彦四郎の中国生活

中国滞在記

本能寺への進軍道❶―亀山城から本能寺への3つのルート①―主力部隊は夜間の山陰道(老ノ坂越)へ

2021-02-17 10:19:01 | 滞在記

 天正10年(1582)5月中旬、明智光秀は織田信長の居城・安土城にいた。同年3月に信長は武田勝頼を天目山にて自害させ武田家を滅亡させた。長年にわたり武田家と最前線で対峙していた信長の同盟者・徳川家康一行を5月中旬に安土城に招き歓待。その供応役を光秀に命じていた。西国の雄・毛利家と信長の戦いが一つの転機を迎える中、光秀は信長から突然に供応役を解かれ毛利と対峙している中国方面司令官・羽柴秀吉の支援に明智全軍を率いて赴くよう命じられる。

 光秀は安土城より琵琶湖沿岸の居城・坂本城に戻り、同年5月26日に丹波の居城・亀山城に入る。翌日27日、亀岡盆地の東にそびえる愛宕山(924m)に明智越えの山道や水尾集落を経て、山頂にある愛宕神社(※全国に900余りある愛宕神社の総本山)に参詣し宿泊。28日、愛宕神社にて里村紹巴などとともに連歌会(愛宕百韻)を行った。この時、光秀は発句=上の句(短歌の5・7・5の節)を詠んだ。有名な「ときは今 雨が下しる 五月(さつき)かな」である。(※「とき=光秀が連なる土岐家[とき一族]、雨が下しる=天下を治める命」との隠れた意味の解釈もできる)

 愛宕山は今までに2度ばかり登ったことがある。一度目は30歳のころ。京都の清滝から登って亀岡に下山。12月下旬で、山には少し積雪があり小雪が降る中での登山だった。二度目は50歳のころ。亀岡から登り清滝に下山。この時は春で新緑に包まれていた。山頂付近からは、京都盆地と亀岡盆地を眼下に望み、丹波山地が連なる「丹波国」の山々が一望できる。登山に要する時間は、麓からゆっくり登り下りをして7〜8時間くらいだろうか。この山は京都盆地や南山城地方(京都府)からはどこでも望めて、古来から人々の愛宕信仰を集めている山だ。

   京都の都の北東にそびえる比叡山と北西にそびえる愛宕山は、私にとっても いつも目にする山だが、昨年の2月9日に雪化粧をしている愛宕山を亀岡から眺めた。昨年巡った丹波三大山城のうちの八木城や八上城、さまざまな丹波国の山城からも愛宕山を望んだ。

 さて本能寺の変に至る光秀だが、愛宕参詣や連歌会での戦勝祈願から居城・亀山城に戻り、信長から命じられていた西国への出陣の最終準備にとりかかる。信長が西国の大国・毛利攻めに自らも出陣をするために側近たちとともに安土城より、まず京都に向かうとの情報はすでに光秀にも通達されていた。信長が京都に引き連れる兵員はかなり少なく百数十名ということも把握していた。信長の嫡男・信忠も京都に滞在していた。こちらは500人ほどの兵員。

 愛宕参詣の時には、光秀は信長親子を討つべきかどうかということを考え、悩み始めていたはずだ。そして、愛宕山より戻った亀山城内にて最重臣の斎藤利三や明智光満(左馬之助)、藤田伝五などにはその決意と逡巡(しゅうじゅん)の思いを伝えていたと思う。少数の兵員にて防備の薄い寺院にそれぞれ信長親子が宿泊しているという、千載一遇の機会ではあった。

 ここ亀山城(亀岡市)にはもう何度来ただろうか。5年間にわたった丹波国平定の拠点として光秀が築城した平山城城郭。東を流れる大堰川(保津川)を天然の堀とし、さらに広大な外堀や内堀、高石垣や天守の城楼を配していた堂々たる近世城郭跡が今も見られる。

 今は城域全体が大本教団の敷地となっているが、いつ来ても ちょっと小高い本丸周辺の内堀の風情や本丸の高石垣は苔むしていて城の風格を感じることができる。

 天正10年6月1日、午後4時、光秀はここ亀山城を出陣した。西国には行かず、本能寺に宿泊している信長や、近くの妙覚寺に宿泊している信忠を討つことをほぼ決意していたはずだ。そして、午後6時に亀山城の南方にある篠八幡神社付近にこのときここに集められる総兵力1万3000の大部隊を結集させた。

