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彦四郎の中国生活

中国滞在記

初めて「孫」というものを見て、私も「おじいちゃん」になった—生後まだ半月だが、可愛い赤ちゃんだった―

2016-11-10 14:03:20 | 滞在記

 帰国した翌朝、家の富有柿が橙色に色づいていた。今年はたくさんの柿がなっていた。(昨年は3個くらいしかできなかった)「日本は秋なんだなぁ--」としみじみ感じた。 午前中、パソコン操作サービスの業者に来てもらい、中国で使っているパソコンの問題を解決してもらった。昼過ぎに行きつけの理容店で散髪をする。

 午後2時半ころ自宅を出て、4時頃から娘の家からほど近い「哲学の道」を妻と一緒に散歩した。もみじの紅葉が少し始まっていた。哲学の道沿いに咲く「シオン」や「よめな」の紫の花、山茶花(さざんか)のピンクや白の色、もみじの黄やオレンジや赤い色。あと半月ほどで毎年見事に紅葉する 疎水に映る 今はまだ緑のもみじの葉。

 あと半月ほどで、白い壁と真っ赤な「血のような」もみじとのコントラストが、不気味なほど美しい場所。もう亡くなってしまったが、生前に大変世話になった「高佐の富美枝おばさん」の家(哲学の道のそば)に行ってみた。今はもう、別の人が住んでいた。学生時代に住んでいた下宿があった銀閣寺周辺からこの哲学の道あたり一帯や近くの吉田山や京都大学周辺は、青春の思い出がつまった場所の一つである。今は、ここに娘が結婚して居を構えた。

 散歩の途中、樹木店があったので立ち寄った。娘の家の玄関先に鉢植えの大きな緑がほしいので、いろいろと物色してみた。黒谷から「真如堂」という紅葉や桜の美しい大きな寺(※幕末の会津藩の駐屯地)を経て、「吉田山荘」に行く。ここの喫茶室の建物「真古館」は、名喫茶店が非常に多いここ京都でも 私が好きなベスト3の喫茶店の一つだ。景色は四季を通じて抜群。ここの喫茶店を舞台にした『京都寺町三条のホームズ』という推理小説の第4巻が売られていたので1冊 娘に買って帰ることにした。ここから娘の家まで 歩いて3分〜4分ほどである。

 この日(11月6日)、この10月16日に結婚した息子たち新婚夫婦も来ていた。初めて、「自分の孫」(10月22日誕生)と対面した。生後2週間ほど。手や足の指がもみじの葉のように小さく柔らかかった。毛髪が少し生えていた。目覚めると泣き声を少しあげる。人間の動物としての泣き声だ。新しい生命が誕生していた。

 とても不思議な気持ちだった。娘が赤ちゃんを産んだという不思議さやその命がここにあるという不思議さや。なにか あたりまえだが 初めて経験する不思議さだった。なかなか言葉にすることは 難しい不思議さ。この子は、私をおじいちゃんとよぶことの不思議さ。命というものの連続する不思議さ。おじいちゃんになったという不思議さ----。名前は「栞(しおり)」と命名されていた。

 娘が産婦人科病院から退院した その翌日あたりから 娘の家にしばらくの間、住んで仕事に行くことになった妻の「この子がいると テレビはいらない」と言っていた言葉の意味が、実感としてわかっていきた。寝顔でも目覚めている顔でも 見ていると飽きがこないのだろう。目覚めて目を開けると、大きな瞳と二重の瞼(まぶた)、少し高い鼻。娘に似ているのかもしれないと思った。

 世の中の色々な人が「孫は可愛いよ」と口をそろえて言うことを聞いてきたが、なるほどなあとこの日は思った。

 みんなで、寿司を食べ、酒を飲み、この日を祝った。そして、自宅に戻った。翌日は姪の結婚式が予定されていた。

 

 

 

 

 

 

 


中国に於ける交通(バス・新幹線・航空など)は「時間が守られない」ことが多い―二胡を飛行機で運べた

2016-11-10 04:53:54 | 滞在記

 10月24日(月)から28日(金)までの1週間は、日本に一時帰国した同僚の授業分(8時間)を代行したり、10月中旬の息子の結婚式に一時帰国した際の振替授業(2時間)をしたり、卒業論文のゼミ指導(2時間)が入ったりしたので、合計24時間の授業を行った。大学での週に20時間越えはなかなか疲れる。そのための授業準備も膨大な時間を要することとなった。

