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モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No42:無法地帯を旅したヒントン ②アーサー・ヒルとの出会い

2011-03-22 10:40:52 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No42

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)がプラントハンターになるきっかけは、キューガーデンの園長アーサー・ヒル(Sir Arthur William Hill 1875-1941)から誘われたところから始まる。
いつどこで知りあったかわからなかったが、アーサー・ヒルのキャリアから“類は類を呼ぶ”という感じがする。

アーサー・ヒルとの接点
(写真)アーサー・ヒル
 
(出典)National Library of New Zealand

ヒントンより7才年長のヒルは、彼が32歳のときの1907年に、デイビッド・プレイン卿(Sir David Prain 1857–1944)の下で副園長としてキューガーデンに勤めるようになり、1922年から1941年にキューガーデンのゴルフコースで落馬して死亡するまでプレインの跡を継ぎ園長を務めた。

キューガーデンに務める前は彼自身も探検旅行をしており、1900年にアイスランドの探検、1903年には、ペール・ボリビアのアンデス山脈探検をし、ここで生涯のテーマとなるクッション植物にめぐり合った。

(写真)cushion plants
 
(出典)flickr.com

この気になる“クッション植物”だが、北極や山岳地帯のような、冷たくて、乾燥していて、風が強い地域では、水分と栄養分が少ないため、この厳しい環境に適応するために地中深く根を張り、ゆっくりと成長するのでクッションのように地面にへばりつく形態を生み出した。
植物学的にフロンティア領域なのだろうが、アイスランド、アンデス山中を探検しただけのことはある。

彼がキューガーデンの歴史の中で特筆されるのは、キューガーデンを核として大英帝国の植民地にある植物園とのネットワークを強化し、経済的・商業的に価値ある植物を採取して、適切な植物園で育てて、プランテーションを構築していくという施策を推進したことだろう。
そのために海外にキューガーデンのスタッフをプラントハンターとして数多く派遣することも行った。彼自身オーストラリア、ニュージーランド、マレー半島、ローデシア、東アフリカ、インド、カリブ海の諸島を訪問した。

この施策を実行するためには資金的な裏づけが必要となるが、1926年に設立された大英帝国マーケティング委員会が多額の財政的な支援をしたので、お金を持ってきた園長はエライということになっている。
帝国マーケティング委員会を説得するには、実績・実例が必要だが、フッカー(Sir Hooker,Joseph Dalton 1817 –1911)がキューガーデンの園長だった1865-1885年の時代に目覚しい実績が上がった。

その代表的なのが1876年にブラジル、アマゾン川流域のSantarémからゴムの木(Hevea brasiliensis)の種70,000粒を採取してキューガーデンに送ったウイッカム(Sir Wickham ,Henry Alexander 1846 –1928)だった。

(写真)Sir Wickham ,Henry Alexander
 
(出典)bouncing-balls.com

この種子はキューガーデンで栽培され、芽が出た苗木をスリランカ、マレーシア、バタビア、アフリカなどの植民地に送り、ブラジルを上回るゴムの生産をするまでの大成功をもたらした。
この当時は、ブラジルの法律として採取・輸出は禁じられていなかったので合法ではあったが、後日ブラジルからはバイオ・パイレーツ(生物盗賊bio-pirate)と非難され、一方の英国からはナイト(Sir)の称号が与えられた。

この他にも、バーム油をつくるアフリカのアブラヤシ、エチオピアからのコーヒー、コロンビア、エクアドルからのカカオ、中国からの大豆、東南アジアからのサトウキビなど現代生活を支える経済的にも重要な植物が採取され大量に栽培された。

これが、アーサー・ヒルの活動を支える財政的な支援を得る背景にあった。

ヒントンのプラントハンティング活動
ヒントンは、1931年からプラントハンティングを始めていて、1936年からは、それまでの仕事を全てやめフルタイムのプラントハンターとなった。
アーサー・ヒルとの出会いは1931年以降で、彼のアドバイスと顧客としての経済的な裏づけがフルタイムでプラントハンターになるきっかけになったのだろう。

もちろん、アーサー・ヒルのほうにも英国人のプラントハンターを派遣するよりも、現地人を採用したほうが都合がよい事情があったはずで、それは、自国の資源を保護する意識の高まりへの対処があったのだろう。

ヒントンが旅したところは、険しい山岳地帯で山に逃れた山賊が出没するところだが、それよりも困ったことはメキシコの当局だったようだ。
ヒントン父子の顧客は、キューガーデン、大英博物館、チューリッヒ、ジェノバ、ハーバード大学、スミソニアン、ミズリー大学、ニューヨーク植物園などであり、採取した植物標本を送らなければならない。
この当時のメキシコでは、自国の天然資源を守るための輸出規制があり、同一のサンプルを当局に提出する必要があった。
欧米の顧客に送る植物標本に、提出した以外のものが隠されていないかを検閲するためにしばしば封を切られたという。

このような状態では、プラントハンターを送り込んでも以前のような取り放題のことが出来ない。20世紀ともなると植物資源の権利意識が芽生え、プラントハンターの活動が制約され始めた。当然といえば当然なことが始まった。

1937年にヒントンはマラリアにかかり大量の出血をした。出血が止まるまでアイスを食べ続けたというが、正しい治療法ではなく熱を下げる役割を果たしたことは確かだろう。それでもヒントンは、植物探索の旅を止めなかった。この情熱はどこから来ていたのだろう?

第二次世界大戦が始まっていた1941年には、タスコ銀山で働くために1年間植物採取を中止していて、この間に、これまで採取した標本が虫に食われる被害があった。翌年復帰するが1943年に乗っていたトラックの事故で死亡した。

ヒントンの死後、三男のジェームズ・ヒントンがあとを継ぎプラントハンティングと、父の残した標本などを整理したが、重複も多く実際はどれだけ採取したかわかっていない。
また、ヒントンには残された記録があまりない。これだけの人物なのに写真すら残っていない。後世に足跡を残すという考えがなかったのだろう。科学者の家系でありながら学者的でないところが最後に近いプラントハンターなのだろう。

ただ、数多くのサルビアも採取しているので、未発表のサルビアとの出会いが楽しみだ。

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No41:無法地帯を旅したヒントン ①その生い立ち

2011-03-09 08:08:06 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No41

ヒントン(Hinton,George Boole 1882-1943)は、49歳から趣味の植物に道を転じたプラントハンターで、これまで登場した中では異色の人物でもある。
死亡するまでのわずか十数年で16,300品種もの植物をメキシコのゲレーロ州・ミショアカン州・メヒコ州で採取し、その中には300以上の新種と4つの新しい属が含まれていたという。
“プラントハンターのプリンス”と呼ばれた プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)には及ばないが、時代が遅れるほど新種の発見が難しくなる中で、素晴らしい結果を残している。

ヒントンがプラントハンターとして活動した1931-1941年のメキシコは、1810年-1821年までのスペインからの独立戦争の100年後から始まったメキシコ革命(1910-1940年)の時期にあたり、権力闘争と政敵を徹底的に排除するという国民同士が殺しあうという革命の時期にあたる。