 ここ篠八幡神社は1333年、足利尊氏が反北条(鎌倉幕府)に叛旗を翻し、この神社で戦勝祈願をして京都に向かって進軍を開始したところだ。丹波の豪族たちも多くが尊氏軍に駆けつけてここに参陣した。ここから京都の本能寺まで直線距離にして約20kmだが、そこに至るには丹波山系の山々や保津川の渓谷が横たわる。篠八幡神社前には旧山陰道が通る。

 6月上旬の1日の午後6時といえば、夏至も近く、午後7時15分ころが日没。そして、翌日2日には午前5時ころには日の出となっていたはずだ。本能寺を急襲するためにはこの時刻までに部隊を到着し包囲する必要がある。深夜行軍を強行して、11時間の間に本能寺に到着する必要があった。

 さて、亀山城から篠八幡神社に集結した1万3000の大軍は、本能寺へはどの道を通ったのか。この時代も今も通常、亀岡から京都に向かう道は老ノ坂峠を越えて京都の沓掛にいたる道(老ノ坂ルート)が一般的だが、天正10年当時、他にも、「亀岡から山道を通って水尾の集落を経て、京都嵯峨野の清滝に至る道(いわゆる明智越えルート)」と「亀岡から急峻な山を登り、尾根伝いの山道を通って京都の桂に至る道(いわゆるから唐櫃越えルート)」があった。

 江戸時代初期に書かれた『信長公記』(太田牛一著—信長の秘書官だった)では、「老ノ坂⇨追分(沓掛)⇨桂川⇨本能寺」と記されている。同じく江戸初期の『川角太閤記』(川角三郎右衛門著)では、「柴野(篠)⇨老ノ坂⇨谷ノ堂・峰ノ堂⇨沓掛⇨本能寺」、同じく江戸初期の『豊鑑』(竹中重門著)では、「大江ノ坂⇨本能寺」と記されている。大江ノ坂とは沓掛付近の丘陵地だ。これら3冊はいずれも「老ノ坂ルート」と記されている。

 そして、江戸時代中期に書かれた『明智軍記』(著者不明)には、光秀軍は三隊に分かれて進軍したと次のように記されている。「能条(野条)⇨大江坂⇨桂⇨本能寺」「王子⇨唐櫃越⇨松尾ノ山田村⇨本陣(本能寺)」「保津⇨水尾⇨嵯峨野⇨衣笠山麓地蔵院」と。いわゆる「老ノ坂ルート」「唐櫃越えルート」「明智越えルート」である。

 いずれにしても、1万3000の大部隊の多くは、夜間行軍を信長に通報される危険性はあったが、それなりの対策を取りながら、老ノ坂ルートを夜間進軍したと思われる。他の2ルートは老ノ坂ルートよりも距離的には少し短く、行軍を察知されることはほぼ少ないが、険阻な山道やなだらかだが細い稜線道が続き夜間行軍にはかなりの困難さを伴うからだ。しかし、一部部隊はこのルートを進んだ可能性もある。特に唐櫃越えルートは当時、軍道としてよく使われていた道でもあった。また、明智越えは古代より生活物資を運ぶ道として使われていた。

 京都に1日から2日にかけて信長や信忠が宿泊していた本能寺や妙覚寺周辺には、光秀は密偵を多数放っていたはずで、1日の午後6時に篠八幡神社に部隊を集結させた光秀は、刻々と入る密偵からの情報を受けて、ここで重臣たちとともに密かに軍議を開いていたようだ。老ノ坂の峠を少し下れば大江の丘陵地に至る。ここに、西国に至る道と京都市内に至る道との分岐地点がある。ここに至るまで、逐次入ってくる密偵からの信長・信忠の情報に接しながら、ぎりぎりまで情報分析をし、最終的にここ大江(枝)の丘陵地の分岐地で「敵は本能寺にあり」と決断したのかと思われる。

