瀬崎祐の本棚

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詩集「それから それから 光のつづきがありますように」 大坪あんず (2023/11) ジョバンニ書房

2024-02-09 20:42:41 | 詩集
第3詩集。75頁に長編詩3編を収める。

各詩編はそれぞれが断章の集まりとして構成されている。各頁には10行程度、ときには1行だけの詩行が載っている。端正と言ってよい表現が冷静に状況を形作っていく。

   いつか差し出したものと差し出せなかったものが白い貝殻の内で解けて美しい数式の泡粒
    になる

   すこしばかりの哀しみを包んだ記憶もどこかの季節の隅でやがて洗練された波音になる

   うすくうすく剥いた梨の皮を入れた紅茶に朝の光がさざめく
                              (「どこかの季節で」より)

描写される話者の外部事象は、見えるものであり、聞こえてくるものであり、触れえるものである。五感でたしかに話者の外にあると認められたものたちが、話者の中にあるものを呼び覚ます、あるいは、話者の中に新たなものを生じさせる。そして話者の外と中が溶けあいはじめる。

情景は断章ごとに移り変わり、作品をひとつの繋がった物語として捉えることはできない。断章ごとに提示されたばらばらの情景が重なりあって形作るものを見ていくことになるのだろう。

   いつからか川岸に置き忘れられている朽ちかけた小舟
   水の光をすりぬけていつか誰かを揺らしたことを覚えているだろうか
   雨をためた小舟を風が漕ぐ

   漂流、あるいは抱擁のように
                              (「どこかの季節で」より)

こうして記述することで自分の外側に何があるのか、そして内側には何があるのかをあらためて確かめている。それはこの世界に閉じこめられた者が出口を模索しているようにも感じられる。そんな気持ちの起伏をていねいにたどってのこの作品の最終部分は、

   失うことに似たものと抱えることに似たものを
   いつからか掛けちがえた憶病なやさしさ
   どこからかためらわずに白い花が散っていく

   ここは美しいのでしょうか

残りの2編、「いくつかの風景に」、「こぼれる草花は」では、話者が話しかける他者の存在がややはっきりしている。その分だけ話者が彷徨っている世界に構造があらわれているようだった。
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詩誌「星時計の書」 (2023/09) 埼玉

2024-02-06 22:37:19 | 「は行」で始まる詩誌
同人は有働薫、野村龍、細田傳造、もえぎの4人で、2021年3月から2年半のあいだウェブ上で活動したとのこと。今回の紙媒体の詩誌はそのウェブ上の1~10号の詩編を合冊としてまとめたもの。

「かば」細田傳造(2021/126公開の4号より)。
じいかばさんはものを食べなくなって動物をやめ公園のさるすべりの木になった。すると清掃係の女性が「すべすべの肌をしているねぇ」と触ってくれる。「惜しいことをした/早くから木になっていればよかった」なんという脳天気な展開であることか。読んでいて嬉しくなって、思わず頬がほころんでくる。最終連は、

   マドモアゼルのことはどうでもいい
   マゴが触りにくるのを待っている
   もうかばではない
   風にそよぐ思考する一本の木だ
   ヒポクリートだ
   痩せている

「廃港」有働薫(2022年6月公開の6号より)
かつての機能を失った設備がそのまま錆びついている。硬く、情緒的なものを失ったそれは死んだ風景なのだ。

   愛が暴力を抱いているのが見える

   浜の僅かな草地に薄紫の花大根が群れ咲き
   波打ち際に飴色のワカメの切れ端を拾う
   曇天の下
   チェロの低温部が響くように波の
   岸辺を打つ単調なリズムだけが途切れなく続く

この茫漠としたような静止した無機物の世界にも、花大根やワカメの切れ端といった生命は割り込んでいて、自然の営みである波は動き続けている。

「雲」野村龍(2023年6月公表の10号より)
端正に整えられた2行ずつの7連から成る。濁ったものを取りのぞき、その果てに清んできたものをていねいに言葉にしているようだ。それゆえに作品はクリスタルのように硬質でありながらどこまでも明るい。ここにいたるまでには大変な忍耐と努力を要したのではないだろうか。

   遠くへ光を放て
   剥かれた言葉の殻の彼方へ

   螢の指先は霧の濁りを削ぎ
   茉莉花の掌はくぐもった明日を拭う

「大気圏外で書かれた言葉たち」との副題を持ったウェブ上の活動は一区切りをつけるようだ。意欲的な試みだったと思える。
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詩集「彼女は待たずに先に行く」 諸加たよこ (2023/12) 書肆侃侃房

2024-02-02 20:03:59 | 詩集
92頁に36編を収める。

脱力系という言葉を目にすることがあるが、この詩集の雰囲気は好い意味でちょうどそんな感じであった。気魄とか努力とか緊張とか、いわんや嫉妬とかとはまったく無縁の地点に作者は立っている。それは希望とか絶望とかいったものからも解き放たれた地点であり、大変に爽やかであるのだ。

たとえば冒頭の「眠れるソファ」。「ねえこのソファ ちょうだい」と言う人がいるのだが、その人はソファで眠って、「いいよ、と言っているのに」そのまま帰ってしまうのだ。

   このソファがなくなったら
   どうなるかな

このソファは家族も座れば眠ってしまうのだ。最終行は「いいよ 持っていってください」。ただそれだけの作品である。この座れば平穏に眠れるソファが何の暗喩なのか、それを欲しがるのに持ち帰らないことにはどんな意味があるのか、それを差しだす気持ちには何があるのか。そんなことを考えはじめると、とたんにこの作品はつまらなくなってしまう。「このソファ ちょうだい」「いいよ」ただそれだけの作品であるところが好いのだ。

「天気雨 AM」は、お湯を沸かそうとしたのにいつまでたっても沸かない作品。「見たら火は点いていなくて/換気扇がついていた」のである。

   窓ごしにびわの葉が笑ってた
   そんなこともあるよって
   びわはカーテンに影を落として
   影はもうひとつ
   窓の向こうの光の中に

何も付け加える必要がないところで作品は書かれている。こんな事だけで詩になるのかというような内容でもある。気をつけておきたいのは、どの作品においても話者への思い入れがいっさい書かれていないことである。作者は話者からは離れた位置にいて作品を成立させている。そのために話者はまるで脱力した自然体でいるかのように感じられるのだ。

そんな中で異色なのが作品「嫌いなことを排除していたら嫌いな自分が残った」だろう。ここでは、絵本作家である「マリーホールエッツはお墓の中にいる自分を想像して描いたのではないか」と語る話者のすぐ背後に作者の気配が感じられる。いささか不気味な脱力なのだった。
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