彦四郎の中国生活

中国滞在記

志賀直哉、関西での旧居や跡地を訪ねる❶—京都では—祇園の茶屋仲居の存在、火宅の人に

2021-05-19 17:09:06 | 滞在記

 志賀直哉は生涯に23回を超える転居をしている。1883年に宮城県石巻市に生まれ、2歳の時に東京に移る。直哉は祖父母の家で育てられることとなり、実業界に重きをなしたこの祖父や祖母に溺愛されて育つ。東京の学習院小・中・高校卒業。中学時代は学業に興味がもてず2度の落第をし、生涯に渡り親交の続いた2歳年下の武者小路実篤と同級生になる。高校卒業後に東京大学に進学したが中退。この間、ずっと東京での暮らしだった。(※父も実業界に重きをなす人だった。)

 東京大学在学中、志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父から強い反対に遭う。足尾銅山鉱毒問題など(祖父はかってこの銅山を古河市兵衛とともに共同経営。のちにNHK大河ドラマ「青天を衝く」の渋沢栄一も経営参加)への関心の高まりを巡る父との対立とも相まって、その後続く父との長い不和のきっかけともなった。この父との不和・葛藤、そして和解へと続く一連のできごとが、志賀直哉の唯一の長編『暗夜行路』の背景となる。

 そして、直哉30歳の時に東京を離れて、1913年広島県尾道市に転居する。この旧居は今も残る。海の見える坂の上の家に半年あまり暮らし、東京に戻った。その翌年の1914年5月、島根県松江市に転居。そこに4カ月あまり暮らし、同年9月には京都市に転居している。まるで青春の彷徨のような転居の旅である。

 京都に転居してしばらくして、友人の武者小路実篤から彼の従妹(いとこ) を紹介されて同年12月に結婚した。直哉31歳、結婚した勘解由小路康子(22歳で直哉より7歳年下)は再婚だった(夫と死別、子供は武者小路実篤の養女となった)ため、父はこの結婚を望まず、父との溝はさらに深まった。直哉の父などの志賀家側は結婚式や披露宴に誰一人参加しなかった。

 この新婚生活が始まった京都市北区の家は、当時、衣笠村と呼ばれた場所にあった。現在の北野白梅町(京福市電駅のそば)に旧居があった。近くには北野天満宮や金閣寺、竜安寺や仁和寺や妙心寺などの古刹があり、京都五山の送り火の左大文字の山が望める。現在は立命館大学衣笠キャンパスも近くにあり、私の勤める中国の大学からの留学生も二人、この近くのアパートで留学生活を送っていた。

 残念ながら、2019年にこの旧居は取り壊されてしまった。今年の3月下旬、そこに行くと、更地になっていた。旧居跡地の前の道路の向かい側には、明治期の1905年に建てられた「衣笠会館」のレンガ造りの建物がある。志賀直哉も毎日、この建物や左大文字を眺めたのだろう。

 結婚後、神経衰弱(うつ病)になった妻・康子のために翌年の1915年5月に神奈川県鎌倉に転居、そしてわずか1週間後に群馬県の赤城山山麓に転居し山小屋に暮らした。夫婦ともここでの生活を気に入り、康子の神経衰弱も回復した。

 転居を繰り返していた直哉であったが、33歳となった1915年9月に、千葉県の我孫子の手賀沼湖畔に移り住んだ。しばらくして、武者小路実篤もここ我孫子に移り住んだ。ここでの生活は1923年までの8年間続いた。そして、長女の夭折、次女の誕生、長男の夭折と続き、あの『流行感冒』が執筆された。直哉の父との長い確執・不和の人間関係は、この孫の誕生により、『和解』へと変化していく。1我孫子に暮らしたこの8年間は、作家・志賀直哉にとって創作の「充実期」といえる期間であったが、1922年頃から創作に行詰まり、作家としての自信を失っていった。そうした状態から抜け出し、気分転換を図る意味もあって、直哉は再び1923年3月に我孫子を離れて京都に転居する。この時までに三女と四女が生まれていたので、三人の幼い娘たちの父親でもあった。

