武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

朝Coffeeを作る(作品紹介600)と 家でのポジション

2021-04-13 15:02:37 | Weblog

「朝coffeeを作る」と書き込まれています。

coffeeは、いつも口の細いやかんで、ペーパーフィルターに引いた豆を入れ、

珈琲を入れています。

しかし、絵は、アイスコーヒーの調合でもしているの?という図。

珈琲の香りが広がる雰囲気もあるが、不穏な空気も立ち込めているよう。

一輪の花が、希望に思える。

 

この自分の解説(ただの妄言)を読んで、本当に“主観的”と思います。

私は、ヒロクニさんの絵を見て思うことは、客観的ではなく、主観しかない私見になると思います。当人と近くいるせいか、もう、絵と人を分けてみることが出来ないのです。

絵を見たら、顔とか人格まで浮かんでしまいます。

エピソードとかも。

この絵を見て思い浮かべる、珈琲を立てている姿。

それも、今の台所。

壊れてしまったけれど、かつてあった鉄製の珈琲ミル。このミルは、柄が長かったので、円を描く直径が長くて、腕が疲れるもので、ガリリッ、ガリリッ・・・という豆を引く音が大きくて、いかにも引いていますというもの。愛着がわくものでした。黒くて四角かった。

最初の猫ちゃんは、その様子をちょこっと座って見ていたりとして、(動くから面白かったのでしょう)2人で顔を見合わせている姿は、微笑ましかった。

今でも珈琲は、ヒロクニさんが入れています。

珈琲を入れた後は、砂糖の配分、「今日は多め。」とか、「今日は少なめ。」とか、報告してくれますが、私が用事をしている時に言うので、「もう、砂糖の分量なんてどうでもいいのだけど・・・・、私の手を止めないでくれる。」と思うのでした。

「細かいことはどうでもいい。」という私のスタンスと、風の量はこれでいいかな?と、窓を開ける隙間の量をいちいち聞いてくるヒロクニさんのスタンスが微妙にかみ合わない2人です。

こういう時、「さすが、細かい絵を描くだけのことはある。」と思う。

それでも、気合を入れるのを忘れた珈琲を入れることがあって、とても薄い珈琲が出来る時があって、「失敗した。」と言われたものは、味が薄くて気が抜けたような珈琲で、これには残念な気持ちがして、どうでもよくない私です。なんと、自分勝手。

珈琲専門店にパートに行っていたので、私もフィルターで入れることは出来るのですが、珈琲を立てるのはヒロクニさんのポジションになっています。

皿洗いは、結婚依頼ずっとしてくれていて、「男の方が手の皮が厚いから・・・。」という理由で、31年間やってくれていますが、年齢のせいか、ちょっと嫌になってきているようで、時々、私もするようになりました。

珈琲を立てるのはまだまだ続くようですが、

皿洗いは、卒業しそうなヒロクニさんです。

かつて、主婦どうしの会話で、「皿洗い器を購入して、とても楽になったわ。」という話を聞くと、

私は、「私、アライグマを飼っているので、やってもらってます。」と意味不明なことを言って、ホホホ・・・と、自分だけでウケテ笑っていたことを思い出します。「可愛いのよ。」とか言ったりして。

ヒロクニさんの皿洗いは、食器の入った容器に、洗剤をチューと流し入れて、どれだけ洗剤を使うの?と。目が点になります。そのせいか、洗剤が切れそうになると、恐怖らしく「洗剤買って来い。」と何回言われるか・・・。「まだ、あるじゃないの。」と思うが、洗剤が減ると恐怖という感情に支配されている様子が、変でした。

そういうわけで、洗剤は、好きなだけ使ってもらっていました。

文句は言わなかった。

やってもらているから、それは感謝していました。

料理に力を入れることが出来たのも、そのおかげかもしれない。

皿洗いの卒業には、ねぎらいの気持ちが湧きそうです。

 

いつものことなのですが、文章がいつも横道にそれる。

珈琲の話が、洗剤に行き着くのは何故なのか?

ポジションの話から、洗剤の話になったのはわかっているけれど、

書いているうちに行き着くという流れ。

珈琲を難しい顔して入れている画家の肖像という風に書いた方がいいかもしれないが、お互いの違いから出てくる気持ちは、どの人にも当てはまるような気がするので、そんなことってあるよね。と思って頂ければ幸いです。

 

今日は天気が悪いですが、庭で取った晴れた日の写真を。

↑咲き始めは、黄色いのですが、時間が経つと赤みを帯びてくるチューリップ。マリーアントワネットという名前。

どういうわけか、ジャーマンアイリスの葉の間に挟まっています。

 

↑昨年も植えたチューリップで、ドリームタッチという名前。

芍薬咲きで八重の品種。

昨年は、全滅でまったく咲かなかったので、今年もトライしました。

今年も、6個植えて、咲くのは3個でした。

どうも球根が腐りやすいようみたい。

グニャグニャになった、芽というか葉を見つけました。

 

↑こちらは、ビオラを摘んでコップに。

台所のちゃぶ台に飾ります。

黄色、茶色、濃い紫のビオラのとりあわせ。

ヒロクニさんには、「何か古臭いねぇ~。」と。

私は、「アンティークな色がいいのォ。」「単なる古臭いとは違うのォ。」と、反撃しておきました。

 

↑そして、初めて育てた絹さや。

けっこう成っていて、楽しい収穫になっています。

「卵とじ」ばかりして、「もう、こればかり飽きた。」と言われています。

 

↑ほうれん草の芽。

これは、空いている場所に移動させました。

大きくして食べるつもり。

 

植物の写真を撮っていて思うのですが、植物、特に花は、太陽の陽にあったっている時が、輝いています。

その日差しによって、見るものを魅惑させてくれます。

色味や雰囲気が美しい方へ、強調されるというか・・・。

植物と一緒に陽に当っていると、陽の光の恩恵を身近に感じます。

太陽の日差しは、力のようなものかもしれないと思いました。

心や身体の栄養といってもいいかもしれません。

そんなことを思いました。

SF的に考えると、太陽が消滅したら地球上の生命もなくなるのですよね。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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