瀬崎祐の本棚

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詩集「石目」  時里二郎  (2013/10)  書肆山田

2013-11-01 15:07:38 | 詩集
 第6詩集。147頁に濃密な散文形式の作品が10編収められている。
 それぞれの作品は、散文詩という範疇を超えて物語世界を展開してくる。小説といわれるものとの境界も定かではないが、もはやそのような呼称が無意味であるようなところで作品は成立している。
 伝承や神事は、理屈や説明を越えて人の生活の根の部分に入り込んでくる。そのようなものを必要とする日常があり、生き方があるということになる。作品「石目(いしめ)」。年に一度、村にやってくる”イシメサン”は、果てなく地中に続いている「つまづき石」を剥る。「つまづき石」は「石の芽」をもつ樹のような生き物だったというのだ。畏るべき物語世界である。ただそれだけでは終わらない。この作品には長い註がいくつか付いているのだが、その註により作品世界は全く様相を変えてくるのだ。田植ゑが始まる前に水に浸された村は、「地上の時間に軸を失ひ」、そして、

   だから、イシメサンが村にやってくるのではない。イシメサンのゐるところに村が
   漂着するのだ。さうやつて、田植ゑが始まるまでのしばらくの間、村は島の時間の
   中にたゆたふことになる。「つまづき石」は、ちやうど舫(もやひ)を結はへる時
   間の杭のやうに、村が島の時間から外れてしまふのを防いでゐるやうにも思へる。

 そしてかってのイシメサンたちと村の確執が露わになってくると、私の立ち位置は物語の中で反転しているのだ。こうして作者は、表面に見えていた物語と、その裏に隠されていたもう一つの物語を万華鏡のようにくるりと回して差し出してくる。
 作品「MOZU」では、ある共同体でおこなわれている家族毎の行事が語られる。両親とお姉ちゃんと一緒に「mozuの声を聞くために過ごす」一日のことである。そして実は、お姉ちゃんのように「mozuの日にだけ家族の一員になる人」がいるのだ。しかし、それだけではない。この長い作品の後半では、成長した私があのmozuの日の裏側にあったもう一つの物語を差し出してくる。実は、わたしはいなかったのだ。

   けれども、おそらく父母にも、mozuの森の家族の中には、わたしは見え
   なかったのだと思います。(略)
    ただ、mozuの帰り道、お姉ちゃんがわたしと手をつないでくれたの
   をよく覚えています。mozuの行き帰りはいつも母と手をつないでいた
   お姉ちゃんが、その帰り道にわたしの手を取って、わざと大きく振っ
   てみせたのも、お姉ちゃんにもわたしが見えなかったのだということを教
   えていました。

 このようなものが支配する世界に踏み込む者、そしてそこから戻ってきてその世界を差し出す者。幻惑される。素晴らしく幻惑させられる。
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