第6詩集。90頁に24編を収める。
松岡の作品では”艸”が核にある。「生来、まつろわぬ身」は「艸をはなれて艸をする身」であるし(「くさわた」より)、話者は「艸の時間になるのをま」ち、「艸のこどもに還っていく」のだ(「野歩き」より)。”艸”は血脈でもあるようだし、共同体を支えている土地そのものでもあるようだ。生きている身体の源に繋がっているようにも感じられる。
「たまもの」は、正直なところ、なにを言っているのかよく判らない。判らないのだが、なにか真面目に書かれていて、「あら艸どもの棲みきった息」や「命がけでついた嘘」が謎のままで染みこんでくる。
川原にはがんらい名前がない道がない。
川に足を浸してみるそうやって聲を清潔にする。
水のなかの足とひかり足とひかり鮴がちょこっと動いた今今。
終わり近くには前詩集につづくような台湾を舞台にした作品が置かれている。
「南澳火車站」。異国の街の路地を彷徨い、探し当てた食堂で思いの外にうまかった食事をとり、しかし鉄道の切符がとれずに佇んでいる。異国の地に我が身を置いたときにはじめて見えてくるものもあるのだろう。
嫌われないように傷つけないように誰もが器用に過剰に生きている、
その不潔。名づけようのないものを悲しみといってみる、その不潔。
見すぎた気がする。いいやまだなにほどのものも見ていない気がす
るその不潔。黙っている不潔。
剥き出しの感情がこちらにむかって突き刺さってくるような気迫を感じる。それは、いくら辛くても、いくら寂しくても、共感も同情も拒絶している気迫である。
松岡の作品では”艸”が核にある。「生来、まつろわぬ身」は「艸をはなれて艸をする身」であるし(「くさわた」より)、話者は「艸の時間になるのをま」ち、「艸のこどもに還っていく」のだ(「野歩き」より)。”艸”は血脈でもあるようだし、共同体を支えている土地そのものでもあるようだ。生きている身体の源に繋がっているようにも感じられる。
「たまもの」は、正直なところ、なにを言っているのかよく判らない。判らないのだが、なにか真面目に書かれていて、「あら艸どもの棲みきった息」や「命がけでついた嘘」が謎のままで染みこんでくる。
川原にはがんらい名前がない道がない。
川に足を浸してみるそうやって聲を清潔にする。
水のなかの足とひかり足とひかり鮴がちょこっと動いた今今。
終わり近くには前詩集につづくような台湾を舞台にした作品が置かれている。
「南澳火車站」。異国の街の路地を彷徨い、探し当てた食堂で思いの外にうまかった食事をとり、しかし鉄道の切符がとれずに佇んでいる。異国の地に我が身を置いたときにはじめて見えてくるものもあるのだろう。
嫌われないように傷つけないように誰もが器用に過剰に生きている、
その不潔。名づけようのないものを悲しみといってみる、その不潔。
見すぎた気がする。いいやまだなにほどのものも見ていない気がす
るその不潔。黙っている不潔。
剥き出しの感情がこちらにむかって突き刺さってくるような気迫を感じる。それは、いくら辛くても、いくら寂しくても、共感も同情も拒絶している気迫である。