明けましておめでとうございます。
昨年は、ブログをお読み下さった方、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。
皇紀2684年
令和6年 甲辰 元旦(今日は、1月4日です)
今日の絵は、12月中旬頃から壁に貼られていました。
朝日のようで朝日でない。
日の出のように思えるが、山の形をしています。
メモ描きの絵ですが、大きいサイズで59cm×42cm。
壁に貼ってありました。
クレヨンと鉛筆で描いています。
何を考えて、こういう絵をいきなり描くのでしょうか?
分かりません。
理解するより、楽しんだ方がいいと傍らにいて思っています。
こんな2人ですが、絵と文で頑張って行こう!と思っていますので、
改めてよろしくお願い致します。
今日からは、正月気分から切り替え、日常が始まりました。
お正月は、朝はお雑煮を作り、
1日、2日とおせち料理を冷蔵庫から出し、料理を休む。
2日の日、食事のお膳を前に、「今日は、ごはん作らないの?」と言われる。
目の前の料理を指差し、「これが晩ごはんよ。」と言うと、
ヒロクニさんは「そうなのかぇ。」と拍子抜けした顔をしていた。
すかさず、「おせち料理をどうして作るのか、考えたことないの?」
そんなこと考えたことがないという顔でわたしを見ている。
「お正月は、煮炊きをしてはいけないの。主婦もゆっくりするためにするのよ。」と言った。
たまたま、ネットで『正月にしてはいけないこと』を検索し、煮炊きをしてはいけない。
火を使ってはいけないという項目があり、
それに附属するものとして、「主婦もゆっくりする」を付け加えたのです。
これを、勝手に付け加えるところが、腹黒い妻。
しかし、火を使わないとなると、雑煮も食べれなくなるので、なるべくということなんだと思います。
ヒロクニさんは、気を取り直して、「昆布巻き」を口にし、
「昆布巻きって、いいものだねぇ。こんなふうに料理を楽しむ正月は、あまり過ごしたことがなくってねぇ。」と言い、
いきなり、かつての妻の料理のことを話しだす。
こういう無神経さは、いつも凄い人だ。
ある意味大らかなのか?
別にいいのですが、かつての妻にも、わたしにも悪いと思わないのか?
言っていい事と言わない方がいい事ってあると思うのだが。
思慮の足りない人だ。
そして、しょうがない人だと思いながら、市販の昆布巻きを「美味しい。」と褒めちぎっている姿を見る。
ある意味、この単純さが彼を救っている。
このように、夫の長所と欠点の微妙な混ざり具合を認識する正月でもありました。
さっきの続き火を使わないこと意外にも、してはいけないことがあって、
■掃除をしてはいけない。
■四足歩行の動物の肉を食べない。
■刃物を使ってはいけない。
■ケンカをしてはいけない。
■お金を使ってはいけない。
とありました。
刃物を使ってはいけないというが、それも無理筋なと思い読んでいました。
火と一緒で、なるべくということらしい。
わたしの過ごし方としては、掃除をしてはいけないは簡単に守ることができ、
家でゆっくり過ごしたので、お金も使いませんでした。
何よりも難しいであろう「ケンカをしてはいけない。」が守られたこと。
今年からは、言い争いが減るのか?
この1年の結果を楽しみにして過ごすことにします。
してはいけない6か条には、それぞれに理由があります。
まず、「新年は神様が家を訪れて福をもたらす」この考えが基本にあるようで、
掃除は、その福を掃いてしまうから。
四足の肉は、元々日本には動物の肉は避ける風習があって、
祭事を行う人は穢れをさけていたことを考えると、
神様が来るように殺生をしないようにしていたと考えられます。
そういう意味において、避けるべきことなのだと。
刃物は、いい縁を切ってしまわないように。
お金を使ってはいけないというのは、新年の散財はよくないらしい。
落ち着いて過ごす日ということが重要のようです。
また、火を使わないには、火事を避けるということも含まれているそうです。
こういう事は、人々の心の中に日本の神様が根付いていてこそ、守られてきたような気がします。
わたし自身は、そういうことに無知なので、
こういう事項を知って、おぼろげながら日本の神様の性向を知ることになる。
わたしは、今まで生きてきた中で、「何らかの神のような存在はいる」ということを思っている人なので、
一々の神様のことは考えたことがあまりなかった。
日本特有の神様のことも、時々思ってみるというか、考えてみてもいいかもしれないと思い始めました。
新年は、神社に参拝したり自然にしている人を見ると、
どことなく清々しくていい感じだな、とよく思うのです。
「神道」ということにも、興味がわきますが、特に経典がないらしい。
とりあえず、「森羅心象あらゆるものに神が宿るという思想」ということらしい。
言い換えると、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊が宿っている考えとも言える。
こうなると、物を捨てられなくなると思うのよ。
「物が、わたしを捨てないで!」と言っていたらどうする?