 その週の土曜日の朝、アパート近くの福建師範大学内で、「福州市外国人教員セミナー」への前々日の急な動員参加依頼があったため、師範大学正門で福州市教育庁手配の送迎車を待つ。待つこと1時間、車が現れない。師範大学の正門付近では、子供達の太極拳教室が開かれていた。中国独特の「瓢箪笛」をおじいさんが演奏していた。女子学生が演奏を撮影しながら熱心に聞き入っていた。電話で「迎えの車が来ない」ことを関係機関に連絡したら、別の大学の日本人教員を氏名確認しないまま、私と勘違いして発車していたようだった。授業準備の仕事がたまっていたので、これ幸いにとアパートに戻り仕事を始めることとした。

 中国では、交通機関の時間を守って運行するという観念がものすごく希薄である。ソビエト(ロシア)、アメリカに次いで、宇宙ステーションを作り、第三の「宇宙大国」になろうとしている中国。ロケットを正確に打ち上げる宇宙開発の数秒の誤差もない技術は優れたものがあるのだろうが、国民の生活に密着した交通機関の運行時間システムの管理技術や順守観念は、かなりお粗末なものだと感じている。

 新幹線の海外売り込みで、日本と中国は競争関係にある。この数年では、インドネシアでは、中国が売り込みに成功し、インドでは日本が受注に成功している。中国の売りは「低価格」、日本の売りは「技術力」という側面が強いようだが、「運行時間管理技術能力のhow to」比較では、中国と日本では話にならない。

 10月31日(月)、立命館大学大学院に留学している林さんからの依頼で、中国の伝統楽器「二胡(にこ)」を受け取りに彼女の故郷「尤渓」に新幹線で行くことになった。二胡を受け取り、林さんの父と食事をとり、 また新幹線を利用して福州に戻る予定だった。

 福州発10:49の新幹線に乗車予定。発車20分前には、すでに大勢の人が改札口に並んで改札を待つ。中国の新幹線は、発車10分前にならないと「改札口」を開けないので、大勢の人が並んで今か今かと待つことになる。「発車10分遅れの表示」が出た。しばらくすると「15分遅れの表示」、次に「20分遅れの表示」、そして「30分遅れの表示」。またまた「50分遅れの表示」。この間、なぜ発車が遅れるのかの説明は一切無し。「遅れが生じてすみません」のアナウンスももちろん無いのが中国式。こんなことに慣れていて文句を言わない人々というのも中国式。

 60分遅れで発車することになったようで、ようやく改札口での新幹線チケットの改札が発車10分前に始まった。たった10分で何百人という人々がチケット検査機を通過し、プラットホームに行き、乗り込まなければならないのも中国新幹線の日常的な風景だ。多くの人がなだれ込むように階段を下りてプラットホームに向かい、新幹線に滑り込むようにして乗り込む。危険極まりない、いつもの新幹線の乗車風景。こんな遅れはしょっちゅうである。

 1時間遅れの12時50分に尤渓駅に到着。駅の外で林さんのお父さんから二胡や二胡の本、薬草などを受け取り、予約してあった13時20分発の新幹線に乗車し、トンボ帰りで福州に戻った。

 市内公共バスは、どこの都市に行っても時刻表は一切ない。ひたすらバスが来るのを待つ。数多くのバスがひっきりなしにバス停にくるが、目的のバスの番号が遠方から来るのを めざとく見つけて、そのバスが停まったところに 走って乗る。少しでも遅れたら 置き去りにされる。また、バスの始発時間というのも、10〜15分程度は遅れるのも日常的。バスに乗るのは、多大なストレスを伴う中国社会。(※バスや新幹線の乗車運賃は、中国政府の国策で 非常に低く抑えられている。市内バスは1元~2元[17円~34円]、新幹線は京都-名古屋間の距離ならば50元[750円]ほどである。)

  11月5日(土)の飛行機で日本に一時帰国することになった。14日(月)に中国に再び戻る予定。11月上旬は、各大学では3日間程度の体育祭(運動会)シーズン。大学の授業も休講期間となり、まとまった休みがとれた。帰国時の授業の振替授業は、すでに帰国前の週に実施。日本に帰国して、妻の兄の娘の結婚式に参加する予定もあった。