こんな危険な時代背景で、まったく違う世界へ飛躍したヒントンは、定年になったら何をしたらよいか惑う会社人間・仕事人間にとって、新たな人生の出発を奮い立たせてくれるヒントがあるかもわからない。

ヒントンの科学者家系
ヒントンは、1882年英国、ロンドンで数学者の父チャールズ・ハワード・ヒントン(Hinton ,Charles Howard 1853 – 1907)と母メアリー・エレン・ブール(Mary Ellen Boole 1856-?)の子供として生まれた。
(写真)ヒントンの父Hinton ,Charles Howard

(出典)rudyrucker.com

(写真)ヒントンの母方の祖母メアリー・エベレスト・ブール

(出典)Agnes Scott College

メアリーエレンの母Mary Everest Boole(1832-1916)は、コンピューターサイエンスの創始者とも言われる有名な数学者George Boole(1815 –1864)と結婚し、メアリー・エレンは5人娘の長女として生まれた。母親の苗字はエベレストだが、叔父George Everest大佐は、そのころ無名の山エベレストの高度を測定したのでこれを記念してエベレスト山と命名された人物であり、数学に秀でた家系のようだ。

父親のチャールズは、メアリー・エレン・ブールのほかにも結婚をしようとして重婚罪で刑務所に1日か3日収監されたようであり、これを契機に1886年に英国を家族とともに出国し、日本に来て東京大学で数学を教えることになる。
主人公のヒントンも3歳から10歳まで日本で生活したことになるが、どんな印象を持っていたのだろう。
7年後の1893年には米国に移住し、プリンストン大学に移籍し、1907年に脳出血でなくなる。

父チャールズは、米国の野球界にも足跡を残し、今では高校野球の練習でも使われているピッチング・マシーンの最初の開発者でもあった。この機械は、火薬の爆発力を使ったので事故があり、プリンストン大学を免職となりミシガン大学に移籍したという。どうもトラブルが付きまとう父親のようだ。
今ではこのピッチング・マシーンは、スクリーンに映し出されたピッチャーと一体になり、まるで本物の投球を体験するところまで来ている。

このヒントンの父は数学者であると同時に作家でもあり、この子孫たちには原子物理学者、中国文化大革命時の中国の生活を書いた作家などを輩出している。しかし、プラントハンターとしてのヒントンは紹介されていない。学者とプラントハンターの価値付けが垣間見えるところでもある。

ヒントンの生い立ち
ヒントンは、目が悪かったという。大学に行く前は自宅で両親に教育され、大学は、ミネソタの鉱山学校、コロンビア大学、アリゾナの鉱山学校、カリフォルニアのバークレー校で学んだ。この学費は、夏休みの間にメキシコの鉱山の検査員として働き自分で支払ったというから偉い。
1907年、ヒントン25歳の時に父親がなくなるが、この後は、弟たちの学費を出したというからなお偉い。

彼はメキシコに恋をし、彼が29歳の1911年に新妻Emily Percival Watleyと共にメキシコに移住する。
そして植物学に全力を投入するまでの25年間は、鉱山の検査官、冶金学者、土木技師、建築家として働き資産を形成したが、1929年のウォール街の株式市場崩壊で始まった世界恐慌の影響を免れることができなかった。

ヒントンが植物の採取に興味を持ったのは、彼が49歳の時の1931年の頃のようだ。
そして、1936年には、これまでの仕事を全てやめてフルタイムで植物のコレクターとなる重大決心をし、3人の息子たちにも手伝ってもらいたいという申し入れをした。

三男のJames Hinton (1915–2006)は、カナダの大学で経済学の研究をしていたが、1939年にこの研究を放棄してメキシコに戻り父親の植物探索を手伝うことになった。

彼ら父子は、5年間ゲレーロ州とミチョアカン州をラバで旅したが、この地域は、山賊・強盗が多く出没し、奥地に分け入る探鉱者・宣教師・兵士すら近づけないところがあった。これが幸いであり、植物学的には未踏のところでもあった。
ヒントン父子は、山の民への贈り物・医療などを通じて信頼関係を作り、彼らの協力と保護で旅することができた。
自然の驚異だけでなく人間が脅威となるところがあったから1930年代でもプラントハンターが入れなかったのだが、メキシコが置かれている騒乱を反映していて、この地域を選択したヒントンの鉱山関係での経験と見識が生きたようだ。

後に昆虫学者となる長男のHoward Everest Hinton(1912-1977)も父親の手伝いをしていてヒントン54歳からはプラントハンター一家でもある。今までにないタイプでもある。

ヒントンがプラントハンターになったきっかけはキューガーデンにあった。以下次回に。

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No30:プリングルが採取したサルビア その12、不明なサルビア

2010-12-05 09:10:18 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No30 

【詳細不明なサルビア】
プリングルが採取したサルビアで、植物情報が不明なもの及び画像がないものを記載する。この中には現存していないで絶滅したもの、及び、新種として認められずに正しい品種に統合されたものなどが含まれる。

35. Salvia albicans Fernald (1901)
このサルビアは、1900年9月14日にプリングルがメキシコの南西部で採取し、先に発見したSalvia brevifloraと類似であり説明は次を参照。

36. Salvia breviflora Moc. & Sessé ex Benth. (1833).
このサルビアを西洋人として最初に発見・採取したのは、ボヘミア(チェコ)の自然科学・植物学者プレッスル(Presl,Jan Svatopluk 1791-1849)とその弟の植物学者カーレル(Presl ,Karel Bořivoj 1794–1852)で、1832年頃にメキシコに植物探索に出かけていてこのサルビアを採取した。記録に残るメキシコ初期のプラントハンターの一人であり、このシリーズで取り上げようとしたが資料の少なさで断念した。
プリングルは、1903年10月22日にメキシコシティに近いモレーロス州のヤウテペック(Yautepec)でこのサルビアを採取しているが植物の詳細はわからない。

37.Salvia albocaerulea Linden (1857) 
サルビア・アルボカエルリアは、最初に誰が発見したか良くわかっていないが、1857年にベルギーのプラントハンター、リンデンを敬して名付けられた。プリングルは、1899年2月15日にメキシコ南西部太平洋岸のモレーロス州クエルナバカでこのサルビアを採取している。しかし、実物はどのようなものか良くわからない。
クエルナバカは、メキシコシティから1時間のところにあり、スペインの征服者コルテス(1485-1547)が、1530年にアステカの神殿を破壊し、その石で自分が住む宮殿を作ったところで、年間を通じて20℃という快適な気候に恵まれている。

38.Salvia arthrocoma Fernald (1907). 
メキシコ、イダルゴ州 (Hidalgo)トリニダードの深い峡谷で1904年7月16日に採取。

39.Salvia assurgens Kunth (1818). 
プリングルは、1892年7月18日にメキシコ、ミチョアカン州(Michoacán)の州都モレーリアで採取した。モレーリアは、1541年にスペイン人によって建設された古い町であり、1640年から1世紀にわたって建設が始ったカテドラル(大聖堂)がある。
最初の発見・採取者は、フンボルト探検隊のボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)であり、彼らもこの完成した大聖堂を見たのだろう。