可哀想と思うだろう。
ここまで来ると、頭はファンタジーで、イギリスの精霊を思い浮かべていました。
新年早々、妄想か・・・。
ヒロクニさんは、ファンタジーとかは読まない人なので、
わたしが読んでいる本のことを時々聞いてくるのです。
そして、聞いては「ふヘぇー。」とか「それで~。」「驚いた。」とか、
アホな子供みたいな顔していうのだ。
(ちょっとバカにされているようで、憎たらしい)
哲学書とか、フランス文学とかが好きな人からしたら、驚きのストーリーなんだろうね。
正月に読んでいた本は、“ダイアナ・ウィン・ジョーンズ”でした。
“なんともいえない可笑し味“があり、それがこの作家の持ち味なのか?と思いながら、
フッと笑い、分かる感覚かもしれないと思いながら呼んでいました。
ハウルの動く家の2、「アブダラと空飛ぶ絨毯」です。
もう一冊は、“ジェフリー・チョーサー”の「カンタベリー物語」。
どちらもイギリスの作家です。
イギリス人の独特感性というのは、皮肉、嘲笑、ユーモアの混ざり加減絶妙で、癖になります。
時間が取れたので、まとまった読書が出来て、よい正月でした。
静かなお正月よ。
ケンカせずにね。
今日は、今育てているビオラの親の写真を。
↑以前の家で育てていたビオラ。
この黄色が気に入っていて、種を継いで育てています。
やっと2苗が同じ色。
まだ、つぼみを付けていなくて、色が分からないのが大半なのです。
↑中央の黄色いビオラも。
こちらは地植えに。
前の家は、庭が広かったのでチューリップの球根も地植えしていました。
4月の写真。
この頃は、花を育てるのに力を注いでいたのだなぁ~と、
写真を見ると自分がしていた事とは思えない。
だけど、やりがいのある庭で、花が咲くと気持ちが歓喜にあふれるという感じでした。
今は、ささやかな鉢植えをしていますが、
歓喜あふれる違うものを見つけるような気がしています。
今日は、正月から日本の神様のことを思いました。
新年は、皆様のところにも神様がきたでしょうか?
そうであれば、いいなと思いながら。
今日も年甲斐のない思いや考えを書きました。
こういうことを書くと、本当は少々恥ずかしさもある。
けれど、こういう恥ずかしい話で、ホッとして頂ければ幸いです。
最後までお付き合いして読まれた方、ありがとうございます。
おせち料理は、主婦がお休みするためのものです。全体的に味が濃いから(保存も兼ねていますが)、少しずつ食べてもお酒を飲みながらおつまみにしても満足できるし、ちょっとめずらしかったり縁起物の食材や料理だったりするので食べながら楽しいです。
私の母は本家の長女で親と同居だったので、お正月は集う兄弟や親戚の接待で数日前からずっと料理の支度をしていました。当日はもちろん調理とお給仕、そしてその後片付け。娘の私もずっと台所で手伝いをしていました。
従妹たちは広間で母の作った料理を食べているのに、なぜ?とずっと思っていました。お正月は、みんな休んでゆったりとした気持ちで新しい年に想いを馳せたいものです。
「何らかの神のような存在はいる」に同感です。神かどうかはわからないけれど何かはいる(または、ある)かな、と思っています。「時の流れ」という流れの中で、それに干渉するなんらかの存在、という感じだと思っています。
その存在を神というかはわかりませんが、「天網恢恢疎にして漏らさず」であれば良いのになとは思いますが、それは理想だということを理解しています。
時間がとれたときに本を読むというのは、心が穏やかになる時間です。この、なかなかとれない「時間」の貴重さを昨今は身に染みて感じます。
子供の頃にに夢中で読んでいた「メアリー・ポピンズ」。これもファンタジーのカテゴリーに入るでしょうか。