 帰国の飛行機乗車に関して、非常な心配事があった。林さんからの「二胡を日本に運んでほしい」との依頼の件である。10月下旬、福建師範大学の日本人教員の亀山さんがアパートに泊まった際に、「私の知り合いの人が 上海の空港で 二胡を日本に運ぼうとしたが 『ワシントン条約』の動植物保護国際法にひっかかって飛行機への預入荷物や機内持ち込み荷物として許可されませんでした。」という話を聞いたからだ。

 インターネットで調べたら、やはり飛行機での二胡の持ち込みは難しいようだった。二胡には、「ニシキヘビの皮」が一部張り付けられてある楽器であるからだ。また、バイオリンのような小型の楽器の大きさならば機内持ち込みができるようだが、二胡のように長い楽器は長さ制限で持ち込みが難しいこともわかった。

 林さんは二胡の演奏がけっこうできるので、日本留学中に日本人との交流でいろいろ役にたつのではないかと思うのでなんとか持って帰ってあげたかったが、彼女に「二胡は持ち帰れないかもしれない」と連絡をした。どうしたらいいか いろいろ考えた末に、福建師範大学の学生(趙 君)に、一緒に空港まで来てもらうことを 事情を話して依頼した。もし、許可されなかったたら 彼に 二胡を預かってもらうことにした。ダメ元で二胡と共に空港に向かった。

 空港に着き、第一番目の関門・「チケットカウンター」に向かう。入り口で趙君は「ここからは入れません。」と告げられた。一人でチケットカウンターに向かい、「二胡を機内に持ち込んでもいいですか。」と聞く。30秒間ほどの空港職員が相談した結果、「許可します。」との回答に安堵する。次に出国検査を受け、第二番目の関門・「機内荷物検査場」に行く。ここでも許可された。空港ロビーで待っていてくれた趙君に「二胡は無事に通過」の連絡をし、帰ってもらってもいいことを告げお礼を言った。

 日本帰国に際して、立命館大学大学院にこの9月末から留学している李君からも荷物を頼まれた。「先生、私の故郷から先生に荷物を送ります。荷物は靴2足、干しシイタケ、干し薬草、本2冊、ノート2冊です。これを 日本への帰国の際に持って帰ってくれませんか。」ということだった。林さんからの依頼荷物は二胡の他に「二胡の楽譜本や中国の漢方薬」もあった。

 今回、日本帰国で利用する航空会社は「中国春秋航空」の福州-関空の直行便。「春秋航空」は価格が安いことで有名だが、機内預入荷物と機内持ち込み荷物の合計が15kgまでと荷物制限が他の航空会社に比べて超厳しい航空会社でもある。(※他社は、機内預入荷物が23kg以内が2個までの合計46kg/機内持ち込み荷物は大きかったり 二胡のように長いものでない限り、特に制限はあまりない)

   第三番目の関門「搭乗口」に着く。12:20分の出発予定なので、1時間あまり時間待ちをする。出発30分前に、「20分間の出発遅れ」と表示される。まだ、飛行機は到着している様子がないが、20分後に出発できるのかなあと思いながら待っていると、「1時間の出発遅れ」と表示される。そして 「3時間30分遅れ」の表示に突然切り替わる。中国では、新幹線だけでなく飛行機の遅れも日常的だ。遅れの原因説明も「遅れていて申し訳ありません」の言葉も一切ないのも中国式。

 ようやく、4時間の出発遅れで 第三番目の「搭乗口」荷物チェックを通過し、飛行機に二胡と共に乗り込むことができた。後は、第四番目の関西国際空港での入国荷物検査を通過すれば 無事に「二胡の日本への運び込み」が成功することととなる。春秋航空の飛行機に初めて乗った。料金が安いだけあって、席がものすごく狭かった。席のシートを少し倒すことができない座席なので、眠ることが難しい。機内食は出なかった。食べたい客は、お金を出して注文するというシステムだった。機内の座席数は、他の航空会社の飛行機の1.5倍くらいもあった。さすが、台風の影響で 他の会社は運行を見合わせても 春秋航空は飛ぶという航空会社だけあるなあと感心もした。

