俳優の田中邦衛さんが先月24日に88歳で死去した。亡くなったのは老衰との報道だった。2012年にドラマ「北の国から」で共演した地井武男さんの告別式に参列してから公の場にて姿をみることことはなかった。静かに息を引きとったようだ。ありがと、そして、冥福を祈りたい。追悼、田中邦衛さん。
1981年から始まったドラマ「北の国から」。倉本聰さんの脚本で、2002年までの20年以上にわたって放映されたこのドラマは、北海道の富良野の大自然の中で、息子(純)と娘(蛍)の成長を見守る、素朴で武骨で寡黙だが、人間的に温かみやユーモアのある父・黒板五郎らを描き続けた昭和・平成の時代の金字塔的ドラマの一つだった。息子の純を演じた吉岡秀隆は現在50歳となり、娘の蛍を演じた中島萌子ももう40歳代なかばを過ぎているかと思う。
息子・純の小学生時代は、私の息子・大地の小学生時代と顔立ちがそっくりだった。娘・蛍の小学生時代も、私の娘・百合子と全体的な雰囲気・印象、顔立ちがよく似ていた。私の娘がまだ北海道大学の学生だった10年ほど前ころ、私と妻は初めて「北の国から」の地・富良野を訪れ、ゆっくりと北海道の早春の5月上旬に、ドラマの地を巡った。富良野周囲の山々はまだ残雪がたくさん残っていた。
私にとっての田中邦衛さんは、1968年に上映された映画「若者たち」から始まる。この映画は、その後「若者のはゆく」「若者の旗」とシリーズ作がつくられ上映された。この映画を全国に広めるために上映運動も行われていた。主題歌の「若者たち—空にまた陽が昇るとき」の歌詞、「一、君の行く道は果てくなく遠い なのになぜ歯をくいしばり 君は行くのかそんなにしてまで」は今も時折、カラオケで歌う。私の人生の方向に大きな影響を与えた映画だった。
五人の兄弟姉妹の中で、4人の弟や妹の父親代わり的存在として頑張る長兄。その役が田中邦衛さんだった。早稲田大学で学生運動にのめり込む三男(山本圭)などとのやりとりなど、当時の日本社会の問題点、社会変革、それぞれの人々の暮らしでの苦悩や希望などが深く描かれた映画だった。脚本は山内久。昭和時代の映画の金字塔の一つだった。改めて、この「若者たち」や「北の国から」の俳優・田中邦衛さんに感謝したい。昭和の漢(おとこ)だった。
今日、4月4日付朝日新聞に、「北の国から」の脚本を書いた倉本聰さんが寄稿を寄せていた。題して、「田中邦衛さんを悼む―真剣であるがゆえのユーモア―人間喜劇の神髄 貫いた昭和の漢」。倉本さんはこの寄稿文の中の一節で、「男は真面目にやればやるほど、どこかで必ず矛盾がでてくるものです」と話しつつ、「邦さんの芝居には、それが真剣であるだけにどこか悲哀があり、詩があり、そして云いようのないユーモアがあった。チャールズ・チャプリンの至言にこういうのがある。—"人生―人の行動は、アップで見ると悲劇だが、ロングで見ると喜劇である。"―これはコメディの神髄であり、まさに笑いの極意である。」
「現在日本のテレビ界では、この言葉が全く忘れられている。アップから人を笑わそうとするからロングで見た時、悲惨なものになる。お笑いはおふざけに堕ちてしまった。」と倉本さんは語る。
◆私は以前、「維新と吉本が日本をダメにする」というブログ記事を書いたことがある。2年ほど前のころだっただろうか。あれから2年、日本のテレビ界ではバラエティ番組だけでなく、報道番組の中にも大阪・吉本興業所属のタレントたちが番組に出ることが大きく増加している。全ての吉本のタレントたちの質が悪いわけではない。中には質の良いのもいるが、民法では総じてバカ番組、おふざけ番組の割合がさらに増加している。人間に必要な笑いは、民報テレビ界ではおふざけに堕ちまくっているのが昨今の日本だ。
日本国民の劣化には、これほど強力な影響をもつ媒介はない。吉本の笑いと田中邦衛の笑い・ユーモアとは対極にある。日本人は、吉本を重宝し頼る民報テレビ界の大きな流れに影響を受け、劣化し続けている。
中国は中国共産党一党支配のもと、世界の歴史上ないような超強力・強大な報道管制と報道・情報操作により、国民を従わせ、一人一人の人間が自分の頭で考えること麻痺(まひ)させる。一方の日本は、吉本興業に頼る民報テレビ界の堕落の風潮によって、一人一人の人間が、真面目に自分の頭で考えることを麻痺させる。これは、悲劇ではなく悲惨という言葉があてはまる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます