色でバランスがよいサルビアだ。樹高1.8-3.0mなのでちょっと大柄かもわからない。
リンデンが1840年2月にメキシコで発見し、ドゥ・カンドールが1848年にリンデンを記念してサルビア・リンデニーと命名するが、ドイツの探検家・プラントハンター、カルウィンスキー(Karwinski von Karwin, Wilhelm Friedrich 1780-1855)の方が1835年と先に命名されていたので、現在の学名は「サルビア・カルウィンスキー(Salvia karwinskii)」となっている。

(2)Salvia cacaliaefolia

メキシコ、グアテマラ、ホンジュラスの1600-2600mの山中に生息し、リンデンがメキシコ・チアパスの山中で採取したと1848年発刊のドゥ・カンドール『植物界の自然体系序説』に記載された。(リンデンは1889年にも採取している。)
1970年代にロスアンゼルス郊外にあるハンティングトン庭園が導入してから庭に普及し始めた。
開花期は夏から秋で、青紫の花が鮮やかだ。
(写真出典)ウィキペディア http://en.wikipedia.org/wiki/Salvia_cacaliifolia

(3)Salvia rubiginosa

赤紫の萼に包まれた濃淡の違う空色の花は特色がある。開花期が冬から初春なので、温かく湿った土壌が良いという。樹高は2m。
1839年メキシコ・チアパスでリンデンが採取したが、1833年に発表された名前があり現在の名前は「Salvia mocinoi」。しかし、「サルビア・ルビギノーサ」の方が知られている。
(写真出典)http://www.flickr.com/photos/salvias/2835080864/

ラン探索の旅

1841年10月にリンデンと彼の従兄弟Louis-Joseph Schlimは、ベネズエラに向けてボルドーを出港し12月27日に到着した。ベネズエラとコロンビアで動植物の採取・狩猟を行う。この旅行で、彼はUropedium lindeniiを発見し、彼を世界的に有名にしたランに特化した園芸家として出発することになる。
既にこの探検旅行では、ベルギー政府の助成金が削減されたために、英国のラン愛好家達から資金を調達しているだけでなくパリ自然史博物館の支援ももらっており、プロのプラントハンター及びランの園芸家としてのビジネス展開を始める。当然ベルギー政府の狙いとは合わなくなってきた。
パリでの資金集めの際に、フンボルトとパリで会っていてアドバイスをしてもらう。

1843年にコロンビアとベネズエラの国境近くで、彼を有名にしたラン(学名Uropedium lindenii)を発見する。現在は属名がフラグミペディウム属(Phragmipedium lindenii)に変わっている。

実物はこちら
【説明】
・ Phragmipedium lindenii (Lindley) Dressler & Williams
・ リンドレイが『Orchidaceae Lindenianae』に1846年に記述
・ ジョン・リンデンが1843年に発見し彼の名前をつける。

ランの栽培ビジネス
1846年、リンデン29歳の時に最初の園芸会社を仲間のFunckをパートナーとしてルクセンブルグの郊外に作る。ここからランの輸入・栽培ビジネスに乗り出し、ベルギーに1100以上の異なるランを導入したというからすごい。
リンデンがランの栽培ビジネスに乗り出した時期のベルギーは、産業革命を乗り越えたブルジョアが輩出した時期でもあり、温室を作り珍しい高価なランの需要が結構あったという。

もう一人の仲間であるGhiesbreghtは、第二回探検の後メキシコに残りヨーロッパの植物愛好家とリンデンなどに植物と見本を提供する会社を作った。サボテンやランの栽培を行う。

ベルギーのプラントハンターのユニークさ

英国のプラントハンターは、プラントハンティングの現地で死亡することが結構あった。リンネの弟子達は、学者を目指しそのプロセスとして未開拓地の植物探索に出かけた。
プロのプラントハンターのイメージは、現地で亡くなった英国のプラントハンター、フランシス・マッソンやフォーレストにある。
日本の開国の時に来たフォーチュンは、余生を出版物の印税で暮らしたというが、珍しいパターンだと思う。

ここに登場したベルギーのプラントハンターは、三人とも植物学者を目指さず、プロのプラントハンターをも目指さず、園芸のビジネス化を目指した。
スポンサーがいて二年から三年の冒険旅行をして決算をするという、一発勝負型のビジネスに魅力を感じなかった何かがあったのだろう。
この魅力を感じなかった何かが新しい世界を切り開く原動力となるが、確固とした先例がある英国ではなく、誕生したばかりで急速に産業革命を成し遂げた小国ベルギーだったことが影響しているように思われる。

