第1詩集。102頁に軽妙な感触の28編を収める。装幀は詩遊社の出版物ではお馴染みの上田寛子。カバーには白鳥にまたがって水の上を行く赤いワンピースの女性が描かれている。
冒頭の「ハミング」は、「もう若くはないよって/なにか/ふわふわしたものが/わたしから/抜けて行ったらしい」と始まる。自分でも捉えることができないこの曖昧な感覚が詩集全体に漂っている。脱力感のようでもあるのだが、その曖昧さを逆手に取った自己肯定感も読み取れる。そこには”ふわふわとした”快感もあるのだ。最終連は、
ふわふわはね
大草原を
アルプスの少女になって
飛びまわっている
らしいよ
ハミングが聞こえる
あい変わらず
「些細な海から」。日常生活には文字通りに些細な細々としたことがあふれている。外出時の部屋の暖房、防虫剤の香り、トイレットペーパーの経済性、などなど。しかし、それらの些細な事柄に囲まれたところにいることによって今の私が成り立っている、という思いがある。潔い。この作品の最終連も鮮やかに着地している。
台所でも
熱したフライパンの上で
黄金チャーハンのような
フラメンコオムレツのような
何かがくるっと跳ねっかえるんです
ちゃんと見えていますか
取りこぼさないよう
「ヘビと隊長」は、ジャングルの中で何百匹ものヘビにまとわりつかれる夢をみた話。そこは戦闘地帯で、話者はヘビを引きずり引きずられて前進するしかなく、隊長に叱咤激励されていたのだ。目覚めて朝の散歩に出かけると、「貴様、脱落したのかっ/ヘビに謝れっヘビに謝れっ」という隊長の怒鳴り声も遠のいていく。この隊長の言い分も愉快なのだが、秀逸なのはそのあと、
帰ってきたら
ヘビもいない誰もいない
シーンとした家だった
別の戦闘地帯に派遣されたようだ
隊長、ここはどう突破しましょう
通り過ぎたはずの夢世界が、話者の目覚め後の実世界に侵食してきている。話者は、夢によって自分の中に隠れていたものに気づかされているのかもしれない。
亡くなった小学校の時の友だちを偲ぶ「原田くんの雨」は、しみじみと好い作品だった。
冒頭の「ハミング」は、「もう若くはないよって/なにか/ふわふわしたものが/わたしから/抜けて行ったらしい」と始まる。自分でも捉えることができないこの曖昧な感覚が詩集全体に漂っている。脱力感のようでもあるのだが、その曖昧さを逆手に取った自己肯定感も読み取れる。そこには”ふわふわとした”快感もあるのだ。最終連は、
ふわふわはね
大草原を
アルプスの少女になって
飛びまわっている
らしいよ
ハミングが聞こえる
あい変わらず
「些細な海から」。日常生活には文字通りに些細な細々としたことがあふれている。外出時の部屋の暖房、防虫剤の香り、トイレットペーパーの経済性、などなど。しかし、それらの些細な事柄に囲まれたところにいることによって今の私が成り立っている、という思いがある。潔い。この作品の最終連も鮮やかに着地している。
台所でも
熱したフライパンの上で
黄金チャーハンのような
フラメンコオムレツのような
何かがくるっと跳ねっかえるんです
ちゃんと見えていますか
取りこぼさないよう
「ヘビと隊長」は、ジャングルの中で何百匹ものヘビにまとわりつかれる夢をみた話。そこは戦闘地帯で、話者はヘビを引きずり引きずられて前進するしかなく、隊長に叱咤激励されていたのだ。目覚めて朝の散歩に出かけると、「貴様、脱落したのかっ/ヘビに謝れっヘビに謝れっ」という隊長の怒鳴り声も遠のいていく。この隊長の言い分も愉快なのだが、秀逸なのはそのあと、
帰ってきたら
ヘビもいない誰もいない
シーンとした家だった
別の戦闘地帯に派遣されたようだ
隊長、ここはどう突破しましょう
通り過ぎたはずの夢世界が、話者の目覚め後の実世界に侵食してきている。話者は、夢によって自分の中に隠れていたものに気づかされているのかもしれない。
亡くなった小学校の時の友だちを偲ぶ「原田くんの雨」は、しみじみと好い作品だった。
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