40.Salvia axillaris Moc. & Sessé (1833).  サルビア・アクシラリス
メキシコ、サン・ルイス・ポトシで1878年パリー&パーマが採取し、その後の1898年7月18日にプリングルがメキシコシティの真上に位置するイダルゴ州でこのサルビアを採取する。
サン・ルイス・ポトシからオアハカへの中部メキシコ原産の多年生植物で、草丈100㎝、花は小さな黒紫色の萼内部に隠される小さな白いチューブというから是非見たいと思ったが、写真を見つけることが出来なかった。

41. Salvia candicans M. Martens & Galeotti(1844).  
プリングルは、1895年12月21日にメキシコ、プエブラ州でこのサルビアを採取している。マーティンによって命名されたのが1844年なので、大分間があってから採取された。

42. Salvia chalarothyrsa Fernald (1907).
1904年10月27日にメキシコ、ハリスコ州トゥスパンの丘でプリングルが最初に採取・発見した。

43. Salvia comosa Peyr. (1859) 
サルビア・コモサは、1859年にオーストリアの医師で植物学者ペリッチ(Peyritsch, Johann Joseph 1835-1889)によって命名され、プリングルは1903年9月14日にメキシコで採取している。
しかしこのサルビアは、後にSalvia laevis Benth. (1833)と同じであるとされた。

44. Salvia connivens Epling (1939).
このサルビアは、プリングルが最初の発見者で、1890年7月23日にメキシコのサン・ルイスポトシで採取している。
UCLAの植物学教授でサルビア属の権威となるエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)が1939年に命名する。

45. Salvia heterotricha Fernald (1900).
プリングルは、1901年5月13日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラで採取しているが、このサルビアの最初の発見採取者はパーマ(Palmer ,Edward 1831 -1911)であり、同じハリスコ州のリオ・ブランコで採取した。

46. Salvia igualensis Fernald (1901).
プリングルは、このサルビアをメキシコ、ゲレーロ州イグアラの石灰質の山で1900年9月20日に採取した。
しかしながら、このシリーズNo10でとりあげたギエスブレット(Ghiesbreght, Auguste Boniface 1810-1893)が1865年11月24日にメキシコ、チアパス州で採取したサルビア・ギエスブレッティー(Salvia ghiesbreghtii Fernald(1900))と同じであり、このサルビア名が採用される。

47. Salvia laevis Benth. (1833).
メキシコに来た初期のプラントハンター、グラハム(G. J. Graham)が1830年にメキシコ、メヒコ州の州都トルーカの北西方向にある銀鉱山が1558年に発見されたTlalpujahuaで最初に採取した。プリングルは、1892年7月30日にグラハムが採取した場所より西側にあるミチョアカン州パツクアロで採取した。

48. Salvia leptostachys Benth. (1833). 
プリングルは、1900年10月18日にメキシコ、モレーロス州の古都クエルナバカでこのサルビアを採取する。

49. Salvia lozani Fernald(1907)
このサルビアは、不思議なことにプリングルしか採取していない。彼は、1904年にイダルゴ州の松林の中の湿地帯近くで採取したと記録されている。

50. Salvia nepetoides Kunth(1818)
このサルビアは、フンボルトとボンプランが1803年頃メキシコで採取したのが最初のようだが、それ以降1898年にプリングルが採取するまで記録がない。
名前の由来は、日本でも馴染みのカラミンサの学名(Calamintha nepeta)ネペタに似た花ということなので、ミントの香りがする白花なのだろう。

51. Salvia oreopola Fernald (1900)
プリングルがメキシコ、モレーロス州のクエルナバカで最初に発見したサルビアだ。

52. Salvia platyphylla Briq. (1898).
このサルビアは、プリングルが1889年7月3日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラで採取している。最初に発見採取したとされているが、このシリーズNo14 でとりあげたパーマが1886年に同じハリスコ州で採取している。

53. Salvia podadena Briq. (1898).
シリーズNo8でとりあげたガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)が最初の発見・採取者で、メキシコ、オアハカ州で1840年に採取した。プリングルは、1901年8月にメキシコ、プエブラ州で採取している。

54. Salvia thyrsiflora Benth. (1846). サルビア・ティルシフローラ
1840年以前にBarclayがメキシコ、ナジャリ州テピクで採取したとあるが、謎の人物で良くわからない。また植物情報も少ない。
プリングルは、1891年11月26日にミチョアカン州パックアロでこのサルビアを採取している。このパックアロ(Pátzcuaro)は、パックアロ湖畔に作られた街で美しい自然とコロニアル調の街並みが美しいという。

55. Salvia tricuspidata M. Martens & Galeotti (1844).
このサルビアの最初の発見者は、ベルギーのプラントハンター、ガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)で、1840年にメキシコの南西部で採取した。
プリングルは、1894年8月28日にオアハカ州の3000mのところでこのサルビアを採取した。

56. Salvia urolepis Fernald (1910)
プリングルが1903年8月25日にヌエボレオン州モンテレイで最初に発見・採取したサルビアだ。


ここまで目を通す人はいないだろうなと思いつつも、プリングルに敬意を表して書くことにした。他のプラントハンターのところで記述したサルビア21品種も残っているが、そこまでフェティッシュになることもあるまいと思いつつ割愛することにした。
しかし、最後まで目を通した方がいたとしたら感謝すると共にその動機を知りたいなというのが個人的な関心でもあり、コメントをいただければうれしい限りです。
プリングルはこれで終わりですが、まだ書きたいプラントハンターがいるので、気力が整い次第継続をいたします。
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No29:プリングルが採取したサルビア その11

2010-12-03 15:18:33 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No29 

29. Salvia texana (Scheele) Torr. (1858). サルビア・テキサナ
 
(出典) Texas AgriLife Research and Extension at Uvalde


(出典) Lady Bird Johnson Wildflower Center

テキサスからメキシコ北部にかけて乾いた岩が多いところに自生するサルビア・テキサナは、草丈30cm程度で、ローズマリーのような細長い葉に特色があり初春からパープルブルーの花を咲かせる。コモンネームは、テキサスセージ(Texas Sage)、ブルーセージ(Blue Sage)であり、テキサスの代表的なサルビアでもある。
1847年にメキシコでグレッグがこのサルビアを採取していて、ハーバード大学の植物学教授グレーの師でもあるトーリー(Torrey, John 1796-1873)が1858年に命名している。
プリングルは、1886年9月から10月の間にメキシコ、チワワ州でこのサルビアを採取した。魅力的なサルビアなので育ててみたい一つでもある。

30. Salvia thymoides Benth. (1833).  サルビア・ティモイデス

(出典)flickr

霧が多い森林ではコケが生え独特な植生を作り出すが、サルビア・ティモイデスは、霧と雨が多いプエブラ州の狭いエリアが原産地で、草丈30cm、タイムのような葉をしていて、青紫の小さな花を冬から初春に咲かせる。
名前の由来は、葉がタイム(Thyme)に似ている(=oides)ことから1833年にベンサム(Bentham, George1800-1884)によってSalvia thymoidesと名付けられたが最初の発見者はわからない。
セッセ探検隊なのかもわからない。
プリングルは、メキシコ、プエブラ州の1950mの霧が多い森林で1895年11月21日にこのサルビアを採取した。