 関西国際空港に到着し、二胡も無事に通過。林さんに「二胡を持ち帰れた」ことを連絡。午後6時の帰宅予定が1午後10時すぎになった。かなり気を使って、体も心も疲れ 日本帰国となった11月5日だった。

 私の荷物で持ち帰ったのは、パソコンと少しの衣類だけになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「馬鹿野郎!!! どこ走って来るねん!!!」―中国に来てから初めて交通事故というものに遭う―

2016-11-09 06:01:43 | 滞在記

 中国・福州の交通事情は すざましい。歩行者の歩道を歩いていても、まず 安心して歩くということはできない。免許の取得が必要のない「電動バイク」に乗る人が とても多いことが その大きな原因の一つである。朝や夕方などの通勤・通学の時間帯は、まさに「洪水のように電動バイクが流れて来て止むことがない」とでも表現できようか。

 この電動バイクは、日本の50ccバイクとほぼ 型や大きさ スピードが変わらない。交通ルールは、まったく守られない。「もう無茶苦茶」な交通ルール観念である。歩道を走行することは常識であたりまえ。逆走することはあたりまえ。赤信号は無視して走るのはあたりまえ。3人~5人乗りはあたりまえ。だから、歩道や横断歩道を安心して歩くことなどできない。歩道を歩く時、絶対に急に左右に歩く方向を変更してはいけない。後ろから音が出ない電動バイクがぶつかって来る可能性が多いからだ。今までに歩道で 後ろからぶつけられたことは何度が経験した。その際も、「すみません」の一言は聞かれない。「ぼやぼや歩くな。もっと歩く時は注意しろ!」という態度をとられたことが多い。横断歩道を渡るのは けっこう危険で、「ちょっとした命がけ」となる。この日々の生活は 相当なストレスがたまる。

 ちなみに、この電動バイクの使用は 北京など 国際的な都市によっては禁止されている所が増えてきたようだ。あまりに交通渋滞を招き、危険だからであろう。福州では電動バイク花盛りといったところで、さらに増えそうな勢いだ。

 中国における交通事情は、なにか昔の日本の身分制度を彷彿させる。「士・農・工・商・エタ・」の江戸時代の身分制度を。中国での道路状況は、「大型車➡普通車➡オートバイ➡電動自転車➡自転車➡人間」の5階層の身分制度となる。「弱肉強肉」とでも形容できる「そこのけそこのけ車やバイクが通る」という感じで、「車やバイクに当てられる人が、不注意だから 事故に遭ってしまうのだ」という考えが充満しているようにも思われる。

 10月22日(土)、福建省大学スピーチコンテストが開催された日の早朝、会場になる閩江大学に向かうために43番バスに乗車。途中で、2件の事後現場。最初は、自転車に乗ったおじいさんと乗用車の事故のようだった。おじいさんが、道路に仰向けに倒れこんでいた。ぴくりとも動いていなかった。その現場から3分ほどバスが進んだ箇所で、三輪屋根付きバイクと乗用車の事故。道路に放り出されたバイクの男性の顔面は血だらけになっていた。

 それから3日後の10月25日(火)、午前中の授業と午後の授業が終わり、しばらく研究室で休息し、午後5時ころに市内バスに乗る。41番バスを降りて43番バスに乗り換えるためにバス停に降りる瞬間に交通事故に遭った。この停留所付近は 特に夕方の通勤時間帯である午後5時から7時までの渋滞がすごい箇所でもある。渋滞のためなかなかバスも進めなくなる場所だ。

 停まったバスの車体から50〜60cmのところに、道路から一段高くなっているバス停の段差に降りようとした瞬間に、電動オートバイが私の体に衝突してきた。まだ、バス停の段差に足が着いていない空中姿勢の体状態にぶつかって来た。ちょうど、バイクの男のヘルメットが私の頭に激突してきたため、私はバスの車体の昇降口に跳ね飛ばされた。思わず「馬鹿野郎!!!!オマエどこ走ってくんねん!!!!!!」と日本語の大声で怒りくるい、相手のバイク男を胸倉をつかんでいた。相手は「对不起、对不起(ドィ・ブチ ドィ・ブチ)!!!!!」としきりに謝ってきた。中国に来て、この言葉を心から言われたことは初めてだった。