リンデンたちには近代の企業会計としては当たり前の“複式簿記”的な思考があったようだ。この“複式簿記”は、12世紀ころのイスラムの商人によって発明され、ヨーロッパに普及したのは大航海時代の15世紀末イタリアからといわれる。
それまでは、東洋への1回の航海で、投資金から準備に使った費用などを引き、船が帰ってきてコショウなどを販売して得た売上金からそれまでにかかったお金を引き、残ったお金を投資に比例して分配し清算をする。船が沈んだらそれまでで出資者が損をする。
これを一航海ごとの現金の収支しか記述しない“単式簿記”といい、今でも家計簿で使われている。

リンデンたちは、パトロンを見つけて出資してもらい、一回の探検旅行ごとに清算する方式では自分たちに合わないということがわかったようだ。或いは、小国ベルギーではパトロンを毎回見つけるのは難しいということを悟ったのだろう。
そこで、出資は中南米からランやサボテンなどを輸入し、栽培し、販売する園芸のマーケティング会社にしてもらい、この会社は、中南米に新種のランなどを採取するコレクターを育て契約しベルギーに送り出させ、自分たちの育種園で栽培して増やすだけでなく、ベルギーでは、届いた新種のランなどを、植物学者に学名をつけてもらい認知してもらう作業をし(認定するのに6年もかかったそうでこれではビジネススピードにあわないので学者をはずすようになった。)、その後に博覧会などに出展し、ガーデン紙などに広告を出す。
こんな活動をベルギーだけでなくパリにも支店を出して行うので、グローバル企業活動のはしりをいっていた。
小さい(小国)、遅れている(後進国)、知り合いがいない(パートナーなし)などのネガティブな要素は、新しい発想を気づかせ行動させるエネルギー源であり悲観することはないということを実践してくれたリンデン達三人のパーティだった。

意外なことに、大作家で詩人のゲーテは、1775年11月に請われてワイマル公国に行くが、1782年にはドイツ皇帝により貴族に列せられワイマル公国の宰相となった。そして、複式簿記の重要性に気づき学校教育に取り入れたそうだ。
現在の日本でも単式簿記の頭脳しか持たないビジネスマンが結構多いが、1800年代のベルギーでは新しい技術だったのだろう。
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メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No3

2010-06-05 10:54:23 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No3: 
サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎??

メキシコのサルビアの発見(といっても現地人ではなく西欧人によるが、)の記録は1829年から始まる。そして初期の頃は、採取したコレクター或いはプラントハンターの人物が良くわからない。
その一人にアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)がいる。
名前からフランス人と思われ1833年頃に活躍した人物としかわからない。

アンドリューは、1833年から1834年4月頃にメキシコ南西部及びサン・フェリッペ(カリフォルニア)でサルビア7種を採取している。この中で現在でも栽培されている有名な品種があり、それが「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」だ。

(写真)サルビア・メキシカーナの園芸品種“ライムライト”
  

「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」は、メキシコ中部の800-2000mの地域の森の端・ふちに生息し、“メキシカンセージ”とも呼ばれる。
同じ地域に生息する「サルビア・イエローマジェスティ」の場合は、森の中に入りちょっとした空白地での木洩れ日で大きく成長する生き方をするが、「サルビア・メキシカーナ」は、森の中に入っていかないので、森に守られない代わりに草丈をあまり大きくさせずに森の周辺で光りを吸収する草丈などを形成したのだろう。

庭に導入されたのは1970年代と遅く、バークレイにあるカルフォルニア大学の植物園のために、メキシコの中部にあるQuerétaro州から1978年に愛称ボブ(Robert Ornduff 1932-2000)によって持ち出されたという。
ボブは、カルフォルニア大学バークレー校で30年間も務め、学部長、大学付属植物園長などを務めたカルフォルニア植物相の権威でもあった。

推理?? “G・アンドリュー”
「サルビア・メキシカーナ」を採取したという“G・アンドリュー”はどういう人物なのだろうかということが気になる。

彼の名前が登場するのは、スイスの植物学者ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)の1852年に出版された大作のシリーズ著書『植物界の自然体系序説』Vol.13に書かれている。
ドゥ・カンドールが死亡してから11年後に出版されているので奇異に思うだろうが、彼の息子が父の遺志を継ぎ残された原稿を編集出版したのでこうなった。
そこには、“1833年にメキシコで植物採取をしているが、アンドリュー自身は著作がない”と書かれているだけで、“G・アンドリュー”が何者かを引き継がなかったようだ。

こうなると関連するデータ、情報から推理をせざるを得ない。
“G・アンドリュー”は、ドゥ・カンドールと同世代か若い年代だと思われるので、時代背景を知るためにドゥ・カンドールの人物像から描いてみよう。

(写真)Augustin Pyramus De Candolle
  

ドゥ・カンドールは、リンネと並び称されてもよい植物学者だと思う。彼のオリジナルな考えである“自然との競争”はダーウィンに影響を及ぼし、また、『植物界の自然体系序説』でリンネの植物体系の矛盾を修正する考えを出した。

ドゥ・カンドールの家系は、フランス・プロヴァンス地方の旧家で16世紀後半の宗教的迫害でスイスに逃れた。フランス革命後の1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をする。
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。