31. Salvia verbenaca L. (1753),又はSalvia verbenacea L サルビア・バーベナカ

(出典) University of California, Berkeley

バーベナセージ(Verbena Sage)とも呼ばれるように、バーベナに似た葉を持ち、青紫の花が夏場に咲く。草丈60㎝程度とあまり大きくなく、野生種のクラリーセージ(Wild clary)とも呼ばれる。
クラリーセージ(Salvia sclarea)は、南ヨーロッパからアジアに生息するサルビアで、ロゼット状の立ち上がりで150㎝と比較的大型だ。
ちなみに、種小名の“verbena”は、葉が多い枝を意味し、確かに多すぎる嫌いがある。
古くから知られたサルビアでもあり、プリングルは、1901年7月7日にメキシコシティでこのサルビアを採取している。

32. Salvia veronicaefolia A. Gray (1886)

(出典)ミズリー植物園

写真は、プリングルが採取した植物標本で、このように整理されて保管される。
しかしこのサルビアは、プリングルだけしか採取していない。採取したのはハリスコ州のグアダラハラ1889年6月に採取している。

33. Salvia vitifolia Benth. (1835) サルビア・ビティフォーリア

(出典)Robin’s Salvias

サルビア・ビティフォーリアは、「No7:サルビア・パテンスを園芸市場に持ち込んだプラントハンター、ハートウェグ」でも紹介したが、サルビア・パテンスに良く似た素晴らしいブルーの花を咲かせる。

最初の発見・採取者は、謎のアンドリュー(Andrieux, G.)で、1834年6月にサン・フェリペで採取し、サルビア・パテンスを英国の園芸市場に持ち込んだハートウエッグも1839年にこのサルビアを採取している。
プリングルは、1894年5月26日にオアハカ州2300mのところで採取している。
プリングルが採取したサルビアの中でも傑作のひとつだろう。

34. Salvia xalapensis Benth. (1848). サルビア・キラペンシス

(出典)Robin’s Salvias

サルビア・キラペンシスは、明るい青紫の小さなが咲くサルビアで、初期の採取者は、1839年にベルギーのプラントハンター、リンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)であり、同じ頃にベルギーの地質学者でプラントハンターとなったガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)、そしてドイツ人のシエデ(Schiede, Christian Julius Wilhelm 1798-1836)もこのサルビアをメキシコ南西部で採取している。
シエデはあまり説明していないので簡単に紹介すると、ドイツの医者・植物学者で彼が30歳の時の1828年にメキシコに移住し、ナチュラリストのFerdinand Deppe (1794-1861)とともに、メキシコの動物・植物の標本をヨーロッパの博物館などに収集し販売する活動を始めた。1830年後半には、この商売がうまくいかず活動を断念し、1836年彼が38歳の時にメキシコで死亡した。
プリングルがこのサルビアを採取したのは、1901年6月21日にベラクルーズだった。


こうしてみると、プリングルは、1880年代から彼が亡くなる1911年までの30年間メキシコのあらゆるところを訪問し植物採取を行っていた。
物心両面で彼を支えたハーバード大学のグレーがいなければプリングルの名前もその足跡も残らなかっただろうと思う。

プリングルが採取したサルビアの中で、植物情報がわかるものに限って34品種をとりあげたが、植物情報がわからないものが数多くある。
もちろん、プリングルはサルビア以外にも多くの植物を採取しているが、これだけのサルビアを採取したプリングルのコレクションはすごいの一言に尽きる。

(後日、植物情報がわからなかったものをまとめて掲載する。)

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No28:プリングルが採取したサルビアとテワカン・バレー、その10

2010-11-30 14:05:47 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No28 

26. Salvia stolonifera Benth. (1840). サルビア・ストロニフェラ

(出典) Iris' Tuin


(出典)Robin’s Salvia

プリングルは、サルビア・ストロニフェラをメキシコ南西部のオアハカ州2500mのところで1894年6月23日に採取した。
このサルビア・ストロニフェラを最初に採取したのは、ロンドン園芸協会が1836年にメキシコに派遣したプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)であり、1837年にメキシコの南西部で発見し採取した。

学名の種小名“stolonifera”は、“匍匐し枝を生じる”という意味であり、草丈60㎝程度で匍匐性があり、直立の花序には濃い目のオレンジ色の美しい花が咲く。
ハートウェグは、珍しい花だけでなく、園芸的に価値のある花を採取した目利きだなと感心し、その後にプリングルなども採取しているが、園芸市場への導入はつい最近のようだ。耐寒性もあるので、日本に導入されれば人気となるサルビアだろう。

27. Salvia sessilifolia A. Gray ex S. Watson (1887) サルビア・セシリフォーリア

 
(出典) jstor plant sience

このサルビアを最初に発見したのは、パーマー(Palmer,Edward 1831-1911)であり、1886年2月にハリスコ州リオ・ブランコの峡谷の底で採取した。
プリングルは3年後の1889年2月に同じくハリスコ州グアダラハラでこのサルビアを採取している。
メキシコだけでなく、アフリカ東岸のインド洋上にあるマダガスカル島にも生息し、世界的に珍しい種のようだ。
ハーバード大学のグレー教授とグレー植物標本館の学芸員ワトソン(Watson, Sereno 1826-1892)が1887年に命名したが、学名として認められたのは、グレー達よりも早く1881年に発表した英国キュー植物園に勤務した植物学者ベーカー(Baker, John Gilbert 1834-1920)「Salvia sessilifolia Baker,(1881).」の方である。
ということまでしかわからない。
素晴らしいサルビアであるという紹介はあるが、チェックできた写真はわずかであり墨を塗ったように暗くて良くわからない。マダガスカルでは門外不出の植物であり、特定の植物園などでしか見られないようだ。

28. Salvia tehuacana Fernald (1905). サルビア・テワカナ
サルビア・テワカンを最初に採取したのはプリングルであり、1901年8月にメキシコシティの南東にあるプエブラ州テワカンの石灰質の丘で採取した。名前も採取したテワカンに由来してつけられている。
しかし、その後誰も採取していず、植物情報も皆無に近い。

メキシコの古代遺跡跡、テワカン・バレー
代わりに、プリングルが採取したテワカンは、メキシコ原産の植物の歴史を証明する面白いところで、アステカ時代の重要な食糧となっていたトウモロコシ、カボチャ、豆、アマランス、チアなどが出土した。アフリカが原産のひょうたんも出土しているので、古代ロマンの物語もありそうだ。
ひょうたんは不思議な植物だ。アフリカ原産で、耕作化されたのはアフリカとアジアの二つの流れがあるそうだが、テワカン・バレーで発見されたのはアジアに起源を持つものであり、モンゴロイドの大移動と共にアメリカ大陸に持ち込まれたのだろうか?

