先日、図書委員会からの依頼で「ビブリオ・トーク」という新企画の第1回講師として、大好きな向田邦子について語りました。
作家が亡くなると途端にその作家の作品の読者が減り、いつしか忘れ去られていくのが世の常なのに、向田邦子は死後37年経った今でも新たな読者を獲得している希有な作家です。
そうした新たな読者の多くが若い女性で、教え子諸君にもそうした新たな読者になってほしいと思っていたこと、先頃亡くなった樹木希林は向田邦子の友人で、代表作「寺内貫太郎一家」に出演していたこと、私自身も9年前に向田邦子生誕80周年記念朗読会で、樹木希林による向田邦子のエッセー「寺内貫太郎の母」の朗読(しかもかの有名な「ジュリ~!」の身振りの再現付き)を目の前で見たこと等の理由から、向田邦子を取り上げたのです。
時間がわずか20分しかなかったので、人物の簡単な説明と、向田邦子の思いが最も凝縮されていると思われるエッセー「手袋をさがす」の紹介、私自身の向田邦子に対する思いをごく簡単に話しただけでしたが、さすがに女子だけあり、興味関心を持って聞いてくれました。そして、向田邦子が他人からの評価や視線を気にすることなく、自分の生きたいようにありのままに生きた生き方に、異性でありながらも共感したのだ、だからここで皆さんに紹介したのだということを特に強調しました。
さて、今日は上京ついでに表参道で下車して、向田邦子の終の棲家となった南青山第一マンションズを見てきました。このマンションは築48年で、2018年7月から新築工事が開始されるとのことだったので、もしかするともう見られないかなとも思いつつ見に行ったのですが、まだ工事の気配すらなく、向田邦子が出入りした玄関やロビー、使用した郵便受け、入り口の看板などを見て歩きました。向田邦子のかつての居室の508号室はすでに住人はいないようでした。このマンションは古いために、現在の多くのマンションのようなロック式の玄関ではなく、自由に出入りができるのです。しかし、さすがにエレベーターに乗って居室の前まで行くことはしませんでした。
一枚目の写真が今日写したもの、二枚目の写真は向田邦子の直木賞受賞を掲載する1980年10月号の巻頭特集「わが家の隣人」に紹介された、南青山第一マンションズに住む直木賞作家3人の写真です。入り口の看板前で写した向田邦子の写真は、これ一枚だけのように思います。背後の文字が同じだし、背後のビャクシンの木が成長して、今ではきれいに刈り込まれているのがわかります。
マンションの横には、向田邦子が「隣の神様」というエッセーで取り上げた大松稲荷神社もありました。37年前までは、向田邦子が毎日この界隈を歩いていたんだなと思いながらマンションを見上げ、マンションの前の細い道を歩きました。37年前は飛行機事故の犠牲者としてしか、向田邦子のことを知らなかったのですが、その作品に触れ、その魅力に惹かれるようになったのはここ25年ほどのことなので、なんだか今でもマンションの中から向田邦子が現れるのではないかという気すらしたほどでした。
樹木希林が亡くなり、終の棲家のこのマンションもいずれ取り壊され、向田邦子の妹の和子さんも、親友の生き残りの澤地久枝、黒柳徹子といった人たちも80歳を超えています。でも、向田邦子を偲ぶよすがとなるもの・人が消えてしまっても、その魅力はずっと後世に語り継がれ、新しい読者を獲得し続けるに違いないと思いつつ、マンションを後にしました。
作家が亡くなると途端にその作家の作品の読者が減り、いつしか忘れ去られていくのが世の常なのに、向田邦子は死後37年経った今でも新たな読者を獲得している希有な作家です。
そうした新たな読者の多くが若い女性で、教え子諸君にもそうした新たな読者になってほしいと思っていたこと、先頃亡くなった樹木希林は向田邦子の友人で、代表作「寺内貫太郎一家」に出演していたこと、私自身も9年前に向田邦子生誕80周年記念朗読会で、樹木希林による向田邦子のエッセー「寺内貫太郎の母」の朗読(しかもかの有名な「ジュリ~!」の身振りの再現付き)を目の前で見たこと等の理由から、向田邦子を取り上げたのです。
時間がわずか20分しかなかったので、人物の簡単な説明と、向田邦子の思いが最も凝縮されていると思われるエッセー「手袋をさがす」の紹介、私自身の向田邦子に対する思いをごく簡単に話しただけでしたが、さすがに女子だけあり、興味関心を持って聞いてくれました。そして、向田邦子が他人からの評価や視線を気にすることなく、自分の生きたいようにありのままに生きた生き方に、異性でありながらも共感したのだ、だからここで皆さんに紹介したのだということを特に強調しました。
さて、今日は上京ついでに表参道で下車して、向田邦子の終の棲家となった南青山第一マンションズを見てきました。このマンションは築48年で、2018年7月から新築工事が開始されるとのことだったので、もしかするともう見られないかなとも思いつつ見に行ったのですが、まだ工事の気配すらなく、向田邦子が出入りした玄関やロビー、使用した郵便受け、入り口の看板などを見て歩きました。向田邦子のかつての居室の508号室はすでに住人はいないようでした。このマンションは古いために、現在の多くのマンションのようなロック式の玄関ではなく、自由に出入りができるのです。しかし、さすがにエレベーターに乗って居室の前まで行くことはしませんでした。
一枚目の写真が今日写したもの、二枚目の写真は向田邦子の直木賞受賞を掲載する1980年10月号の巻頭特集「わが家の隣人」に紹介された、南青山第一マンションズに住む直木賞作家3人の写真です。入り口の看板前で写した向田邦子の写真は、これ一枚だけのように思います。背後の文字が同じだし、背後のビャクシンの木が成長して、今ではきれいに刈り込まれているのがわかります。
マンションの横には、向田邦子が「隣の神様」というエッセーで取り上げた大松稲荷神社もありました。37年前までは、向田邦子が毎日この界隈を歩いていたんだなと思いながらマンションを見上げ、マンションの前の細い道を歩きました。37年前は飛行機事故の犠牲者としてしか、向田邦子のことを知らなかったのですが、その作品に触れ、その魅力に惹かれるようになったのはここ25年ほどのことなので、なんだか今でもマンションの中から向田邦子が現れるのではないかという気すらしたほどでした。
樹木希林が亡くなり、終の棲家のこのマンションもいずれ取り壊され、向田邦子の妹の和子さんも、親友の生き残りの澤地久枝、黒柳徹子といった人たちも80歳を超えています。でも、向田邦子を偲ぶよすがとなるもの・人が消えてしまっても、その魅力はずっと後世に語り継がれ、新しい読者を獲得し続けるに違いないと思いつつ、マンションを後にしました。