 京都の最初の転居先は京都東山連山山麓の南禅寺町だった。このあたりは南禅寺や永観堂などの古刹、平安神宮などが近い。

 また、哲学の道もすぐそこにある。しかし、すぐにここも転居し、南禅寺町からほど近い三条粟田口に移り住む。

 このあたりは、私もかって大学1回生の後期から1年半ほど下宿をしていた。二畳間の部屋で、窓を開けるとお墓がありラブホテルがその隣に建っていた。あまりに狭い2畳部屋なので、木製のベットが1畳分、その他の空間1畳分で、友人・知人が来ても狭すぎて、すぐに近くの祇園町の安い居酒屋に行きゆっくり語り合ったりしていた。

 下宿代はこの当時でも最も安い月5千円。早朝は、京都市動物園の動物たちの鳴き声(咆哮)がよく聞こえてきた。でもまあ、このあたりの落ち着いた町並みが気に入ってもいた。実家からの仕送りがないので、生活費や学費を全て稼ぐため、ほど近い祇園の八坂神社近くの中華料理店「祇園飯店」で週に5日間ほど夜10時から朝6時までのバイトをして生活していた。夜ご飯と朝ごはんはこの店でのまかない付きだった。店を閉める早朝5時すぎに、東大路通りに京都市電の一番電車が通ってい行く。それを中華料理店の白い仕事着を着ながら、店先に腰をおろして煙草を吸いながら眺めていた、そんな時代だった。中華料理店から粟田口の下宿までの行き帰りなどの途中に、志賀直哉の旧宅があったのだ‥。

 志賀直哉の旧居は今も残る。私のかっての下宿からは徒歩3分ほどのところ。近くには青蓮院門跡や知恩院の古刹や粟田神社、そして白川の柳並木がある。学生時代はこのあたりに志賀直哉の旧宅があるとは何も知らなかったが‥。

 この5月上旬に志賀の旧宅に行ってみると、現在も誰かがこの志賀の旧宅にそのまま住んでいた。黒塗りの板塀と門に囲まれたほぼ平屋建ての住宅だ。現在、その西隣にマンションアパートが建てられていて、その階段の踊り場から旧居の一部を上から見ることができる。東には東山の山々や蹴上の都ホテルが望める。この粟田口の家には半年ほどしか志賀は住まなかった。1923年の10月には京都市の山科村に転居している。

 この5月上旬に山科の旧居跡地に行ってみた。山科川の細い流れの清流のたもとに旧居跡地はあった。JR山科駅まで徒歩10分くらいの所だった。京都市内に行くのもそれなりに便利なとこだ。なぜ1年の間に、3回も転居したのだろう‥。志賀直哉の文学石碑が旧居跡地に置かれていた。石碑には「山科川の小さな流れについて来ると、月は高く、寒い風が刈田を渡って吹いた。」との文字が記されていた。『山科の記憶』の冒頭文だ。ここ山科に転居した時、直哉は43歳になっていた。

 直哉はこのころ、京都祇園花見小路の茶屋の仲居と浮気をしていた。この時の体験をもとに、いわゆる「山科もの」四部作(『山科の記憶』『痴情』『瑣事(さじ)』『晩秋』) を後の1925年~26年に書いている。

 この山科での生活が始まった頃、直哉夫婦の間に悶着(もんちゃく)が起こった。直哉が二十歳そこそこの祇園の茶屋の仲居と密かに通じていたことが原因であった。「この一連の材料は私には稀有(けう)のものであるが、これをまともに扱う興味はなく、この事が如何(いか)に家庭に反映したかという方に心を惹かれて書いた」と後年に語っている。いわゆる「山科もの四部作」についてである。

