「帽子病」粕谷栄市。
帽子病とは「気がつくと、帽子をかぶらずにはいられなくなる」、あるいは「帽子をかぶっていられなくなる」病気だとのこと。これは困る。意識した途端に、帽子をかぶろうがかぶるまいが、どちらの場合も病気だということになってしまう。つまりは、帽子病は人間の存在そのものに関わってくることのようなのだ。この奇妙な、それでいてどこか人を喰ったような”病気”を設定した時点で、もう作品世界は完全にできあがっている。
帽子病に追い詰められ、答えを求めて、誰もが、思わ
ず頭をかかえる。帽子のことなど、もうどうでもいいこ
とになっているのである。
どんな人間の有り様でもそれはどこか”病気”なのであって、突き詰めれば、人間が在ること自体が病気なのかもしれない。
江代充が2編を寄稿している。そのうちの「泉のほとりへいく」。
江代の作品はいつも冷徹な描写が力を持って読み手に迫ってくる。詩集「梢にて」は何度も読み返している。この作品でも”泉のほとりへ向かう”行為が描写される。
なにごとにも値しない
あなたへのひそかな畏れのため
さらに暗い胸のひとところへ向かい
おし隠すような身振りをわたしがした
それは自分の気持ちが落ちつくべきところへの彷徨い、いや、もっと禁欲的な修行であるかのようだ。そして、話者のこの修行を描写している作者もまた、描写するという修行をおこなっているようだ。最終部分は、「時折りあまり間を置かずに雨が降りつづき/道にわたしのいる夜おそく/本降りになる」。江代の作品を私(瀬崎)は秘かに哲学詩だと思っている。
「艪」池井昌樹。
旧知の仲であるQさんを訪れ、「私を乗せたQさんの小舟はゆるゆると霞の奥へ下ってゆく」のだ。たしかにそんなことがあったようなのだ。しかし、いつもそこから先のことは覚えていないのだ。いったい、私とQさんはどこかへ向かっていたのだろうか。いや、Qさんとは誰のことだったのか。そして、
(略)
たとえば病気のとき、眠るとき、そうして一人
で泣いているとき、いまも小舟の上にいる自
分のことを憶い出すのだ。Qさんの漕ぐ艪の
音が、霞の奥からゆっくりとひびきだすのだ。
自分の中からもう一人の自分が抜けだして、どこかへ行こうとしているような感覚がある。Qさんはそんなときの道案内なのだろう。この作品がどこか懐かしいような肌触りがするのは、おそらく誰もがそれぞれのQさんの存在を感じているからだろう。
帽子病とは「気がつくと、帽子をかぶらずにはいられなくなる」、あるいは「帽子をかぶっていられなくなる」病気だとのこと。これは困る。意識した途端に、帽子をかぶろうがかぶるまいが、どちらの場合も病気だということになってしまう。つまりは、帽子病は人間の存在そのものに関わってくることのようなのだ。この奇妙な、それでいてどこか人を喰ったような”病気”を設定した時点で、もう作品世界は完全にできあがっている。
帽子病に追い詰められ、答えを求めて、誰もが、思わ
ず頭をかかえる。帽子のことなど、もうどうでもいいこ
とになっているのである。
どんな人間の有り様でもそれはどこか”病気”なのであって、突き詰めれば、人間が在ること自体が病気なのかもしれない。
江代充が2編を寄稿している。そのうちの「泉のほとりへいく」。
江代の作品はいつも冷徹な描写が力を持って読み手に迫ってくる。詩集「梢にて」は何度も読み返している。この作品でも”泉のほとりへ向かう”行為が描写される。
なにごとにも値しない
あなたへのひそかな畏れのため
さらに暗い胸のひとところへ向かい
おし隠すような身振りをわたしがした
それは自分の気持ちが落ちつくべきところへの彷徨い、いや、もっと禁欲的な修行であるかのようだ。そして、話者のこの修行を描写している作者もまた、描写するという修行をおこなっているようだ。最終部分は、「時折りあまり間を置かずに雨が降りつづき/道にわたしのいる夜おそく/本降りになる」。江代の作品を私(瀬崎)は秘かに哲学詩だと思っている。
「艪」池井昌樹。
旧知の仲であるQさんを訪れ、「私を乗せたQさんの小舟はゆるゆると霞の奥へ下ってゆく」のだ。たしかにそんなことがあったようなのだ。しかし、いつもそこから先のことは覚えていないのだ。いったい、私とQさんはどこかへ向かっていたのだろうか。いや、Qさんとは誰のことだったのか。そして、
(略)
たとえば病気のとき、眠るとき、そうして一人
で泣いているとき、いまも小舟の上にいる自
分のことを憶い出すのだ。Qさんの漕ぐ艪の
音が、霞の奥からゆっくりとひびきだすのだ。
自分の中からもう一人の自分が抜けだして、どこかへ行こうとしているような感覚がある。Qさんはそんなときの道案内なのだろう。この作品がどこか懐かしいような肌触りがするのは、おそらく誰もがそれぞれのQさんの存在を感じているからだろう。