 NHKの歴史番組「歴史探偵」がこの本能寺の変について、いくつかの本能寺の変の謎について特集を組んでいた。(2021年2月上旬)  謎の一つ「光秀軍はどのルートを通って本能寺に至ったのか」の解明にも3ルートを実地踏破し、科学的な調査・分析の見地も取り混ぜながら報道されていた。それによれば、ここ「老ノ坂ルート」を通った場合、2列縦隊で行軍できること、そして、8時間後の2日午前2時すぎには京都桂川まで進軍ができると結論していた。(※老ノ坂峠の当時の旧山陰道は峠の近くまでは細い車道があるが、あとは細い登りの山道。)

 旧老ノ坂峠から少し京都方面に道を下ると眼下には京都市内が見えてくる。(※近くには広大な京都霊園や京都成章高校などがある。)

 雨が降ってきて、京都市内が霧に包まれてきた。霞む京都の町並み。天正10年6月2日の早朝の光景もこのようなものだったのだろうかと思い巡らす。

 光秀軍が再度結集し渡河したとされる桂川付近(※桂橋・桂離宮付近)から西や西北方面の山々や谷間を臨むと、愛宕山、明智越え、保津川、嵐山、松尾、唐櫃越え、沓掛・大枝(江)や老ノ坂越えのある山々が一望できた。3つのルートはここ桂川に至ったのだろう。

 話は変わるが、ここ老ノ坂峠の下を今、国道9号線の老ノ坂トンネルや京都縦貫道路(高速)の老ノ坂トンネルがあり車が走っている。京都市内の五条通から国道9号線に入り桂から沓掛を経て老ノ坂トンネルをぬけて亀岡に至る。沓掛周辺には大きなラブホテルが数軒集まっている。近くには京都成章高校や京都霊園。国道9号線の老ノ坂トンネルに入るすぐ手前にわりと細いが舗装されている山道のような登りの道が見える。

 荒れたこの道を車でゆっくりと登っていくと、「首塚大明神」(※平安時代、丹波北方の大江山に住む酒呑童子と呼ばれた"化け物・大盗賊・大野盗群の親玉"を源頼光が遠征し退治、首を京の都に持ち帰ろうとしたが、都で酒呑童子の祟りが起きることを恐れ、ここに首を埋めて祀ったとされる。)の社が見える。しばらく、さらに進むと平屋の廃屋が多数見えてくる。「老ノ坂廃ラブホテル」「首塚廃ホテル」「9号廃ホテル」とか呼ばれる廃墟となっているかってのラブホテルの棟群だ。このラブホテルのかっての名前は「モーテル サンリバー」。ここは京都府でも有名な心霊スポットの一つ。道はこの廃墟跡地で行き止まりとなり、見上げると旧山陰道のかって光秀軍が通った老ノ坂峠付近の山が見える。

 廃墟となった建物群の中で1つだけ二階建ての木造がある。このラブホテルの管理棟だった建物だが、一見普通の民家。あとの建物は独立した平屋でそれぞれ駐車スペースがある。ほとんどの平屋の建物は崩壊寸前。この管理棟の建物2階のベット下で管理者の女性の殺人死体が発見され、それから女性の幽霊や泣き声なとが頻繁に目撃されるなどと地元では近寄る人もいないと噂されるスポット。平屋の部屋の壁に、外国人女性のヌード写真が貼られ残っている部屋もあるようだ。ここだけでなく、旧老ノ坂トンネル(車止めが施され、車の通行は不可。全長220mほど。)などでも女性の幽霊が目撃されるとされ、ここ老ノ坂周辺は心霊スポットとしても知られている。

 私は人生で今までに一度だけ霊現象を目撃したことがあった。まだ30歳代のはじめころだった。場所は明智越えルートの保津川の支流・清滝川の落合付近の渓谷沿いの道だった。この日、霊能力の高い友人とともにここを歩き、渓谷の小さな川原でテントを張る。夜になり、山犬たちがテントに近づいてきたようで、低い唸り声をあげ続けた。焼肉の何片かを山犬たちに向けて投げる。その夜、山犬たちの唸り声が消える深夜まで、火を燃やし続けた。

 

 

 

 


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