(地図)テワカン・バレーとオアハカ・バレー

(出典) PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences)

(写真)テワカン・バレー風景

(出典) Photograph by WWF-Canon/Anthony B. RATH

テワカン(Tehuacan)市は、メキシコシティの南東、シェラマドレオリエンタル山脈のテワカン・バレーに位置し、1540年に建設されたメキシコでも古いスペインの植民都市だ。
このテワカン市があるテワカン・バレーは、写真のように乾燥した地域で、テキーラの原料ともなる品種があるAgave(アガベ、リュウゼツラン、竜舌蘭)、多肉植物のHechtia(ヘクチア)、サルビア、サボテンなどが生息し、その30%はここ固有の種といわれているほど貴重な植物が生息している植物相が豊かなところだという。

このテワカン・バレーには、紀元前9000年頃からの狩猟採集生活、紀元前1500年頃からの農耕生活の遺跡が発見され、そこからはメキシコ原産の植物の種などが出土した。半乾燥地のために遺跡の保存状態が良く、豊かな植物相のところでもあり、ここにある洞窟からメキシコ原産の植物が多数発見されている。
発見者は、アメリカの考古学者マクネイシ(MacNeish, Richard Stockton 1918 – 2001)で1960年代にトウモロコシの起源を探索する調査をテワカン・バレーで行い、コスカトラン洞窟(Coxcatlan Cave)から、トウモロコシ、カボチャ、いんげん豆、ウリ、ひょうたんなどを発見した。
世界三大穀物である小麦、米そしてトウモロコシはイネ科の植物であり、トウモロコシだけが祖先が良くわかっていない。メキシコ原産であることは間違いないようで、テワカン・バレーでの発見がこれを裏付けた。

アメリカ大陸に渡ったモンゴロイドは、文字を持たなかったがゆえに歴史には謎がある。アステカの四大食糧であるトウモロコシ、いんげん豆、アマランス、チア、それに、唐辛子、カボチャ、ココアなどメキシコ原産の重要な食糧になった植物の起源を後に整理しておきたいと思った。

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No27:プリングルが採取したサルビア、その9

2010-11-24 11:24:29 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No27 

メキシコはさすがにサルビアの宝庫だ。4-5mにも育つサルビアがあった。隠しようもないほどの巨木だが、1700年代後半に発見されてからプリングルが1902年に採取するまで100年間もの採取記録の空白があった。

20. Salvia prunelloides Kunth (1818)  サルビア・プルネロイデス

(出典)morning sun herb farm

サルビア・プルネロイデスは、草丈が30cm程度の低いサルビアで、地下茎で広がる。開花期は夏からで小さなブルーの口唇型の花が咲く。下唇に当るところには白いマーカーが入る。
No15:パーマーが採取したサルビアに記載したSalvia forreriと間違えられるほど良く似ている。

このサルビアの最初の発見・採取者は、フンボルト探検隊のボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)で、プリングルは、1892年9月21日にメヒコ州で採取した。

21. Salvia pubescens Benth. (1835). サルビア・パベセンス

(出典) flickr

サルビア・パベセンスは、3メートルまで生長する大型のサルビアで、大きな真っ赤な花が咲く。最初の発見者は、その生い立ちが良くわからないアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)で、プリングルは、1906年10月8日にメキシコ、ゲレーロ州の3000mの山中でこのサルビアを採取した。
公園などの植栽として使ってみたいサルビアだ。

22. Salvia recurva Benth. (1848). サルビア・レクルバ

(出典)Robin’s Salvias

何と美しいサルビアだろう。枝は木質化し樹高2mを超える比較的大型のサルビアだ。しかし育てるのは難しそうだ。というのは、難しい環境に自生しているからだ。
サルビア・レクルバは、中央メキシコ・グアテマラで、一年中温かく湿度が高い3000mもある山の北の斜面にしか生育しないというので、温室で気温・湿度・日光をコントロールしなければならない。
最初の発見・採取は、1843年にJurgensen,C. という者がメキシコで採取している。
プリングルは、1904年8月22日にイダルゴ州で採取している。

23. Salvia semiatrata Zucc. (1830). サルビア・セミアトラータ

(出典)モノトーンでのときめき

渋い赤紫の萼に包まれたbicolored(二色の)ブルーの花、ハート型のつや消しされた中での輝く緑色の葉が美しいサルビアで、気に入った一品でもある。
しかし、夏の猛暑で枯れてしまい、あわてて枯れ枝を切ることで根だけは何とか生き残らせることが出来た。
このサルビア・セミアトラータは、誰が最初に採取したかわからない。命名したのは、ドイツの植物学者でミューヘン大学教授ツッカリーニ(Zuccarini, Joseph Gerhard 1797-1848)で、シーボルトの日本植物の分類などで『日本植物誌(Flora Japonica)』を共著したことで知られているが、メキシコの植物をも研究していた。
ツッカリーニは、誰が採取したメキシコの植物標本を研究したのだろうか疑問が生じた。考えられるのは、フンボルト探検隊の植物標本ではないかと思うがその証拠は見つかっていない。
一方、プリングルは、1894年8月2日オアハカ州の2000mのところで採取した。

24. Salvia sessei Benth. (1833). サルビア・セッセイ

(出典) flickr

サルビアはすごい。これまでは1-2mぐらいの小さな潅木が多かったが、サルビア・セッセイは、4-5mの大きな潅木で、ライム色の葉、うすい赤色の大きな花が素晴らしい。サルビア・レグラ(Salvia regla)に似ているが、レグラは直立の2mの潅木なので、それよりも大きなサルビアだ。

メキシコ中央部の高度2100mまでの松林や森林の端に生息し、最初の発見・採取者は良くわからない。
「The New Book of Salvias」の著者Clebsch, Betsyは、1787年からのスペインのセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)探検隊が採取したと書いている。
そうかもしれないなとは思いながらも、命名者である英国の植物学者ベンサム(Bentham, George 1800-1884)は、どこでメキシコの植物標本を手に入れたのだろうかなと疑問に思ったが、ベンサムは、パリでドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)のコピーを手に入れ、これに感動し植物学に邁進するようになったという。ベンサムが、採取者セッセに奉げたサルビアなのだろう。
その後、キュー植物園に席を置いたベンサムは、キュー植物園の組織力を生かして集めた英国の植民地の植物相の研究を行ったので、彼が命名した植物は数多い。
プリングルは、1902年にモレーロス州クエルナバカの450mのところでこのサルビアを採取している。

25. Salvia setulosa Fernald (1901). サルビア・セツロサ

(出典) senteurs du quercy

このサルビアは、プリングルが最初の発見者で、1900年9月1日にモレーロス州クエルナバカの2400mのところで採取した。
60㎝程度の草丈で耐寒性が弱く短い花序を伸ばしブルーの花を咲かせる。似たサルビアが多く、独立した品種なのか議論が起きる可能性がある。

(続く)
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No26:プリングルが採取したサルビアとチア(Chia) その8

2010-11-19 10:58:06 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No26 
メキシコのサルビアには、見てくれだけでなく中身が優れているのもあった。チアといわれる種でその物語でもある。

