1月10日 町内の左義長がありました。
正月に歳神様を迎えるために玄関飾りや神棚の注連縄、床飾りをして迎えるのですが、松の内も終わったのでこれらをお下げしていました。
神社で左義長を行っているのですが、私の住んでいる地区は昔から田圃の一角で左義長を行っています
今朝は6時ごろから雪が降り始め、8時ごろには周りが白く雪化粧となり、雪の降る中左義長に行ってきました。
燃える煙に乗って歳神様は戻っていかれました。
(左義長)
昔は1月15日が左義長で成人の日と一緒になっていましたが、近年ハッピーマンデー法により成人の日が月曜日となり左義長も成人の日の近くの土曜日から月曜日になっているところが多いようです。
本来松の内とは1月15日ですが関東では1月7日となり、多くの地区が7日となってきているようです。
調べてみると15日までが松の内なので16日の早朝から左義長を行うという神社もありました。
左義長について文献を調べてみました。
絵本江戸風俗往来 菊池貴一郎著 (平凡社発行)
「十四日年越し」の項では江戸時代のことが記述されています。
正月の門松ならびに七五三(しめ)縄は、外部に飾りし分は、この月六日の夕方に取り払いて内部に掛けし輪飾りを残す。
内部の輪飾り等すべて十四日に外し、その跡へ削掛(けずりか)けというものを掛ける。
削掛けは柳の木の皮を去り、削かけて総(ふさ)の如ししたるあり、また獅子の毛幔(けまん)のごとくなるあり。
しめ縄を外した処理に関しては記述がありませんでした。
近世風俗誌(四) 喜田川守貞著 岩波文庫
巻之二十六(春時)
「正月十五日、十六日 俗に小正月」の項では
前文省略
また京坂ともに十五日に門松、注連縄(注連縄)を取り除くなり。
江戸も昔は今日なり、大阪は門松、注連縄の類を諸所川岸等に集みて、十六日の暁前にこれを焚きて、左義長の義を表す。
これを焚くを坂俗は「とんど」と云うなり。
十四、十五日頃には小戸貧民の男童ら藁筵(わらむしろ)の両辺に竹を付け、4人にてこれを担ひ、坊間諸戸を廻りて門松、縄等を乞うなり。多くを集むを功とし、少なきを恥とす。
年来の習風にていづれの時よりかくのごときか。かの童らこれを乞ふる詞「おゑさん、だなさん、しめなわくだんせ、とんどへあげる」と同音に呼び巡る。
御家は人の妻、御家様、旦那様、注連縄下され、頓度に上げると云うなり。
「とんど」字失念するなり。
中略
十五日の夜、諸川岸これを焚く。かの童、夜中牛蒡注連縄等を持って、あるひは地をうち、あるひは民戸をうつなどして、「トンドじゃ、チャンギリコじゃ」と報告し巡る。
けだし、これを焚くには雇夫ら出てこれを助けて、児童のみにはあらず。かの輩、今夜寝ざるゆへに夜不寝講と云へり。よねかんかと訓ぜり。
「チャンギリコ」は左義長の訛ならん。
江戸には更にこの事なし。あるいひは川に流し、あるひは家にてこれを焚く。あるひは芥溜(ごみた)めへこれを捨つるのみ。
正月に歳神様を迎えるために玄関飾りや神棚の注連縄、床飾りをして迎えるのですが、松の内も終わったのでこれらをお下げしていました。
神社で左義長を行っているのですが、私の住んでいる地区は昔から田圃の一角で左義長を行っています
今朝は6時ごろから雪が降り始め、8時ごろには周りが白く雪化粧となり、雪の降る中左義長に行ってきました。
燃える煙に乗って歳神様は戻っていかれました。
(左義長)
昔は1月15日が左義長で成人の日と一緒になっていましたが、近年ハッピーマンデー法により成人の日が月曜日となり左義長も成人の日の近くの土曜日から月曜日になっているところが多いようです。
本来松の内とは1月15日ですが関東では1月7日となり、多くの地区が7日となってきているようです。
調べてみると15日までが松の内なので16日の早朝から左義長を行うという神社もありました。
左義長について文献を調べてみました。
絵本江戸風俗往来 菊池貴一郎著 (平凡社発行)
「十四日年越し」の項では江戸時代のことが記述されています。
正月の門松ならびに七五三(しめ)縄は、外部に飾りし分は、この月六日の夕方に取り払いて内部に掛けし輪飾りを残す。
内部の輪飾り等すべて十四日に外し、その跡へ削掛(けずりか)けというものを掛ける。
削掛けは柳の木の皮を去り、削かけて総(ふさ)の如ししたるあり、また獅子の毛幔(けまん)のごとくなるあり。
しめ縄を外した処理に関しては記述がありませんでした。
近世風俗誌(四) 喜田川守貞著 岩波文庫
巻之二十六(春時)
「正月十五日、十六日 俗に小正月」の項では
前文省略
また京坂ともに十五日に門松、注連縄(注連縄)を取り除くなり。
江戸も昔は今日なり、大阪は門松、注連縄の類を諸所川岸等に集みて、十六日の暁前にこれを焚きて、左義長の義を表す。
これを焚くを坂俗は「とんど」と云うなり。
十四、十五日頃には小戸貧民の男童ら藁筵(わらむしろ)の両辺に竹を付け、4人にてこれを担ひ、坊間諸戸を廻りて門松、縄等を乞うなり。多くを集むを功とし、少なきを恥とす。
年来の習風にていづれの時よりかくのごときか。かの童らこれを乞ふる詞「おゑさん、だなさん、しめなわくだんせ、とんどへあげる」と同音に呼び巡る。
御家は人の妻、御家様、旦那様、注連縄下され、頓度に上げると云うなり。
「とんど」字失念するなり。
中略
十五日の夜、諸川岸これを焚く。かの童、夜中牛蒡注連縄等を持って、あるひは地をうち、あるひは民戸をうつなどして、「トンドじゃ、チャンギリコじゃ」と報告し巡る。
けだし、これを焚くには雇夫ら出てこれを助けて、児童のみにはあらず。かの輩、今夜寝ざるゆへに夜不寝講と云へり。よねかんかと訓ぜり。
「チャンギリコ」は左義長の訛ならん。
江戸には更にこの事なし。あるいひは川に流し、あるひは家にてこれを焚く。あるひは芥溜(ごみた)めへこれを捨つるのみ。