瀬崎祐の本棚

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苦い水 樋口武二 (2017/12) 書肆山住

2018-02-22 18:14:34 | 詩集
 第10詩集。103頁に散文詩30編を収める。
 作者はこれまでも「異譚集」などで幻想的な物語を作品にしてきた。本詩集の「あとがきにかえて」で作者は、「幻想(虚)が歳を経るにしたがって〈現〉に近いような、みょうにリアリティのある感覚が身に付いてしまった」と書いている。しかし本来、、虚と現はひとつの物事の裏と表でもあるのだろう。

 語られるいくつもの物語は、話者の記憶や思い出に支えられている。しかしその記憶は本当なのだろうか。夢に通じるような、勝手な思い込みや作り話ではないだろうか。たとえば「記憶が勝手に歩きだし、」では、少年のころに細い路地で私は傘をさした少女と出会ったのだ。還暦を過ぎて、話者はずっと覚えていたその記憶の中の人とふたたび出会う。

   しずかに私の手を握りながら、待っていたのです、五十年も過ぎ
   てしまったけれど、と、そっと耳元で囁いたのだ さぁ、出かけ
   ましょうか、と、さらに手を引かれて、おずおずと歩き出せば、
   雨はいつしか小雨になっている

 思わず走って逃げ出した私が家に戻ると、最前の人は「お帰りなさい、迎えに出たのに走るから驚いたわ、と声をかけて」くるのだ。私はどこへ帰ってきてしまったのだろうか。それとも、これが本当の私だったのだろうか。

 「降りていく」でも、話者はどこか引き返せないところへ梯子を降りていく。それはどこかへ帰還することでもあったようなのだ。

 「水瓶が、」では、庭の水瓶に手を浸すと、「日常の向こう側からやって来た者たちの遠い記憶が、私の身内にゆっくりと満ちてくる」のだ。その水瓶の中には植物があふれていて、小さな生き物たちも泳ぎまわっている。やがて、水瓶が持っていた記憶は私の記憶となっていくと、話者は書き記す。

   私の真実や、日常といえるものが泳いでいるのかもしれないと思
   うと、ふたたび、この干乾びた老人の手を、ふらふらと水につけ
   てみたくもなるのだ

 では、水瓶に記憶を移したのは誰だったのだろうと訝しくもなってくる。読者もまた世界を与えられる存在でしかない。そこから自分の世界を構築するしかないのだろう。
コメント
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