 渋滞時間なので、車もバイクもわずかの隙間をぬって 歩道・車道かまわず 少しでも前にいかなければならない状況はわかるが、まさか人がバスから降りて来ることが分かっているにもかかわらず、この狭いところを走行してくる神経は 理解の範囲をこえているが、これも中国の交通事情の現実の一つだった。脳震盪と打撲で けがは軽くすんだのが幸いだった。翌日、打撲箇所の痛みが現れはじめだが、頭の方は 大丈夫のようだったので、相手の男(免許証・人民票や電話番号を確認していた)には、特に連絡をとらなかった。中国に来て4年目、交通事故というものに初めて遭遇した。

 数日後、インターネットyahoo japanを見ていたら、「運転手が運転中にスマホゲームポケモンgoをやっていたことが発覚」という動画ニュースが流れていた。日本での出来事だが、回送中のバスで、乗客はいないバスでの出来事だったようだ。

 中国のバス運転手は、携帯電話を運転中にするのは当たり前だし、自分の好きな音楽を大きな音量でかけることもしゅっちゅうだし、走行中にタバコを吸う運転手もある。渋滞すると歩道を走るバスにも乗ったことが3度ばかしあった。そして、総じて公共バスとしての職業倫理感が超希薄で、まるでヤクザかチンピラのような運転手も多い。回送中のポケモンgoがニュース・事件として扱われる日本。そして、日本とは真逆の世界が、中国の交通事情だとつくづく思うことの多い日々でもある。

 事故にあった翌日、早朝から大学の授業に向かう。大学構内の小橋周辺には、ピンクの亜熱帯の樹木の花が咲き誇っている。地元の女性が 収穫したバナナを学生向けに売っていたので、買って昼食時に食べた。

 福州も、夏の終わりが近づき 少し涼しさを感じられる季節となった。事故にあって 少し痛みは残るが、幸いに元気になったことを喜ぶ。祖父母・父母「先祖の霊」が守ってくれたのだろうかとも思ったりする。

 

 

 

 

 

 


2016年度福建省大学日本語スピーチコンテスト❹―後半の部「即興スピーチ」を終えて、表彰式―

2016-11-02 19:07:57 | 滞在記

  「課題スピーチ」が終了し、10時半から15分間ほどの休憩時間がとられた。この休憩時間の間に、次の「即興スピーチ」の抽選・及び準備・練習が行われていた。「即興スピーチ」とは、発表者が抽選(クジ)でスピーチテーマを取り、そのテーマにそったスピーチをするというものだ。スピーチの準備・練習時間はたったの10分間が与えられる。発表の順番もクジによる。このスピーチは、大変むずかしい。スピーチ時間は2分以上3分以内。今回のテーマは、「①私と日本語②私の目から見た日中関係③最近、一番印象深いニュース④尊敬する人」の4つだった。

 「即興スピーチ」に発表者は、かなり苦労していたようだった。閩江大学の嫣さんも福建師範大学の劉さんも、このスピーチには苦労していた。劉さんのテーマは、クジで④の「尊敬する人」を引いたようで、私のことを話していたので、聞いていて少し恥ずかしくもあった。即興スピーチの発表でも、莆田大学及び厦門大学の各代表の発表がとても優れていた。

 成績は、「課題スピーチ60%」「即興スピーチ40%」で評価された。結果発表と表彰式が行われた。総合一等賞は、莆田大学の張さん。二等賞は3人。厦門大学の代表は二等賞だった。三等賞は5人が表彰された。閉会式で、審査委員長の関西大学教員のスピーチ総評や「協賛企業CASIO」代表の挨拶があり、12時頃に「スピーチ大会」が閉会した。審査員報酬(車代)として300元(約5000円)をいただいた。

 スピーチ大会終了後、大学構内にある福万楼にある「教師工作室」(研究室)でしばらく休み、バスを乗り継いでアパートに戻った。

 スピーチ大会の前日の21日(金)、閩江大学で「川端康成―『雪国』における翻訳―」の講演があったので行ってみた。講師は厦門大学の呉光輝 氏。厦門(アモイ)大学の「日本語 語言・文学学科」の主任教授。講演前に、呉教授と10分ほど話したが、川端康成についての彼なりの川端像の興味ある話が聞けて参考になった。

 

 

 

 

 

 