19. Salvia rhyacophila (Fernald) Epling (1939). サルビア・リアコフィラ


(出典) flickr

サルビア・リアコフィラは、耐寒性がある一年草のハーブで、草丈1m、ブルーの花は10cmと大きい。葉はサラダで食べられ、タネはケシの実のようにサクサクとしておいしいという。
しかも体内で作れない必須脂肪酸が多く含まれるというからありがたいサルビアだ。
こんな素晴らしいサルビアだが、最初の発見は、1900年10月17日と大分遅くにメキシコ、モレーロス州クエルナバカでプリングルが発見・採取している。
新種としての命名は、それよりも遅れて1939年にアメリカの植物学者・プラントハンターのエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)がしている。

ところで、このサルビア・リアコフィラは、No15:パーマーが採取したサルビアの(7)に記載したサルビア・ヒスパニカ(Salvia hispanica L.(1753))に姿・形からハーブとしての性質まで良く似ている。

(写真) Salvia hispanica

(出典)Robin’s Salvias

ハーブとしての性質でどこが似ているかというと、必須脂肪酸が豊富なところだ。
体内で作られないので食物として摂取しなければならないものを必須脂肪酸と言うが、その中でも特に作りにくいのがリノール酸とリノレン酸というものだそうだ。

サルビア・ヒスパニカは、リノレン酸を64%も含んでいて、エゴマ、キウィフルーツを上回り食物の中で最高の含有量という。
このサルビア・ヒスパニカは、アステカ時代はチア(Chia)と呼ばれていた。正確にはタネのことを指しているが。
サルビア・リアコフィラも同じくチア(Chia)と呼ばれている。

アステカ文明を支えた四大食物
スペイン人が侵略する以前のアステカには、食糧となる重要な栽培植物があった。
スペイン人が記載している重要な食物として、トウモロコシ(maize or corn)、豆(beans)、チア(Chia)、アマランス(amaranth)があげられている。

人間にとって必要な栄養として、炭水化物(糖質)、たんぱく質、脂質を栄養の三大要素といい、ミネラル、ビタミンを加えて栄養の五大要素というが、。アステカ人の栄養として、トウモロコシ、豆、チア、アマランスはバランスが取れていたという。
しかし、チアとアマランスは、コロンブス以降の世界に伝播・普及しなかった。それにはわけがあった。

アマランスは別途説明するとして、チアの起源と歴史でこれを垣間見てみよう。

文字を持たなかったアステカ

(地図)首都テノチティトラン(Tenochtitlan)

(出典) wikipedia

アステカ王国の首都テノチティトラン(Tenochtitlan)は、テスココ湖に浮かぶ島に最盛期で30万人が居住する当時のヨーロッパにもない大都市であり、湖周辺の都市と橋で結びその中核としてまるでネットワークのハブとして高度な文明を誇っていた。

このような都市を作れるくらいなので、土木・建築そして天文学に基づく暦に優れた才能を発揮したが、アステカの文明は文字を持たなかった。
文化・歴史は、絵と文字が一体となり記録か記憶されたメディアによって伝承されるが、文字を持たなかったために、そして、コルテスの征服による虐殺と伝染病によりアステカの人口が激減したために、記録と記憶が消され謎を持った文明となってしまった。

唯一例外は、“絵文字”を持っていたことだ。

この絵文字を編集し、アステカの人々から聞き取り調査をして著述された作品が残っている。1500年代はまだ印字と印刷機がなかったので手書き原稿とこのコピーである写本コデックス(Codex ,Codices)だった。

スペイン征服以前のメキシコがわかるコデックス(Florentine Codex)

(出典)wikipedia

スペインのフランシスコ会の宣教師 Bernardino de Sahagun(1499 –1590)が、原住民からのヒアリングを行い、現地生まれの改宗者に教えるテキストとしてナワ語・スペイン語・ラテン語で1540-1585年の間に著作したのが“Florentine Codex”といわれるもので、タイトル名は英訳で「General History of the Things of New Spain」というようにスペイン征服以前のメキシコのことがわかる唯一に近い百科事典でもあるという。

原本はスペイン政府が破棄して存在しないようだが、またそのコピー(写本)も公開されたのは1979年であり、よほど知らしめたくなかったのだろう。
Florentine Codexは、主要なところはナワ語で書かれている。フィレンツェの図書館に現存しているのでフィレンツェ・コデックスと呼ばれている。
この写本にチア(Chia)を始めとしてトウモロコシなどアステカの重要な農産物に関して記述されていた。

チア(Chia)の歴史
ところで、1521年にアステカ王国を亡ぼしたコルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)は、チアとアマランスの栽培を禁止した。その理由は、宗教的な儀式に使われていたためであり、この儀式自体を禁じたためである。
ローマカトリック教を普及するためという大義名分もあるが、コルテスの目の前で捕虜になったスペインの兵士が、ピラミッド上の神殿で人身御供として虐殺としかいえないような儀式をする宗教を許すことは出来なかったのだろう。
この儀式にチアとアマランスが使われていたので栽培の禁止となり、耕作面積が減り品種改良どころか雑草化するだけとなった。

確かに、切腹という儀式も日本の美意識から生れたものだろうが、異なものかもわからない。他殺でもなく自殺でもない死は摩訶不思議と思う。これを文化摩擦というのだろう。

フィレンツェ・コデックスよると、チアの歴史は相当に古いことがわかった。
食物として最初に利用されたのは、紀元前3500年で、紀元前1500年から紀元前900年の頃には貨幣の代わりとして利用されたという。また、征服した支配地から租税としてチアが納められていたようだ。
そして、生贄をささげる儀式で神に奉げられもした。

コルテスが攻め亡ぼした頃の首都テノチティトランには、大人口を支える大きな市場があり、そこではココアの豆が貨幣のかわりに使われていたという。重要な植物が媒介となり交換されていたが、チアは生贄の儀式に使われていたために栽培禁止となり、ヨーロッパの世界に伝播することもなかった。

征服者のスペイン人は、かわりにヨーロッパの野菜を持ち込み栽培させたという。

チアの食物としての評価研究をした米国の大学の結果では、大さじスプーン1杯のチアと水で24時間のエネルギー消費をまかなえるというレポートがあった。
征服者コルテスは、チア(Chia)、アマランス(amaranth)のこんな能力を直感して栽培禁止にしたのかもわからない。
元気で抵抗されたのではたまらない。これが統治者の本音だろう。

当事者にもこの気持ちはわかる。ネ!
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No25:プリングルが採取したサルビアと ドゥ・カンドール その7

2010-11-15 09:32:57 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No25 

プリングルが採取したサルビア・プルケラの命名者はDCだ。
理科の時間に乾電池を直列でつないだものをDC(direct current)と呼んだが、植物学では略してもいいほど有名なスイスの植物学者ドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)を指す。
彼は、メキシコに探検に出かけなかったはずなのに、多くのメキシコ原産の植物に命名している。どこからか植物標本を手に入れているはずだが、謎として残っていた。
この謎に多少の光りが見えてきた。

18. Salvia pulchella DC. (1813). サルビア・プルケラ


(出典) wikimedia


(出典) annie’s annuals

プリングルは、草丈40-60㎝、小太りで愛嬌のある朱色の花が咲くサルビア・プルケラを1902年10月7日にメヒコ州で採取した。“pulchella”は、prettyと同じでありラテン語で“愛らしい”を意味する。確かに小太りで愛らしいサルビアだ。