庭にお花が咲くと、嬉しくなります。食べられるわけでもないし薬にもならないのに、お花は気持ちを嬉しくさせます。
年末は、95歳の母が膀胱炎になり、なかなかの大騒ぎでした。膀胱炎なので、抗生剤を服用していれば治る程度のものですが。それもあり、年末の投稿にコメントが書けず残念でした。
膀胱炎騒動で母の世話をたくさんしたので、それを言い訳にして、年末年始は自宅でゆっくり過ごしました。近所の美味しくて安いお弁当屋さんが注文販売しているお節料理を食べて、幸せな気持ちになりました。
水垢離はものすごくびっくりで、ちょっと心配してしまいました。あまりご無理はせずに、お願いしますね。
今年もブログを楽しみにしています。さほりんとヒロクニ先生にとって、よいお年でありますように。
この絵でお目出度い気持ちになられたとのこと、嬉しく拝読しました。
おせち料理は、やはり主婦もお休みするものということですよね。そうでなければ、あれこれたくさん料理をする意味がないです。お母様は、なかなか偉い人柄のようで、文句を言わなかったのですね。ともりんは娘なので、何でこうなの?と思った気持ち分かります。私もこのような状態であれば、同じことを思うでしょう。その従妹さんは、遊びに来て、もてなされて当然だった感じが文面からしました。本当は、「ちょっと手伝いましょうか?」となるのが、自然ですよね。
「天網恢恢疎にして漏らさず」このような言葉、初めて知りました。悪事を働いた人には、天罰が下って欲しいですね。ともりんは、理想と随分クールになっていて、「現実はそうじゃないのがおる」というところか?私は、長い目で見ていて、来世で酷い目に合うと思っています。自分がした悪事を受けるだろうと。ここまで、思うって、わたしの方がひつこい性格かもしれないな・・・。
「メアリー・ポピンズ」は、ファンタジーに入ると思います。子供の頃はファンタジーが現実のようにとらえる能力が高かったのだと思います。しかし、優秀なファンタジーは、大人が読んでも面白いと思うのですが、どうでしょうか?子供の時の読書と同じようにはいきませんが、やはりワクワクします。ヒロクニさんは、「ファンタジーって、不思議の国のアリスとかもそうなの?私、読みましたが。」と聞いてくるのだが、アリスもそんなに面白く思わなかったのだろうという感じがありありとしていて、無理しないでいいのよ。と、目で語ってしまったわ。ヒロクニさん、すごく変なんです。
過去の花の写真を見ていて、ここまでのめり込んでいた自分に驚いています。「綺麗だな。」と思った時に、癒されていました。それが、とても心を和ませるのだと思います。
年末大変だったね。私の母もよく膀胱炎を起すみたいで、話をよく聞いています。やはり年配の人がなり易く、疲れたら、よくなるみたいですね。免疫力が落ちている時になりやすいという事らしい。私の母は、よくなるので薬を残していて、なったと思ったら薬を飲み、ましな状態で病院に行くようにしています。そうとう困っていたのが、苦肉の策から窺えるのです。でも、お正月はゆっくり出来たとあり、なんか私もホッとしています。これで、正月もキリキリ舞いだとすれば、胸が痛むわ。良かった。
水垢離は、暖かいお湯も湯船に張ってあるし、かぶるといっても3杯。水がぬるいと4杯というふうに出来る分だけ。ちょっと慣れてきて、それ程たまらない感じがしなくなってます。「少しの負荷がいい」をやってるので、大丈夫。これじゃあ、願掛けにはならないな、というものです。それと、爽快な気持ちになるが不思議。心配してくれてありがとう。優しいともりん、今年もよろしくお願いします。お互い、よい年になると嬉しいですね。
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