瀬崎祐の本棚

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「玲瓏」111号 (2024/04) 千葉

2024-08-30 18:16:43 | 「ら行」で始まる詩誌
故・塚本邦雄が興し主宰していた短歌結社の機関誌である。現在の発行人は塚本青史で137頁。

第27回の玲瓏賞受賞者である笹原玉子は「南海漁夫」と題した20首を発表している。

   あからひく朝の旅人が言ったのだ「えいゑんはえいゑんのむかふ」

   オフィーリアの皺だらけなる双手見よ(まだえいゑんの途中ですから)

短歌についてはどのように感想を言えばよいのかがよく判らないのでまったくの個人的な嗜好になるのだが、今のほとんどの詩は持つことを止めた韻律が支える想像力の羽ばたきのようなものを感じる。韻律があることによってかえって自由となる世界の作り方を見ることができる。

   月のすむ都しあらば南海漁夫われと遊べよ朝な夕なに

私(瀬崎)の感覚で言えば、「月のすむ都」という語から、もしそれがあれば、という思いが出てきたとしても、「南海漁夫」にまで跳ぶことは難しい。語弊を怖れずに言えば、詩が自由律になったためにその跳び方がぎごちないものになってしまう。しかし、韻律が支えてくれるとそれは可能になってしまうのだ。恐るべし、韻律。

また笹原は「文芸●川」10号(2024/07)(小中陽太郎・編集)には詩「ここは夢、夢は仮死」を発表している。2~5行の10の断章から成っており、たとえば、

   5
   琥珀のなかの蝶は生きもの。眠る生きもの。未熟からも爛熟からもはるか
   な生きもの。ロマノフ朝の最後を見てきた蝶たちもゐる。おまへたち、そ
   ろそろ起きて今日の無残を見てみませんか。そのかはり私が入ってあげま
   す琥珀のなかへ。

ここでは表面上の韻律はないものの、作者の内部ではしっかりとそれが言葉を動かしているのだろう。この詩を構成する10の断章も、そこで詩われている事象の跳び方や絡み具合からは10首を一組とした短歌のセットのような肌触りがあった。

なお笹原は2008年には詩集「この焼跡の、ユメの、県(あがた)」(ミッドナイトプレス)も出版している。
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