歩行記録 H28-6-6(月)
歩行時間:5時間30分 休憩時間:2時間25分 延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分 到着時刻:15時50分
歩 数: 29、466歩(推定距離20.9km) GPS距離21.8km
行程表
掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅
6番・岩松寺
篠ヶ谷山 岩松寺 (しのがやざん がんしょうじ)
宗 派 : 真言宗 本 尊 : 聖観世音菩薩
ご詠歌 : 「ささ谷や 岩に松風おとずれて すなわちみてら 浄土なるらん」
住 所 : 袋井市浅羽3598 5番尊永寺から6番岩松寺までの道
改修前の尊永寺山門 現在の尊永寺山門
どちらも尊永寺の山門ですが左が2012年の初詣の時に写したもので、右が翌年2013年11月に写したものです。
山号寺号の石碑が右から左に移り。それに伴って石碑も新しくなっている。彫られた文言は同じだが大きさが一回り小さくなり
新しいためか石は白く落ち着きがない。こんな事なら以前の石碑を再利用した方が良かったのに。
色々な道標
6年前と違う道を歩こうと、今回は参道にあるトイレの横から県道251号に抜けて、JA遠州茶ピアなるJAの建物の近くを西に
行く道を選んだ。途中遍路道の道標なのか分からないが幾つかの石の道標があった。最初に見た道標には 「左 法多山」 の文字が
見え、その先の小道を目で辿ると、今歩いてきた道に続いている。多分以前はこの道が法多山に行く道だったのだろう。
工事中の山の斜面 豊沢の丘公園
山の斜面が工事中だが崩壊防止にしては斜面一帯を鉄筋か鉄骨で覆っていて大袈裟過ぎる。ここも太陽光パネルでも設置する
のだろうか。
「豊沢の丘公園」 の横に出た。ここには前回も来ていたが今日はここから先で違う道に入り6番札所に直接出る道を歩く予定だ。
手持ちの地図には公園の表示は無く、その辺りと思われる所を左折して、南に少しってから西に向かう道になっていた。
だが公園の近くには南に向かう道は無く、公園を通り過ぎ登りだった道が下りになった所でようやく左側に道が出て来た。
その道は地図とは違い鋭角に左に曲がり、向きは東を向いている。道の入口には上水道の大きなタンクがあり、明らかに地図とは違う。
一瞬迷ったものの多分地図の道に合流するだろうと登りだすと、またタンクが現れた。これはタンクへの道かと後悔しはじめたがタンクの
入口からは道は下りになったものの、道の向きは相変わらず東を向いている。嫌だと思いながらも、こうなれば進むしかない。
6番の方向は西南西の方向にあるのだから、分岐があったらその向きの道を選べばいい。間違っても知れているだろう、と。
手作り灌漑装置 岩松寺の交差点
その決断が良く道の向きが南に変わった所で西に向かう道に合流した。あとは車も通らない農道をのんびり西に下るだけだった。
前方に車の往来のある車道が見えてきた。問題はここからだ。ここを右折するか左折するかで正反対の向きに行ってしまう。
道を訪ねれそうな人も居ないし民家も無い。さてどうしようと合流した交差点の先を見ると何やらお墓のような物が見えている。
若しかして、と交差点を直進すると何と何とそこが6番岩松寺だった。
岩松寺の参道 古仏群
6番岩松寺の創建は神亀2年(725)で、開基が伝行基、本尊の聖観世音菩薩も伝行基作と伝えられ、最盛期には三十の僧坊が
あったとされる古刹だ。多分当時は同じ真言宗として法多山尊永寺と覇を競い合ったのだろう。
私の利用している遠江33観音のガイドブックには岩松寺について
「慶安元年(1648)に24石のご朱印を受けているが、永禄年間(1558~69)に戦火に遭いその全てを失った。」 とある。
素直に読むと1500年代に戦火に遭いその全てを失った岩松寺が、その百年後にご朱印を受ける事になる。