 出来事の順を追って作品をたどると、最初に来るのは『山科の記憶』である。月の明るい一夜、家の近くまでタクシーで女とともに来て、祇園に戻る女を見送り帰宅した"彼"を待ち受けているものは、事態を初めて確信した妻の惨めな姿であった。「妻は頭から被った掻巻の襟から、泣いたあとの片眼だけを出し、彼を睨(にら)んでいた。それは口惜しい笑いを含んだ眼だった」‥。重苦しい悶着の始まりである。しかし、この一文の描写の端麗さには感心させられる。そして、女と別れることを強く求められることになった"彼"は、妻の「寛大な気持ち」を期待することの不可能を悟り、「一時的にもそれを承知するより仕方なかった」。ここまでが『山科の記憶』である。

 それを受けて、その翌日、雪の降る寒い日、「今日中に総て片づけて」という妻と二人で京都に出て、妻を祇園の近くで待たせ、祇園の茶屋に行き、女に突然、手切れの金を渡す前後を描いたのが『痴情』である。「女には彼の妻では疾(とう)の昔失われた新鮮な果実の味があった。(略)北国の海で捕れる蟹(かに)の鋏(はさみ)の中の肉があった。これらが総て官能的な魅力だけだという点、下等な感じもするが、所謂放蕩(いわゆるほうとう) を超え、絶えず惹かれる気持ちを感じている以上、彼は尚且(なおか)つ恋愛と思うより仕方なかった。そしてその内に美しさを感じ、醜い事をも醜いとは感じなかった。」と書く。

 この一文節の前には、「女と云うのは祇園の茶屋の仲居だった。二十か二十一の大柄な女で、精神的な何ものをも持たぬ、男のような女であった。彼はこういう女に何故(なぜ)これほど惹かれるのか、自分でも不思議だった。」と、この『痴情』に描写している。男が女に惹かれるさまを描くこのくだりは名文だ。

 三番目にくる『瑣事』は、「京都まで金を取りに行く、—そう家(うち)には云ってある。がそれは嘘だ」という言葉に始まる。既に一家は京都山科から奈良市に移っていた。その間、引き続いて妻をあざむき続けた"彼"の体験した一瑣事の表現がこの作品である。しかし、それが一瑣事であり得たのは、"彼"の気持ちにある落ち着きが生じていたからである。

 そして最後に『晩秋』がくる。そこではもう一度"彼"の京都通いが暴露する。"彼"と妻との間に、次のような会話が交わされる。「実にあなたは自分本位な方ね」「実際、理屈に合わないよ。一種の暴君で自分でも不愉快なんだ」 彼の心理はもう、始めから考えていた通り、祇園の茶屋の女に対して冷却しつつあった。官能の刺激の常であった。「十月あまりうまうま自分を欺いていた」そう思うと妻の心は騒いだが、それも『山科の記憶』の生々しいものとは異なってきていた。

 あの早春の日から、既に今は"晩秋"であった。間もなく、"彼"は、妹の結婚披露宴に加わるために一家をあげて上京(東京行)する。その汽車中の会話は、明らかに悶着の終結を告げていた。「私お母様ならお話してもいいんだけど‥‥」という妻に対して、「『馬鹿。そんな事、云う必要はない』彼は笑った。汽車は安土あたりを走っていた」

 本当に直哉と妻の康子は「安土あたり」を走っていたのだろう。それにしてもうまい結びである。

 この四部作の中にもあるように、1925年4月、友人の誘いもあり、志賀直哉一家は奈良市に転居をした。この期間の京都での生活は2年間あまりであった。

※上記写真は40歳~45歳ころの志賀直哉

 写真家の土門拳は人物写真も優れている。作家たちの顔写真もたくさん撮っているが、いい顔、立派な顔立ちという意味で、土門は志賀直哉の顔を挙げている。確かに映画俳優のようなと言われたこともある美男子だ。癇癪持ちで時には手もあげる志賀直哉だが、妻となった康子さんは、直哉に惚れてもいたのだろう。直哉の方も、康子さんに対してまんざらではない、そんなことが読み取れる「四部作」だ。そんな康子さんとの関係を彷彿させる短編作品は他にもけっこうある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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