この三人の関係だが、バラの絵師ルドゥーテを育てたのはレリティエールで、自分の著書の植物画を描くアルバイトを探していたところ王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家ルドゥーテを見出した。
レリティエールは、植物画を描くのに必要な植物学をルドゥーテに教え、イギリスまで連れて行った。もっともこのイギリス行きは、1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊とスペイン政府からの返還要求から守るためにイギリスに逃げたのだが、帰国後1800年にパリ郊外の森で暗殺された。
ルドゥーテは、このイギリスで輪郭線を取り除く銅版画の新しい技法を学び、独特の美しい植物画を描く世界を確立したのだから恩人に出会ったことになる。
フランスに戻ってからのルドゥーテは、マリーアントワネット皇后のところでの働き口を紹介され、ここから、ジョゼフィーヌ皇后、マリー・ルイーズ皇后と三代の皇后に仕えることになる。
レリティエール暗殺後は、ルドゥーテが主導で1802年『ユリ図鑑』などのコピーをドゥ・カンドールが書くなど、当時のボタニカルアートとサイエンスの極みを体験することになる。
ドゥ・カンドールは、1816年にジュネーブに戻り大学で植物学を教えながら、植物分類の自然な体系の研究とその成果の著作に専念する一方で、植物園、博物館などの設立を行う。

さて、ドゥ・カンドールと“G・アンドリュー”との接点だが、G・アンドリュー”は、211種の新しい植物をメキシコで採取しているので素人の植物採取者ではなさそうだ。ドゥ・カンドールは、スイスの前に1806-1815年までモンペリエ大学の植物学教授だったので、“G・アンドリュー”とはフランスかスイスが接点になりそうだ。

そこで、“G・アンドリュー”が活躍した1830年前後のフランスとメキシコの状況を確認してみると、
ナポレオンが失脚した後に、フランス革命で斬首されたルイ16世の弟ルイ18世が王位につき1815年にブルボン朝が復活した。貴族や聖職者を優遇し言論の弾圧などの政策をとったので、市民革命といわれるフランス革命を推進したブルジョアと利害が衝突し、1830年7月に“7月革命”が起こりブルボン王朝は崩壊した。

一方のメキシコはといえば、コロンブス以降300年間スペインの支配下にあったが、ヨーロッパ大陸の争いが影響し、ナポレオンがイベリア半島に進攻し、兄のジョゼフをスペイン国王ホセ1世に据える。当然スペインの植民地もナポレオンの支配下となるがことはそう簡単ではなく、独立運動が中南米のスペイン植民地で起きた。
メキシコでは1810年にミゲル・イダルゴ神父が主導した独立革命がおき、ナポレオンが失脚するとスペインが盛り返したが1821年に独立を獲得した。
以後メキシコは、スペイン、フランス、アメリカ及びメキシコで生れた白人等との権力闘争・戦争が長く続くことになる。

“G・アンドリュー”の正体が明らかでないということは、本人が自分の正体を明らかにしたくないか、或いは、ドゥ・カンドールが明らかにしたくない何かがあったと考えると、一つの可能性として1830年7月に起きたフランスの7月革命で失脚した階層(ブルボン家関係者、貴族、聖職者など)がメキシコに移住したか一時的に避難したということが考えられる。
特に聖職者は、知識があり奥地に入り活動するのでプラントハンターとしてうってつけな職業だ。

これ以上の手がかりがないが、同時代で、名前にGがつくアンドリュー(Andrieux)は一人いる。フランスの劇作家・詩人・弁護士のFrançois-Guillaume-Jean-Stanislas Andrieux(1759‐1833)だ。
彼はフランス革命後ロベスピエールが主導する急進派のジャコバン党に属し最高裁の判事を務めたので、1794年の反対派クーデターの前にパリを脱出して田舎に逃げたこともある。晩年は科学アカデミーの教授として過し1833年に亡くなった。

“G・アンドリュー”は彼ではないだろうが、彼のようなキャリアをもつ人間のような気がする。この時代のフランスは(メキシコもそうだが)、命を守ろうとしたら逃げるか主義主張を明確にしてはいけない時代だった。

(写真)コメディフランスのロビーで彼の悲劇『ジュニアスブルータス』を読んでいるフランソア・アンドリュー(1759~1833)
  


「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」の代表的な園芸品種である“ライムライト(Limelight)”。その名前の“ライムライト(Limelight)”の意味は、電気がない時代に舞台で使われていた照明器具をさし、転じてスポットライトを浴びる“栄光”をも意味するようだが、まるで劇作家フランソア・アンドリューの舞台にあるようだ。
そして、激動期は、スポットライトを浴びる中心にいるとその組織とともに運命が左右されるが、「サルビア・メキシカーナ」のように周縁にいると逃げやすく生き延びやすいということを教えているのだろうか?

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