何となく納得でき無いので、少し調べてみるとこんな記事が見つかった。
「慶安元年(1548)2月に24石の御朱印を受けたが、永禄年代の1558~1573の兵火及び、寛文(1661~1672)の火災で
伽藍僧坊、諸記録すべて消失。」 とあった。
これで一応納得と思ったが、よく見れば慶安元年が1548年となっていて、これは明らかに1648年の間違いだ。
そうなるとまた元の疑問に戻ってしまい、そこから抜け出す術はなかった。
観音堂と行者堂 地蔵尊
観音堂は今から300年前の建物とあるが、改修されているのかそんな古さは感じなかった。お堂の造りは1番結縁寺と同じ
方形造りだが、屋根の傾斜が緩いせいか三角形がだだっ広く美しさは感じられなかった。
隣の行者堂も古い建物だが建立年不詳で今から150年前の修理記録が残っていると云う。お堂の中に役行者像や天狗面があると
云うので上がってみると、床板が波打ちギシギシ音を立てたので慌てて降りてしまった。
6年目と同じ柄の着物を着せられている2体の地蔵尊。特に坐像の地蔵尊はまるで庄屋のおかみさんのような雰囲気だ。
この恰好は赤い前垂れ姿より面白い感じだが、これだけ仏の体を覆い隠してもいいのだろうか? 良く分からない。
参道の階段 地 層?
自然石を積み上げた石段はかって三十余の僧坊を有した古刹の趣がある。前回はここに着いたのが夕方で、暗くなり始めた境内に
向かう時は、タイムスリップするような感触に襲われた。だが今は昼日中、そんな感じは微塵もしなかった。
石段を下って道向こうにある本堂でご朱印を受けるのだが、行者堂の先に歩き易そうな道が続いていた。行き先は分からないが
多分本堂に向かう道だろうと進んでみる。途中には小さな切通もあり、そこの法面には面白い形に小砂利が残っていた。
道はすぐ下りになり車道に出て、その正面は岩松寺の本堂前だった。
歩行時間:5時間30分 休憩時間:2時間25分 延時間:7時間55分
出発時刻:7時55分 到着時刻:15時50分
歩 数: 29、466歩(推定距離20.9km) GPS距離21.8km
行程表
掛川駅 0:15> 1番結願寺 0:25> 2番常楽寺 0:20> 3番長谷寺 0:30> 4番正法寺 0:35> 腹摺峠 0:35> 三ツ峰
0:40> 5番尊永寺 1:25> 6番岩松寺 0:40> 7番慈眼寺 0:05> 袋井駅
6番・岩松寺
篠ヶ谷山 岩松寺 (しのがやざん がんしょうじ)
宗 派 : 真言宗 本 尊 : 聖観世音菩薩
ご詠歌 : 「ささ谷や 岩に松風おとずれて すなわちみてら 浄土なるらん」
住 所 : 袋井市浅羽3598 5番尊永寺から6番岩松寺までの道
改修前の尊永寺山門 現在の尊永寺山門
どちらも尊永寺の山門ですが左が2012年の初詣の時に写したもので、右が翌年2013年11月に写したものです。
山号寺号の石碑が右から左に移り。それに伴って石碑も新しくなっている。彫られた文言は同じだが大きさが一回り小さくなり
新しいためか石は白く落ち着きがない。こんな事なら以前の石碑を再利用した方が良かったのに。
色々な道標
6年前と違う道を歩こうと、今回は参道にあるトイレの横から県道251号に抜けて、JA遠州茶ピアなるJAの建物の近くを西に
行く道を選んだ。途中遍路道の道標なのか分からないが幾つかの石の道標があった。最初に見た道標には 「左 法多山」 の文字が
見え、その先の小道を目で辿ると、今歩いてきた道に続いている。多分以前はこの道が法多山に行く道だったのだろう。
工事中の山の斜面 豊沢の丘公園
山の斜面が工事中だが崩壊防止にしては斜面一帯を鉄筋か鉄骨で覆っていて大袈裟過ぎる。ここも太陽光パネルでも設置する
のだろうか。
「豊沢の丘公園」 の横に出た。ここには前回も来ていたが今日はここから先で違う道に入り6番札所に直接出る道を歩く予定だ。