記録されている最初の採取者は、フンボルトとボンプランであって1800年代の初期に採取しているが、それ以前に誰かが採取している。
というのは、フンボルト探検隊が採取した植物の多くはクンチ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)により命名されその発表は1818年だが、スイスの植物学者ドゥ・カンドールが1813年に命名している。

ドゥ・カンドール(de Candolle)とモシニョー(Mociño)の接点
ドゥ・カンドールにメキシコの植物標本を提供し、自分の名前を隠さなければならなかった人物がいるのだが誰だかわからなかった。

おおよその見当では、1787年から1803年までメキシコの植物相を調査したセッセ探検隊に参加した植物学者・プラントハンターのうちの誰かで、1803年にセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)と一緒にスペインに戻ったニュースペイン(=メキシコ)生れのモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)ではないか?
ということがわかった。

ドゥ・カンドールは、1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をし、
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。

レリティエール自身1800年に暗殺されていて、彼が友人から預かった植物標本などをスペイン政府が返還を求めていたので、これが原因で暗殺されたという説もある。
というように、ドゥ・カンドールは、国家機密として取り扱われていたメキシコの植物情報に接するルートがあった。

スペインに行ったモシニョーは、ナポレオンのスペイン統治を支持したためフランス軍の撤退後に逮捕され、何とかフランスに逃亡した。
モンペリエ大学の植物園で数年過ごし、ここの医学部で植物学教授を1808-1816年までしていたドゥ・カンドールに出会い、モシニョーがマドリッドから隠し持って行った植物標本・植物画などをドゥ・カンドールに見せたという。
ドゥ・カンドールは、その貴重な価値に気づき真剣に学び、彼の著作Prodromusにメキシコの植物を記載したという。
こんな経緯があるから、誰が採取したか記述できなかったのだろう。

セッセとモシニョーの植物コレクションと原稿は、一世紀以上も忘れられ、後に変なところから出てくる。
改めて、1787年からのセッセのメキシコ植物相の調査探検隊を調べなおすことにした。

学術といえども政治と無縁でいられなかった時代の学者・文化人は大変だった。
政治の安定による平和を切に望みたい昨今であり、ナショナリズムというエゴ・我儘を生のままで出さない賢明さをもちたいものだ。
また、これまで私益を追及してきた人々が、国益を声高に叫んでいるのもナショナリズムを鼓舞するようでいただけない。
せめて調理するスキルと素材を料理するというクリエイティブな時間の余裕を持ちましょう!
そして、目の前にサルビア・プルケアがあると、ささくれだった心も微笑んでしまうだろう。
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No24:プリングルが採取したサルビア と テキーラ その6

2010-11-11 08:49:30 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No24 
プリングルの名前を冠したサルビア・プリングレイを採取したテキーラ地方はテキーラの発祥の地だった。その歴史も楽しめる。

17.Salvia pringlei B.L. Rob. & Greenm. (1894). サルビア・プリングレイ

(出典)Robin’s Salvias


(出典)plantsystematics

プリングルが1893年10月2日にメキシコ、ハリスコ州グアダラハラの近くに位置するテキーラの発祥地で有名なテキーラの峡谷の崖下でこのサルビアを発見・採取した。
彼のスポンサーでもあるハーバード大学のグレー植物標本館の館長に1892年に就任したロビンソン(Robinson, Benjamin Lincoln 1864-1935)が、プリングルの名前を取りサルビア・プリングレイと命名した。

ロビンソンの前任者ワトソン(Sereno Watson 1826-1892)までは、プリングルは、ハーバード大学から年俸などの契約があったが、ワトソンの死でこれが反古にされ、ロビンソンからは栄誉だけもらうことになった。プリングルの経済的に厳しい時期の始まりだった。

もう一人の命名者グリーンマン(Greenman, Jesse More 1867-1951)は、ハーバード大学を卒業し、ベルリン大学で博士号を取得した植物学者で、ミズリー植物園の学芸員、のちにワシントン大学植物学の教授となった。

このシリーズNo20 で掲載した12.Salvia iodantha Fernald(1900). サルビア・イオダンタと類似ではないかという説もあるが、確かに似ている。

テキーラの街の歴史
ところで、プリングルはこのサルビアを「テキーラ」で採取している。

テキーラの街は、1530年、クリストバル・デ・オニャーテ(Cristobal de Onate)がこの地を征服し、修道士フアン・ガレーロ(Juan Galero)率いるフランシスコ会修道士が、チキウイティージョ(Chiquihuitillo)から連れてきたインディオ達と一緒に今日のテキーラに定住し、1538年にはテキーラは村に発展した。

というのがテキーラの街のスタートだが、ついお酒のテキーラが気になり脱線して書くことにした。

テキーラ誕生の経緯
ジン・ウオッカ・テキーラは、無色透明な蒸留酒でホワイトリカーとも呼ばれる。焼酎もこの仲間に入るが、単独で飲むと、安くて、酔いが速いのでヘビードリンカーと若者に支持されるお酒となっている。
アダルト向けにはカクテルのベースとして使われ、映画・小説の脇役として欠かせない。テキーラをベースにしたマルガリータなどはその代表だろう。グラスの縁をライムで湿らしたところに塩を塗り、テキーラ+オレンジ風味のホワイト・キュラソー+ライムジュースをシェイクしたカクテルだが、量を飲まない方が良い。
ちなみに、同じ組み合わせでウオッカベースのものを“カミカゼ”というので、ホワイトリカーベースのカクテルは、特攻精神で飲みすぎると地雷原を千鳥足でさまよい自爆しかねない。

テキーラの誕生は、1500年代末のスペインの税金問題だった。
1521年にアステカ帝国を亡ぼしたコルテスは、スペインから持って来たブランデーが底をつき食習慣での差し迫った問題に直面した。そこで、1521年以降1525年頃の間に、スペインからブドウの苗木を輸入し、メキシコでのワインの生産に乗り出した。
1500年代末にはスペインからワインを輸入しないでも良いくらいに自給自足が出来るようになったという。

ワインの輸出関税が入らなくなって困ったのはスペインの国王フィリップ二世で、1595年に新しいブドウ園をメキシコ及びチリなど他のスペインの植民地に植えることを禁止した。

ヨーロッパの人々にとって、水は雑菌に汚れていたので水を飲む習慣がなく、アルコール度の低いワイン・ビールは食習慣として定着していたので植民地としては困った事態になった。

そこで目をつけたのは、スペイン人が侵略する前からあった地酒のmezcal(メスカル)”だった。
メスカルは、ハリスコ州グアダラハラから北西65㎞のところにあるテキーラ周辺が原産の植物、“blue agave”を原料として発酵させて作るドブロク(プルケPulque)を一回蒸留させたものだ。
原料となるブルー・アガベの学名は、アガベ・テキーラナ(Agave tequilana)で、和名ではリュウゼツラン属(竜舌蘭)なので、サボテンからテキーラを作ってはいない。

(写真) アガベ・テキーラナ(Agave tequilana)