2016年度福建省大学日本語スピーチコンテスト❸―「未来を担う覚悟」(日中関係)のスピーチより

2016-11-02 05:23:12 | 滞在記

 福州の夏はとても長い。5月から10月の下旬までの約6か月間が、ほぼ30度以上の気温の日。中国の国慶節期間となる10月上旬に一旦 気温が少し下がる。そして中旬からは再び暑さが戻る。先週の10月下旬の1週間も、猛烈な暑さ。35度前後の気温が続いた。大学内では女子学生の日傘が花盛りだった。しかし、今週に入ってから、気温が下がり始めた。ようやく福州の長い夏が終わった。2週間余り、大学構内のいたるところで匂っていた「金木犀(きんもくせい)」の花も枯れてきた。

 16人の課題スピーチは、6人が「世界に紹介したい中国文化」のテーマスピーチ。その内訳は、「①中国医学②中国の伝統服③中国のお茶文化④春節の年越し文化(中国福建省閩南地方)⑤広場ダンス文化⑥親孝行」。そして10人が「未来を担う覚悟」のテーマスピーチだった。閩江大学の嫣さんもこのテーマでスピーチをした。練習の努力のかいあって、かなりいいスピーチをすることができていた。おそらく、課題スピーチの中では、4〜5位くらいには入っていたと、私は評価できた。

   ここで、一つのスピーチ原稿を紹介します。(※このスピーチ原稿の大学名は わからなかった。女子学生。)

―「未来を担う覚悟」―中国と日本

 今の私はもう大学四年生になりました。普段はよく勉強して、三年生の上半期に日本語能力試験1級に合格しました。大学生活はまもなく終わります。未来のことについては一応考えたことはあります。私は大学院生の入学試験を受けることにしました。大学院生になりたいのは突然の考えではなく、日本語についての知識をもっと身に付けたい、そして将来は日系企業に入って、取引や会議を翻訳する仕事をやりたいと思ったからです。

 ここ数年、中日両国は経済交流が日増しに盛んになっています。電気製品のみならず、中国全土で走っている日本車、人気を博している日本料理……このように、日本製品が中国人の日常生活に浸透し、欠かせない存在になりました。日本に留学している中国人は、日本にいる留学生の6割を占めたそうです。また、日本への中国人観光客も年々増えています。これから、中日間の交流がいっそう頻繁になるでしょう。それを機に日本語専門の人材のニーズも増えて、通訳者の活躍の場も広がっていくと思います。日本語の人材を育てることも 目の前に迫っている課題となっています。私はそういう人材になることを目標として努力しています。

 この夏休み、私は日本に行きました。最初は東京に着いた時、道に迷ってしまいました。見知らぬ人に道を尋ねて、日本の方々はみんな親切に道順を教えてくれました。しかも あるお姉さんは目的地まで案内してくれて、途中の建物も詳しく説明してくれました。その時、日本人が本当に親切で優しいねと思いました。日本に行く前に、ネットで中国に対してマイナスイメージを持っている日本人の割合が8割以上を占めたという記事を読みました。本当に「大丈夫かな、嫌われるかな」と思いながら こわごわと道を尋ねましたが、出会った日本の方々はみんな親切に教えてくれました。ありがたいと思ったと同時に心配しすぎた自分を笑いました。それに、旅の間、日本の静かな電車内や綺麗な道、メークをちゃんとして元気なおばあさんなどが、何もかも強い印象を与えてくれました。買い物の時にも、日本の良いサービスや日本人の親切さを実感しました。

 日本人の親切さを知らない中国人は まだまだ多くいると思います。私は自分の目で見た本当の日本を周りの人々に伝えたい、また同時に本当の中国のことも日本の人々に伝えたいです。日本人の親切さを中国人に広く知らせること、中日人民の友好関係を深めることは 私たち日本語学習者の未来の責任ではないでしょうか。

 中日友好の未来は 我々日本語学習者に委ねられます。私は 能力はまだまだですが、未来を担う覚悟を持っています。友好の種を両国人民の心にふりまくために、日本語学習者としての私は努力しなければなりません。大学最後の一年間をフルに利用して、日本語をもっと勉強して、社会のニーズに応える能力を身につけたいです。私のような日本語学習者も中日間の交流活動の架け橋となれるよう願ってやみません。

◆このシリーズの最終号に続く