手持ちの地図には公園の表示は無く、その辺りと思われる所を左折して、南に少しってから西に向かう道になっていた。
だが公園の近くには南に向かう道は無く、公園を通り過ぎ登りだった道が下りになった所でようやく左側に道が出て来た。
その道は地図とは違い鋭角に左に曲がり、向きは東を向いている。道の入口には上水道の大きなタンクがあり、明らかに地図とは違う。
一瞬迷ったものの多分地図の道に合流するだろうと登りだすと、またタンクが現れた。これはタンクへの道かと後悔しはじめたがタンクの
入口からは道は下りになったものの、道の向きは相変わらず東を向いている。嫌だと思いながらも、こうなれば進むしかない。
6番の方向は西南西の方向にあるのだから、分岐があったらその向きの道を選べばいい。間違っても知れているだろう、と。
手作り灌漑装置 岩松寺の交差点
その決断が良く道の向きが南に変わった所で西に向かう道に合流した。あとは車も通らない農道をのんびり西に下るだけだった。
前方に車の往来のある車道が見えてきた。問題はここからだ。ここを右折するか左折するかで正反対の向きに行ってしまう。
道を訪ねれそうな人も居ないし民家も無い。さてどうしようと合流した交差点の先を見ると何やらお墓のような物が見えている。
若しかして、と交差点を直進すると何と何とそこが6番岩松寺だった。
岩松寺の参道 古仏群
6番岩松寺の創建は神亀2年(725)で、開基が伝行基、本尊の聖観世音菩薩も伝行基作と伝えられ、最盛期には三十の僧坊が
あったとされる古刹だ。多分当時は同じ真言宗として法多山尊永寺と覇を競い合ったのだろう。
私の利用している遠江33観音のガイドブックには岩松寺について
「慶安元年(1648)に24石のご朱印を受けているが、永禄年間(1558~69)に戦火に遭いその全てを失った。」 とある。
素直に読むと1500年代に戦火に遭いその全てを失った岩松寺が、その百年後にご朱印を受ける事になる。
何となく納得でき無いので、少し調べてみるとこんな記事が見つかった。
「慶安元年(1548)2月に24石の御朱印を受けたが、永禄年代の1558~1573の兵火及び、寛文(1661~1672)の火災で
伽藍僧坊、諸記録すべて消失。」 とあった。
これで一応納得と思ったが、よく見れば慶安元年が1548年となっていて、これは明らかに1648年の間違いだ。
そうなるとまた元の疑問に戻ってしまい、そこから抜け出す術はなかった。
観音堂と行者堂 地蔵尊
観音堂は今から300年前の建物とあるが、改修されているのかそんな古さは感じなかった。お堂の造りは1番結縁寺と同じ
方形造りだが、屋根の傾斜が緩いせいか三角形がだだっ広く美しさは感じられなかった。
隣の行者堂も古い建物だが建立年不詳で今から150年前の修理記録が残っていると云う。お堂の中に役行者像や天狗面があると
云うので上がってみると、床板が波打ちギシギシ音を立てたので慌てて降りてしまった。
6年目と同じ柄の着物を着せられている2体の地蔵尊。特に坐像の地蔵尊はまるで庄屋のおかみさんのような雰囲気だ。
この恰好は赤い前垂れ姿より面白い感じだが、これだけ仏の体を覆い隠してもいいのだろうか? 良く分からない。
参道の階段 地 層?
自然石を積み上げた石段はかって三十余の僧坊を有した古刹の趣がある。前回はここに着いたのが夕方で、暗くなり始めた境内に
向かう時は、タイムスリップするような感触に襲われた。だが今は昼日中、そんな感じは微塵もしなかった。
石段を下って道向こうにある本堂でご朱印を受けるのだが、行者堂の先に歩き易そうな道が続いていた。行き先は分からないが
多分本堂に向かう道だろうと進んでみる。途中には小さな切通もあり、そこの法面には面白い形に小砂利が残っていた。
道はすぐ下りになり車道に出て、その正面は岩松寺の本堂前だった。