(出典)cactus-succulents

スペイン人は、アルコール度数が低く不純物が多い発酵酒を蒸留させて不純物を取り除いて飲むことを実行していたようで、この蒸留の技術はスペイン人が自ら持って来たと思っていたら、フィリピン人が持ってきたようだ。
不思議なことに、1500年代中頃には大型の軍艦・商船として使われていたガレオン船でチャイニーズ・インディアンと呼ばれたフィリピン人がアカプルコ等メキシコ沿岸に来航し商取引を行っていたという。

確認してみたら別に不思議なことではなく、メキシコを征服したコルテスは、次の目的である太平洋を西回りで横断しインドネシア東部にある香料諸島(モルッカ諸島)に到達させるためにアルバロ・デ・サアベドラ探検隊を1527年に派遣した。
サアベドラは、香料諸島のティドーレ島に到着し、その後メキシコに戻る試みを二回したが風に乗ることが出来ず失敗して途中で亡くなった。

コルテスがメキシコを征服していた同じ頃、世界一周の航海をしたマゼランが1521年にフィリピンに到着したが、実際の植民地化は、1565年にセブ島に植民地の基地を作ったときから始まる。この帰りにフィリピンからメキシコへの航路を発見し、フィリピン、メキシコのアカプルコ間でのガレオン貿易が始った。

このガレオン貿易の船に醸造酒を蒸留する機器があった。というのが新しい説のようだ。

(写真)ステンドグラスに描かれたスペインのガレオン船

(出典)dmstainedglass

この頃、メキシコ、ハリスコに到着したスペインの貴族Don Pedro Sanches de Tagle, Marquisが、メスカルワイン(mezcal wines)を生産し始め、1600年頃に蒸留器を導入してテキーラの大量生産工場を初めて作り、今日のテキーラの基礎を作った。
1608年には出荷に対しての課税がされた記録があるのでテキーラの消費が拡大した証拠でもあろう。
プリングルがメキシコ探検をしていた時期でもある1885年にはアメリカにも輸出されるようになり、メキシコの主要輸出品まで成長する。
世界的な普及は1968年メキシコオリンピックの時のようだ。そういえば、この頃38-40度ある高アルコールのテキーラをがぶ飲みして酔っていたことを思い出した。

プリングルの功績を忘れるほどお酒の歴史は面白い。ということにいまさらながら気づいた。脱線を愉しむことにしよう。

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No23:プリングルが採取したサルビアと18世紀のスペイン その5

2010-11-07 08:39:38 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No23 

18世紀頃のスペインは何をしていたのだろう
さて、今回はちょっと趣向を変えて前から疑問に思っていたさわりの部分にふれて見たい。
1492年にコロンブスがカリブ海の島に到着してから、中南米でのスペインの活動が始った。そしてユカタン半島にスペイン人が到着したのは1517年であり、ここからメキシコの征服が始まる。
コルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)がアステカ帝国を滅ぼしたのは1521年なので、わずか30年という速いスピードでアメリカ大陸に植民地を作ったことになる。

しかし、メキシコの植物に関しては、記録に残そうという努力がなされていない。
英国が海外の主要なところに探検隊を派遣する18世紀中頃から記録が始っているが、これ以前の200年以上がよくわからない。
この時代の価値あるものといえば、金・銀・宝石を除くと植物などの生物資源となる。食糧・薬・香辛料・繊維・住宅・船などの建築資材・燃料などなどである。
スペインは、メキシコを初めとした植民地の植物に関心がなかったか、有用性に気ずかなかったか、意図して隠したかのいずれかであり、さてさて、何だったんだろう?
という疑問がついて廻っていた。

いまのところの答えは、“有用性に気づかずに隠した”というややお馬鹿チャンのようだったと思う。
その一端、きれ端をサルビア・ポリスタキアでも感じる。

16. Salvia polystachya Cav.(1791)サルビア・ポリスタキア

(出典)Robin’s Salvia

サルビア・ポリスタキアの花写真は、横に倒れて咲いているように撮られているものが多い。1-3mまでブッシュ状に育つ大柄なわりには枝が弱いので多くの花をつけた花序の重みに耐えられない。
開花期は9月から晩秋まででバイオレットブルーの花が多数咲く。
夏場に雨が多い温暖なところが適地で、メキシコ中部からパナマまでの1000-3000mのところに生育する。
日本でも生育可能であり、サルビアだけのガーデンで栽培してみたい一種と思う。

プリングルは、このサルビアを1894年から10年間にわたりメキシコの各地で数多く採取している。彼以前に採取時期がわかっているのは、このシリーズNo7に登場したハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)が1839年にグアテマラで採取していた。

伝統的には、胃痛・頭痛を和らげるハーブとして使用されていたので、中南米では広く知られているサルビアなので征服者スペイン人が採取しているはずだが、やはり見つかった。

サルビア・ポリスタキアの発見者Sesséと命名者の関係
サルビア・ポリスタキアは、1786年に時のスペイン国王カルロス三世(Carlos III, 1716-1788)にメキシコの大規模な植物・動物などの資源を調査する提案を行い、その中心メンバーとして探検で活躍したセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)が発見・採取していた。

そして、命名したのは不思議なことに2名いる。スペインの大植物学者カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph) 1745-1804)が1791年に、同世代で年齢的には5才年長の医師・植物学者オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)が1798年に同じ名前で命名している。

(写真) カバニレス(Cavanilles, Antonio José(Joseph))肖像画

(出典) Royal Botanical Garden of Madrid

(写真) オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de)肖像画

(出典) felipecastro.wordpress

オルテガは、1771年から1801年まで王立ドリッド植物園の教授で、リンネの著書をスペイン語に翻訳しているのでリンネ体系支持の学者ともいえよう。しかし、この二人は、王立マドリード植物園の園長と植物学の教授という関係でありながら晩年は対立していたようだ。

15世紀末のコロンブスから始った大航海時代以降のスペインは、植民地化するために使ったコスト(国王又は投資家から集めた投資金)を早急に回収するために、中南米植民地の金・銀・財宝・労働力としての原住民を略奪することに熱中していた。
いわば狩猟採取的な植民地経営がなされていて、定着して耕作(Cultivation)するにはなかなか至らなかった。

18世紀になって、英国・フランスなどの科学的な調査探検に刺激されたのか或いは対抗したのか、開拓・開発的なことに投資するようになった。前回(No22)触れたマラスピーナの太平洋探検隊(1789-1794),セッセのメキシコの植物相探検隊(1787-1803)などであり、他にもペルー、ニューグラナダ、フィリピンなどスペインの植民地の植物相調査を行っている。これらの探検隊の成果をマドリードで検証していたのが植物学の範囲では前述したカバニレスとオルテガの二人だった。

しかし、探検隊に同行した科学者達の貴重な報告書は機密として取り扱い公表されないことが多い。マラスピーナの太平洋探検隊紀行記は出版禁止となり、セッセの探検の成果が公開されたのは1887年なので100年後のことだった。
この点で、英国の探検隊のオープン性と際立った違いとなっていて、英語で読む限りのメキシコの植物情報に関しては、1500年~1700年代の300年間が空白に近い状態となっている感がある。(スペイン語では多少あるようだが手に負えない。)

改めて、スペイン征服時代の探検史を紐解いてみようと思い、セッセのメキシコ探検隊は後日掲載したい。

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