瀬崎祐の本棚

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森羅 4号 (2017/05) 東京

2017-06-09 21:48:36 | 「さ行」で始まる詩誌
 「帽子病」粕谷栄市。
 帽子病とは「気がつくと、帽子をかぶらずにはいられなくなる」、あるいは「帽子をかぶっていられなくなる」病気だとのこと。これは困る。意識した途端に、帽子をかぶろうがかぶるまいが、どちらの場合も病気だということになってしまう。つまりは、帽子病は人間の存在そのものに関わってくることのようなのだ。この奇妙な、それでいてどこか人を喰ったような”病気”を設定した時点で、もう作品世界は完全にできあがっている。

    帽子病に追い詰められ、答えを求めて、誰もが、思わ
   ず頭をかかえる。帽子のことなど、もうどうでもいいこ
   とになっているのである。
 
 どんな人間の有り様でもそれはどこか”病気”なのであって、突き詰めれば、人間が在ること自体が病気なのかもしれない。

 江代充が2編を寄稿している。そのうちの「泉のほとりへいく」。
 江代の作品はいつも冷徹な描写が力を持って読み手に迫ってくる。詩集「梢にて」は何度も読み返している。この作品でも”泉のほとりへ向かう”行為が描写される。

   なにごとにも値しない
   あなたへのひそかな畏れのため
   さらに暗い胸のひとところへ向かい
   おし隠すような身振りをわたしがした

 それは自分の気持ちが落ちつくべきところへの彷徨い、いや、もっと禁欲的な修行であるかのようだ。そして、話者のこの修行を描写している作者もまた、描写するという修行をおこなっているようだ。最終部分は、「時折りあまり間を置かずに雨が降りつづき/道にわたしのいる夜おそく/本降りになる」。江代の作品を私(瀬崎)は秘かに哲学詩だと思っている。

 「艪」池井昌樹。
 旧知の仲であるQさんを訪れ、「私を乗せたQさんの小舟はゆるゆると霞の奥へ下ってゆく」のだ。たしかにそんなことがあったようなのだ。しかし、いつもそこから先のことは覚えていないのだ。いったい、私とQさんはどこかへ向かっていたのだろうか。いや、Qさんとは誰のことだったのか。そして、

   (略)
   たとえば病気のとき、眠るとき、そうして一人
   で泣いているとき、いまも小舟の上にいる自
   分のことを憶い出すのだ。Qさんの漕ぐ艪の
   音が、霞の奥からゆっくりとひびきだすのだ。

 自分の中からもう一人の自分が抜けだして、どこかへ行こうとしているような感覚がある。Qさんはそんなときの道案内なのだろう。この作品がどこか懐かしいような肌触りがするのは、おそらく誰もがそれぞれのQさんの存在を感じているからだろう。 
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詩集「かまきりすいこまれた」  細田傳造  (2017/06)  思潮社

2017-06-06 23:56:41 | 詩集
 第4詩集。92頁に22編を収める。
 作品のはじまりでは、平易な言葉で平易な事柄を記して読み手に寄りそってくれている。読み手にも等身大に思える作品世界が展開されていくように思える。しかし、それはいつのまにか、奇妙なねじれを見せてくる。

 たとえば冒頭の「たましい」。
 年よりの日に孫が描いてくれたのは”雲古の絵”。しかし、それは「うんこじゃないよ じいちゃんよく見なよ/たましいの絵だよ」ということだったのだ。それから、「脱糞する」と「魂が抜けたような気持ちがある」のだ。

   抜けて
   落ちている魂の
   ことをかんがえて
   ぼおっと便座にいる
   水、流せない。

 可笑しいような、それでいて切羽詰まっているような、奇妙なのだが、ふっと、ああ、そうだなと思わせてくるものがある。善良な人が生きていくことの心細さのようなものを感じさせる。

 「花首」では孫と一緒に「浅瀬に赤い花首いちりん/浮かんでいるのを見」る。しかし、あたりには赤い花は咲いていないのだ。

   不思議だね
   同行のこどもが言った
   赤い花
   どこで首を切られて浮かんでいるのだろう
   こーいう不思議ごとで
   本当のことを書けばいいんだよじいちゃん

 思わずにやりとしてしまうようなやりとりである。実際にもこんな事に遭遇して、こんなやりとりがあったのではないかと思わせるようなことなのだ。しかし老詩作者は「不思議で本当の事実とか」を「言葉なんかで告知するのは無理ではないか/と思った」りしている。そんなことを淡々と書いて、それでいて作品として読ませるものになっているところに感心する。

 「かまきりすいこまれた」では、幼稚園のお母さんたちがどこかすれ違うような会話をしている。生命はどこか無情にどこかで失われていくようだ。
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CROSS ROAD  9号  (2017/05)  三重

2017-06-01 20:15:22 | ローマ字で始まる詩誌
 北川朱実の個人誌。20頁、表紙には、かって在ったという三重のジャズ喫茶の写真。

 4つの詩編の中から「窓」。
 喫茶店の二階の窓から海を見ている。その海は「入道雲をかかえて/いつも夏休みだった」のだ。窓の外にどこまでも広がる光景が話者をどこか遠くへ連れて行ってくれるような気持ちにもさせてくれたのだろう。

   遠く
   白い灯台に

   さびしいというには
   あまりにも日焼けした人が
   立っていた

 こうして窓は内と外の風景をつなげる。こんな風に視線が出入りする場所だ。しかし窓は身体の出入り口ではないので、視線と共に出ていく心と、身体と共に残る心がからみ合う場所でもある。この作品は、そんなもどかしさと、もどかしさの果てにある諦観のようなものを伝えてくる。終連は、「美しい水をすくうように/あの窓から/名前を呼ばれたことがある」。

 散文詩の「中空の家」は、クリスマス・イブを孫娘の身代わりと一緒に過ごす老夫婦の物語。小説も書く作者の、掌編小説を思わせる作品。

 2つの連載エッセイのひとつは「伝説のプレイヤー」。今回はジャッキー・マクリーンについて。もうひとつは文学的な場所を巡る「路地漂流」。今回は躁鬱病で悩んでいた夏目漱石の千駄木の家について。どちらのエッセイもそれぞれの人物について簡潔に逸話を紹介しながら、最後に物語を作者自身にぐっと引き寄せている。この読ませる文章力には脱帽。

    明治村の売店で、漱石が、医者に何度注意されて
   も隠れて食べた砂糖ピーナッツを買った。そのうま
   さに、胃が悪い漱石が死を早めたことを忘れた。

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