○2年生の頃②
村上先生の授業は、先生の著書「かなのレッスン」を用いて行われた。
最初はもちろん「いろは」の単体の練習から。幸い村上先生の「いろは」は、高校時代に使った教科書に掲載されていて、親しんだものであったので、容易に書くことができた。
筆は、仮名の好きな友人が使っていたのと同じく、ミンクの毛で作ったものを使った。本当は、先生が授業で教えてくださった「上代様仮名書」を使うべきなのだが、どこで買えばいいのかもわからないので、仕方なくそのミンクの筆を使った。
紙は、高校時代は改良半紙を使っていたが、先生はロール紙にしなさいとのことだったので、それを1反、1,000枚買ってきておいて使った。
先生の授業は、まず初めにあらましを簡単に話し、その後すぐに実習に移り、実習の時間を多く取るようにしていた。先生は全員の席を回り、1人1人のためのお手本を書いて見せて下さった。初めて私の目の前で「いろは」を書いて下さった時の感動を、今も私は忘れない。中学生の時、テレビの画面で見た筆遣いを、現実のものとして、目の前に見ているのである。先生は私の安い筆を使って書いているのに、不思議なことにお手本の「いろは」と全く同じ線質、そして字形なのであった。「弘法筆を選ばず」という言葉があるが、私はまさにそれを現実のものとしてまざまざと見せつけられたのであった。
先生は、若くして日展で特選を受賞し、かつては将来を嘱望される若手書家であった。その頃同年代で活躍していた人達は、現在では中央書壇で大幹部として活躍している。しかし、先生は40歳代で感ずるところあって書壇を離れた。当時の書壇の幹部からは「お前を書壇で生きていけなくようにしたる。」とまで言われたそうである。事実、書壇を離れた直後は厳しい生活を強いられたと後でうかがった。その後先生がどうやって現在の地位を築かれたのか。それは黙して語られることはなかった。
もちろん、先生の豊かな才能と、その気さくなお人柄を世間が放っておくことはなく、我が筑波大学で教鞭を執られ、NHKの趣味講座の講師を務められ、著書も何冊もおありである。授業でも、そうした大幹部達を、親しみを込めて呼び捨てにして、当時のいろいろなエピソードを紹介して下さるのが、時に授業の良いアクセントになると共に、書壇に対する痛烈な批判が込められていることも、学生ながらに聞き逃さなかった。